タイトル
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作 者
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投稿日 |
「小倉百人一首」を楽しむ面接授業 | 永井 藤樹 | 2016.9.6 |
マリー・ローランサンの絵画と詩 | 永井 藤樹 | 2015.8.16 |
西行の命、芭蕉の命 (旧東海道を日坂宿から金谷宿へ) | 永井 藤樹 | 2013.8.25 |
しゅうまい定食 | 秋山 智子 | 2011.12.8 |
放送大学学生生活前半4年間を振り返って | 松崎 達信 | 2011.4.24 |
初めてのボランティア | 村木 久美 | 2011.3.10 |
放送大学再入学 | 服部 高重 | 2010.9.2 |
ぶどう物語 ─ぶどうの歴史、国産ワインの歴史、横浜のぶどう─ | 永井 藤樹 | 2010.8.23 |
京都に行ってきました。 | 吉田 昭二 | 2009.12.18 |
往復書簡「モコちゃん物語」 | 永井 藤樹 | 2009.10.10 |
横浜にちなむ文学者の足跡 | 木村 勝紀 | 2008.6.10 |
放送大学、神奈川放友会に入会して | 松崎 達信 | 2007.9.30 |
福沢諭吉と麻布山善福寺 | 木村 勝紀 | 2007.6.29 |
小説家・島尾敏雄 | 木村 勝紀 | 2007.6.7 |
木母寺と向島百花園 | 小澤 節子 | 2007.6.18 |
初めての俳句、初めての句会 | 和井 良樹 | 2007.6.2 |
東京文学散歩 千駄木・根津 | 木村 勝紀 | 2007.5.16 |
「楚囚之詩」物語 | 木村 勝紀 | 2007.4.25 |
昭和20年7月19日の思い出 | 木村 勝紀 | 2007.4.18 |
「小倉百人一首」を楽しむ面接授業 | |
永井藤樹 2016年9月6日 |
マリー・ローランサンの絵画と詩 | |
永井藤樹 2015年8月16日 |
西行の命、芭蕉の命 (旧東海道を日坂宿から金谷宿へ) | |
永井藤樹 2013年8月25日 |
しゅうまい定食 | |
秋山 智子 2011年12月8日 |
"本当に欲しかったものをもらっていない"という恨みがましい気持が、 先日、用があって東京へ出かけた。 「しゅうまい定食を」 おさまりがつかない気持ちのまま、食べ終わり、会計の時に聞いてみたら、 そのまま帰宅するのならいいのだが、あいにくこのあと用がある。 近くのスターバックスに駆け込み、コーヒーを注文。 あたりを見回すと、持ち込みなどしている客はいないようだ。 それでも臆することなく、テーブルの上に鞄を置いて目隠しにして、 食べ終わった感想は、と聞かれれば、職場で昼時に頼む「ジャンボしゅうまい定食」と 本当に欲しかったものを無理やり、取り戻してみたものの、 それがわかっていながらも、このテのことは、今後も繰り返してしまいそうな予感がするから − 了 − |
放送大学学生生活前半4年間を振り返って | |
松崎 達信 2011年4月24日 |
はじめに
1.A 生まれて初めての奨学金受領
1.B 女心は未だ全くわからない
2007年
2.A 本校一泊研
2.B 歌舞伎教室参加
2008年
3. 文部科学教育通信掲載
2009年
4.A 吉田名誉会長(当時)の講演の後のオカリナ演奏
4.B 大学案内のモデルになる
2010年
終わりに
− 以上 − |
初めてのボランティア | |
村木久美 2011年3月12日 |
昭和39年(1964)、高校入学間もない5月の事である。私は授業の最中にも拘わらず、クラス内に1枚の回覧を回した。内容は「老人ホームを一緒に訪問しませんか」と呼び掛けるものである。公立女子高の団塊世代のクラスには60名近くがひしめいており、まだお互い顔も名前も一致しない状態であった。応じてくれる希望者は、おそらく1人もいないのではないかと半ば諦めかけていたところ、なんと6〜7名の級友が名乗りを上げてくれたのである。あの時の驚きと感動は、今でも忘れる事が出来ない。
私がボランティア活動に関心を持ったのは高校時代であるが、その原点を辿れば一つの記憶が蘇る。幼い頃、母の実家へ向かう途中の、乗り継ぎバスを待っている時の光景である。待ち時間があったのか、母は停留所の真ん前に建っているある農家に入って行った。そして、一人の老女を外へ連れ出して来たのである。その老女は目が不自由だった。やがて母は、その老女の手のひらに指で文字を書きながら、老女と会話を始めた。目が見えない人とでも、この様にして会話が出来るものかと、私はとても驚いたものである。
− 終 − |
放送大学再入学 | |
服部 高重 2010年9月2日 |
私は昨年(平成21年)3月IPCCを69歳で退団し、46年間のサラリーマン生活に終止符を打った。健歩会をはじめ5つのクラブ活動を楽しみながら、「社会貢献」の出来た充実した12年間であった。私は更に4年間延長して73歳で退団し、丁度50年間のサラリーマン生活を終える心算であったが、平成22年度の特許庁発注の住環境グループへの検索案件が7000件から5600件に激減したため、残念ながら退団せざるを得なかった。
4月4日の入学者の集い(入学式)にも出席した。色々なクラブと同好会から入会の勧誘があり、IPCC入団当時を思い出した。私の学生番号は881−150153−7で、大学事務局の説明によれば、881は1988年1学期入学を意味する。確かに22年前の昭和63年、私は選科履修生として入学したが、当時は現役で多忙なため、単位は何も取れずに、退学届も出さずにそのままになっていた。私は感激した。放送大学は私を見棄てていなかったのである。
私が所属する神奈川学習センターに、吉田昭二氏(昭和二年生れ?)が大学院生として在籍している。この御仁は東大卒の造船のエンジニヤであったが、会社定年後放送大学に全科履修生として入学し、20年間で教養学部の全6コース(学科)を卒業している。これを放送大学ではグランドスラムと言う。工学部で言えば、土木・建築・機械・電気・応化・造船等の6学科を卒業した事に相当する。私は来年4月には全科履修生になり、「人間と文化コース」の卒業を目指そうと考えている。 [後記] 本文は、私が昨年3月まで勤務していた(財)工業所有権協力センター(IPCC:Industrial Property Cooperation Center)の健歩会(ウオーキングクラブ)の20周年記念誌に書いたエッセイを、そのまま転載したものです。IPCCは特許庁の外郭団体で、全職員約1750人のうち約1580人は民間企業出身のエンジニヤで、審査官のお手伝いをしています。文中に「社会貢献」が散見されるのは、次のIPCCのモットーを意識しているからです。 「社会に貢献し 互いに助け合って 心豊かな人生を送る」 |
ぶどう物語 ─ぶどうの歴史、国産ワインの歴史、横浜のぶどう─ | |
永井 藤樹 2010年8月23日 |
個人的なことですが、私は農園の作男として梨、ぶどうの果樹園で農繁期に働いています。私は毎年繰り返される果樹園の仕事の間に、ぶどうのことを知りたいと思うようになっていました。たまたま今年行われる「バス学生研修旅行」は、ミレーの「種蒔く人」やバルビゾン派の絵画で有名な「山梨美術館」、武田信玄の菩提寺である「恵林寺」と「シャトー勝沼」に決まり、「国産ワインの歴史」の調査が私に割り当てられました。しかし、ワインの起源は外国にあるので、少しそのあたりから調べてみることにしました。 『ワインの起源』 ワイン造りを証明する最も古い遺物がメソポタミアの先住民であるシュメール人が残した6000年前の遺跡から発見されています。ですから、ヨーロッパ系のぶどうの原産地は、古代オリエント地域と考えられています。BC3100〜1500年に栄えたエジプト王朝のピラミッドの壁画にブドウ栽培やワイン醸造の絵が描かれています。BC600年ごろにはフェニキア人によって栽培方法や醸造技法がヨーロッパに伝えられ、その後ローマによってヨーロッパ全体に広まって行きました。やがてキリスト教がローマ帝国の国教に指定されると、ワインは宗教儀式に欠かせないものになり、ぶどうの栽培やワイン造りの中心は修道院に移りました。新約聖書のマタイによる福音書26章は「最後の晩餐」を述べた章ですが、そこには次のように書かれています。 『甲州ブドウの歴史』 甲州ブドウは古くから甲府盆地東縁にあたる勝沼を中心に栽培され、ぶどうの植物的性格から適地がごく一部に限られた自然条件にありました。ぶどうは高温多湿を嫌います。勝沼の大部分は広い扇状地になっていて水はけがよく、昼夜の寒暖の差が大きく、年間降水量が1,000mm程度というブドウ栽培に適した環境にあります。そのため日本土着のぶどう品種である甲州種のぶどう栽培が江戸時代から行われていました。それが商品として全国的に名産品になったのは、日本橋を起点とする五街道が開け{(慶長9年(1604))}、江戸から諏訪まで39宿が甲州街道に決定され{(明和9年(1772)完成)}、勝沼宿もその中の宿駅の一つになったころからです。
『国産ワインの歴史』 日本に初めてワインがもたらされたのは奈良時代で遣唐使によってでした。東大寺の正倉院にはその時彼らが持ち帰ったとされるガラス製や銀製の酒杯が御物として収蔵されています。その後、日本人がヨーロッパ産のワインと出会ったのは安土桃山時代だといわれています。スペインの宣教師によってキリスト教とともに伝えられ、織田信長や戦国大名に献上されましたが、醸造を始めたのは明治に入って勝沼からです。 『横浜のぶどう』 横浜の果樹農家もぶどうを栽培していますが、国内の主要生産地にはなっていません。山梨県が全国の生産量の1/3を占め、多数のワイナリーがある日本最大の産地です。勝沼を中心に日本固有の品種、甲州やマスカット・ベリーAが主力商品です。次いで多いのが長野県で、冷涼で昼夜の温度差が大きい内陸性気候がぶどうに適し、塩尻地区のメルロを始め、北信地区から小諸に至る千曲川流域で栽培されています。山形県も夏暑くて、ぶどうの生育期に降水量が少なく、昼夜の温度差が大きいので、内陸部の高畠、赤湯、上山などが産地になっています。 横浜ではワイン用のぶどうは、個人の趣味として、家庭菜園で作られているかも知れませんが、商品としては全く栽培されていません。
横浜産のぶどうが市民にもあまり知られていないのは、スーパーや八百屋では売らず、直売だからです。そのため、「幻のぶどう」と言われます。品種は大粒種を中心に、「藤稔」、「ピオーネ」、「紅伊豆」、「竜宝」などです。特に「藤稔」は、直径3cm近くにもなる超大粒種です。果肉は軟らかで、果汁も豊富にあり、糖度は平均17度と甘く適度な酸味もあります。また皮離れがよくて食べやすいのも特徴の一つです。農家はその日に完熟したぶどうだけを収穫します。 ワインについてひとこと ワインはぶどうだけを原料にした醸造酒です。穀類を原料とした日本酒やビールは、米や大麦の他に水が必要で、「仕込み水」と呼ばれる水の良し悪しが出来上がりに影響します。ワインの原料がぶどうだけということは、ワインの品質は殆どぶどうの品質が決め手といえます。 ワインは製法の違いで分類することもできますが、一般には色の違いで3種類に分けます。黒は「巨峰」、赤は「甲州、マスカットベリーA」、緑は「マスカット」が代表的な種類です。 赤ワインには「ボディ」という表現を使います。ワインを口に含んだときの重量感を表す言葉で、軽いのを「ライトボディ」、力強くて重たいのを「フルボディー」などと表現します。白ワインには甘口、中口、辛口という表現が使われます。 ワインが、良いブドウを使って、良い技術で、十分に寝かせて造られると、それなりの価格になることは納得がいきます。ワインの味の判別は、フレッシュでフルーティーなワインが分って徐々に理解できることであり、最初からワインのもつ芳醇さや渋み等を理解できる人がいたら、それはよほどの味覚の持ち主です。 参考文献
終わり |
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京都に行ってきました。 | |
吉田 昭二 2009年12月18日 |
5日は時代劇映画でお馴染みの広沢の池近くのホテルに、6日は嵯峨嵐山駅前の「コミュニティ嵯峨」に泊まりました。 法要では故人の弟子数人の読経が朗々と響き何とも言えない想いが込み上げてきました。精進落しは渡月橋と大堰川の見渡せる料亭でしたが今年は天候不順だった所為か紅葉は綺麗とは言えず残念でした。 7日は墓参です。お墓は大文字焼きで有名な如意ヶ嶽を背景にして百万遍の智恩寺山内の塔頭寿仙院にあります。 ご承知のように百万遍は東大路通と今出川通の交わる処で、又、京都大学の吉田キャンパスがあります。京都大学は戦前からの吉田キャンパスと戦後に開設した桂キャンパス、宇治キャンパスがあり、更に吉田キャンパスは本部構内、吉田南構内、医学部構内、薬学部構内、及び北部構内に別れています。 墓参の後京都大学に在学する孫と学食で昼食後、60余年の昔私が学び且つ遊んだ旧制三高の後身の吉田南キャンパス内を散策したのですが近代的ビル群の片隅に昔の儘の吉田寮を発見し感激しました。60余年の昔この寮に住んで弊衣破帽の青春を謳歌していたのです。正に廃屋と言っても良い様な佇まいでしたが未だに現役で学生が居住している由で又々吃驚しました。 平成21年12月15日 吉田 昭二 |
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往復書簡「モコちゃん物語」 | |
永井 藤樹・後藤 雄二 2009年9月10日 |
永井藤樹と後藤雄二の往復書簡による「モコちゃん物語」 後藤 雄二さん フェスタが終わって、瞬く間に10日もたってしまい、今日は重陽の節句。 後藤さんは、本当に文章の達人。よく ああいう文が すらすらと出てきますね。 『私淑の人』をみなさんと同じように、毎回読ませてもらっています。 1週間ほど前、○○さんにメールしたのですが 返事がありません。 9月9日 永井 藤樹 ----- 永井 藤樹さん 後藤です。永井さん、嬉しいメールを頂戴しまして、ありがとうございました。 私の小説のご感想もいただき、嬉しいことでした。10月の初旬に最終回を載せていただきますが、そのあとに、放友会のメールで、小説を書いた動機や後日談などのお話をしてみようと思いました。 永井さんのメールを拝見し、いま、○○さんに電話をかけてみました。 今日の9月9日は、ビートルズのアルバム13枚プラス1枚が、デジタルマスター使用の最新サウンドでCD化され、発売されました。 9月9日 後藤 雄二 ----- 後藤 雄二さん 木村さんが可愛がっていた愛犬の名前が「ももちゃん」だったし モコちゃんは、男の子なんでしょ。 ○○さんへの連絡 ありがとうございました。すぐに彼からメールが入りました。 追伸 9月13日 永井 藤樹 ----- 永井 藤樹さん 後藤です。永井さん、お心配りいただくメールをありがとうございます。 今月末は、皆様の一泊研修ですね。私は仕事の休みがとれず、参加できません。 一泊研修は、皆さんとの交流が深まりますね。 では、毎日お元気で、よき秋の日々をお過ごしください。 9月15日 後藤 雄二 ----- 後藤 雄二さん 9月9日に戴いたメールで 音楽について ご返事していませんでした。 残念ながらビートルズは 私より若い世代が夢中になっているのを 遠目に見ていました。 『私淑の人 6』で「大学祭で新平と純、節子に声をかけてきた」光村 知子を登場させています。 またまた モコちゃんに謝らなくてはなりません。 9月19日 永井 藤樹 ----- 永井 藤樹さん 後藤です。永井さん、心嬉しいメールを頂戴し、ありがとうございました。 ビートルズのリマスター盤は、音質が素晴らしく、歌声の呼吸まで聞こえてきます。 永井さんは、ONKYOのステレオで音楽を楽しまれるのですね。 『私淑の人』を読んでくださり、ご感想を頂戴し、ありがとうございます。嬉しいです。 10月になりましたら、関根さんにお願いして、最終回を載せていただきます。 モコちゃんに永井さんのお言葉を伝えて(?)おきますね。 9月19日 後藤 雄二 |
JR石川町駅の南口改札を出て、中村川沿いを右に歩けば元町通り商店街である。商店街のほぼ尽きようとする辺りを右折してS字型の坂を登りきると外人墓地に行き着く。天気がよければショッピングにそぞろ歩きに大勢の人並みで賑わうところである。外人墓地の正面から港に向かってまっすぐ歩けば突き当りが「港の見える丘公園」である。展望台から左に改装なった氷川丸が見え、正面にはベイ・ブリッジが相変わらずの端正な姿を見せている。展望台の階段を戻るように降りて左側に目をやると大仏次郎記念館が見えてくる。 <ホテルで名作を生んだ大仏次郎> 大仏次郎は明治30年10月に横浜市英町(中区英町)10番地で生まれ、7歳の春までそこですごした。その後鎌倉に住むようになってからも、横浜を訪ねることが多く、とくに昭和6年から昭和10年ほどの間は、ホテル・ニューグランドを仕事場として多くの話題作を執筆した。その仕事場は3階の一角にあり、銀杏の並木を通して出船、入船がよく眺められたという。時代物から現代物、さらに明治開化物に手を染めるのもそのころからだ。「霧笛」「薔薇の騎士」「日蓮」などの長編のほか、「鞍馬天狗」の連作もそこで書かれ、その仕事場は「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれたという。「霧笛」(昭和8年)は、明治10年代の横浜を舞台に、居留地で勢力をもつ英国人のクーパーと、ボーイをつとめるスリあがりの千代吉、それにクーパーの妾お花の交渉をからませた開化物で、千代吉の鬱屈した感情に執筆当時の若者の心情が仮託されていた。また「花火の町」(昭和11年)は落魄した士族の娘お節と、会話を学ぶために外国人の家に住み込んでいた一青年との愛をとおして、時代の流れにおき去られた者の意地や哀しみを描いた作品だが、いずれにも開港地ヨコハマへの郷愁がただよっていた。大仏次郎は戦後も「幻灯」や「赤屋敷の女」などを発表し、横浜への懐旧の情を託している。<不動の大衆作家吉川英治> 吉川英治は明治25(1892)年8月に神奈川県久良岐郡で生まれた。父は小田原藩の下級士族だったが、牧畜会社の経営に失敗し没落した。そのため英治は、少年時代から浮き沈みのはげしいくらしを経験し、学校を中退して印章店の徒弟、印刷工場の少年工、税務監督局の給仕、横浜船渠の船具工など、各種の職業を転々とした。そして作業中に足場板もろともドックの底に落ち、瀕死の重傷を負ったのを機に、かねてからの念願だった上京を実現する。やがて川柳の世界に入り「大正川柳」の編集に従うと同時に諸雑誌の懸賞に応募、毎夕新聞記者を経て文筆で立つようになる。吉川英治は「キング」創刊号から「剣難女難」を連載して注目され、「鳴門秘帳」で大衆作家として不動の地位を築くが、いわゆる伝奇小説に満足せず、昭和5〜6年ごろから模索をはじめ、やがて「宮本武蔵」にひとつの境地を示すが、その転機となったのが現代小説の「かんかん虫は唄う」(昭和5年)であった。また戦後書いた「忘れ残りの記」(昭和30〜31年)は、自伝的回想でもあり、明治後期の横浜の風物が、少・青年時代の記憶とあわせて活写されていた。 <横浜に生きた作家たち> 獅子文六の生家岩田商店の店舗は、水町通りにあった。ものごころつくころ、内地雑居が施行され、居留地以外に外国人が住むことを許された。町では提灯行列が催され、岩田商店でも祝賀会を開き、酔った店員の中には、住居までおしかけ、万歳を連呼するものもあり、その光景を文六は幼い記憶につよく刻み込んでいた。戦後発表した「父の乳」(昭和40〜42年)の中に、その横浜での見聞が書きとめられており、岩田商店の二階建て洋館の入り口から海が眺められ、山手の緑や英国領事館の旗も見えたという。 山本周五郎と横浜の結びつきは、7歳の時、横浜の久保町へ移住してきてからで、西戸部や西前小学校に学んだが、戦後本牧元町237番地に転居し、昭和23年からは近くの「間門園」を仕事場とし、死に至るまで動かなかった。そして「樅の木は残った」「青べか物語」「虚空遍歴」「ながい坂」などの傑作をのこした。
榊山潤は吉川英治より8年後に、同じ久良岐郡中村町で生まれ、早くから外人商社などで働いた。徳田秋声に師事し、小市民の虚無的な日常を描いて話題を呼んだが、第2次上海事変での見聞を機に、歴史の激動に眼を開かれ、二本松落城を題材として新潮文学賞をおくられた。晩年は直木にちなむ富岡ですごした。 その他に横浜にちなむ作家たちには、有島武郎、有島生馬、里見〓【とん】の三兄弟や長谷川伸、島尾敏雄などなど多くをかぞえるが長くなるので別稿に譲りたい。 文責:木村勝紀
参考文献:「横浜の歴史」横浜市市民局市民情報室広報センター発行 |
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放送大学、神奈川放友会に入会して | |
松崎 達信 2007年9月30日 |
19年1月、ケーブルTVの番組ガイドを見ていると、2月より放送大学のチャンネルが追加される事と大学の概要が書かれていたので、入学案内を取り寄せてみたら、信じられないほど多数の科目のあることが判った。 〔現代俳句〕 以前、現代俳句の創始者の娘さんご夫妻と知り合いだった関係で、現代俳句を作っていました。 ビルの地下 落葉一枚舞いあがる 〔短歌〕 現代俳句では、言葉足らずで想いが十分伝わらない気がしていたので万騎が原短歌会に入会して短歌を作りました。 元日の赤き西の陽頬に受け 金門橋を幼孫歩む 〔俳句〕 季語や決まりが多くなじめなかったのですが、数多くの愛好者を擁している分野なので勉強を始めたところです。 三殿台 遺跡にあわく 虹立ちぬ 〔詩〕 遥か昔、何か書いていた様な気がします。プレーバック50年。 「大雪」 あれから50年、君は覚えていますか、あの雪渓を |
福沢諭吉と麻布山善福寺 | |
木村 勝紀 2007年6月29日 |
福沢諭吉は紹介するまでもなく有名ですが、最近になって「福翁自伝」を読み、福沢諭吉の眠る「麻布山善福寺」を訪れましたので、エッセイにまとめることにしました。 福沢諭吉のこと
さて、その日は梅雨の合間を縫って快晴に恵まれ、真夏を思わせるほどの暑さでした。放送大学同窓会のお仲間と一緒に港区麻布の善福寺を訪れました。 この善福寺に福沢諭吉が眠っている(福沢諭吉の墓は撮影禁止)わけですが、六畳敷きほどの規模で質素な佇まいでした。戒名は「大観院独立自尊居士」と如何にも福沢諭吉らしいものでした。 この善福寺は他にも数々のゆかりで名の知れた古刹なのでした。日米修好通商条約が結ばれた安政5年(1858年)の翌年から明治8年(1875年)まで初代アメリカ公使館となったことでも名高く、境内にはタウンゼント・ハリス公使の記念碑が立っていました。また、寛喜元年(1229年)、流罪地の越後から京都へ戻る途中の親鸞聖人が善福寺を訪れた際、時の住職了海上人がその高徳さに深く感銘し帰依したといい、境内には親鸞聖人の像(写真:親鸞聖人像)がたっていました。その親鸞聖人が寺を去るとき、境内に杖を突き立てると、杖から根が生えて芽を吹き、枝葉を伸ばし今日に至って幹周10.4mという巨大な銀杏として現存していたりします。そのほか弘法大師ゆかりの「柳の井戸」があり、今でも湧き水がチョロチョロと流れていたりします。 福沢諭吉埋葬秘話のこと お墓を訪ねると思うこと 人は生きているうちが華ですね。華とは現実。現実は喜怒哀楽のるつぼ。良いことばかりではありませんが、折角なら幸せを実感する時を多くしたいものです。幸せとは心が満たされていること。何事であれ生きる目標を持つことが大切であり、目標に向かっているときに心が満たされていることになるのでしょうか。福沢諭吉のゆかりの地を訪ねて、またもやいつもの感慨を覚えてしまいました。 |
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小説家・島尾敏雄 | |
木村 勝紀 2007年6月7日 |
恥ずかしながら私は、小説家・島尾敏雄の名を知りませんでした。あるキッカケでこの島尾敏雄が弘明寺(大岡町)に縁があることを知り興味を持ちました。 彼の初期の作品集である「幼年期」に収められた「原っぱ」と題する小説の一節に弘明寺界隈を描写する箇所があります。 「停留所まで二丁ばかりである狭い鎌倉街道の両側には又狭い道にふさわしいのきの低い平屋建の商家が櫛比している。散髪屋もあれば金物屋もあり、瀬戸物屋も自転車屋も下駄屋も薬屋も更にトンカツ屋さへある。それ等の家々の裏側はそれぞれ雑草の茫茫とした草原が眼を遮る赤土の崖の所迄続いている」。 彼は小学校3年生のころから、一人で小冊子を作り始めるなど「書くこと」に早熟だったそうですが、この作品が出版されたのは昭和18年(1943年)といわれます。26歳の時、それまでに書き溜めた作品の中から12編を選び、一冊の本にまとめたのが、この「幼年記」です。島尾敏雄は大正6年4月18日生まれですが、6歳から8歳までの幼少期をここで過ごしたといいます。短い期間ながら弘明寺での幼い記憶はよほど鮮烈であったのでしょう。 「誰もがきっとそうであろうけれど、幼い日々を思う時の、胸に覚える感慨には、何ともいいがたいものがある。ある時には、他者の介入を許さない神聖な思い出として、またある時には、一時でも意識の中から消し去りたい恥ずべき思い出として。しかし、いかなる思い出であろうと、それらは心の奥底に永遠にしっかりと刻み込まれている」。 彼は後年、 確かに誰しも幼いころの思い出は、いつまでも鮮明で甘く酸っぱくほろ苦いものとして記憶に残っていますね。 島尾敏雄は、数奇な人生とともに文学界では名の知れた優れた小説家だったことが分りました。「新潮日本文学辞典」からプロフィールを紹介してこのエッセイを閉じたい思います。 <島尾敏雄> 私の記憶になかった小説家の名前が、雷鳴のごとく飛び込んできたのでした。 |
木母寺と向島百花園 | |
小澤 節子 2007年6月18日 |
“木母寺”は、源頼朝、太田道灌、徳川家康等貴人が参拝したという大変由緒ある寺院なので、私は参拝にためらった。(庶民だからね) “梅若丸”を比叡山に(わずか7才で)修学に出す母の心の強さ(かわいい子には旅をさせよ)は、何だったのだろうか。息子は、出発を喜んだのだろうか? たった5才で父を失い、2年足らずで母との別れを子はどう思っていたのだろうか?
梅若丸親(母)子が再会できずに(母親も再会を信じてはたせず)梅若丸が一人旅立って(母を残し、会わずに)悲劇として終わらせたのは、父惟房だったのかもネ。後々の人々に息子“梅若丸”が短い人生ではあったが、懸命に生きてきた事を伝えたかったのではないか? “吉田家”が跡絶えてしまったのを悲しまずにいられるために、後世の人々が参拝してくれる事が、“吉田家”を守り続けてくれると思って………! 向島百花園は雨上りの後で園内の緑がヒトキワ鮮やかで、“フィトンチッド”のシャワーを全身に浴び、ますます元気になりました。花は少なかったが(大好きな紫陽花の事です)木々の緑がすばらしく気持は最高です。 今回も又、すばらしい時を過ごさせて頂きありがとうございました。会長さん、幹事の方々、大変おせわになりました。皆様方からすばらしいオーラをいっぱい頂き、幸せです。ありがとうございました。 |
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初めての俳句、初めての句会 | |
和井 良樹(ペンネーム) 2007年6月2日 |
友人から「ホームページに俳句を投稿してくれないか」と頼まれたのがきっかけだった。「よっしゃ」と気軽に引き受けた。「季語をいれて五七五で作ればいいんだよね」と早速、ペンを取ったがさっぱり浮かんで来ない。とっかかりを探すためにインターネットで俳句の頁を検索した。結構いろいろあって入門講座のようなものもある。「俳句は感動したことや感動とまでいかなくてもはっと感じたことを句にする」と書いてある。「なるほど」と納得し、再度、ペンを取った。しかしやっぱり駄目。どうも、これまで新鮮な感動や驚きを感じる生活をしていなかったんですね。 諦めかけていたとき、「昔、同僚だった女性が銀座で句会をやっているので覗いてみないか」とくだんの友人が言ってきた。「取りあえず見学するよ」と返事をしていたが、その女性からメールが来て「折角なら自分の俳句を持ってきたほうが楽しいですよ」と書いてある。直前に四万十川に行っていたのでその情景を思い出して何とか五句をでっち上げた。 当日の句会参加者は13名。参加者はまず自分の句を短冊一枚に一句ずつ無記名で記入し世話人に提出する。世話人は集まった短冊を同一人の句が固まらないように並べ替えて五枚ずつにわけ参加者に配る。参加者はその短冊の句をB5の清記用紙に五句ならべて書き写す。次にその清記用紙を順番に手渡しながらその中で良いと思う句を五句選ぶ。各人の選句が完了したら順番に発表する。自分の句が選ばれたら名乗りを上げる。 当然のことながら私の句はさしたる人気もない。何人かは選句してくれたが殆ど呼ばれることもない。しかし、全く初めての作品だし選句してくれる人がいただけでも感動ものである。参加者が13名なので65句が投句されたわけだが、各人はそのなかのベスト5を選んでいるわけで、選句に名前が出るということは大変なことなのである。 全員の選句が終わると、世話役がそれぞれの句を一句ごとに振り返る。選句した人に選句理由を発表させる。「春らしい情景で共感した」などと適当なことをいっておく。ベテランの人は、「季語が付きすぎている」などと専門的なことをいっている。更に、世話役が「この句はここを直すともっと良くなりますよ」とか、「のどかは春の季語だから春の川という季語と重なっていますよ」などと注意してくれる。なるほどこれは勉強になりますね。 終わると近くの居酒屋で二次会があった。ベテランの人たちが「俳句は面白いですよ」とこもごも推奨する。「はじめて作って3句も選ばれるとは大したものですよ」「普通は無選ですよ」などとおだてる。この年になると疑い深くなっていてそのようなおだてにはなかなか乗りにくいのだが、正直な感想は「句会は刺激があって面白い」であった。自分の句が選ばれると何となく嬉しい気持ちになる。選句したらその理由を問われるので、それなりに理屈の通った話をする必要がある。結構、緊張感と達成感が味わえるんですね。 何の気なしに始めた俳句だったが、句会の刺激に惹かれて今のところ続いている。 |
東京文学散歩 千駄木・根津 | |
木村 勝紀 2007年5月16日 |
千駄木、根津、少し足を伸ばして本郷辺りまでは文学者ゆかりのスポットも数多い。「団子坂」を登りきって左側角にあるのが森鴎外の旧居跡「観潮楼」だ。 「観潮楼」は、森鴎外が明治25年(1892年)に30歳で引っ越して以来、大正11年7月9日に60歳で亡くなるまで過した旧居である。ここは本郷台地の東端にあり、当時は谷中、上野山そしてはるか東京湾が眺められたといわれ、「観潮楼」と名付けたという。 ここで鴎外は、「即興詩人」「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「渋江抽斎」などの代表作を次々と発表した。この旧居跡は現在「文京区立本郷図書館鴎外記念室」として一般公開されているが、規模は縮小されこぢんまりした施設となっている。図書館には遺品や直筆の原稿など鴎外の生涯と業績を示す展示品があり、小さな庭園には鴎外が愛したといわれる沙羅の木が植えられていた(写真2 永井荷風の碑文)。 「観潮楼」から武家屋敷町の面影を残す藪下通りを根津方面に下り、小学校の校庭を左に見て右折、突き当りを左へ300mほど行くと塀の上を猫が歩いている(写真3)。この猫の銅像は、もちろん「我輩は猫である」のモデルとなった夏目家の飼い猫である。ここで夏目漱石は約4年借家住まいした。ここは「我輩は猫である」の舞台になったということで通称「猫の家」と呼ばれている。ここで夏目漱石は「坊ちゃん」「草枕」も発表している。 「猫の家」をあとに根津方面に歩を進め、日本医科大学、同付属病院の横をすり抜けると根津裏門坂に出る。この坂をすこし下った右側が「根津神社」だ。時節柄つつじが満開で「つつじ祭り」の真っ最中、多くの屋台が所狭しと軒を重ねて賑やかなことこの上もない。混雑を楽しみながら根津神社を出て、東京大学野球場を右に「おばけ階段」を上って弥生坂に出る。ここは弥生時代の名の起こりで有名な場所で、弥生式土器発掘ゆかりの地碑がある。 そこから湯島に向かって暗闇坂【くらやみざか】を下り気味に歩をすすめると、そこが東京大学構内への入る裏門「弥生門」である。遠慮なく大学構内に入り安田講堂を尻目になおも進めば、そこが「三四郎池」である。 夏目漱石の「三四郎」では三四郎がこの池を眺めているところに美禰子が通りかかる場面が有名だが、今は池も鬱蒼とした林に囲まれている。 漱石の小説を思い返しながら三四郎池を後にした。この後、この東京文学散歩は泉鏡花の湯島天神へと続くのだが、長くなるので鴎外、漱石の二人に絞って、今回はこの辺でいったん打ち切りとする。 |
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「楚囚之詩」物語 | |
木村 勝紀 2007年4月25日 |
明治時代前期の詩人にして評論家の北村透谷の名前をご存知の方は多いことでしょう。しかし、その著作を読んだという人は稀ではないでしょうか。 北村透谷は、明治元年(1868年)に生まれて明治27年(1894年)に自殺するまでの僅か26年の生涯でした。北村透谷の手になる「楚囚之詩」という作品があります。内容は獄中の一政治犯の苦悩を描いたもので、原本の大きさはB6判大の横開き、仮綴じ28ページほどの貧相なものだそうです。 この本は透谷の自費出版なので、定価の記載はないといいます。彼は本書が刊行された直後に、あまりに大胆すぎると自ら慙愧して断截させてしまったのです。ところが透谷が印刷終了の段階で廃棄処分にしたと思い込んでいた本書の一部が、すでに書店の店頭に出て購入した者があったらしいのです。 36年が経過します。 早稲田大学の4年生村田平次郎は、本郷の古書即売展へ赴きます。それは昭和5年(1930年)の3月でした。彼は雑本の山を崩していましたが、ふと、その視線を一冊の薄っぺらな本の上に落します。 「楚囚之詩」30銭。 只みたいな値段です。彼はその価値を知っていました。 その後、この「楚囚之詩」はもう2冊発見され、その3冊目がのちに「透谷全集」を編んだ勝本清一郎の手に入ります。名古屋の業者が四百円で仕入れものを、五百円で買ったといいます。五百円というのは、当時りっぱな玄関付きの家が買えたそうです。 この書にまつわるドラマは延々と続きますが、そのうちの一冊は、国立国会図書館にはいります。村田平次郎氏もすでに鬼籍にはいり、その一世一代の戦利品は天理図書館に収まったそうです。 世の中には希書や稀覯本【きこうぼん】を貴金属の如く珍重する蒐書家といわれる人々がいます。しかし、この物語のように宝物は皮肉にも素人が偶然見出すことがあるのですね。 |
昭和20年7月19日の思い出 | |
木村 勝紀 2007年4月18日 |
日本テレビ昼の番組に「今日は何の日?」というコーナーがあります。本日(4月18日)は昭和17年4月18日、米軍による東京初空襲の日だという話題でした。前年12月8日の真珠湾攻撃の大戦果に沸き立っていた東京市民が肝を冷やした日だというのです。 ここからは番組を離れますが、この初空襲以降ミッドウェー海戦の大敗北を経て、戦況は日に日にジリ貧となり昭和20年3月の本格的な東京大空襲をはじめ、全国の主要都市はじゅうたん爆撃のため軒並み焼け野原となります。そして同年8月6日の広島、同8月9日の長崎の原爆でとどめを刺され、8月15日太平洋戦争は終わったのでした。 私にも空襲にまつわる思い出があるのです。 |