タイトル
作 者
投稿日
魯迅の素顔(3)─ さすらいの果てに ─ 村木 久美 2010.8.31
魯迅の素顔(2)─ 周家を崩壊させた嫁 ─ 村木 久美 2010.8.4
魯迅の素顔(1)─ 魯迅と藤野先生 ─ 村木 久美 2010.6.26


 魯迅の素顔(3)─ さすらいの果てに ─
村木久美
2010年8月31日

 話は、1906年(明治39)3月、魯迅が仙台医専を退学し東京に戻ったところから始まる。
 魯迅はその夏、「母病気、即刻帰国せよ」との電報を受け取っていた。急ぎ帰国した魯迅をそこで待ち受けていたものは、なんと魯迅に断りのない用意万端整えられた、婚約者・朱安【しゅあん】との挙式であったのである。
 これより4年前、日本に留学した魯迅のもとに、突然母から婚約が整った旨の知らせが届いていた。だが相手の女性について知らされた魯迅は、すぐさまその婚約解消を求めたのであったが、母はこの期に及んでは家名にも傷がつき、相手の女性の将来にも傷がつくとして、断固応じてはくれなかったのである。儒教社会の中で、魯迅にはそれ以上母親に逆らう事は出来なかった。代わりに相手の女性に対し2つの条件を出し、やむなく婚約を承諾したのだった。それは纏足【てんそく】を解くこと、そして学校に入って文字を学ぶことの2つであった。  
 この婚約に至るには、次の様ないきさつがあったのである。魯迅の弟には夭死した四男・椿寿【ちんじゅ】がいた。この末子・椿寿を母はたいそう可愛がっていたが、1898年(明治31)椿寿はわずか5歳で急性肺炎の為あっけなく死んでしまったのである。それからの母はすっかり憔悴してしまい、それを見かねた親戚筋の者が、魯迅に嫁を取らせることが最良だと言い出し、結婚話を持ち込んだのである。相手の娘は朱安といい、朱安は話を持ち掛けた者の嫁ぎ先の娘であったのだ。
 彼女は魯迅よりも3歳年上でとても背が低く、痩せて無口でその上文字も読めず、纏足までしている昔風の女性であった。魯迅の母の悲しみを良いことに、この際縁遠いこの娘を魯迅に押し付けたようなものであった。魯迅の弟・作人も「花嫁が発育不全であることは承知の上で押し付けた訳で、新郎には失礼千万な話である」と書き残しているほどだ。さらに怪訝に思うのは、魯迅の母親は朱安とは違い、独学で文字も学び周囲の反対にもめげず纏足も止めるという、この時代にあっては優れて進んだ女性であったからである。その母親が何故魯迅の嫁にこの様な女性を選んでしまったのか、私には全く不可解なのである。母はそれほどまでに末子・椿寿の死を悲しみ、冷静な判断の出来ない状態だったのだろうか。これまで魯迅の母は、義父の投獄事件や夫の長患いによる多額の費用を、土地の処分をしながら工面し、家の家計を女手一人で背負ってきたのだった。その様に逞しい自分とは正反対の朱安に、母親はむしろ、女性としての好ましさを感じたのであろうか。
 ところで魯迅を呼び寄せたニセ電報の正体である。後年母が語ったところによると、魯迅は東京での留学中に日本の女性と結婚し子供まで出来たという。そんな話を朱安の親戚が聞き込んできたという。そこで魯迅の母は朱安の家から再三にわたり結婚の催促を受けた、というのが真相であった。朱安の実家とすれば28歳にもなった娘を、これ以上待たせることに不安があったのだろうが、何ともいい加減な話である。おまけに花嫁の朱安は魯迅からの条件を守るどころか、依然として文字も読めず、纏足もそのままであったというのだからお話にもならない。
 魯迅は式に臨んで「言葉にならないほど失望した」と言い、結婚式の翌日からは寝室を共にせず書斎で寝起きをしていたという。魯迅の母は挙式の夜に、早くも自分の大失敗に気付かされたのであった。更にその4日後、魯迅は東京への留学が決まっていた次弟・作人を連れて再び東京に舞い戻り、それ以後3年間は一度として帰省することはなかったのである。魯迅は親友にこう言ったという。「朱安は、母がくれた贈り物であるから養うにはやぶさかではないが、愛情は別だ」と。そして生涯朱安を妻として受け入れることはなかったのである。

 さて、話は魯迅と次弟・作人夫婦との決裂の直後である。
 北京八道湾の家を去るにあたって、魯迅は朱安に対しひとつの選択を迫った。「自分は事情により八道湾宅を去るが、貴女は実家に戻るかこのまま八道湾宅で暮らすかいずれかを選ぶように」と。しかし朱安の答は魯迅にとって想定外のものであった。彼女はなんと「私も一緒に連れて行って下さい」と言ったのである。選択肢にはない答えであった。朱安は夫に全く顧みられない妻でありながら、彼女には妻としてのこの一本の道しか見出すことが出来なかったのだろう。普段は口数の少ない朱安のこの想定外の発言こそが、魯迅を驚かせるどころか一気に魯迅の夢を打ち砕いてしまったのであった。八道湾の家を出ればこれで朱安との縁も切れ、晴れて自由の身になれるかもしれないと、魯迅は心密かに願っていたに違いないからだ。だが開き始めた夢の花は、朱安のひと言で一瞬にして徒花【あだばな】と化してしまったのである。しかし、何故これ程までに魯迅は朱安を拒否するのだろうか。それには、母親の存在が大きく関わっていた筈である。魯迅の母親は明るく逞しく努力家で、しかも開明的な女性であった。それでなくとも男性にとって母親は永遠の女性であり、魯迅は当然自分の妻となるべき女性には、母親と同等もしくはそれ以上のものを求めていた筈である。しかし、現実の妻は全く魯迅の理想とはかけ離れ、古い因習の中で生きようとする女性であった。進歩的な母の影響もあり、成長とともに革新的な生き方に目覚めて行った魯迅にとって、朱安を妻として受け入れられないのは当然の帰結であったのだ。この結婚は魯迅にとっても朱安にとっても、大きな不幸であったと言わざるを得ないだろう。

 1925年(大正14)3月、ある日突然、魯迅の目の前を春風が通り過ぎた。春風の正体は許広平【きょこうへい】。広平は、魯迅が講師をしていた北京女子師範学校の学生だった。彼女は広州の旧家出身で、生後3日目に父親の決めた婚約に頑強に抵抗し、18年を掛けてこれを解消したというつわものであった。彼女もまた「新しい女性」の一人であったのである。その後上京した広平は、たまたま魯迅の勤務する北京女子師範学校に入学したのだった。当時27歳の彼女は国文科3年に在学中で、また学生自治会委員としても活躍し、非近代的な大学の体質や運営に憤りを感じていたのである。ある日、その憤懣【ふんまん】を日頃学生運動に理解のあった魯迅に対し、手紙を通して訴えてきたのだ。だが、この一通の手紙こそが二人の運命の始まりとなったのである。手紙を受け取った魯迅は、日頃明るく活発な広平に対し、指導者として丁寧な返事を書き送った。この返事がきっかけとなり、魯迅と広平の間には手紙の往来が続いて行くことになる。そして3ヶ月が過ぎた頃には、互いの愛称で手紙を締めくくるという仲にまで進展して行ったのであった。明朗で愛らしく、ジョークを理解し、ウィットに富み、更には負けん気が強く涙もろい広平の中に、魯迅は母親に似たものを感じ取って行ったのかもしれない。17歳も年下の広平であったが、彼女は日々魯迅の心を虜にして行ったのである。自分の人生にはけして訪れないと諦めていた「人を愛する喜び」に、この時魯迅の心は大きく揺れ始めていたに違いない。

 1926年(大正15)3月、世に言う3・18事件が起きた。日本軍など8カ国の干渉に抗議する集会が天安門広場で開催され、その場にいた市民・学生のデモ隊列に何と軍警が発砲するという衝撃的な事件であった。この結果死者47名、負傷者50数名という大惨事となったのである。この犠牲者の中には魯迅が将来を嘱望していた学生もいた。しかも、この日は許広平もこのデモ行進に参加する予定だったのである。この事件を耳にした魯迅は、憤激の余り2〜3日は食事も出来ず、口もきけない状態であったという。一連の学生運動を支援してきた魯迅にとって、この事件の衝撃は想像以上に大きく、魯迅の心は深く傷ついていたのだった。この日、広平は魯迅の手伝いをしていたが、その仕事が長引いたためにデモの参加に遅れてしまったのだ。それがからくも広平の命を救ったのかもしれないが、万が一を想像した魯迅の怒りは一層膨張したのかもしれない。
 その一週間後、学生運動に深く関わっていたとして、魯迅の名は当局の第2次逮捕者リストに載せられてしまったのである。追われる身となった魯迅はそれからの30日間、山本医院など日本人経営の場所を転々としながらも、抗議の執筆活動や大学での講義を続けていたのだった。しかし3・18事件以降、魯迅にはいつも尾行がつきまとい、不審者の訪問が相次いでいた。その為、魯迅は友人たちの忠告を聞き入れ、北京脱出という一大決心をしたのであった。その数ヵ月後の8月、魯迅はかねてより招請のあった厦門【あもい】大学(福建省南東部)の教授として赴任し、時を同じくして広平も広東省立女子師範学校に助手として採用されたのだった。こうして二人は任地こそ違え、同じ時期に北京を後にする事になったのである。だがこれは単なる偶然ではなかった。この魯迅と広平の北京脱出はいわば愛の逃避行であり、中国社会において離婚の出来ない者に残された唯一の道「逃婚」だったのである。その後魯迅は、自分の立場や広平との年齢差に苦しみながらも、漂泊の中で広平との愛を育んで行くのであった。
 ところで、魯迅にはその才能を高く買い、将来に期待を寄せて指導してきた若き文学者・高長虹【こうちょうこう】がいた。かねてより広平に好意を抱いていた長虹は、ある出来事の行き違いから魯迅に腹を立て、広平と共に北京を脱出した魯迅に対し、自分の雑誌の中で散々に非難し、こき下ろしたのだった。これに対し魯迅は、この背信行為に対して長虹をからかうような短編を書いて応酬した。その中で彼を指弾した後に「私は彼等を軽蔑する。これまで私は愛について考えおよぶと、いつもたちまち自分を恥じ、自分にその資格はないと思った。そのため人を愛する勇気が持てなかった。だが彼等の言行、思想の内幕を見極めるにおよんで、私は自分をそれほどおとしめるべき人間ではないと信ずるようになった」と記し、更に自分にも人を愛する事が出来るのだと宣言したのである。それはまさしく広平に対する愛の告白であった。そしてその一週間後1927年(昭和2)1月、魯迅は広平の住む広州へと向かい、その後手に手を取って終の地・上海へと旅立ったのである。
 この時、魯迅46歳、許広平29歳、ここにようやく魯迅と許広平は実質的な夫婦としての生活を始めたのであった。
 だが、魯迅にとっても広平にとっても、それはけして諸手を挙げての幸せではなかった筈である。北京の母親からは、何度となく帰郷を促す手紙も届いていた。本来孝養を尽くすべき母親と、ようやく手に入れた愛する人との暮らしのはざ間で、魯迅は絶えず悩み続けていたのではないだろうか。一方広平も、孝行息子の魯迅がいつ北京へ舞い戻ってしまうかと、己の立場の不安定さにどれだけ不安な日々を過ごした事だろう。だが、魯迅はけして北京に戻る事はなかったのである。魯迅にとって広平との暮らしは、ようやく掴み取った「やすらぎ」であったからに他ならない。それはもはや魯迅にとって、けして手放すことの出来ないものとなっていたのである。さらに北京に戻らない事は、すなわち広平に対する愛の証であるとも思っていただろう。だが封建的道徳社会の中で、たとえ魯迅と暮らしてはいても、広平はけして妻と呼ばれることはなかったのである。表向きには魯迅の秘書であり続けた広平の複雑な女心を、果たして魯迅はどれだけ理解していただろうか。
 上海で暮らし始めてから1年半が経った1929年(昭和4)4月、魯迅は広平から妊娠を告げられたのである。想定外の事であった。しかし、魯迅は戸惑いながらもその喜びの知らせを手土産に、母の病気を見舞いがてら北京へ向かったのである。周家にとって、正妻の子ではなくとも長男の血筋である孫の誕生は、魯迅の母にとっては何より大きな喜びであったに違いない。同時にこれを機に、魯迅と広平が北京に戻ってくれるのではないかとどんなに期待を膨らませた事だろう。だが、それでも魯迅は北京に戻ることはなかったのだ。子供の為にもまた広平の愛に応える為にも、魯迅は北京を完全に捨て去り、上海での暮らしを選んだのであった。そして同年9月27日、魯迅の長男が誕生した。「上海で生まれた赤子…嬰児」という意味で、その子は海嬰【かいえい】と名付けられた。魯迅49歳、広平31歳であった。

 一方正妻・朱安は魯迅が北京を去ってから、妻としても女としても自信を失い、大きな空しさの中で暮らしていたのではないだろうか。しかも「魯迅の北京脱出は教え子との駆け落ちである」という噂話にも、朱安は大いに傷ついたに違いない。これまで朱安は、自分もいつかはきっと夫に愛される日が来るものと、その日をひたすら待ち続けて来たのだった。だが朱安は魯迅が妻の自分に何を求めているかなどと、考える術のない女性でもあった。朱安の抱く妻像とはひたすら夫にかしずくものであり、封建社会の流れに身を任せることを良しとする古いタイプの女性であった。その点において、朱安と広平とは正に対極にいる女性であったのである。さらに朱安の嫁いだ周家は、夫の母親でさえ独学で文字を学ぶという進歩的な家庭であり、そこに嫁いでしまった朱安こそが不幸であったと言わねばならない。
 やがて朱安は、魯迅の子の誕生を知った。すると朱安は「子供の産めない女は地獄に落ちる」という古い観念に取り付かれ、恐怖に慄【おのの】きながら暮らしていたのだ。だがやがて、朱安は見事にその気持ちを跳ね除けてしまうのである。それはあたかも魯迅の作品「阿Q正伝」の阿Qのように、自らの発想を転換するという「精神勝利法」によってであった。つまり広平の産んだ子供は魯迅の子供であり、それは正妻である自分が産んだも同然であるという図式である。この点においてまさしく朱安は、当時の中国人そのものであったと言えるだろう。

 「意外ナコトデ夜中カラ又喘息ガハジメマシタ。ダカラ、十時頃ノ約束ガモウ出来ナイカラ甚ダ済ミマセン。御頼ミ申シマス。電話デ須藤先生ニ頼ンデ下サイ。早速ミテ下サル様ニト」
 1936年(昭和11)10月18日早朝、許広平はこの手紙を握りしめ内山書店に駆け込んだ。この日魯迅は、朝日新聞上海支局の記者と会う約束をしていたのだが、何より容態が急変し急ぎの使いとなったのだった。そして、この手紙が魯迅の絶筆となった。翌日魯迅は、広平とわずか7歳の長男を遺し、無念の旅立ちとなったのである。
 魯迅の死は中国人民に大きな悲しみをもたらし、多くの人民の手が異例の規模で魯迅の葬儀を執り行なった。しかしこの葬儀は、思い掛けなく広平を魯迅の妻として認知する公式な場ともなったのであった。魯迅の死は、探し求めていた藤野先生の存在を突き止めたばかりでなく、広平を魯迅の妻としても長男の母親としても認知させる舞台をも作ったのである。正式な妻とは認知されないまでも、魯迅の死により広平は、晴れて日の当たる場所を得たのであった。
 ところが、魯迅の死の翌年に日中戦争が始まり、1941年(昭和16)には太平洋戦争が始まると、その数日後に日本軍憲兵隊はフランス租界にあった許広平宅に押し入った。そして書籍など様々なものを押収した挙句に、広平をも連れ去ったのである。広平の容疑は抗日地下工作に関わっていたというものだったが、彼女は殴られ鞭打たれ、電気椅子の拷問にもかけられたのだ。
 2ヵ月間の過酷な取調べの後、釈放された彼女の頭髪は真っ白になっていた。歩行も困難となり、この一連の拷問によって彼女の健康は破壊され、その後生涯に亘り苦しみ続けたのであった。それにしても、この過酷な拷問に立ち向かい、けして口を割らなかった広平を最後まで支え続けたものは一体何であったろうか。それはおそらく魯迅の妻としてのプライドであり、母となった強さではなかったかと私は思うのである。
 因みに憲兵隊は魯迅の日記25年分も押収したのだ。その後内山完造たちの働きで返還はされたものの、1922年の分だけは何故か戻る事はなかった。

 魯迅は、幼い頃から父の病のため、全く効きもしない高価な薬を買うために質屋通いをしていた。儒教の影響による迷信を強く憎みながら成長した魯迅は、やがて東京に留学し西洋医学を志した。そして1918年(大正7)、魯迅の名で処女作となる「狂人日記」を発表し、その中で歪んだ儒教道徳を厳しく批判したのだった。しかもこの時、中国では初めてとなる口語体での作品を世に送り出したのである。だが皮肉にも、魯迅の憎んだ悪しき因習との闘いは、己の結婚により挫折したのだった。その人生に絶望していた魯迅の心を、谷底から引き揚げたのが若き女子学生・許広平であったのである。
 人とは人生とは摩訶不思議なものである。出会いによって何度でも生まれ変わることが出来、強い心を持ち続ければ何度でも生き直すことが出来そうだ。私たちにはきっと、自分の想像を遥かに超えた力が備わっているのかもしれない。魯迅が広平との漂泊の旅を決意した時、彼は初めて人生を我が身に引き寄せる事が出来たのではないだろうか。人とは永遠に何かを求めながらさ迷い、さ迷いながら生涯を終えて行くのかもしれない。

─ 魯迅の素顔(3)終 ─ 

[参考文献]

「魯迅日記の謎」 南雲 智 著 TBSブリタニカ
「悩める家長 魯迅」 三宝政美 著 日中出版
「魯迅の印象」 増田 渉 著 角川書店


 魯迅の素顔(2)─ 周家を崩壊させた嫁 ─
村木久美
2010年8月4日

 「中国近代文学の父」と言われる魯迅には2人の弟がいた。次男の名は周 作人【さくじん】、三男は周 建人【けんじん】といい、実は2人の弟は日本人の羽太【はぶと】姉妹との国際結婚だったのである。だがこの事実を知る人は案外少ないだろう。作人の妻は羽太信子、建人の妻は羽太芳子といい、この日本人の嫁は結束の固かった周家の家族を、やがて崩壊に導いてしまうのである。

 1906年(明治39)3月、仙台医専を退学し再び東京に戻った魯迅は、本郷区(現文京区)湯島に下宿を定めドイツ語学校に入学した。毎日ドイツ語の原書などを読み耽りニーチェ、バイロン、キルケゴールなどの思想や文芸を吸収し、日本の漱石、鴎外等の作品や評論をも読破した。1908年にかけての魯迅の評論や翻訳量からすると、その読書量は相当なものであったらしい。
 1909年(明治42)魯迅は立教大学に留学した作人や親友の許寿裳【きょじゅしょう】らと、本郷西片町10番地の借家に賄【まかな】い婦を雇って住む事にした。この時派遣されて来た若い女性が羽太信子であった。写真で見るとやや小太りの小柄な女性である。
 作人と信子は同じ屋根の下で顔を合わせるうちに、いつしか愛し合う様になった。この二人の愛を何とか成就させようと動いたのが実は魯迅だったのである。それはこの3年前の自分の結婚に起因する。不本意な形で愛のない結婚を強いられた魯迅は、弟の作人には自分の分まで愛を貫いて欲しいと強く願い、また貫かせてやりたいと強く願ったのであった。早速魯迅は羽太家に乗り込み談判をしている。だが当時の時代背景の中で、日本人が清国のしかも留学中の学生に娘を嫁がせるなど、到底あり得ない話であった。加えて羽太家には、若い娘を賄い婦として働かせなければならないという、経済的事情もあったのである。だが驚くべき事に魯迅は、今後の羽太家と作人達への経済的支援を約束する代わりとして、ようやく羽太家に2人の結婚を認めさせたのであった。
 魯迅の行動は早く、直ぐに自分の留学を切り上げ帰国し就職をした。以後1919年(大正8)までの実に10年間、魯迅は作人一家はもとより、東京の羽太家に対しても毎月の送金を続けたのである。これは魯迅の並々ならぬ家長意識と、責任感の強さが窺える話だ。だがこの魯迅の涙ぐましい努力と献身を、作人と信子は果たしてどの様に受け取っていたのだろうか。特に若い日本人の信子にとって、魯迅のこの一方的な献身は、却って魯迅に対する優越感を増長させる原因となってしまったかも知れないのである。
 暫くして作人は立教大学を中退する事になるのだが、その時に魯迅はわざわざ北京から来日してまで、2人に強く帰国を促したのだった。中国では政治経済が不安定で魯迅の給与遅配や欠配は度々であり、魯迅はこの時期経済的にとても切迫した状況にあったからである。ところが日本を離れたくない作人と信子は、仕方なくしぶしぶの帰国となった。魯迅は作人と信子を紹興に連れ帰ると再び北京へ舞い戻り、文部省で働きながら紹興の家族と羽太家に仕送りを続けたのである。

 東京から気の進まないまま中国に渡った信子は、紹興の言葉を覚えるでも家族に打ち解けようとするでもなく、作人だけを頼り切り、家族との意思疎通は作人の通訳によって図られる始末であった。そして間もなく信子には奇病が現れるようになっていた。イライラが募りまた自分の思う様に行かない時など、信子は突然大声で泣き出し意識を失い倒れた。魯迅の母は大層心配しその度に慌てて医者を呼んだが、医者も首をひねるばかりだったという。
 そんな信子がやがて妊娠をした。初めての孫の誕生かと母は言葉に出来ない程の喜びようで、信子の病気に対しても一層献身的に尽くしたのである。
 ところで、信子の出産に際しては手伝いを探している。何故手伝いを探す必要があったのかはさておき、その手伝いをする者がなかなか見つからなかった。だが紹興を嫌いな筈の信子が、出産を控え東京に里帰りもせず、出産直前まであても無く手伝いを探していた事に、私は疑念を抱かざるを得ない。 
 案の定、作人夫婦から母に提案があった。「最良の方法がある。信子の妹を日本から呼んで世話をさせれば良い」というものである。当時、信子の病気と出産にただオロオロするばかりであった母にとって、これは一も二も無く飛びつく話であった。母は願ってもない話とすぐさま賛成をしたのである。何はともあれ、信子が安心して出産に臨める事を第一に考える母であった。

 1912年(大正1)5月16日 信子は長男・豊一を出産した。そしてその一週間後に15歳の妹・芳子は、兄・重久と共に紹興へやって来たのだった。
 芳子は自分が手伝いであるという自覚からか、信子とは異なり積極的に紹興弁や紹興料理も覚え、周家に溶け込もうと努力をした。母の言葉を借りれば「天真爛漫で性格は素直、礼儀正しい娘」であり、やがて芳子は母と作人夫婦をつなぐ架け橋的存在となって行ったのである。
 そんなある日、信子はまた発作を起こした。慌てる母の姿にその時丁度通りかかった重久は平然と言ったものである。「いつもの事です。直ぐに治まるから心配は要りませんよ」。どうやらこれは、信子のわがままな性格による病気のようであった。
 ところで三男・建人と芳子は、いつしか互いに好意を持つようになっていた。だがこれにも、信子が意図的に仕向けたのではないかという説がある。
 実は建人には家同士も認めた許婚者がいたのだった。ところがその許婚者は、信子の出産数ヶ月前に突然亡くなってしまったのである。許婚者を亡くし悲しみに沈む建人の心は、どんなに無防備であった事だろう。信子にとって、妹・芳子との結婚話を進行させるには絶好の機会だったのである。
 後年母の証言によると、作人と信子はこの2人を結婚させようと、躍起になっていたそうである。ところが魯迅はこの結婚に大反対をしている。
 家長である魯迅は、紹興の家が母を中心として纏【まと】まっていることを常に願っていたが、最近では信子に振り回されている周家の状態に、不安と不満を募らせていたからである。その様な中で、作人夫婦が建人と芳子の結婚を急ぐ姿に、魯迅は一層不安を掻き立てられたに違いない。魯迅はこの時わざわざ説得の為に休暇を取り、北京から遠く紹興まで赴いているのである。
 この時信子は2人目を妊娠中だった。この頃の信子にとって、妹・芳子の存在は最早欠かせないものとなっていた筈である。ゆえに何としても、芳子と建人の結婚はまとめ上げたかったに違いないのだ。これは想像であるが、信子は紹興にやって来た時から、あわよくば芳子を建人と結婚させ、生涯中国の自分の側に妹を置いておきたいと、密かに願っていたのではないだろうか。だからこそ出産の手伝いと称し、芳子を日本から呼び寄せたのではないか…。だが信子の立場であってみればそれは無理からぬ願いであった。当時の紹興では日本人の姿は殆んど見られない時代であり、信子にとっては側に妹がいるだけで、どんなに心強い事であったろうか。明るく素直な芳子の存在は、当初それだけでも信子にとっては充分であった筈だが、ところが今では信子の期待を遥かに超え、妹・芳子は中国語も話し紹興の家族にも評価され、信子にとっての大きな盾に成長していたのである。
 確かに魯迅もまた、周家の家族に対し献身的に尽くしてくれる芳子には好感を持っていた。だからこそまだ若い芳子が、姉・信子の思惑の犠牲になる事を恐れ、説得の為にも紹興へ向かったのであった。しかし魯迅の説得は兄弟達にまったく聴き入れられず、母もまたかつて魯迅の結婚を強引に推し進め、その結果夫婦とは名ばかりのものになってしまった為に、息子達の結婚には以後一切意見を唱える事はなくなっていたのである。
 こうして建人と芳子の結婚は1914年(大正3)2月28日 羽太家の承諾は得たものの、魯迅の反対を押し切り、しかも魯迅欠席のままに執り行なわれたのである。建人23歳、芳子15歳だった。
 魯迅のためにその後の芳子が一層の努力をした事は言うまでもない。そして姉の信子は芳子の結婚4ヶ月後に長女を出産したのだった。
 因みに魯迅の日記からは、信子の弟・重久は訪中以後そのまま魯迅の家で暮らし続けていた事が窺える。

 1917年(大正6)4月 作人は北京大学への就職が決まった。これはかねてより魯迅が友人である学長に依頼しており、それが実現したものである。この時魯迅は作人に北京赴任の旅費まで送り、しかも同じ会館に住むことになった作人に対し、南向きの自分の部屋を明け渡し、なんと自分は窓も無く湿気の多い北側の部屋に引っ越しをしたのだった。「体調の良い日は年間一日とて無い」と日記の中で嘆く魯迅にとって、かくも家族は大切なものであったのである。そしてその後も紹興の家族の生活費は、魯迅からの送金で賄われていた事は言うまでもない。
 1919年(大正8)周家では紹興の家屋敷すべてを人手に渡すこととなり、母は止む無く魯迅の暮らす北京への移住を決意したのであった。そこで魯迅は母を迎える為、また幼い甥や姪が都会でものびのび暮らせる様にと、金に糸目をつけず多額の借金も厭わず、更にあらゆる苦労を乗り越えて9部屋もの家を完成させたのだった。これが北京八道湾11号に今も残る四合院【しごういん】と呼ばれる、広壮で堅牢な屋敷である。
 同年12月1日 魯迅は母を迎えに紹興へ旅立った。紹興は紹興酒で有名な町で、当時北京から紹興までは船などを使い5〜6日を要したという。魯迅の名作「故郷」はこの帰省の折の思い出を綴【つづ】ったものである。この中の「地上にはもともと道は無い。人が歩いてはじめてそこに道が出来る」とは私の好きな言葉である。
 紹興に着くや魯迅は転居の為の片付け、整理、荷物の処分などに明け暮れ、更に様々な手続きに追われた。そしてようやく12月24日に船を2艘雇い、母と妻、建人の家族と荷物を携え、先祖代々住み続けた紹興を後にしたのである。途中のアクシデントを乗り越えながらも、ひと月を掛けた引越し作業と家族の移動をようやく終え、魯迅は母を新居に迎える事が出来たのだった。

 ところでこれより以前、信子は子供達と重久を引き連れ、4月に東京の実家へ里帰りをしていた。日記によるとこの時魯迅は、東京の信子宛に給料の約2倍もの送金をしている。更にその4ヶ月後の8月、帰国した信子達一行は紹興の家には戻らず、北京・八道湾の家が完成する11月まで、北京で家を借りて住んでいたのである。紹興の家を畳むにあたり、信子は嫁としてなすべき事は山程あったにも拘わらず、また魯迅が膨大な借金を抱えようとしているこの時期に、魯迅に更なる多額の出費をさせ、長期の東京への帰省と北京での割高な借家住まいをするとは、とても信子の神経は尋常ではない。まして魯迅が母親の為に建てた新居へ、引越しの手伝いもしなかった信子が、母親よりも先に住み込んでしまうとは、とても日本人として受け入れられるものではない。
 この頃魯迅は、家の建築費以外にも給与の3倍もの借金をしている。前年度からの給与遅配や欠配に加え、度重なる作人一家の浪費によるものである。
 魯迅の日記を見ると、家を建てた前後数年間は頻繁に借金と返済を繰り返し、殆んど自転車操業状態である。魯迅の苦労の様子が滲み出ていて読むのが辛くなる程だ。後年魯迅は語っている。「自分が人力車で金を運んでくると、自動車で持っていってしまう」と。だが信子はそんな魯迅を表面ではともかく、実はうっとうしい存在として嫌っていたのであった。

 それでもとにかく、64歳の母を頂点に北京八道湾での生活が始まった。しかしそれも束の間、転居1年後には作人が肋膜炎を患い入院し、3ヶ月間の転地療養を含めると実に10ヶ月間の闘病生活となったのである。魯迅はこのとき費用捻出の為にまたまた給与の2倍以上の借金をしている。そして多額の借金返済の為か、魯迅は転居半年後から高等師範学校に於いても働き始めたのであった。
 この作人の入院中に三男・建人に新たな就職が決まった。上海にある大手出版社である。1921年(大正10)9月2日 建人は芳子や子供達を残しての単身赴任となった。単身赴任の理由の一つに、信子が妹の上海行きを最後まで反対した為とされている。後年の母の証言によると、芳子は働き者で勤勉で向上心に富んでいた。編み物上手で当時の子供達6人のセーターは全て芳子の手作りであり、また日本の通信教育を利用してミシンの技術を習得し、後年には産婆の資格も取った程だ。信子がこの様な芳子を手放したくないと思うのは当然であった。一方家庭内では魯迅と信子の対立が深まり、その意味でも芳子は建人と共に上海へ行く事が出来なかったと思われる。こうして建人は単身赴任となった訳だが、これがきっかけで建人と芳子はやがて離婚への道を辿る事になるのである。

 ところが、芳子が自ら犠牲を払い北京に残ったにも拘わらず、ある日突然周家は一気に崩壊してしまったのである。その経過を魯迅の日記から見てみよう。

 *1923年(大12)7月14日「今晩より自室で食事をすることにし、自ら料理一種を用意する。これは特記すべきことなり」
 この日魯迅は作人から何事かを通告され、この夜から何故か家族とは別々に食事をする事にしたのだった。
 *7月19日「午前、啓孟(作人)自ら手紙を持参す。あとで呼んで尋ねようとするが来ず。」
 作人からのあの手紙を最後に、魯迅と作人は生涯決定的に相容れぬ仲となったのである。あれ程仲が良く助け合って来た兄弟に一体何があったのか、未だに真実は藪の中である。以下は作人から魯迅に宛てた手紙の全文である。

 [ 魯迅先生
 私は昨日初めて知りました。しかし過去のことはあれこれ言いますまい。私はクリスチャンではありませんが、なんとか受け止めて堪えることができますし、非難しようとも思いません……みんな可哀想な人間です。私が昔見たバラ色の夢はもともと幻影であって、今見たものがあるいは真の人生なのでありましょう。私はこれまでの私の考え方を訂正し、改めて新しい生活に入るつもりです。以後はどうか裏の家へお越しにならないで下さい。以上です。心安らかに自重されますように。
                          1923年7月18日  作人 ]

 作人は「過去のこと」を理由に魯迅との断絶を言い渡している。裏切られた自分は今後一切魯迅とは関わり無く生きて行く、と言っているのである。
 だがこの直前までの魯迅の日記を見る限り、そして作人も「私は昨日初めて知りました」と手紙で書いているように、魯迅と作人にはこの直前まで通常の親交が続いていたのである。それだけに魯迅の話を一切聴こうともしない作人のこの頑固な豹変振りには、ウラに仕組まれた極めて悪質な手口を感じざるを得ないのである。
 この件について、魯迅と作人の共通の親友である許寿裳は「亡友魯迅印象記」の中で次の様に語っている。
 「信子が魯迅との過ちを作り上げ、まことしやかに夫の耳に吹き込んだ。それを鵜呑みにした作人が、怒りにまかせて義絶状を兄に叩き付けたらしい」と。だが作人は、許寿裳の説得にも耳を貸すことはなかった。それにしても兄・魯迅の性格も人間性も知り尽くしている筈の作人が、何とも大人気ない話である。とかく信子に甘い作人の態度が、結局周家の崩壊を招いた要因なのではないかと、私には思われてならない。
 一週間後の26日 魯迅は家を出る決意をし、借家を探し荷物の整理を始めた。そしてついに1923年(大12)8月2日、魯迅は妻と共に八道湾の家を出たのだった。一世一代の決心で建てた八道湾の豪邸であったが、僅か3年半で魯迅の長年の努力と苦労そして夢は脆くも崩れ去ったのである。この時の魯迅の無念さはいかばかりであったろうか。しかしこれ以上この家に留まることは、もはや魯迅の誇りが許さなかったのだろう。それにしても何とも理不尽な結末に、私は遣り切れない怒りを感じてしまうのである。
 その後仮住まいをしながら、魯迅は再び母を迎える為の家探しを始めた。これが中国の伝統社会に於ける家長の姿なのかもしれない。実際母も魯迅との暮らしを願ったのだった。だが日記によると、この頃も給与の遅配と欠配は酷く、この一年近く殆んど無給状態にあり、魯迅はまたまた借金を繰り返す日々となっていたのだった。そして10月には、疲れと怒りからか肺結核を再発し、快方までに半年近くが費やされたのである。
 1924年(大13)5月25日 ようやく西三条21号で母と妻との3人暮らしが始まった。現在北京の魯迅博物館に保存されている「魯迅故居」はこの西三条の家屋である。この日を境に、母は生涯2人の嫁と会う事はなかった。
 ところで10ヶ月振りとなる6月11日、魯迅は八道湾の家を出て以来初めて、八道湾の家に置いてきた本や日用雑貨を取りに出掛けたのであった。以下はその日の魯迅の日記である。

 *「…西廂房(魯迅の部屋)に入ろうとすると啓孟(作人)およびその妻が突然とび出し、罵倒殴打におよび、更に電話で重久と北京大学の仲間を呼び、その妻、皆に向かいて余の罪状を述べ立てる。口汚ない言葉を弄し、およそ捏造【ねつぞう】もはなはだし。…」

  近所に住む友人の話によると、この時作人は怒鳴り声を上げながら、30cmもある銅製の香炉を魯迅に投げつけようとしていたので、慌てて止めたという。また信子は何処かへ電話をしていたと話した。魯迅が八道湾の家を取り返しに来たとでも思ったのだろうか。結局魯迅は大切な本も持ち出せないまま、これ以降一切八道湾宅を訪れる事はなかったのである。
 因みに、魯迅が最初に建てた北京八道湾の家は、これ以降作人が死去するまでの48年間、作人、信子、芳子らが住み続けた。信子は1962年(昭37)74歳で死亡、作人はその5年後に82歳で死亡、芳子は1964年(昭39)67歳で病死した。上海で再婚した建人は、1984年(昭59)96歳まで生きた。

 現存する魯迅の日記は25年分(実質24年分)である。今回私は残された日記の最初から12年分を読み返してみた。つまり日本から戻り、北京の文部省勤務初日から、八道湾宅に荷物を取りに出掛けたところ迄である。
 魯迅の日記には、兄弟の頻繁な手紙の往来や金銭の授受、購入品などが几帳面に記されている。中でも目を引くのが来訪者の多さである。魯迅は多くの知識人と交流する一方、自宅には多くの若者が集い、時には日本の学生もいたのである。但し後年の上海時代、魯迅が当局の監視対象に置かれて以降は、過去の苦い経験を踏まえ、当局から危険視されている若者達の名前は書かれていない。当時の魯迅の日記は常に押収される危険に晒され、それはすぐさま彼等若者の生命の危険に繋がったからである。

 最後に、中国では「最初に井戸を掘った人を忘れない」という。一方日本にも「恩返し」の精神が、わが国の文化として脈々と受け継がれて来た。しかし、これまで見てきた魯迅に対する作人と信子の在り様には、人としてのあるべき何かが欠けているように思われてならない。今回取り上げたテーマは、同じ日本人として特に同じ女性として、私にはとても遣り切れないものであった。だが羽太信子は藤野先生と同様、魯迅の生涯に大きく関わった日本人の一人であり、尚且つ魯迅と大きく関わった3人の女性の1人でもあった。まして魯迅の身内として存在した日本人・信子を、素通りする訳には行かなかったのである。
 それでも私の救いは、晩年の上海で当局の厳しい取締りに追われていた魯迅を、上海に住む日本人達が取り囲む様にして支え、守り通した事実である。そして魯迅の死は、病気の治療を日本で受けさせるべく、彼ら日本人が国内外で連絡を取り合い、受け入れ準備をしていた正に矢先の出来事であったのである。

─ 魯迅の素顔(2)終 ─ 

[参考文献]

「悩める家長 魯迅」 三宝政美 著 日中出版
「魯迅と弟嫁たち」 三宝政美 著 富山大学 
「魯迅全集 日記」  南雲 智 翻訳 学習研究社


 魯迅の素顔(1)─ 魯迅と藤野先生 ─
村木久美
2010年6月26日

 私が初めて魯迅【ろじん】の名を知ったのは、現代中国史の講演会であった。それは私が40歳を少し過ぎた頃である。戦後の中学校教科書に魯迅の作品「故郷」が掲載されていたらしいが、私には習った記憶が無かった。それよりも講演の中で、若き日の魯迅が仙台の地で学んでいたという事実の方が私にとっては遥かに大きな衝撃であった。それは私の出身地が福島市であり仙台市はいわば隣である。しかもその地には様々な思い出を残す私だったからである。その様な思いがやがて私を魯迅探しへと向かわせたのであった。
 魯迅の資料を求め私は神田の古書店街に出掛け、地域の図書館を調べそして街の書店を回った。魯迅に関する資料はけして多くはなかったが、その資料の中から見えて来たものは、魯迅の中国人民に対する強い熱情と、人間としての愛と悲しみ、そして何より苦悩に満ちた魯迅の人生だったのである。

 明治14年(1881)9月25日、魯迅は浙江省紹興府に生まれた。本名は周樹人【しゅう じゅじん】、魯迅の誕生はアヘン戦争から40年後の事であった。
 魯迅は、祖父が官吏である裕福な家庭に生まれたが、祖父が贈賄事件で逮捕されて以来周家は没落し、病気がちであった父親の言わば家長代理として魯迅は成長したのであった。当時魯迅は、病気の父に対する治療が往診料ばかりが高価で呪【まじな】いの様な一向に効果の無いものばかりであった為、自国の医療には大きな不信感を募らせていた。その後、父が僅か36歳で他界した事も、魯迅が西洋医学を志した理由の一つとされるが、更に日本の維新が西洋医学から端を発していると知った事も、医学を志した理由であったとされている。
 明治35年(1902)4月、魯迅は東京牛込の弘文学院へ入学する。ここは嘉納治五郎が清国留学生の為に開設した日本語予備校だった。ここで2年間日本語を学んだ魯迅は官費留学生として合格し、志望していた西洋医学を学ぶため東北大学医学部の前身仙台医学専門学校(仙台医専)へと入学するのだった。明治37年(1904)9月、23歳の魯迅は、開校以来初めての外国人として仙台医専に入学した。ここで魯迅は生涯の恩師となる藤野先生と出会うのである。
 藤野先生とは、明治7年(1874)7月1日生れ、名を厳九郎と言い、出身は福井県。生家は代々医者を生業とし、父・升八郎は大村益次郎、福沢諭吉等を輩出した緒方洪庵の適塾に学んでいる。
 藤野先生は子供の頃から秀才で、中学校からいわゆる飛び級で愛知医学校へ入学した。その後も非常な勤勉さと向上心で勉学を深め、後に愛知医学校を退職してからは、アルバイトをしながら東京帝大医科大学で解剖学を学び続けた。やがて、東京帝大医科大学の大沢教授の推薦を得、仙台医専の嘱託講師として採用され教授に昇進する。しかし仙台医専の教授陣の中で、帝大卒でもなく留学を経験した訳でもない先生の待遇は最下位であったが、先生はそのような事には全く無関心の学問一筋の人物であった。
 そして藤野先生の教授昇進・魯迅のクラス副担任となるのは、正に魯迅入学直前の事であったのだ。

 大正15年(1926)10月、魯迅は仙台医専での思い出を作品「藤野先生」に纏めているが、それは魯迅が仙台を離れてから既に20年の歳月が流れていた。その中で魯迅は、先生との出会いを次のように書いている。
≪解剖学の授業が始まって一週間後、先生は私を研究室に呼んだ。そして『私の講義は、筆記できますか?』と彼は尋ねた。
『少しできます』。
『持ってきて見せなさい』。
私は筆記したノートを差出した。彼は受け取って、1〜2日してから返してくれた。そして『今後毎週持ってきて見せるように』と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終わるまで、ずっとつづけられた。≫

 この時の魯迅の感激は、実際いかばかりであったろうか。当時の日本に於いて弱国・清国人に対する扱いはかなり酷いものがあり、差別はいたる所にあったのだ。従って、藤野先生の行為は当時の魯迅にとっては信じられないものであり、言葉に尽くせない程の感激を覚えたに違いない。だからこそ魯迅は、感激と共に「ある種の不安」を覚えたのではないだろうか。魯迅はその後に起きた二つの事件のあと医学の道を諦め、藤野先生にも本心を明かす事無く、一年半を過ごした仙台の地を後にするのだった。

 ところで魯迅の入学後一年が終了し、やがて成績が発表された。魯迅は142人中68番目で及第したがこの直後に事件は起こった。同級の学生会幹事が魯迅の下宿を突如訪問し、藤野先生が毎週添削しているノートを調べに来たのだ。まもなく魯迅の元に手紙が郵送されて来た。そこには藤野先生が魯迅のノートに印をつけ、あらかじめ試験問題を漏らしたから魯迅は及第したのだ、という内容が匿名で書かれていたのである。当時の級友の証言に依ると、この頃の試験はかなり難しく清国人である魯迅があの順位で、しかも及第するのはおかしいとの流言が事実あったそうである。しかしながら試験の結果魯迅は、藤野先生の解剖学だけは落第点の「丁」だったのである。
 因みに仙台医専の成績評価は甲乙評価により、「丁」が2科目以内であれば及第とされていた。級友によると、藤野先生は学問に対して大変真面目で厳しい為に学生の人気は殆んど無く、あの流言は魯迅よりもむしろ藤野先生に対する嫌がらせではなかったかというのだ。だが及第はしたものの、魯迅の誇りは大きく傷付つけられたに違いない。しかも尊敬する藤野先生の名誉までもが傷付けられた事は、一層許し難い思いとなって魯迅の心に深く刻み付けられたのではないだろうか。

 第二学年に進級すると細菌学の授業が加わり、細菌の形態はすべて幻灯を使って学習した。幻灯を使用する授業は当時の新式講義方法として注目され、しかもここにはドイツ製の幻灯機が備えてあった。時おり細菌学の授業で時間が余ると、残りの時間は時局幻灯の上映が行なわれていた。二つ目の衝撃はその時に起きたのだった。時局幻灯は折しも日露戦争の勝利場面の映像で、その中に中国人がロシアのスパイを働いたかどで銃殺される場面があった。それをまるで見世物を見る様に取り囲んでいたのは、何と魯迅の同胞である中国人だったのである。この光景は改めて魯迅の感情を揺り動かした。魯迅は中国人特有の、何に対しても「没法子」(仕方がない)と諦めてしまう精神を強く憎んでいたが、それは裏を返せば中国人民を愛して止まない魯迅の熱情でもあったのである。

 この様に、試験問題漏洩疑惑での憤り、また時局幻灯で誇りを失くした同胞の姿を目の当たりにした魯迅は、急速に医学への関心が薄れ、中国人民の意識改革に向かって一気に走り出したのだった。
 入学直後、藤野先生からノートを返された時の「ある種の不安」は、恐らく医学を志す気持ちの一方で、「中国人民の精神構造を改革しなければ」という熱い思いを、魯迅は常に併せ持っていたからではないだろうか。
 魯迅が仙台を去る2〜3日前、先生は魯迅を自宅に招いた。そして、自らの写真の裏に「謹呈 周君、惜別 藤野」と書いて魯迅に渡し、こう言ったという。『君の写真を写したら送るように。また、時おり便りを書いて以後の状況を知らせるように』と。だがその後の魯迅の人生は、残念ながら尊敬する先生に近況を知らせる事の出来る様な状況にはなかったのであった。

 ところで作品「藤野先生」が書かれた意味を考えてみたい。「藤野先生」と名付けられたこのタイトルも又その内容においても、他の魯迅作品とは少し異質に思われてならなかったからである。魯迅は作品のタイトルに実名を使う事は殆んど無く、内容においても風刺や譬えや比喩を用いて書き上げたものが多い。「藤野先生」のように、事実に近い内容を淡々と綴ったこの作品には、書かれていない行間に何があるのだろうか。もしかしたら作品「藤野先生」は、作品の内容を超えたところに魯迅のメッセージが隠されているのかも知れないと私は思った。

 ところで49歳の魯迅にまた一つ、運命の出会いが待っていた。
 東京大学の学生で支那文学研究会の一員だった増田渉【わたる】は、当時作家・佐藤春夫の助手をしており、その彼の紹介状を胸に昭和6年(1931)3月、上海で書店を経営する内山完造を訪ねたのだった。そこで増田は内山から毎日書店を訪れていた魯迅を紹介され、更に魯迅からこれまで彼が体験した事柄や中国現代史の知識などを学んだ。更に魯迅の自宅で毎日3時間、中国文学についての個人授業を受けていたのである。それは増田が帰国する迄の実に9ヶ月間にも及んだ。魯迅は午後の執筆時間を増田の為に割いていたのである。この時増田は「魯迅伝」を書き佐藤春夫に送った。その中で増田はこの様に記している。

 ≪彼の茨を伐り開く使命感と、勇気と敢為に感動し、これはタダモノではない、偉い人だと思うようになった。何よりも微塵のまやかしもない、という意味での強烈な人格に打たれた。いまの中国にはこのような人のいることを、このような人の出てくる中国の現実とともに日本に報せたい、と私は思った。それで「魯迅伝」というのを書き出した。≫

 佐藤春夫は「魯迅伝」に大変感激しこれを出版すべく奔走した。「改造」に断られ「中央公論」にも突き返されたが、それでも「改造」の山本社長に直接読んでくれと持ち込み、ようやく出版に漕ぎ着けたのだった。すると数年後には岩波文庫から佐藤春夫に「魯迅選集」出版の話が持ち込まれたのである。増田は大喜びで早速魯迅に作品選びの相談をしている。魯迅の返事は『内容についてはお任せします。只、「藤野先生」だけは入れて下さい』というものだった。魯迅は増田に『僕が僕の師と仰ぐ人たちの中で、先生こそ最も僕を感激せしめ、僕を鼓舞激励して下さる唯一の人』と語っている。この頃既に藤野先生が仙台に居ない事を知っていた魯迅は、増田に先生や先生の家族の消息についても尋ねている。魯迅が作品「藤野先生」を書いた事もタイトルを先生の名前にした事も、いつか何処かでこの作品が先生や親戚の人の目に触れ、先生の消息が分かるのではないか、又は自分の事が伝わるのではないかと、魯迅は密かに期待していたのではないだろうか。

 こうして不思議な運命の糸が繋がり、魯迅の作品が日本で出版される事になった。青春の7年間を日本で過ごし、志が医学から文学に変わったものの、これは藤野先生への何よりの恩返しであると魯迅は思った事だろう。昭和10年(1935)6月に出版された「魯迅選集」には、11編の作品と「魯迅伝」が収められ、その中9編が増田の訳であった。この「魯迅選集」出版によって魯迅はいよいよ先生の消息が分かるのではないかと、どんなに胸が高鳴った事だろう。だが日本で「魯迅選集」が出版されて一年が経過しても、先生の消息については何の反響も無かったのである。その頃病床にあった魯迅は『やはり先生はもう亡くなったのかもしれない』と増田に言い、大変残念がっていたという。だが、先生は生きていたのだった。しかも藤野先生の長男が中学の漢文の先生から『君のお父さんの事が書いてあるから読んでごらん』と、魯迅の本を手渡されていたのである。藤野先生はその時初めて、魯迅が中国で立派な文学者になっていた事を知ったのだった。しかし先生は自ら名乗り出るような人ではなかった為に、魯迅はついに先生に相見えるどころか、何ら消息を知り得ぬままに無念の死を遂げたのであった。
 昭和11年(1936)10月19日、享年55歳。「巨星落つ」…正に中国人民にとっての偉大なる旗手の死であった。魯迅の葬儀には、報せを聴き駆けつけた一般市民6,000名が、粛々と悲しみの列を作ったという。

 魯迅の死は日本でも大きく報道され、増田も日本評論に「魯迅追憶記」を書いた。それが藤野先生の地元である福井の地方記者の目に止まり、もしや診療所の先生と同一人ではなかろうかと、患者でもある仲間も加えた3人で藤野先生の診療所を訪ねたのである。こうして皮肉にも、魯迅は自らの死を以って藤野先生本人を捜し当てたのだった。
 魯迅はこれまで、結核を始めとし様々な病魔に冒され続け、魯迅の身体は満身創痍の状態だったが、直接の死因は心臓性喘息の発作だった。その苦しみの中で、魯迅が最後に書いたものは内山完造への手紙であった。判別困難なほど乱れたその手紙の内容は「体調が悪くなったので今日の約束は守れない。ついては須藤医師を呼んで下さい。」というもので、誠に最期まで魯迅らしい律儀さであった。
 以下は、藤野先生を訪ねた地方記者の取材により、後日「文学案内」に掲載された記事の一部である。
 ≪私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂と云ふ先生に漢文を教えて貰ひましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いといふ風に考へられたのでせう。このために周さんの小説や、お友達の方に私を恩師として語ってゐてくれたんでしたらそれを読んでおけばよかったですね。そして死ぬまで私の消息を知りたがってゐたんでしたら音信をすれば、どんなに本人も喜んでくれたでせうに…。≫

 かつて魯迅は日本から帰国後、様々な事情により紹興〜北京〜廈門【あもい】〜広州〜上海と何度も移転を繰り返し、中国国内を移動し続けた。だが、藤野先生から貰った写真だけは生涯離さず自室に掲げ、写真を見ながらいつも自分を叱咤激励していたという。若き日に受けた恩を生涯持ち続け、先生の学問への厳しさと真面目さ、そして人としての優しさを己の糧として生きた魯迅はやはり偉大であった。そして、そのような魯迅を知り得た私もまた幸いである。その後作品「藤野先生」は温かな繋がりのある作品として評価され、中国の教科書に掲載されたのであった。
 昭和20年(1945)8月11日、藤野先生は老衰のため72歳の生涯を閉じた。

─ 魯迅の素顔(1)終 ─ 

[参考文献]

「仙台における魯迅の記録」 仙台における魯迅の記録を調べる会 編集 平凡社
「魯迅の印象」 増田 渉 著 講談社
「魯迅」 片山 智行 著 中央公論社