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面影の空に(7)完 後藤 雄二 2008.9.10 私淑の人(7)完 後藤 雄二 2009.10.1 
面影の空に(6) 後藤 雄二 2008.8.25 私淑の人(6) 後藤 雄二 2009.9.1 
面影の空に(5) 後藤 雄二 2008.8.10 私淑の人(5) 後藤 雄二 2009.8.8 
面影の空に(4) 後藤 雄二 2008.7.25 私淑の人(4) 後藤 雄二 2009.7.11 
面影の空に(3) 後藤 雄二 2008.7.10 私淑の人(3) 後藤 雄二 2009.6.9 
面影の空に(2) 後藤 雄二 2008.6.25 私淑の人(2) 後藤 雄二 2009.5.15 
面影の空に(1) 後藤 雄二 2008.6.15 私淑の人(1) 後藤 雄二 2009.4.1


 私淑の人(7)最終回
後藤 雄二
2009年10月1日

 崩れかけた塀の内の大きな一本の百日紅、これがわが家の目印なのであるが、老いて虫にやられた為か、最近では花はもう殆ど咲かない。初めて京都に移ってこの家に入ったのが昭和二十六年の五月だったからざっと三十年前のことになるが、その頃は毎年夏になると純白の花が溢れ咲き、それはもう清冽な泉が空に噴き上げていると思うばかりであった。
(中略)
 私はそうした夏の夜、塀の外の道に立って空を仰ぐを常とした。銀河が見えたのである。銀河は百日紅の梢をシルエットに見せながら天頂を南から北へ流れ、冴え冴えと美しかった。私は吸い込まれるように見入り、時によろめいた。
(後略)

 これは二回生の夏に読んだ「星に想う」という題の吉沢先生の随想だ。新平はそれを思い出していた。しかし、さっと通っただけなので、百日紅の木があるのかどうかよく分からなかった。先生が昔、吸い込まれるように銀河を見上げ、時によろめいたのはあの家の前なのだな、と考えていると、新平は笑みがこぼれた。
 光村知子から手紙が来るようになった。彼女からの手紙は、二週間おきぐらいにコンスタントに届いた。新平は手紙をもらうとすぐに返事を書いた。次第に新平はひそかに彼女からの手紙を心待ちにするようになった。
 初めて届いた知子からの手紙には、長部君の卒論は西鶴なんでしょう? と書いてあった。長部君の西鶴好きは昨年からクラスでも有名だったのですよ、と新平がおどろくほどオーバーなことが書いてあった。よくきいてみると、三回生の夏、新平に、吉沢先生の研究室へ行きませんか? と誘ってくれた人たちのなかに、知子が親しくしていた人がいたのだそうだ。新平はその先輩たちと一緒に、紀要や文学雑誌に載っていた吉沢先生のほとんどの論文を、図書館でコピーした。それは吉沢先生の文章を読んでみたかっただけのことなのだが、結果的に良い勉強ができた。
 光村知子は、女性としてのよさを持っている人だった。気持ちの中で新平は彼女に魅かれていった。文面がやさしさに満ちあふれている。思いやりの深い人だ。単なる文通のように表面的には見えるものかもしれないが、新平は知子と多くのことを語り合った。卒論がうまく進まない、と知子が言うと、自分にしても全く同じことだと綴り、互いに励まし合った。愉快な高校時代のエピソードを語り合い、また冗談をとばし合ったりもした。彼女が京都に住んでいれば、と何度新平は思ったかしれない。彼女のことを考えると、心地よいときめきを覚えた。
 十二月のある日、知子からの手紙が届いていたので心を躍らせて読みすすめていくと、
「私、たぶん、いえ、きっと桜の咲く頃、お嫁に行きます」
 と、そんな言葉が飛び込んできた。
 新平は一瞬愕然とした。いつのまにか新平は彼女を大事に思うようになっていた。たとえいまはまだはっきりと恋愛感情を抱くに至っていなくても、いずれ彼女のことが忘れられない存在になる予感を新平は持っていた。彼女からの好意的な手紙の文面にうぬぼれていた。その後、知子から手紙が来なくなった。
 新平の卒論の草稿は、三回目でどうにか吉沢先生の清書許可をもらうことができた。
 先生の指導は細かい点まで行き届いていた。戻ってきた草稿には、沢山の朱が入っていた。それにともなって指摘文が書かれていた。吉沢先生が新平の目の前にいるわけではない。しかし、新平は先生に、ここはこうしたほうがいい、こういう文献を参考にするとよい、長部君、もっともっと深く考えなくてはだめだよ、などと言われている錯覚に陥った。
 純は二次試験にもパスした。希望通り、高校教師としての内定者になった。
「四月には、きっと高校の国語の先生になっているはずやぞ」
 純は大喜びで新平に電話で話した。
 節子も大学院に無事合格した。新平に電話で報せてくれたが、節子はずっと泣き通していた。四月からは、吉沢先生のもとで浮世草子の研究をする。
 新平は、立派な友人を持ったものだと思った。卒業試験を受けるには、卒論以外のすべての単位を取得していなければならない。二人のおかげでここまでやって来られた。つらくて投げ出しそうな時があっても、純と節子に会えば、自分で自分を粗末にしていることに気がついた。純と節子に出会えてよかった。新平はつくづくそう思うのだった。

 三月初旬、大学で卒論の口頭試問があった。卒業試験だ。国文学科の卒業予定者は二十四名。そのうち、新平が知っている人は、純と節子と光村知子の三名だけだった。
 控室では、自分の口頭試問の時間が来るまでじっと待つ。なんとなく緊張感のある控室だ。新平は、純と節子の二人と並んで椅子に座っている。知子にも会った。あいさつをしたが、特別話をすることはなかった。卒論のコピー本を読みながら、準備をする。
 新平は少し息苦しくなって、席を立ち、廊下に出た。深呼吸をした。
 新平の口頭試問が始まった。
 主査は吉沢先生。副査は近代文学の先生。
 新平は気持ちの中ではいつも、最高にいい卒論を書きたいと思って努力してきた。いや、そのつもりだった。しかし、結果的には平凡な研究に終わった。木山捷平のことを知らない人が新平の卒論を読むと、その作風のあらましが分かる程度の研究だ。
 試問場へ入ると、二人の先生の前に椅子がひとつある。その椅子に腰かけると、主に吉沢先生が質問してきた。先生は、三つ揃いの格好でいつもより貫禄があった。顔こそ違うが、『ラグタイム』のジェイムズ・キャグニーを思い出した。
 新平は、やや緊張しながらも、いつのまにか二人の先生と楽しく話していた。口頭試問であることを忘れてしまいそうになるほどだった。試問はちょうど三十分で終わった。
 吉沢先生は最後、新平にこう言った。
「内容的には小ぢんまりとした研究、という印象があるが、君は本当にこの木山捷平という作家に大きな魅力を感じとっているんだね。それがよく伝わってくる卒論だよ。研究はずっと続けるといいね」
 新平にとっては、最高に嬉しい言葉だった。
「ありがとうございました」
 深く礼をして、新平は試問場を出た。この洛北大学での思い出がくるくると回りはじめた。
 廊下を歩いていると、新平は光村知子にばったり会った。
「うまくいきましたか?」
 知子が話しかけてきた。
「ええ。精一杯やりました」
「私もいま終わりました。ずいぶん言葉につまっちゃいました」
 知子は屈託なく言った。
「ご結婚おめでとうございます」
 新平は気持ちを込めて言った。
 知子の顔が曇った。
「ごめんなさい。結婚の話、ダメになっちゃったの」
「え」
「ごめんなさい。言い出しづらくて、お手紙も書かなくて……」
 知子は涙声になった。
「申し訳ありません」
「いえ、そんな……。長部君は何も悪くはありません。ご連絡しなかった私が悪いんです」
 どんな事情が彼女にあったのだろう。それは何ひとつとして分かることではなかったが、新平は知子をみていると心が痛んだ。
「これから、もう横浜へ帰るんですか?」
「……はい」
「もしよかったら、僕たちと食事に行きませんか?」
「えっ」
「もしよかったら、いかがですか?」
「ありがとう。いいんですか?」
「いいですとも」
「私、長部君たちがずっと羨ましかった。いい仲間なんだなって」
「この大学の連中は、みんなナイスですよ」
 新平の言葉に、知子がほほえんだ。

 口頭試問も終わった。新平は少々気が抜けたような、それとはまた別に充実感を抱くような状態で帰宅した。新平宛の郵便物が届いていた。それは三カ月ほど前、新平が履歴書を送った映画会社からの封書だった。大学を卒業することが出来たら、東京へ行こうと新平は決めていた。東京で働いて、小説の勉強をしたいと思っていた。ものは試しで、東京の映画会社に履歴書を送った。映画への思いを文章にしたものも同封した。その返事が届いたのだった。書面には、
「欠員が若干ありますので、一度面接に来てください」
 という意味のことが書いてあった。
 新平は興奮した。映画の仕事ができる!
 面接日は卒業式の二日前だった。新平は東京へ行くことを決めた。それまでは漠然とした思いだったが、腹が決まった。
「新平ちゃん、東京へ行くんやね、やっぱり」
 電話で節子に報らせた。節子はさみしそうに言った。
「新平ちゃんは翼をもっている人だと思う。どこへ行っても立派にやる人だと思う」
「ありがとう。節ちゃんも大学院でがんばるんやで」
「うん。卒業式には帰って来るんでしょう?」
「ううん。東京へ行ったら、しばらくは帰らないつもりや。卒業式には出席せえへんことにした。決心がにぶるから」
「残念やね。純ちゃんに電話した?」
「これからかけるところなんや」
「純ちゃんもきっとさみしがるわ」
 節子がしんみりとした口調で言った。
 新平が東京へ行く前日、大学で卒業が決まった学生の氏名が掲示された。不合格の場合はそれまでに直接、電話連絡があるので、新平は、電話のベルがこわかった。国文学科は全員、卒業試験に合格した。
 その夜、三人は純のアパートに集まった。卒業が決まったことと、新平の送別会をかねて、乾杯をした。
 一回生の春、初めてここへ来たなあ、と新平は純の部屋を見回した。いまは四畳半にもきちんとカーテンがある。
「新平、住むところとかはどうするんや?」
 純が訊いた。
「友達の所に行くんやね」
 節子が新平に言った。
「うん。高校の時の友達のところへ行くことになっている。もう連絡はついているんや。俳優目指しているやつなんや」
「もし、映画会社が不採用やったら?」
 純が心配そうに言う。
「それも覚悟の上や。食べていくためやったら、仕事はいっぱいある。僕はどんな仕事でもやれる。それよりも何よりも、僕にとっては東京へ出て、小説書き続けることに意味があるんや」
「そうか。新平はええ男や。絶対小説家になるんやぞ。約束やぞ」
 純が涙ぐんだ。
「アホやね。泣き虫先生や」
 新平も胸をつまらせた。

 翌日の朝、新平はとなり町へ出かけるかのように、家族と別れ、家を出た。弟がバス停まで見送ってくれた。大きなバッグひとつだけの旅立ちだ。
 京都駅に着くと、節子が待っていた。新幹線のホーム下のコンコースだ。
「見送りはなし、と言うてたはずやで」
「うん。そやけど来てしもた」
 新平と節子は、傍のベンチに座った。
「さみしくなるね」
 節子がぽつりと言った。
「新平ちゃん、私のこと好き?」
「うん。好きや。節ちゃんはいい人や」
「そうやなくて、新平ちゃんが光村さんのこと見ているときみたいに、私も見てほしかった」
「光村さんは素敵な人やけど、僕とは何の関係もない。この間、みんなで食事しただけや」
「新平ちゃんが東京へ行く、と言ったとき、私、何か新平ちゃんが光村さんの所へ行ってしまうように思えたの。そしたら、新平ちゃんのことがすごく大事に思えてきたの。ずっと、ずっと京都にいてほしい。ずっと純ちゃんと新平ちゃんと一緒にいたい」
「節ちゃん、僕だって、節ちゃんのことが大切や。ずっと純と節ちゃんと一緒にいたい。でも、それぞれの決めた道を歩いていくしかない。僕は節ちゃんのことが好きや。でも節ちゃん、一緒に東京へ行かれへんやろ?」
「私、東京へ行きたい」
「あかん、あかん。大学院はどうすんのや。苦労して合格した大学院や。僕に力があったら、僕が行きたいぐらいや」
 節子はハンカチで涙をぬぐっている。
「私、そんなつもりで来たんやなかった。新平ちゃん、誰にも見送ってもらわへんて言ってたから、私だけでも見送ってあげようと思ったの」
「うん。ありがとう」
「ごめんね」
「謝ることなんか何もない。そうや、節ちゃん、いいものあげようか」
 新平はバッグの中から、吉沢先生の色紙を二枚取り出した。
「前に、純も節ちゃんも、この色紙欲しがってたやろ? 二人にあげたら、僕のがなくなるから、誰にもあげへんかったけど、節ちゃんに一枚あげることにする。また吉沢先生に教わることやし」
「いいの?」
「うん。どっちがいい?」
「毛筆のほう、と言いたいところやけど、こっちにする」
 節子はサインペンの色紙を選ぶ。
「吉沢先生の言葉には、ずっと励ましてもらっていた。いい先生に出会えた、いい大学時代やった。格好や形式にとらわれない、本質の見つめ方をいつもいつも気にかけていたような感じがしている」
 新平は色紙を眺めて言った。
「僕、もうホームへ行くわ。節ちゃん、見送りはここまででいい。何か辛くなるし」
 節子は黙って立った。
「そのオーバーコート、すごく似合ってるで」
 新平は、節子の着ている紺のオーバーコートを見て言った。
「うん。ありがとう」
 節子は涙ぐんでいる。
 ホームへのエスカレーターの前で新平と節子は別れた。
 上りのひかり号が到着し、新平は乗り込んだ。座席に着くと、ホームに目をやった。新平は窓際に座っていた。ホームにいた三人の家族連れらしき人たちが、新平の右どなりに座っている男に手を振っている。
 発車すると、車窓の景色を見た。京都の町がながれてゆく。
 新平は、ふと、節子が車内の通路をとおったような気がした。しかし、それは、ただ節子と同じような紺のオーバーコートを着た、小柄な大学生風の女の子がとおっただけのことだった。

(了)


 私淑の人(6)
後藤 雄二
2009年9月1日

 新平は書のことなど何も知らなかった。沢山の作品を説明してもらったが、新平は調和体の作品はどれを見ても気に入った。ふとその中に目を見張る作品があった。「吉沢一郎のうた」と題した調和体の書だ。先生の歌がこう書かれてあった。

  身に沁みて淋しと思ひ寝ねしかど
  風邪ひけるらし水洟やまず

「なんとなく、汚い歌でしょう?」
 女子学生はそう言ってニッコリした。
「この先生、知ってますよ」
 新平は嬉しくなってそう言った。
 その歌は、新平が読んだ吉沢先生の歌集の中にあった。先生の若い頃の歌だったように思う。案内役の女子学生は、その作品を書いた男子学生を呼んで、三人と話をさせてくれた。書道とは縁のなさそうな、ファッショナブルでひょうきんな彼は、自分の作品を新平たちに丁寧に説明してくれた。
 ひょんなことでよい時を持つことが出来た。通学生はみんな伸び伸びとして、明るく楽しそうだった。礼儀正しくて、また、通信生に対して嬉しいほどの理解があると感じられた。

 新平は卒論の題目を「木山捷平の研究」とした。吉沢先生は近世文学の教授だったが、希望する指導教授の欄に新平は「吉沢一郎先生」と書いて提出した。ダメでもともとだと思っていたら、二月のある日、吉沢先生が卒論の指導教授に決定した旨の通知が届いた。新平は最高に嬉しかった。
 純は西東三鬼を、節子は井原西鶴を卒論に決めた。二人も指導教授は吉沢先生だ。
「僕も吉沢先生を希望した。でも新平と同じようにダメでもともとやと思ってた」
「先生は芭蕉の本も出しているし、純のほうが可能性は高かった。僕は絶対近代文学の先生になると思って、ほとんどあきらめていた。でもよかったな。先生にあまり迷惑をかけんようにして、がんばっていこう」
 純と新平の電話のやりとりだ。
 三人が集まると卒論の話に花が咲いた。集まるのはほとんど純のアパートだったが、日曜日の午後はよく府立総合資料館へ出かけた。参考資料が新しく見つかると卒論のテーマも取捨選択できるようになっていった。節子はマイペースで調べていたが、新平はいつのまにか西東三鬼に関するものをさがしはじめていた。純が参考資料が少ないと言って、くたびれた顔をするからだ。
 三人でよく映画も観に行った。節子はマルチェロ・マストロヤンニが好きだと言った。
 新平はこつこつと小説を書き続けていた。文芸研究機関では原稿用紙三枚の作品からスタートして、ほぼ一年で三十枚の作品を書くことができるようになった。自分で勝手に書いていたものには百五十枚ほどの作品もあったが、あまりにもひとりよがりの作品ばかりだった。
 四回生になったある春の日、文芸研究機関から通知があり、まとまった作品が一つ出来たので機関内の雑誌に載せてもらえることになった。
「実は僕、小説を書いてるんや」
 純のアパートにいた三人は、春の睡魔に襲われそうになりながら、卒論の資料の整理をしていた。
 新平が小説を書いている、と言っても別段二人はおどろかなかった。
「新平ちゃんらしいことやわ」
 節子がほほえんだ。
「今度、生まれて初めて作品が活字になるんや」
「すごいやん、新平」
 純がやっと真剣に新平の話を聞いてくれた。
「うん。短い小説で、そんなに面白くはないと思うんやけども」
「謙遜せんでもええのよ。自分で面白くないの書く人なんていないもの」
 節子が言った。
「新平の夢は小説家さんか……」
「うん。果てしない夢や」
「僕は大学卒業したら、高校の教師になる。絶対なる」
 純が力強く言った。
「私は」
 節子が言いかけて止めた。
「節ちゃんは?」
 新平が言った。
「私は、洛北大学の大学院に進みたいの」
 節子は、きれいな目をして言った。

 六月の教育実習が済み、夏が来ると、四回生の夏期スクーリングが始まった。教育実習には、三人それぞれ母校の高校へ行った。新平と節子は教師になろうとは考えていないが、教職科目も勉強しておきたかった。純は七月の京都府教員採用試験を受験して、スクーリングに参加した。
 初日の一講目は、吉沢先生の講義だった。先生に会うのは三人とも久しぶりだ。
「お早うございます」
 席に着いた三人にあいさつをしたのは一人の女子学生だった。彼女は、昨年の秋、大学祭で新平と純と節子に声をかけた、あの女子学生だ。
「お早うございます」
 三人がそろって言うと、彼女は微笑んだ。同じクラスの通信生だったのだ。新平は時々彼女のことを思い出していた。どこかで会っているような気もするのだが、記憶がなかった。
 その女子学生は光村知子という名前だ。特に目立つ存在ではない。目の大きな肌の白い女性である。
 吉沢先生の授業は、『西鶴文反古』から五作品。『万の文反古』のことだ。手紙文はなかなか面白い。手紙文のなかに、どのような人間の心が描かれているかを探るのがこの講義の目的である。
 昼休み、三講目の授業開始のベルが鳴る二十分前に、新平と純と節子は、吉沢先生の研究室へ行った。が、他の国文の学生が先に卒論の指導を受けていた。先生は三人に会釈をした。三人もぺこりと頭を下げた。
「ん? 何かね」
「あの、卒論のことで……」
 純が言った。
「そう。今日は忙しいから、明日来てくれるかね? 昼休みでも放課後でもどちらでもいいよ」
「はい、分かりました」
 新平が言った。
 教室へ向かった。純と節子は卒論の草稿をすでに提出していた。しかし新平はこのスクーリングまでに思うようにまとまらず、まだ提出できていない。平均的に、三、四回の草稿提出のあと、清書が許可される。新平は行き詰まっていた。
 翌日の昼休み、昼食を済ませると、三人は資料のファイルをかかえて、吉沢先生の研究室へ向かった。
 吉沢先生は机で書きものをしていた。新平と純と節子を見て、
「君たちは仲良しだねえ」
 と笑った。
 純と節子に較べると、新平のレベルは低かった。しかし先生は新平の指導にいちばん時間をかけてくれた。
 年表を作って、作家のことをよく知ること。作品そのものにおける転機を見つめること。それは性格的につかむことができればそれにこしたことはない。作家の言動として、一生を通じて変わった面、変わらない面について目を向けること。解説書を鵜呑みにしないで、その論じている内容が、妥当であるかどうかについても冷静に取り組むこと、などといった卒論を書くにあたっての姿勢について、新平は先生に指導してもらった。
「肩の力を抜いて、ゆったりやっていきなさい。気負ったところでいいものは書けないよ」
 吉沢先生は最後にそう励ましてくれた。
「面白い小説やなあ、だけでは済まされへんのやなあ」
 先生の研究室をあとにして、新平が苦笑した。純と節子が笑った。
「がんばろ、新平ちゃん」
 節子が新平の顔をのぞきこんだ。

 この夏のスクーリングは、昨年ほどの新鮮さが新平には感じられなかった。もしかしたら、新平は酸いも甘いも知りつくしているような顔をしているのかもしれない。
 三人は、国文コンパを主催しているグループに、協力してくれませんか、と頼まれた。そのあたりからスクーリングが面白くなってきた。グループには光村知子もいた。
 国文コンパは後半の授業に入った五日目に催された。授業終了後、昨年同様、学食を会場としてはじまった。この日の授業は四講目までだった。
 新平と純と節子は、ゲームを担当してほしいと言われた。テーブルでできるゲーム。マッチを並べたり、硬貨を使用したりするクイズ。前日は、純のアパートで特訓をしていた。三人は、あちこちのテーブルを走り回った。どっと歓声がわくと、新平は嬉しくてたまらなくなった。
 吉沢先生とはゆっくり話すことなどできなかったが、先生は目を細めておいしそうにビールを飲んでいた。三回生の学生たちが先生を囲んで楽しそうにしていた。
 国文コンパが終了すると、時計は午後七時少し前だった。四条まで出て二次会としよう、との声があがり、みんなで出かけた。人数はコンパの三分の一ほどに減っていた。四条の東華菜館へ行く。二次会の会場は店内ではなく、京の夏の風物詩、鴨川の床だ。夜空の天井を仰ぎながら涼をとるのだ。
 新平たちのついたテーブルには光村知子も来た。新平が吉沢先生は? と思ったとき、先生がひょこっと新平たちのテーブルに来た。新平のとなりに節子と純。節子の前に知子、そして新平の前に吉沢先生というテーブルになった。あと三人、同じ四回生がいる。ビールも料理も旨い。
 知子とは時々目が合った。新平は素敵な子だな、と思った。言葉が標準語だと思っていたら、横浜から来たと知子は言った。
 関東にもいくつかの通信制大学があるのに、どうして京都の大学を選んだのかを訊くと、
「京都が大好きだから」
 と知子は微笑んだ。
 知子は新平たちと同い年だった。
 吉沢先生は愉快な話を沢山してくれた。
 『万の文反古』に「京にも思ふやう成事なし」という手紙文があったが、それは、仙台生まれの男が女房を置き去りにして京都へのぼり、十七年間に二十三回も結婚し、身代をつぶしてしまう話である。
「夕暮れになると、ふと女房のことを恋しくなったりするものだが、あの男はそうは思わなかったのかなあ」
 そう言って先生は笑った。
「先生の奥様ってどんな方ですか?」
 吉沢先生のとなりに座っている知子が訊く。
 先生は自分の奥さんの話をした。奥さんが信用金庫から粗品として風鈴をもらってきた。いい音のする風鈴だから、それはそれでよいのだが、
「信用金庫の宣伝屋になったような気がして、外しておくように言ったんだよ。あまりぶらさげておくものではないね」
 先生は顔をほころばせる。
「家内は絵を描くんだよ」
「画家さんですか?」
 節子が言う。
「一応そういうことになってはいるがね」
 先生はビールを飲みながら、目を細めた。
 新平は吉沢先生の歌集にあった、奥さんのことを詠んだ短歌を思い出した。

  わが側に花瓶の花を素描する
  妻を時々偸み見て読む

 「家内は私のことを若い若いと言うんだ。だからどこへ行っても年齢は白状しないように、と言われているんだよ」
 テーブルは大爆笑。
「でも先生は本当にお若いですよ」
 知子が言った。
「どうもありがとう」
 先生は最敬礼するように言った。
「光村さん、去年、大学祭に来てましたよね。そのために横浜から?」
 節子が訊いた。
「洛北大学の大学祭を一度見てみたかったの。京都には親戚がいるんです。私、度々、京都へ来ているんです」
「僕は横浜へ行ってみたいな」
 純が言った。
 新平は、いい大学時代を送ることができていると思った。友人にも先生にもめぐまれている。ビールのせいもあるが、新平はすっかり気分がよくなっている。夜空の天井を見上げた。涼しい風がわたった。思わず脚を伸ばしてみたくなることが度々あった。吉沢先生に当たってはいけないと思って、新平は何度となく、知子の足に自分の足をぶつけた。その度に彼女にあやまった。知子は、
「いいんですよ」
 と、その度に微笑んだ。

 四回生の夏のスクーリングが終わると、新平はとにかく卒論の草稿を書きはじめた。純は教員採用試験の一次にパスした。その通知が届いた日に、新平の小説が載っている文芸研究機関内発行の雑誌が送られてきた。新平は二十冊注文した。節子は、二月の大学院入試の受験勉強に励んでいた。
 ある日曜日。新平は大学の事務局に用があり、バイクに乗ってでかけた。その用事が済むと、大学から北山通りをバイクで走り、資料館へ向かった。資料館で草稿を書くのだ。
 新平はふと、冒険心がさわいだ。北山大宮あたりで、
(吉沢先生のお宅をさがしてみよう)
 と思ったのだった。
 新平は、吉沢先生の住所を覚えていて、大体先生がこのあたりに住んでいるのを知っていた。バイクを停めて歩きはじめる。
 歩いていると、小さな書店があった。そこで毎月買っている雑誌を一冊買う。その書店の北の方向を歩き、いいかげんに次の筋を右に曲がった。一軒一軒の表札を見ていると、「吉沢一郎」と書かれた先生の家が見つかった。かんたんに見つかったので、驚いたあと、拍子抜けしてしまった。そして新平はそのまま何事もなかったように、東へ向かって歩いた。家の前でじっとしていたりしたら、不審に思われるからだ。

〜7(最終回)に続く〜


 私淑の人(5)
後藤 雄二
2009年8月8日

 吉沢先生とは一時間も話した。
 その後、新平は祇園会館へ行き、映画を三本観た。上映の休憩の時、吉沢先生の色紙を取り出して何度となく眺めた。映画を観終えて外へ出ると、小雨が降っていた。新平は、先生の色紙が濡れると困るので、バッグを左腕でかばいながらバイクをゆっくり走らせ、家へ帰った。
 新平は、吉沢先生にお礼の手紙を書いた。先生に手紙を書きたいと思っていたが、かえって迷惑ではないかと思っていた。だが、先生から色紙をもらって帰る途中、大学の掲示板を見て気持ちが変わった。「通信生の心得」のなかに「先生方の研究室へは積極的に足を運び交流を深めて下さい。ただし、礼儀を失することのないように」とあった。新平はそれを見たとたん、手紙を書こうと思った。
 手紙は大学の庶務係宛に送った。その五日後に、早速吉沢先生からハガキが届いた。新平にとってはその先生からの返事のハガキも宝のひとつになった。二枚の色紙は額に入れて、部屋にかけてある。先輩に聞いたことだが、吉沢先生は大正六年生まれの六十五歳なのだそうだ。そのわりに先生は若い、と新平は思った。

 秋になった。この秋には洛北大学の公開講座がある。今回は講師六人のうち四人が国文学科の先生だ。吉沢先生もそのひとりだ。
 新平と純と節子はその講座に参加することにした。この講座は土曜日の午後二時からである。
 六回の講座の第二回目が吉沢先生だった。「人ごころの文学」という題で西鶴の作品について先生は話した。まったく飾りのない先生だ。先生を見ていると、なぜだか心地よかった。学問を通じて人格を磨くという意味が、先生を見ていると具体的に分かるような気がした。おだやかではあるが、厳しさが見え隠れする先生だ。誠実な印象のあるユーモアも無条件に嬉しかった。
 先生の講座終了後、三人で先生の研究室へ行こうとしたが、
「新平は行ったことあるからええけど……」
「私なんか行っていいものかしら」
「何となく気むずかしそうな先生やんか」
「行きたい気も私はするんやけど……」
 純と節子が言う。
「気むずかしいなんてとんでもない。あんな話し易い先生いいひんで。話も面白いで」
「いい先生は分かっているんやけど、なんか緊張するわァ」
 純がそう言って、結局行かなかった。二人につられて、新平も気後れしてしまった。行ったところで、また気の利いたことが言えなくて小さくなってしまうかもしれない。
「通学生になりたいなあ」
 新平がつぶやいた。毎日吉沢先生に接して、沢山のこと学びたいなあ、と続けた。
「悪かった。僕のせいや」
 純が申し訳なさそうに言う。三人は千本北大路のバス停にいる。
「ちがう、ちがう。純のせいとちがう。僕も行ったところで感想なんか訊かれたら、どぎまぎしてしまう」
「でもいい講義されてたね」
 節子がテキストをぱらっとめくって言った。
「私、卒論は西鶴に決めたの」
「そう。節ちゃんならいいの書けるよ」
 新平がズボンのポケットに両手をつっこんで言う。バッグはベンチの上に置いている。
「純ちゃんは卒論何にするの?」
 節子が純を見上げて言った。
「西東三鬼にしようかな、と思てる」
「どういう作家?」
 全く知らない、という顔で新平が言う。
「俳人でしょう?」
 節子が言った。
「うん。僕は神戸出身やし、何か魅かれるもんがあるのや」
「神戸の人か? 西東三鬼って」
「ううん、ちがう。でも神戸にかかわりのある人や。自伝を読んで感動した。俳句のことはまだよう知らんけど、研究したいと思ってるんや」
「僕は西鶴はあきらめた。今日の講義でも思ったけど、何を研究したらいいのかが全く見えてこない。勉強が足らん証拠や」
「私だって何も分からへんわ。新平ちゃんがそんなこと言うたら心細くなる。決心がゆらいでしまう」
「節ちゃんなら大丈夫や。絶対大丈夫や。なあ、純、そやろ」
「うん。節ちゃんは新平を気にせんと西鶴やるべきや。新平には木山捷平が合うてる」
「木山捷平にするの?」
「うん。そうなると思う」
 まだ話し足りない三人は、あぶり餅を食べに行くことにした。この紫野の町には、今宮神社があり、その東門前には、有名な二軒のあぶり餅屋「一和」と「かざりや」がある。三人はよく「かざりや」へ行った。

 五回目の講座は和歌文学の先生の講義だった。新平と純と節子は、毎回出席している。
 講座が終了し、会場がざわめきはじめると、新平は大きなあくびをして、テキストを閉じた。
 席を立って三人で出口へ向かおうとした時、吉沢先生の姿が新平の目の中に飛び込んできた。出口の近くに先生は立っている。
 先生は三人のほうを見て、ニコニコしている。新平と純と節子は三人そろって先生のそばへ行って深くおじぎをした。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは」
 先生は、はにかむように、そしてあたたかい口調で答えた。
「先生の歌集、読ませていただきました」
 新平は、先生の短歌に触れたくて、歌集を書店に頼み、取り寄せてもらった。
「そう。どこで借りた?」
「本屋で手に入れました」
「そう。あれはもう売っていないはずなんだがなあ」
 先生は不思議そうな顔をした。
「君たちも国文かね?」
 吉沢先生は純と節子に訊いた。
「はい」
 二人は答えた。
「名前は何というのかね?」
「関谷純です」
「西山節子です」
「そう。君は長部君だったね」
 先生は新平を見て言った。
「はい」
「先生も今日の講座にご出席なさっていたのですか?」
 純がぎこちない口調で訊いた。
「ああ、そうだよ。興味深いお話だったね」
 新平と純と節子は、吉沢先生と一緒に歩いた。会場のあった五階から、階段の道を先生と話しながら歩いた。一階まで歩き、先生が研究室へ戻る方向へ来たとき、吉沢先生は立ち止まった。にこやかな顔で言った。
「もう帰るのかい? よかったら来なさい。ココアでも入れてあげるよ」
 三人で顔を見合わせてから、
「おじゃまさせていただきます」
 と新平が言った。
 ゆったりとした感じで歩く先生のあとを三人はついて行った。
 吉沢先生は通信生の新平たちを大事に思ってくれた。もとより、先生にとっては、通信生も通学生も洛北大学の学生にはかわりはないのかもしれない。新平は一生懸命勉強しようとさらに思った。吉沢先生に会うたびに勇気がわいてくる。意欲があふれてくる。

 十一月の大学祭に新平と純と節子は初めて出かけた。吉沢先生の研究室でココアをごちそうになったとき、先生は新平に大学祭のパンフレットをくれた。三人でそのパンフレットを見ていた。模擬店の案内のページの「国文学科有志」とあるところには、赤のボールペンでしるしがつけてあった。吉沢先生がしるしたのだろう。いい先生なんだな、と新平は思った。
 グラウンドでニューミュージックの女性シンガーのコンサートがあった。焼きそばとジュースを持ちながら、新平と純と節子はグラウンドへやって来た。知っている人には全く会わない。会ったのは弟だけだ。新平は冷静になって考えてみた。大学で弟に会ったのは初めてだということに気がついた。
「こんにちは」
 突然、三人は声をかけられた。全然知らない女子学生だ。その女子学生は一礼すると、三人の前を通り過ぎて行った。
「だれや」
 純が言った。
「知らんなあ」
 新平も不思議な感じの口調だった。
「きれいな人やったよ」
 節子が二人を責めるように言う。
「新平のほうを見てたで」
「ちがう。純のほうを見てたんや」
 実際、新平も純も節子も知らない女子学生だった。目の大きな、明るい感じの女子学生だった。
 コンサートが終わると、三人はいくつかの展示を見に行った。書道部の展示が愉快だった。会場に入ると、一人の女子学生がひとつひとつの作品を説明しながら案内してくれた。書道部は国文学科の学生ばかりではなかったが、その女子学生は国文の学生だった。新平たちが国文の通信生だというと、教授たちのこと、授業のことなどをざっくばらんに話してくれた。

〜6に続く〜


 私淑の人(4)
後藤 雄二
2009年7月11日

 新平たちは、ダンスが上手くて首にレイをかけられたわけでは決してなかった。赤ん坊を抱いたこの一回生の女性のことがほほえましくて、新平たちにレイをかけてくれたのだろう。 
 ディスコ大会がおわると、新平は純と節子のところへ行った。 
「面白かったよ」
 節子が笑って言った。
「賞品は何や?」
 純が、新平がステージでもらった小さな箱を指さした。
「あけてみるか?」
 純に手渡すと、彼はその箱の包みを外し、中のものを取り出した。アラーム付きのデジタル時計が入っていた。長方形のうすい、小さな時計だった。純があれこれいじくっていると、ピピピピ、ピピピピ、……と鳴りはじめた。
「いい音やね」
 節子が言った。
 新平は嬉しかった。仲間が沢山いて、その中にいる自分が嬉しかった。大学が自分をすっぽり包んでくれているような気分だった。

 後半の講義と試験が済むとスクーリングはおわった。学生たちはそれぞれの職場に戻る。
 何日かして、新平は大学へ行った。専門科目のスクーリングは終了したが、大学はまだスクーリングの真っ最中だ。このスクーリングで新平は初めて大学の図書館を利用した。ある時、木山捷平の小説がないか、と調べていたら、全八巻の全集が書庫にあった。
 新平は、木山捷平個人の全集では全二巻のものしか手にしたことがなかった。他にいくつかの作品集数冊を知っているだけだった。市内どこの図書館へ行っても、その全八巻の全集は見当たらなかった。
(灯台下暗し……か)
 すぐに大学にあたるべきだった。何しろ大学へ行くのは日曜日がほとんどだったので、図書館に入ったことがなかった。日曜日や祝日は分室しか開いていないのだ。
 大した用もないのに大学へ来たのは、いい夏を過ごせたから、何となく、大学の空気を吸いたくなったのだ。
(吉沢先生の研究室へ行ってみようか……)
 突然、こんな考えが浮かんだ。そう思い始めると、身体が緊張してきた。何を話したらいいのだろう。
 新平は、いつの日からか、先生の言葉を色紙に書いてもらいたいと思うようになっていた。バッグの中には、二回生の冬に読んだ機関誌がいつも入っていた。
 購買部で色紙とサインペンを買って、新平は途中で何度かためらいながらも、研究室の前までやって来た。
 吉沢先生の研究室は先生が在室の時はいつもドアが開いたままになっている、と先輩の誰かが言っていた。そのとおり、ドアは開いていた。入って二、三歩の正面に書棚がある。室の中は見えない。少し右へ歩いてやっと室の中が見えるのだった。
 新平は書棚の前で、
「失礼します」
 と言った。わりと大きな声で言った。
「はい。どうぞ」
 すぐに吉沢先生の声が返ってくる。
 新平はそのまま右へ歩いた。小さな台の上に、三十周年のパーティーで学生たちが胸につけていたバッジが置いてある。
 先生の姿が見えた。安心と緊張がからみあった。安心したのは、先生が新平を見て、おだやかな顔をしたからだった。
「何か?」
 応接のソファーに座り、本を読んでいた先生は、入ってきた新平にそう言った。
「あの、先生に色紙を書いていただきたくて来たのですが……」
 恐縮して新平は言った。先生のそばへ行き、色紙とサインペンを差し出した。先生は、ほっ、ほっ、とふたつ笑って、手に取ってくれた。
「こんなもの書いたことないよ」
 先生は言いながら、二枚の真っ白な色紙を眺めている。
 新平の中に安堵が宿った。正直言って、先生に断られてすごすごと帰ることになるのではないか、という気にもなっていた。
「何を書こうか」
 先生がぽつりと言った。
「あの、これに載っている先生のお言葉をお願いしたいのですが」
 新平は例の機関誌を差し出した。
「ああ、これ」
 先生は笑った。
「しかし、ペンよりも毛筆のほうがいいんじゃないか。いや待てよ、ペンのほうが楽でいいな」
 新平はそれを聞いて、安易にサインペンを持ってきたのを恥じた。
「書くのは夕暮れの涼しい頃がいいね」
「はい。先生のご都合のよい時で構いません」
「君は何という名前かね?」
「長部新平です」
 先生はソファーから立って、紙とボールペンを取りに行った。新平はそれを受け取ると、名前と電話番号を書くように先生に言われた。
「明日、ここへ来られるかね?」
「はい」
「そう。書けたら、連絡するよ」
 新平は、しばらく吉沢先生と話していた。次第に気持ちが和んでいくのだった。

 アルバイトはたまたま二日間休みだった。翌日、新平はやけに早起きだった
吉沢先生からの電話を心待ちにしていた。
 十一時半ごろ、先生から電話があった。新平が出ると、先生は、
「うまく書けなかったけれど」
 と言った。
 午後、新平はバイクに乗り、躍るような気持ちで吉沢先生の研究室へ行った。
やはり、研究室のドアは開いていた。
「失礼します」
「ああ、どうぞ」
 先生の声が聞こえて、新平は室の中に入った。先生は机に向っていた。新平の顔を見ると、
「うまく書けなかったけれど」
 と先生は、はにかむように電話と同じことを言った。その言い方が先生らしくて、新平はいいな、と思った。先生のそばへ行き、二枚の色紙とサインペンを受け取る。新平がなぜ色紙を二枚持って研究室へ来たかを言うと、それはただ先生が書き損じた時のことを考えただけのことだった。新平は先生の前で、二枚の色紙を見た。一枚はサインペンで書いてあったが、もう一枚は毛筆で書いてあった。その言葉はこうだ。

  人物であれ作物であれ、
  それがほんものだと思ったら、
  進んでそのほんものに接し、
  ぶつかることだ。
  それが自分の人生をほんものにする。

 新平の心の中にすでに刻みこまれている先生の言葉だ。最後に先生の名前が書いてある。その色紙を見て、新平の身体の中は感激でひどくつっぱったような状態になった。
「ありがとうございました」
 新平が深く礼をすると、先生はソファーをすすめてくれた。
「色紙が二枚あったので、二枚とも同じ言葉を書いたけどよかったのかな?」
「はい。毛筆はやはりいいものですね」
「そのサインペン、細くて書きにくいよ」
 先生は机に向かったまま、笑った。先生の顔は健康的でつやつやしていた。少々太っている先生はふくよかな印象がある。クーラーのない研究室だったが、窓からさわやかな風が時々ながれてきた。この研究室は二階にある。
 新平は、応接のソファーに座りながら、やや右ななめを向いて、机に向かっている先生と対面し、話し始めた。
「でもそんなもの一体どうするのだね?」
「一生の宝にします」
 先生は大笑いした。
「でも先生の色紙をもっていることを友人たちに言ったら、みんな欲しがると思います。特に先輩たちが大変だと思います」
「どうして?」
「先生にはファンがいます」
「ファン!?」
先生はおどろいて、また笑った。
「ぼくのどこがいいのかねえ」
 面と向かっては言いにくい。
「先生の講義は本当によかったです。他にもいい先生はいらっしゃいますが、僕は先生の講義が一番面白かったです。僕は何よりも先生のお人柄が好きなんです」
 言いながら少々照れてしまう。
「どうもありがとう。通信生はみな純粋だね。今年も大勢よくここへ来てくれて、とても愉快だったよ」
 先生の座っている左側には洗面所がある。蛇口は先生の手の届くところにある。先生は時々左手で蛇口をひねって、ジャージャー水を出しながら新平と話した。
 吉沢先生は、文学を研究するには、作品の読み方を学ぶことがまず大切だと言った。新平にはその「学ぶ」というのが抽象的でよく分からなかった。それを問うと、先生は、音楽・演劇・絵画・映画などの芸術にふだんから触れ、精神の滋養につとめることもひとつ大切なことだろうと言った。学生が読書をするのは当たり前のことで、時々いる、趣味が読書だという学生には閉口する、とも先生は言った。新平は、自分は今まで読書が趣味だと言ったことがなかっただろうかと思い返した。
 新平は映画を観ることが最高に好きだった。名画座に通い続けて年に百本ぐらいは観ている。好きな映画館は祇園会館と京一会館。小説を書き始めてから、映画をよく観るようになった。文芸研究機関に加わってからはより一層、様々な感覚が文章に現われてくるのを実感した。それにもれず卒論もあるのだろう。木山捷平にしても西鶴にしても、その真実の人となりをつかむためには、こちら側に物事を見る力と感覚がなくては当然だめだろう。

〜5に続く〜


 私淑の人(3)
後藤 雄二
2009年6月9日

 新平は、講義をする先生をみていて、先生は西鶴のことが好きで好きでたまらないんだな、とつくづく思った。そして先生のことがとても羨ましくなった。西鶴のことをあれほど情熱をこめて語れるなんて、と思った。
 先生にとっては西鶴あっての人生なのかもしれない。
 はじめての吉沢先生の授業が終わったとき、新平は節子と純をとなりにしながら、
「やっぱりいい先生やなあ」
 と思わず声に出して言ってしまった。そのとき、
「君もそう思われますか!」
 と共鳴した学生が何人か新平のそばにきた。吉沢先生は結構人気があるようだ。
「私も吉沢先生のファンになった」
 節子が新平の顔をのぞくようにして言った。
 通信生独特のものかもしれないが、日頃容易に会うことのできない教授たちにファンクラブのようなものがあったのは事実だった。
「これから吉沢先生の研究室へ行くのですが、よろしければ君もどうですか?」
 新平のそばに寄ってきた学生は、男三人女二人のグループだ。新平はその誘いに瞬間行ってみようかと思い、節子の顔を見たが、結局気後れして、笑いながら、
「またにします」
 と断った。

 前半の講義と試験が済み、スクーリングに慣れてきた土曜日のことであった。授業は午前中でおわった。午後からは四回生の代表が卒論の研究発表をする会が催された。国語学、上代、近代の三人の四回生が研究の成果を披露した。
 新平はそれとなしに木山捷平を卒論にしようと思っているが、吉沢先生の講義を聴いて、絶対西鶴だ、という気持ちにもなっていた。しかし、まだ何も分からない。それゆえに、四回生の研究はかなりの力の入れ様だと新平は思ったが、指導の先生は、それぞれ酷評をした。
 新平は教室中央の最後部の座席についていた。机の左端に座り、右どなりには節子と純が座っていた。
 しばらくすると、新平のとなりに誰かが座った。通路をはさんだとなりにである。チラッと見ると、それは吉沢先生だった。先生が指導している学生は発表しなかったから、ゆっくり途中から来たのだろう。
 新平は緊張し始めた。何か話そうか。そう思ったが何も話すことがない。新平の目は前方かそれよりも右へしか向けられなくなった。時々、脚を組んでいる先生の左足が新平の視界に入ってきた。靴をぬいだくつ下の足だった。
「新平、吉沢先生や」
 純が小声で言った。
「うん。そやね」
 純のほうを向いて新平は言った。
 純と新平の間に座っている節子は何だか小さく見える。
「私、卒論、井原西鶴にしようと思ってるの」
 節子がポツリと言った。
「そう。そしたら吉沢先生にみてもらえるね」
 新平が小声で言った。
「うん。新平ちゃんは?」
「まだ分からへん」
「木山捷平やろ?」
 純が言った。
「まだ分からへん。西鶴も面白そうやし」
「二人とも西鶴か」
 純がそう言ったとき、吉沢先生がふっとこちらに向いたのが分かった。三人はそろって小さくなって、研究発表のつづきを聴いた。最後部の座席に吉沢先生と四人でならびながら。
 発表会がおわると、学内食堂の一角をかりて、コンパがあった。四回生たちは「国文コンパ」と言って参加を勧めていた。
 テーブルにつくと、男子学生が少ないので、新平と純はやたらビールを飲まされた。節子はとなりに座っていた七十歳ぐらいのおばあさんと仲良くなっていた。おばあさんの皿に料理をとってあげている。
 学生たちは、みんな明るく活気があった。ひと夏の思い出を大切に作っている。ゲームをやっているテーブル。討論会のようなテーブル。笑い声の絶えないテーブル。みんな通信制の仲間だ。
 新平は瓶ビールを手に持って、そんなみんなに注ぎにまわった。吉沢先生のいるテーブルにもまわった。
「先生、一杯いかがですか?」
 新平が瓶ビールをかたむけると、先生は、
「もうたくさん飲んだよ」
 と言ったが、快くコップを持った。
 新平はその時、初めて吉沢先生と言葉を交わしたのだった。

 新平と純と節子の三人が夏期スクーリングに参加した年は、洛北大学に通信制がおかれて三十周年の節目であった。
 国文コンパがあった日の翌日の日曜日は、三十周年を記念する様々な催しがあった。講演会、写真展、パーティー、……。大学は学園祭のようでもあった。
 大講堂を会場としたパーティーでは立食でビールを飲んだ。三人で出席すると、胸に三十周年記念のバッジをつけられた。かくし芸ありカラオケあり。やはりふつうの大学とはちょっとちがう。慰安旅行にでもやってきた気分だ。
 ビールを飲みながら楽しんでいた新平は、出入口の扉があいて、吉沢先生が入ってきたところを見た。先生は会場を見回して、立っていた。
「吉沢先生や」
 新平が言うと、純も節子も先生に気づいた。
「行こう」
 三人で先生のそばにかけよった。純は手にフライドチキンを持っている。
「こんにちは!」
 三人そろって言った。
「ああ」
 先生は少しおどろきながら、三人を見た。
「僕たちは国文の学生です」
 新平が緊張した面持ちで言った。
「ああ。そうかね」
「先生、ビール、持ってきましょうか」
 新平が言った。
「ああ、あるかな」
 新平はすばやくテーブルへ走った。派遣のホテルのボーイに、紙コップのビールをもらい、すぐさま先生のところへ戻った。
「どうぞ」
「ああ、どうもありがとう」
 三人は何を話してよいか分からず、少々うろたえてしまった。吉沢先生はおいしそうにビールを飲む。
「先生はS先生に歌をお教わりになられたんですね」
 文学史に名を残す、誰もが知っている有名な歌人のことだ。S先生の「先生」の部分が気恥ずかしかったが呼び捨てにはできなかった。
「ああ、あれ読んだ?」
 先生は新平の言ったことに、にこっとしながらビールを飲んだ。
「僕は二回生のときから、先生の講義を楽しみにしていました」
 新平は照れたように言った。
「そう。それで実際にどうだった?」
「とてもよかったです」
「私も感激しました」
 節子が明るい口調で言った。
「そう。それはよかった」
 新平は自分がもどかしくてならなかった。もっと気の利いたことが言えないのか。
 吉沢先生と話をしたのはそれだけのことだった。
 ディスコ大会がはじまった。
 まさか大学でディスコが踊れるなんて、思ってもみなかった。どこからか軽音楽のバンドもやって来た。
 新平は踊りまくった。自分はこの洛北大学の学生なんだと思うと、すごく嬉しかった。踊っていると、色んな人が新平の前にきて踊った。節子と純はどこへいった? さがしながら、自分の前に来る人来る人に、新平は笑顔を見せた。最後、新平の前にきたのは赤ん坊を抱いた女性だった。踊っていると、新平とその女性は突然ピンク色のレイを首にかけられた。
「どうぞステージへ」
 レイをかけたのはディスコ大会の進行係の男だった。言われるままにステージに上がる。また踊りはじめる。何組かの男女が同じように首にレイをかけられて、同じように上がってきた。どうやら踊りの上手い人が選ばれているようだ。
「いくつですか?」
「は?」
「年はいくつ?」
 赤ん坊を抱いた彼女が声を大きくして新平に訊いた。彼女は赤ん坊をあやしているのか、ダンスに夢中になっているのか分からない風だった。もしかしたら、その両方かもしれない。
「二十一歳」
「へえ、私と同い年ですね」
「もうすぐ二十二になるけど」
「へえ、そしたら一つ年上ですね」
 彼女は、赤ん坊を抱いているせいか、新平には年上に見えた。しかしよく見るとまだなんとなくあどけなさが残っている。かなりハードな音楽で踊っていたが、赤ん坊はスヤスヤ眠っていた。
「一回生ですか?」
 彼女は新平に訊いた。
「ううん。三回生です」
「私は一回生です」
 音楽が止まった。ステージに上がっている何組かの男女はひと組ずつ司会者に質問された。
「赤ちゃんのお父さんですか?」
「いえ、そんなこと、とんでもないです」
 新平の答えに、会場がどっとわいた。純と節子が大笑いをしているのが見える。  

〜4に続く〜


 私淑の人(2)
後藤 雄二
2009年5月15日

 二回生の後期日曜スクーリングは、英語二科目とフランス語二科目の計四科目だった。純と節子は、四科目ともストレートに合格した。しかし、新平は英語一科目しか合格できず、残りの三科目は再試を受けて何とか単位をとることができた。
 洛北大学での勉強は、通信制だからほとんどがレポート作成の学習だ。これが大変でいつのまにか退学する人が多くいる。自然消滅のように大学に籍がなくなってしまう。
 新平は入学した当初、システムがよく分からないで、やっかいな大学に入学してしまったと思うことがあった。しかし純と節子に知り合うことができて、要領がつかめるようになった。純と節子は二人とも勉強家だった。いつしかこの三人は絶対四年間で卒業しようと励まし合える三人になっていった。理解しにくい科目は三人で学び合った。時おりそれは討論会のようになった。新平にとって純と節子はつねに尊敬できる学友だった。
 新平は三回生になると、東京のある文芸研究機関に籍を置くことになった。高校生の頃から文章を書くことが好きだった新平は、卒業後ひそかに小説を書き始めた。本格的に学びたいという気持ちが徐々にふくれあがり、作品を提出する研究生になったのだ。 
「新平はいい文章を書くなあ」
 時々純がほめてくれた。これは担当の教員からレポートが返ってきて、新平の点がよいことが多くあったからだ。三人は学習について話し合うことはよくあったが、安直に他人のレポートを写して提出するようなことは決してなかった。
「内容的にはほぼ同じことが書いてあるんやけどな」
 純が頭をかきながら言う。新平がAをもらっても純や節子はBやCということはよくあった。新平もそんな中でレポートを書くのが楽しくなっていった。
学習の仕方が身についてくると洛北大学の価値が見えてきた。
 レポートを提出するとその科目の試験を受けて単位を取る。不合格になると、合格するまで何度でも受験することになる。新平はよく失敗した。大学だな、と思った。新平は人が一度でパスするような科目でさえ、二度三度と受験していた。
 三回生になると、一浪していた新平の弟が洛北大学の通学制に入学してきた。弟の専攻は社会学だったが、弟が大学に入ったことによって、新平のささやかな大学時代に彩りがそえられるようになった。大学での様々な情報が豊富になったからだ。弟は新平の先輩のような存在になった。

 三回生のスクーリングは夏期を選んだ。それは昨年の夏期スクーリングに一日だけ参加した新平がそのときに決めていたことであった。二回生のための卒論指導会が一日だけあったのだ。純と節子は参加しなかった。
 夏期スクーリングには盛大な印象があった。全国から学生がやって来るから大学は最高に賑やかだった。来年は参加するぞ、と思った。
 その卒論指導会で新平は、吉沢一郎先生に初めて会った。国文学科の教授だ。
 卒論指導会だからきっと国文の先生が来るのだろうと思い、新平は出席した。専門科目は三回生からだから、新平は国文学科の先生を誰ひとりとして知らなかったのだ。
 吉沢先生は教室の後方の入口から入って来た。通信制というのは、新平たちのように若い者も結構いるが、年配者も多い。新平は机間を歩いている先生のことを、その年配者のひとりだと思った。ネクタイのないワイシャツのその人が、矢庭に教壇に立ったものだから、新平は拍子抜けした。
 はにかむようなニコニコ顔で先生は教壇の椅子に腰かけた。事務局の職員が指導会の説明をし、先生による指導が始まった。
 吉沢先生は口数の少ない、必要なことだけを話す先生だった。新平は発言など何ひとつできなかったが、学生と吉沢先生とのやりとりを見ていて、ごく自然に、
(いい先生だな)
 と思った。
 先生は厳しそうな顔つきをしながら学生の言葉に耳を傾けていたが、なぜか目は笑っていた。ほっと安心できるやさしい目だった。話し方はおだやかで、声は小さい。にもかかわらず時に豪快に笑った。学生がおもしろいことを言った時だ。
 大学教授とは思えない庶民的なあたたかさをもっている先生の存在に、新平は感激した。そして、つい一ヵ月ほど前に読んだ文章を思い出した。それは通信生用の機関紙が毎月発行されているが、その紙上にあった随想だ。
 その随想を読んだとき、新平は味わい深い文章だと思った。吉沢先生に会ったとたん、その文章を新平が思い出したのは、国文学科の先生が書いたものであることを覚えていたからだ。何という先生の文章であったかは覚えていなかった。
 帰宅し、早速調べてみると、その随想を書いたのは吉沢先生であった。新平は、おそらく吉沢先生の文章だろうとなぜか思っていたが、それをたしかに知ると、感動で身体がふるえた。
 その文章には、ある意味では学術的に、また別の意味では生活感のあふれた先生の素顔がそれとなく見えた。
 先生は、夏の夜、家の塀の外の道に立ってよく空を仰いだのだという。それは三十年前の話を書いているのだが、そうした夏の夜、澄みきった夜空には銀河が美しく見えたという。先生は毎夜、夢中になって銀河を眺めた。銀河に吸い込まれるような状態になって、時として、家の塀の外でよろめいた、とも書いてあった。先生の自宅の塀の内には大きな一本の百日紅の木があり、それが先生宅の目印だということも書いてあった。
 新平は、あらためて、吉沢先生の随想を読み味わった。よい文章と魅力のある人柄。素晴らしい先生に出会えた。
 吉沢先生のいるこの洛北大学の国文学科で絶対に力をつけていこう。どんなに力が及ばない状況にあってもへこたれずにやり抜こう。新平は決意した。力がみなぎってくるのだった。
 また機会があれば吉沢先生の文章を読んでみたい、と思っていた新平だったが、その二回生の冬に先生の文章を目の当たりにすることができた。季刊の通信生用の機関誌が届けられたのだ。
 吉沢先生は歌人でもある。東京での学生時代、先生は、ある有名な歌人の弟子の一人として歌を勉強していた。その歌人の弟子であった思い出話が、その機関誌に載っていた。四ページにわたるもので、新平はじっくり味わって読んだ。
 その機関誌の「巻頭言」として、吉沢先生の言葉があった。自分の人生をほんものにするひとつの方法として、先生は、人物であったとしても、作物であったとしても、とにかく自分がそれに対して、ほんものだと感じとれるのなら、迷うことなく、進んで接してぶつかっていくとよい、その一点が大切だ、という意味の警句を載せた。
 新平は、先生からその言葉を直接もらったかのように、自分の中であたためていった。いい言葉だと思った。いつの間にか暗記していた。
 ふとしたときに、その言葉が思い浮かんできた。慌ただしい日常であったとしても、じっくり物事を考える瞬間が得られた。吉沢先生とは話をしたこともない。先生のことを多くは知らないが、新平は、この頃から少しずつ吉沢先生の影響を受け始めていた。先生の人間性に触れたいと思っていた。
 待ちに待った三回生の夏期スクーリングが開講された。
 新平が、三回生は夏期を選ぶと言ったとき、純も節子も、
「面白そうやね」
 と同意した。
 新平が言い出したことではあるが、機関紙などをみて、二人も夏期に魅力を感じていたようだ。
「コンパなんか、盛大らしいしね」
 純が言った。
 吉沢先生の講義の初日は、スクーリングが始まって二日目の午後にあった。
 教室では、三、四回生が同じ講義を受けた。そのため、誰が三回生で誰が四回生なのかは分からない状態だ。なかに、酸いも甘いも知っている風な人がいるが、その人は多分四回生だろう。講義内容は毎年変えられていて、重複することはないようになっていた。
 吉沢先生は、近世文学の専攻で、西鶴研究の権威である。講義内容は『世間胸算用』から三作品、『西鶴置土産』から三作品であった。限られた時間でなかなか思っていることの半分もできないと思うが、とにかく作品にじっくり取り組んでいきましょう、と先生は言った。

〜3に続く〜


 私淑の人(1)
後藤 雄二
2009年4月1日

 新平が木山捷平を読もうという気持ちになったのは、ひょっとしたら単なる偶然なのかもしれなかった。新平は二十一歳になっていたが、それまで多くの小説を読んできたわけではなかった。いくつかの小説は読んだには読んだが、それらは大した感動を新平に与えてくれたわけではない。そのなかにはすぐれているとされている作家の作品もあった。しかし傾倒できる作家に出会うことはなかった。それは新平がひとりの人間として、まだまだ若かったことにも原因があったのだろう。
 木山捷平という作家は、正直言ってマイナーな作家だ。ためしに市立図書館で木山捷平が亡くなった当時の新聞記事をマイクロフィルムで見たが、写真こそ載ってはいたが小さな記事だった。あまりマイクロフィルムをキュルキュル回したものだから目が回りそうになったのを覚えている。
 昭和五十六年、二回生の秋のことだった。新平は生きていることが愉快になるような、そんな思いにひたらせてくれる作家を求めていた。図書館の小説を片っ端から読んでいけばいいのだが、それは骨の折れることだった。
 市立図書館のなかで、新平は書棚に目を凝らしながら、そんな小説との出会いを待っていた。が、どの作家がどんな作品を書いているのか、さっぱり分からない。
 案内書のようなものはないか!
 安直にも、新平は評論のコーナーへ歩いた。作家と作品が手軽く分かる本はないか!
  奥野健男著『素顔の作家たち−現代作家132人−』
 こんな本が目についた。
 新平はそれを読み始めた。この本一冊読めば、沢山の作家のことが分かるだろう。作家の名前と顔写真がある。その下に略歴。そして奥野氏の文章へと続く。知っている作家、知らない作家、さまざまだ。
 読みすすめていくと、新平は二十九番目の木山捷平という作家のところで、何かしらひらめくものを感じた。知らない作家だが、写真顔を見て、妙な愛着と親しみを抱いた。

 新平は奥野氏の文章を読んで、この作家の小説を読んでみたいと思った。木山捷平と奥野氏は親しい間柄であったらしく、その文章は木山捷平の人柄を絶賛している内容だった。新平は木山捷平の小説をとにかく読んでみたくて、いてもたってもいられなくなった。

二回生の秋から冬にかけて、新平は木山捷平のいくつかの作品を読むことができた。
思っていたとおりの作家だった。木山捷平の語りで本当に生きているのが愉しくなった。いい人に会ったという気分だった。
ずいぶんふざけた感じの文章もあった。はじめ、こんな小説があってよいのだろうか、と思いもしたが、次第にそのふざけが通じるようになった。飄逸味があるのだ。
純も節子も新平が夢中になって木山捷平を読むのを見て、
「新平が感激するのは吉沢先生の文章だけかと思たら、なんかまた面白そうなんみつけてきたやん」
 と笑った。
 授業がおわった冬の日曜日。教室の最後列に座っていた新平のところへ、別の教室で英語の授業を受けていた純と節子がやって来たのだった。
 この洛北大学に入学したときは不安だらけだった。新平は情報処理の勉強がしたくて経営学部志望の受験生だったが、一浪しても合格できなかった。大学への道をあきらめかけていたとき、姉夫婦がそろって新平のために来てくれた。姉夫婦は洛北大学を卒業した。この洛北大学には通信制があるが、もしがんばれるのなら、入学してみるといい、と勧めてくれた。新平にとっては考えたこともない通信制だったが、資料をとりよせると大きな魅力が感じられた。すぐに願書を出した。入試はなく書類だけの選考だ。入学は決まったが、新平は文学部国文学科に入った。洛北大学には経営学部はなく、新平はもうひとつ興味のあった国文学を選んだのだった。
 新平はフィルムの現像所でアルバイトをしながら大学の勉強を始めた。システムがよくわからないまま、日曜スクーリングが始まった。洛北大学には夏期スクーリングと日曜スクーリングの二種類があったが、新平はアルバイトを休みたくなかったので、日曜スクーリングを選んだ。
 日曜スクーリングの初日は、初めて大学で授業を受けるということで心なしか緊張していた。学生は多かったが、友達はできなかった。一週間後、二回目の授業を受けた日に純と節子に知り合えた。
 その日、大学に着くと教室はすでに学生でいっぱいだった。教室後部の出入口を入ってすぐの席に新平は座った。授業は一般教養科目だから、色々な学科の学生がいる。新平の左どなりに純が座っていた。授業が始まると、学生証を机上に置くように、との指示があった。純の学生証が新平の目に入った。
(この人、国文学科やな……)
 新平がそう思っていると、ふと純が新平の顔を見て、
「国文?」
 と言った。
 純もそれとなく、新平の学生証に目を向けていたのだ。新平はうなずいた。
 授業開始二十分。
「あの、少しつめていただけますか」
 遅刻してきた者がいる。それが節子だった。新平は純にうながし、一人分のスペースをつくった。
「どうもすみません」
 申し訳なさそうに節子は細い身体を席に着かせた。
 節子も国文の学生だった。
 一日、教室の最後列の席で三人は時間を共にした。知らず識らずのうちに三人は意気投合し、打ち解け、授業が終わって帰途につきはじめても談笑していた。
「あの、よかったら僕の家に来いひんか? 歩いて十分ほどやから」
 純が言った。
 新平は嬉しかった。大学といっても通信制だ。友達をつくろうなどとは思わないようにしよう。人との出会いを心から待ち望んでいる自分がいるのに、それを無理に押し殺そうとしていた。新平はハッとした。通信制はややもすると孤独になりがちだから、スクーリングもあるのだという気がした。
 節子は物静かな性格だが、笑みをつねにたたえている印象がある。純の誘いかけに自然にこたえた。通信の学生だという共通点がそうさせるのか、それはたやすくは分からなかったが、何となし信頼感のようなものがあった。
「ビール買っていこう。乾杯したいんや」
 純は愉しそうに笑った。
 四畳半と六畳の部屋と台所とトイレ。純の一人暮らしのアパートだ。整然とした部屋に純の性格を見る思いがした。
「お風呂は?」
 節子が訊いた。
「銭湯。すぐ近くにある」
 純は部屋の窓を開けて、ほら、と言った。
「ほんまや。煙突が見える」
 節子が笑った。
 新平は純の部屋を眺めながら、自分があこがれている世界を実際に見た気になった。
「一人暮らしのアパートて、ええね」
 新平がそう言うと、純はそうかあ? と言いながら、二人を四畳半のテーブルにつかせた。テーブルといっても、家具調こたつのことだ。
「そしたら、知り合ったのを祝って乾杯といこう。乾杯!」
「乾杯!」
 純の音頭で新平と節子が缶ビールをあわせて鳴らした。
「私、未成年やった。でもおいしい」
 節子が言った。
「僕もそや」
「僕もまだ十九歳や」
 純と新平が続けて言った。
「私、昭和三十五年生まれ」
「僕も」
「僕もや」
「そしたら、みんな今年で二十歳やん」
 節子が嬉しそうな顔をして言った。
「節ちゃん、そう呼んでいい?」
 新平が言った。
「うん」
「節ちゃんは、どこから来たん?」
「下京区」
「どのへん?」
「東本願寺の東側。家はお茶屋さんやってるの」
 新平の問いかけに節子はこたえた。
「じゃ家を手伝ってるの?」
「うん。一日ほとんど店番やってるの」
 純の問いかけに今度はこたえた。
「この部屋、カーテンないのね。六畳の部屋にはいいカーテンがあるのに」
「カーテンって結構高いんやで。六畳のほうはちゃんとできたけど、この部屋はそのうちにと思てたら、いつのまにか忘れてしもてたわ」
 純が言った。
「どれぐらい住んでんの?」
 新平が訊いた。
「丸一年かな。神戸から出てきて、こっちの出版社で働くことになったんや」
「そう。僕はアルバイト。写真のフィルムの現像所で」
「新平ちゃん、て呼んでいい?」
 節子が言った。
「ああ、いいよ」
「新平ちゃんはどこから来たの?」
「伏見区」
「の?」
「醍醐」
「私、醍醐寺三宝院に行ったことあるわ」
「すぐ近くやで。小学校んとき、写生会ていうたらいつも三宝院やった。五重の塔、仁王門、何回描いたか分からんぐらいや」
「純ちゃん、て呼んでいい?」
 今度は純にむかって節子は言った。
「うん。どうぞ」
「ふーっ。私、洛北大学に入ってよかった」
 節子はほおを赤らめた。
「ビールを飲むって楽しい」
 幸せそうに節子は笑った。
 そんな出会いがあって、三人は二回生の後期に入っていた。純と節子は、
「こっちの英語の先生どうや? 僕らのクラスの先生は厳しいわあ。毎年半分の学生が単位を取れずに三回生になるて言うたはった。これ、いずれは五回生、六回生になるということやろか。それとも単なるおどかしやろか」
「私も厳しいな、と思った。『私は再試は実施しませんから、この一週間は猛勉強して試験に臨んでください』なんて言うたはったね。来週の試験どうなるんやろ?」
 と、新平ののんびり顔をよそに切実な様子で話し始めた。
「そうか。僕のほうの先生は再試ありやで。でも勉強せんとあかんな。フランス語もあるしな」
「この小説、面白いの?」
 節子が机の上の木山捷平の文庫本を手にとった。
「うん。いま一番好きな作家や」
 新平の目が輝いた。

〜2に続く〜


 面影の空に(7)最終回
後藤 雄二
2008年9月10日

 翌日の日曜日、五郎は外へ一歩も出ず、一日中、自分の部屋で物思いにふけっていた。ベッドに寝そべってばかりいた。
 菜摘は憲太によく似た自分を見て、どう思っていたのだろう。今まで自然体で接してくれていたが、きっと憲太のことを自分と重ねて見ていたのだろう。しかし、五郎はそれを思って、正直腹立たしくも悔しくも感じなかった。それは、恋人を失った菜摘の深い悲しみが、五郎の中を突風のように駆け抜けていったせいかもしれなかった。菜摘の、憲太との恋愛には、なぜか、冷静になれた。尊重したいとさえ思った。でも、そう思えるのは表面的なことで、自分が菜摘の好きな憲太に似ていることが、自分と菜摘の距離を縮めてくれるという下心と重なり合っていることを、五郎は十分に自覚していた。
 昨夜は、深夜まで朝倉夫婦と話をし、朝倉の運転で五郎は家まで送ってもらった。
「荒唐無稽なお話をしてしまいますが、憲太の流れ星は、まだ私たちの前には現れていません。しかし、君は私たちにとって、それを叶えてくれた人かもしれません。憲太は必ず会いに来てくれる・・・。憲太が死んでから、私は生命の永遠性を確信するようになった。憲太の生命は、いま宇宙に漂っている・・・」
 車中、朝倉は、何かを悟ったかのように、五郎に話した。
 ベッドでまどろんでいた五郎は、流星になって、夜空をさまよい、どこかに流れ着く旅をしている自分を想像していた。非現実的で奇妙な空想だった。流星に思いを巡らせていると、人々すべてが現れては消えて、消えては現れる存在のように思えてきた。

  星空って、 
  晴れた夜空なのかなあ、
  やっぱり。
 
 そんな菜摘の声がして、五郎は、目が覚めた。いつのまにか眠ってしまっていた。菜摘と一緒に星空をさまよう夢を見ていた。

 その日の夜、船村進から電話がかかって来た。
「おお、進か。どした?」
「どした? じゃないよ。このごろ全然、顔を見せに来ないじゃないか。病気にでもなったんじゃないかって心配してたんだぞ」
「いや、元気だよ。だけど、入院しているお前に心配されるとは思いもしなかったなあ」
「ふふふ、ゴロー、おれはもう病人ではないのだ。ははは、この船村進の回復力!」
「何ふざけてんだよ」
「バカ言え! ふざけてなんかないよ。退院するんだよ、明日」
「本当か! 早く言えよ。そんな大事なことを。だから、元気な声だったんだな。しかしよかったなあ。本当は一月だったんだろ?」
「うん。これで正月は家で迎えられるよ」
「そうか。よかった、よかった。これで映画館へも行けるなあ」
「うん。まだしばらくは、禁止されているけど、すぐに観にいけるようになるよ」
「そっか。よかったなあ。また芝居もできるなあ」
「うん。来年こそ劇団に入ってバリバリ活動するよ。ゴロー、ところでお前のほうはどんな調子だい?」
「ああ。しばらく流星になってたよ」
「リュウセイ?」
「流れ星さ」
「何のことだよ」
「こっちの話だよ」
「訳の分からないやつだなあ。勉強のほうはどんな調子かって訊いてるんだよ」
「おう。この間の模試でK大文学部の国文の合格可能性がやっと九十パーセント以上になったんだ」
「・・・それはすごい! ゴローは現役ん時、ほとんどゼロパーセントの世界だったもんなあ」
「それを言うなって」
「古文はどうだい?」
「それが古文はほぼ満点だったよ」
「ウソだろー。信じられないよ。この『下手の横好き』が」
「何とでも言え。文法も完璧だよ」
「恐ろしい話だなあ」
「恐ろしいだろ」
「でもゴロー、あんまり分かりすぎるなよ。文法にいくら詳しくったって、つまらないことだよ。古典っていいなあ、て言ってたお前自身を大事にしろよ」
 その言葉に、五郎はハッと胸を突かれた。自分はいつのまにか「愛惜の情」を忘れていた。
「・・・そうだな。その気持ち、忘れないようにするよ。受験のテクニックばかりに走って古文を楽しむのを忘れてたよ。・・・進、ありがとう。本当にありがとう」
「礼なんて言うなよ」
「違うんだ。おれ、何か、大事なことを忘れかけていたよ」
「誰だって忘れたり、気づいたりするものだよ。でもゴロー、よく頑張ったじゃないか。来年は、また腐れ縁で一緒にK大生だ!」
「おう。そういう腐れ縁は、大歓迎だよ。でも進、ホントに退院、よかったなあ。よくさあ、人間って長いこと入院したりすると、人生観が生まれたり、変わったりするって聞くけど、どんな感じだい?」
「そうだな。まだ分かんないな」
「そういうものなのかなあ、やっぱり。で、何か収穫はあったかい?」
「今日のお前、すごいこと訊くんだなあ。収穫か、そんなものあるかなあ・・・。あ、あった、あった」
 進が大声を出して笑った。
「びっくりしたなあ。どうしたんだい?」
「収穫あったよ」
「何だい?」
「うん。いまここに持っているんだ」
「何を?」
「うん。写真を持っているんだ」
「写真? 何の写真だい?」
「うん。おれの彼女の」
 進は照れくさそうに言った。
 五郎の中に、めぐみの曇った顔と、軽い落胆が通り過ぎていった。
「・・・彼女の写真か。知らなかったなあ」
「写真、今日もらったんだ」
「ふうん。で、誰なんだい?」
「ゴローも会ったことあると思うよ。・・・彼女、ゴローには会っている筈だよ」
「誰かな?」
「三田さんの娘さんなんだ。めぐみちゃんっていうんだ」
 瞬間、五郎は、息を飲んだ。
(そうか!)
 五郎は、努めて平静を装うように、自分に言い聞かせた。ビデオ映画制作研究会では撮影班だったが、頑張れば、演技だって少しはできる。勘のいい進だが、めぐみとの約束は守らねば・・・。だが、五郎は思った。もしかしたら、めぐみは、自分とちょっとした知り合いであることを、もう進に話し終えているかもしれない、と。
「あー、何となく知ってる。物静かな感じの人だろ? 優しそうだったよ」
「うん。優しいんだ。性格は結構明るいよ。三日前、彼女のほうから、告白してくれたんだ。申し訳なかったよ。実はおれもずっと好きだったんだ。・・・うわっ、恥ずかしい」
「いつか、いいなあと思う人がいるって言ってたの、めぐみちゃんのことだったんだな」
「うん。実はそうなんだ」
「よかったなあ。お前の声、すごくいい感じだよ。本当にめぐみちゃんが好きなんだな」
「早く自分が告白すればよかったと後悔しているよ。彼女の勇気に、感謝感激しているんだ。でも、こういうのって、相思相愛って言うんだよな。むふふふ」
「そういうことにしておこう。めぐみちゃんは同い年くらいかい?」
 五郎は、自分がよく知っていることを、わざと訊いた。めぐみは、進に何も話していないらしい。そうであるなら、自分は、ひたすら、めぐみとの約束を守り続けるだけだ。
「そう。彼女はS大の一年なんだ」
「そうか・・・。よかったなあ」
「なんだよ、ゴロー。しみじみとした声しちゃってさ。・・・さては、お前、おれを羨ましく思ってんじゃないか?」
 めぐみのことを五郎は考えていた。
(めぐみさん、思いを果たしたんだな・・・)
「おれのこと、羨ましいんだろ?」
「・・・うん。少しな」
「おいおい、こういう時は『調子に乗るな』とか言ってくれよ。ゴローらしくもない」
「いや、進、いい人と付き合えて、よかったな。初めて進の見舞いに行った時、お前、散歩中だっただろ? あの日、病室で見かけただけなんだけど、めぐみちゃんは絶対いい人だよ。これでも、おれ、人を見る目あるんだぜ。大事にしてあげろよ」
「ありがとう。大事にするよ」
「めぐみちゃんのお父さんの退院はいつ頃なんだ?」
「実は、三田さんも、あと二、三日で退院されるんだ」
「そうか。それは、よかったなあ」
「うん。めぐみちゃん、三田さんを再婚させようとしてるんだって」
「再婚?」
「彼女、小学生のとき、お母さんを亡くしてるんだ。大学で知り合った、信頼できる女の人がいるんだってさ。詳しいことはまだよく聞いてないけど、三田さんの結婚相手となると、年齢的に大学の先生かな?」
「しお・・・!」
(詩織さんのことだ!)
 五郎は、思わず声が出そうになった。こんな自分は演技班には絶対入れない。
「ん? 何か言った? ゴロー」
「ううん、何も言わないよ。・・・えーと、でもさあ、進、めぐみちゃんに出会えたのは、まさに肺結核のおかげだってことだな」
「そんな言い方するなよ」
「うん。ま、お前も、明日退院だから言えるんだけど、せっかく大学に入ったのに肺結核で入院だったろ? しくじったって思う時もあっただろ? だけど、お前、入院してなかったら、めぐみちゃんに会ってないんだぜ」
「そうだなあ」
「しくじったって思ったか?」
「少しはね。でも仕方ないって思ったよ。病気だもん。入院生活は大変だったけど、ホントに仕方なかったもんね」
「お前、何だか、まるーくなったな。優しくなった、と言ったほうがいいのかな。それとも大人になったって言うほうがいいのかな」
「よせよ。まるーくなったなんて。おれはもっともっと荒々しく生きていきたいんだから。でも褒めてくれてるなら、サンキュー」
「うん。もしかしたら、そんなこんなが、進にとっての人生観のなんとか、というやつかもしれないな」
 進と電話を切ると、五郎は自分の部屋へ戻った。部屋の窓を開けると、冷たい空気がながれ、オリオン座が見えた。星空は、晴れた夜空。今夜の空は快晴だ。五郎は、しばらく晴れた夜空を眺めていた。気づいたら、また菜摘のことを考えていた。不意に、憲太を思う菜摘に対する強い嫉妬の心が込み上げてきた。自分でも意外だった。
 菜摘の中で、憲太のバイオリンの音色はまだまだ鮮明なのかもしれない。でもいつかは、遠い音色になる。菜摘の心も十分に癒され、すべていい思い出になるときが必ず来る。自分はどんなことがあっても、菜摘を幸せにしてみせる。誰にも渡さない。気恥ずかしくて、絶対、人に言えないそんなことを、五郎は決意を吐き出すように呟いていた。
「おい、五郎、入るぞ」
 五郎の部屋に、父の大五郎が入って来た。
「ああ、父さん」
「いや、たまには息子の部屋に入ってみたくてな。母さんに聞いたぞ。成績が上がったんだって?」
「うん」
 父は、五郎のベッドの上に腰掛けた。
 五郎は窓を閉め、父の前に座った。床の上にあぐらをかいている。
「進、明日退院だって」
「そうかい。それはよかったな」
「あいつ、病院で彼女つくったんだって」
「ほう」
「愉快な入院生活だったみたいだよ」
「五郎よ。お前はガールフレンドはいないのか?」
「どうして?」
「いや、若者なんだから、女の子の一人や二人、たまには家に連れて来いよ。受験生だからって、勉強ばかりじゃストレスたまるぞ」
「うん。そのうち、連れて来るよ」
「彼女いるのか?」
「うん。まあね」
「ほほう」
 五郎は父の顔を見ながら、得意そうに笑った。そして、朝倉夫婦の深い悲しみを思い、生きて、生きて、生き抜いて、父と母をずっと大切にせねば、とそんな殊勝な気持ちになっているのだった。     

(了)


 面影の空に(6)
後藤 雄二
2008年8月25日

 映画を観終えると、人の流れのままに、五郎は館外へ出た。そして、家に帰るためにM駅へ向かった。その道で、五郎はチケットをくれた初老の男に再び出会った。男は一人ではなく、女を連れていた。
「やあ、映画はよかったかね?」
「あ、はい。いい映画でした。ありがとうございました」
 男は嬉しそうな顔で頷いた。男の後ろを歩いていた女は、五郎を見て、会釈した。
「私の家内です」
 男が言った。
 五郎は、こくん、と一礼した。奥さんは痩せた人で、きれいな目をして五郎を見た。
「映画は何をご覧になったのですか?」
 五郎がそう訊くと、男は、
「えっ、ああ、今日は観なかったよ」
 と答えた。
「そうだったんですか!」
「はい。何だか急につまらなくなってね。ひとりぼっちじゃ寂しいから、家内を電話で呼び出したんです」
「はあ・・・」
「君、もう家へ帰るんだろ? 呼び止めて悪かったね。だが、君は本当に映画が大好きなんだね。嬉しそうにN座の看板を眺めていただろ? 君、もしよかったら、私と家内と三人でお茶でも飲みませんか。少しだけ、どうだい? 君と話がしたいな」
「お父さん、悪いですよ」
 奥さんが男のハーフコートの左ひじあたりをつまんで首を横に振った。
「いえ、もう帰らなくては」
 五郎が言った。
「明日は日曜日だよ」
「いえ、もう帰ります」
 五郎は、そう言いながら、奥さんの顔を見て、ハッとした。昨年の冬、菜摘の郵便局がある商店街のCDショップに行ったことを思い出したのだ。店の人が変な感じだったので、いい印象がなく、それ以来、そのCDショップへ五郎は行っていない。あの日、五郎を見て、ひどく驚いた顔をしたのは、確かに、初老の男の奥さんだった。
「・・・CDショップの・・・違いますか?」
 五郎がそう言うと、夫婦は頷いた。

 夜も遅かったが、結局、五郎は夫婦と話をすることになった。奥さんは、車を置いた駐車場へ急ぎ、初老の男と五郎が待つ場所へ来た。三人は、奥さんの運転で、距離にしてCDショップから二駅ほど離れた、静かな住宅街に着いた。夫婦の姓は「朝倉」だった。五郎は、それを夫婦の自宅の表札を見て知った。そういえば、CDショップには、「アサクラ屋」という店名がついていたな、と五郎は思った。
 五郎は、朝倉に家の中を案内され、応接室に通された。朝倉はすぐに暖房をつけた。五郎と朝倉はソファーに座った。
「今夜は冷えるね」
「はい」
 そこへ奥さんがお茶を持って入って来て、三人で話し始めた。夫婦は五郎の前に座っている。
「私たち夫婦は、朝倉と申します」
 朝倉が言った。夫婦はそろって五郎に頭を下げた。
「ぼくは、大槻と言います。大槻五郎です」
「大槻君、ですね」
 朝倉が確認するように言った。
「・・・その、息子さんの憲太さんに、ぼくがよく似ているっていうお話ですが・・・」
 車の中で、夫婦は、息子の憲太が、五郎と瓜二つであるという話を五郎にしていた。
「今日は跡をつけたりして、すまないことをしました。申し訳ないです」
 夫婦は、また、五郎に頭を下げた。
「私たち夫婦は、昨年の十月、一人息子の憲太を亡くしました」
 朝倉が言った。
「えっ、亡くなられたんですか!」
「はい。バイク事故でした。親バカですが、明るくていい子でね。一人っ子のせいか、目に入れても痛くない息子でした。大学一年生でした。・・・憲太が死んでからは、しばらくは仕事も手につかない状態で、店を閉めようとも思ったのです。だが今は何とかやっております。君とこうして話していると、憲太を目の前にしているようで、涙が出そうになります。本当に瓜二つとはこのことですね。声もそっくりです。今日、君の姿を見かけて、家内に聞いていた男の子だと思いました。君と憲太とは何の関係もないのに、嬉しくってね。君の歩くところを同じように歩いていたんです。跡をつける形になってすまないことをしました」
 朝倉は、五郎に何度も詫びるのだった。
「どうぞ、お茶をあがってください」
 奥さんが勧めた。五郎は、一口啜った。
「昨年、家内から憲太にそっくりな君に会ったという話を聞いた時は、バカな話だと思っていました。どんなに似ていても、憲太はもういない。そう思いました。しかし、今年も秋が過ぎ、冬が訪れると、さすがに憲太のことが懐かしくてたまらなくなってね」
「私たち夢を見たんです」
 奥さんがぽつりと呟いた。
「先日、二人で同じような、憲太の夢を見たんです。不思議な夢でした。家内の夢では、憲太が現れて、『お父さんとお母さんのことは、僕が見守っているから、何も心配いらないからね』って笑っていたそうです。そうだったよな」
 奥さんは目に涙を浮かべている。
「私の夢では、『流れ星になってそのうち帰るからね』なんて、憲太のやつ、言ってました。そのことを家内に話しますと、家内も憲太の夢を見たというじゃありませんか。驚きました」
「夢でも、会えて嬉しかった・・・」
 奥さんは涙声だった。
「そんな夢を見て、数日もしないうちに、君を見かけて二重にびっくりさせられました。憲太が約束を果たしてくれた! と一瞬私は叫びそうになったのです。そして・・・君が嬉しそうに歩いているのを見て、心が軽やかになると同時に、不覚にも涙がぼろぼろ出て来たんです」
「・・・」
 五郎は、夫婦の激しい悲しみに接し、言葉が出なくなった。
「映画館で君に会って、家内にも君と会わせてやりたくなりましてね。君が映画を観ている間に、呼び出したんです。あまり気乗りはしていないようでしたが、今はどうだい?」
「お会いできて、幸せです」
 奥さんが五郎を見つめて言った。五郎は返答に困っている。
「N座からM駅へ歩く道に、ルネという喫茶店があるだろ? 君、知ってるかな?」
「はい」
「あの店のマスターは幼友達なんですよ。君が映画館から出て来るまで、あの店で休憩していたんです。家内が車で来たものですから、駐車させてもらう意味もあってね。そうそう、ちょっと待ってください。お母さん、憲太の写真を見ていただこう」
 奥さんは、室を出て、すぐに一冊のアルバムを持って来た。
「どうぞ、見てください」
 奥さんは静かな口調でアルバムを差し出した。
 五郎はそれを手に取り開いてみた。実に驚いた。本当に自分にそっくりな憲太の写真が並べられている。五郎には、撮られた覚えのない、自分が写っている写真を見る思いがした。これほどよく似た人がいるなんて、信じられないことだった。アルバムを繰っていると、憲太がバイオリンを演奏している姿が目についた。
「バイオリンを?」
「そうです。高校生の時の写真ですね。音楽が好きだったんだよ。なあ、母さん」
「ええ」
 奥さんが微笑んだ。
「いい音色なんだ。よく弾いて聴かせてくれたよ。私たちは毎朝、憲太の演奏しているMDを聴いています。それで一日が始まるんだ。憲太のバイオリンを聴くのが、いつのまにか日課になっちゃったよ。そのせいか、私は憲太が死んだとは思えないんだ。きっと憲太はどこかで生きているんだ。すぐに私たちに会いに来てくれるさ・・・」
 朝倉は奥さんを見て言った。
「・・・似てるだろ?」
「はい。驚きました」
 五郎はアルバムのページを繰りながら、もっと驚くことになるのだった。菜摘の姿が写真にあった。バイオリンを手に持った憲太の横で、微笑む菜摘の写真。五郎はその写真に釘付けになった。
「・・・この人、憲太さんの恋人ですか?」
 五郎は、写真を指さし、恐る恐る訊いた。
「どれどれ、ああ、上野さんだね。そう、憲太と付き合っていた人です」
 五郎の中に衝撃が走った。
「店の近くの郵便局の方なんですよ。彼女は、いいお嬢さんだ。・・・彼女にも可愛そうな思いをさせてしまいました」
 朝倉はしんみりとして言った。
「私は、上野さん、大好きです。郵便局では『窓口の天使』と皆さんに呼ばれている方なんですよ。いずれ憲太のお嫁さんになってくだされば、と思っていました。憲太の演奏、上野さんも、毎日聴いているって・・・。私、上野さんとおしゃべりしていると、泣いてばかりで・・・」
 奥さんが涙目で朝倉の顔を見た。
 五郎は、自分が菜摘を知っていることを、あえて夫婦に言わなかった。
「素敵な可愛らしいお嬢さんなんですよ」
 奥さんが嬉しそうに微笑んだ。
「・・・本当にいいお嬢さんなんだ。毎月、憲太の命日には、わざわざ家まで、お線香をあげに来てくれました。いつのまにか、私は彼女が家に来るのを楽しみにするようになっていた。・・・しかし、いつまでも、上野さんに来てもらうのは、彼女のために、よくないことです。憲太のバイオリンの音色はいつも何も変わらないが、周りの人はどんどん変わっていく。当然です。バイオリンの音色が遠ざかっていくくらいがいいのです。彼女には、誰よりも幸せになってもらいたい。だから、一周忌の日、心から感謝していることを彼女に告げて、もう、おしまいにしましょう、と丁重にお断りをしたんです」
「上野さん、何て・・・」
 五郎が訊いた。
「ありがとうございました、と言って、目にいっぱい涙をためていました」
 五郎は、もう何も訊かなかった。菜摘の果てしなく深い悲しみが、眼前に迫り、激しい切なさの渦に落ちていくような気分だった。切なくて、切なくて、どうしようもない気持ちになっていた。ただひたすら、込み上げて来そうになる涙をこらえ続けていた。     

〜7(最終回)に続く〜


 面影の空に(5)
後藤 雄二
2008年8月10日

「上野さん、ここから家までどのくらい?」
「そうね。ここからだと、歩いて十分ぐらいよ」
「えっ、それじゃ反対方向を?」
「あんまり楽しくて、ついM駅まで来ちゃったわ」
「ぼく、家まで送ります」
「ううん。いいの。あ、大槻君、また丁寧な言葉になったわよ」
「送るよ。上野さん」
「いいの。もう電車来ちゃうわよ」
「それじゃ、一つだけ訊いていいですか? いや、訊いていい?」
「何でもどうぞ」
「上野さん、名前を教えてほしいんだ」
「なーんだ。そんなこと?」
「うん。知りたいんだ」
 すると、菜摘は、うつむきかげんに、
「ナツミ」
 と言った。
「上野ナツミさん?」
「うん」
「どう書くの?」
「菜の花の、菜を摘む、のナツミ」
「へえ、いい名前だね」
「ありがとう。あなたは、大槻ゴロー君でしょ、私、知ってるわ」
「フルネームを!」
「うん。お父さんは大槻大五郎さんでしょ? 悪いけど少し笑っちゃったわ」
 五郎は差出人が父や母である郵便物も、よく菜摘の郵便局で扱ってもらっている。菜摘は「大五郎」の「大」の字を見て、すぐに五郎の父の名前だと察したのだろう。
「それじゃ、ぼくが安易に名前をつけられたのが分かっちゃうよ」
「あら、そうなの?」
「うん。大五郎の息子だから小五郎とでもつけようと思ったって親父は言ってた。でも小五郎ってのは出世しそうもないから五郎にしたんだって。だけど五郎にしても小さい頃はすごく恥ずかしかった」
「で、いまは?」
「いまも恥ずかしい」
 二人は笑い合った。
「でも、お父さん、きちんと考えていらっしゃるじゃない。きっと響きがお好きなのね。『ゴロー』っていう名前の響きが。私、そう思うわ。素敵な名前だわ」
「・・・そんなふうに言ってくれるのは、菜摘さん、あ、ごめんなさい。菜摘さん、て呼んでいい?」
「どうぞ」
「そんなふうに言ってくれるのは菜摘さんだけだよ。それに親父、ぼくの名前、酔っ払いながらつけたんだって」
「きっと、あなたが生まれて嬉しくて嬉しくて、美味しいお酒を飲まれたんだわ。いいお父さんね」
「菜摘さんにはかなわないや。何だかそんなふうに言われると、涙が出そうになっちゃうよ」
「お母さんは、どんな方?」
「おっとりしてぼんやりして、それでいて、ぼくをいつもこき使うおばさん」
 菜摘は楽しそうに笑った。
「あなたを見ていると、あなたのご家族がよい人たちだって、私には分かるような気がする。私、あなたのこと、ずっとそんなふうに見ていたのよ。気がつかなかった?」
「菜摘さん・・・」
 菜摘は、夜空を見上げた。たくさんの星が見えた。
「星がいっぱい。きれい・・・」
「ほんとだ」
 五郎も空を見上げた。
「大槻君、星って、お天気のいい夜にしか見えないでしょ?」
「うん。空が雲に覆われていたり、雨が降ったりしていると、よく見えないよね」
「星空って、晴れた夜空なのかなあ、やっぱり」
「やっぱりって?」
「テレビの天気予報で、『今夜は晴れるでしょう』ってお天気キャスターの人が言うことがあるでしょ? 『今夜は晴れる』って変な表現だなってずっと思ってたの。『晴れ』って昼間のイメージがあると思うんだ。太陽の存在が不可欠というか・・・。晴れイコール青空、というか・・・。大槻君はどう思う?」
「どう思うって・・・。あんまり考えたことないな。・・・雲一つない空は、朝でも昼でも夜でも快晴って言っていいんじゃないかな」
「そうなのよね。雲のない夜空はやっぱり晴れてるわけよね。こんなにきれいな星が見えるってことは、空が晴れ渡っているって言えるものね」
 菜摘は自分に言い聞かせるように言った。
「菜摘さんて、結構こだわる人なんだ」
 五郎はニッコリして言った。
「そんなことはないんだけど・・・」
 二人は、また空を見上げた。
「こんな駅前で、星空を眺めているのは、きっと、ぼくたちだけだね」
 五郎は空を見上げたまま言った。
「みんな忙しそうに歩いているものね」
 菜摘は、そう言って、五郎の横顔に微笑んだ。瞬間、かすかに涙を浮かべた。
「泣いてるの?」
 五郎はキラリと光った菜摘の目許に気づいた。
「ううん。星空を見ていたら、目にゴミが入っちゃった」
 菜摘はハンカチで目を押さえている。
「・・・じゃ私、帰るわ」
「そう・・・」
「勉強がんばってね」
「うん。ありがとう」
「それじゃ、さよなら」
「さよなら」
 五郎は手を振った。
 菜摘は、二人が歩いて来た道を駆けて行った。駅前の喧騒とはよそに、彼女が走って行った方向は薄暗かった。信号のない道路を横切りながら、彼女は何度も振り返って五郎に手を振った。五郎は菜摘の姿が消えるまで、ずっと見ていようと思った。しかし、菜摘の姿が見えなくなってしまう、と五郎が思った瞬間、菜摘はその場で転んでしまった。五郎は驚いて、菜摘のところへ全速力で走り寄った。
「菜摘さん、大丈夫?」
「大丈夫よ。うふっ、転んじゃったわ」
 車道と歩道の間の縁石に、足をとられた菜摘は、すぐに立ち上がった。彼女のワンピースには、膝のあたりに、少し土が付いていた。
「段差に足が引っかかっちゃった・・・」
「・・・やっぱり送っていくよ。菜摘さん」
 五郎は、菜摘の右足から抜けてとんだ白いパンプスをひろいながら言った。そして、その靴を菜摘の右足にはめた。
「うふっ、シンデレラみたい」
 菜摘は少しも悪びれずに、五郎を見て微笑んだ。


 秋が過ぎ、いつのまにか冬になった。十二月のある日、五郎は、抑えていても笑いが込み上げて来るのだった。それまで、恐ろしいほど悲惨だった模擬試験の成績がグンと伸びたのである。予備校からの帰り道、一度M駅まで行ったのだが、ふと、こう思った。
(映画へ行こう!)
 五郎は、とにかく嬉しくて、映画館を色々と思い浮かべた。
(今日は名画座でなく、ロードショーにしよう!)  
安い名画座がクセになっている五郎にとって、ロードショーへ行くことは、ちょっとしたリッチな気分が味わえるものだった。
 その後、菜摘とは、郵便局で会っても、気心の知れた友人のような付き合いができている。百円映画会はあれからも実施されることはなく、しかし、そのおかげで、五郎は菜摘と映画の話などもできて、いつか一緒に映画を観に行こうという約束までするようになった。
 それはさておき、五郎は、さっきから誰かに跡をつけられている気配がしてならなかった。その気配は、予備校の校門を出た頃からあった。五郎は振り返ってみた。だが、人が多くてよく分からなかった。
 妙な気分を引きずりながら、五郎は、N座のある繁華街へ向かった。クリスマスが近いので、街のイルミネーションがきれいだ。どの店にも色鮮やかなキラキラしたデコレーションが施されている。音楽も賑やかだ。N座でいま上映している作品は、かなりヒットしているらしい。五郎も観たいと思っていたアメリカ映画だ。だが、五郎はやはり誰かに跡をつけられているようでならなかった。N座に着いた時、五郎は、パッと振り返った。
 そこには初老の男が立っていた。薄茶色のハーフコートを身につけている。五郎の全く知らない人物だ。男は、ニコニコしながら近づいて来た。そして、五郎の前まで来た。一瞬、目が合ったが、男はすーっと素通りしてチケット売り場に並んだ。
 五郎は、跡をつけられていたのは思い過ごしだったと理解し、ほっとして、チケット売り場に並んだ。初老の男は五郎の前にいた。男は、チケットを買い終えると、突然、
「あっ」  
 と叫んだ。そして、
「しまったあ」
 と言った。
 五郎は、騒々しい人だなあ、と思いながら、眉間にしわを寄せた。
「君はこれから、ここの映画を観るつもりなんだね」
 くるりと回った男は突然、五郎に言った。
「はあ、そのつもりですが」
 五郎は少々けげん顔になった。
「そうですか。君、ちょっと相談に乗ってくれないかね」
 男は、五郎に言った。その間に、五郎の後ろに並んでいた客が五郎を抜いて、チケットを買いはじめた。
「ちょっとこちらへ来ていただけませんか。申し訳ありません」
 五郎は仕方なしに、その男の相談に乗ることにした。二人はチケット売り場から離れた。
「私は映画が大好きで、子どもの頃からよく観ていたんですよ。今日も映画を楽しもうと思ったのだが、入場券を買って気づくと、ここの映画は先週観た作品だったんだよ。私もおっちょこちょいだね。で、もう一度観るのもいいが、他の映画にしようと思うのです。そこで君に相談なんだが、この入場券をゆずろうと思うのだけれど、どうかね?」
 けげん顔の五郎だったが、話を聞いているうちに、その男が意外に礼儀正しい人物であることに気がついた。恰好にも品がある。
「ええ、構いませんよ。いまから観るつもりですから」
 五郎は、そう言いながら、財布からお金を出そうとした。
「いやいや、そうではないんです。君にこの入場券を差し上げよう、と言っているのです」
 男は、半ば強引に五郎の手にチケットを握らせた。
「あの、大変嬉しいんですが、間違ってお買いになったのに、いただくわけにはいきません。お金は、お払いします」
「いやいや、そんなこと、思わないでください。若者がそんなに遠慮することはありません」
「・・・」
「そんなに考え込まなくてもいいんだよ。天から入場券が降って来たとでも思って、映画を楽しんで来てください」
「・・・じゃ、遠慮なくいただきます。どうもすみません」
 五郎は、初老の男の厚意を素直に受けることにした。
 五郎はそのままN座の中に入った。チケットを切ってもらう時、五郎が振り返ると、男は五郎を見ながら、にっこりして頷いた。
「ありがとうございましたー」
 五郎は大きな声で言った。
「ああ、楽しんでおいで」
 初老の男は、歩きながら、手を振った。五郎もそれにつられて手を挙げた。

〜6に続く〜


 面影の空に(4)
後藤 雄二
2008年7月25日

 翌日、午前九時から始まる講座に出席するため、五郎は予備校への道を歩いていた。校門に入ろうとした時、
「ゴローさん!」
 駆けて来ためぐみに、五郎は呼び止められた。
「めぐみさん・・・」
「昨日はごめんなさい。いま詩織さんにも謝りに行って来たの。いやな性格ね、私って」
「そんなことないですよ。・・・めぐみさん、本当に進のこと、好きなんですね」
 五郎は真面目な口調で言った。
「・・・うん」
「何か、ぼくに出来ることありますか?」
「ううん。・・・ゴローさん、また、お昼休みに、ちょっといいですか?」
「いいですよ。詩織さんのところ?」
「私、バイトの休憩になったら、ここまで来ます」
「そう。それじゃ、ぼくもここにいるようにします」
「お願いします」
 めぐみは、頭を下げて、モームのほうへ駆けて行った。
 昼休みに五郎が校門まで行くと、めぐみはすでに来ていた。白いチュニックと七分丈のデニムパンツを着こなしている彼女には、可憐な雰囲気が漂っていた。
「公園に行きませんか?」
 めぐみがそう言って、二人は予備校前の信号のある横断歩道を渡り、国道を横切った。すぐ傍にある公園の中に入り、最初に目についたベンチに座った。
「あっ、雨だ」
 五郎が言った。わずかな小雨が降りはじめていた。
「太陽はあんなに照っているのにな・・・」
 五郎は空を見上げた。めぐみも視線を上げた。
「屋根のある場所にしましょうか?」
「いえ、このくらいの雨、かえって気持ちいいです」
 めぐみが明るい表情をして言った。
「・・・何か、ぼくに言いたいことでも?」
「ううん。ただ話がしたかったんです」
「進とはあまり話さないのに?」
「ゴローさんとは何だか、安心して話せる・・・」
「進、話してみると面白いやつですよ」
「・・・いつも、どうしても、思うように話せないの」
 恋をしている女性の心に、生まれて初めて接近している五郎だった。話の接ぎ穂が見つからない。しばらく会話が途絶えた。
「・・・昨日、詩織さん、心配してましたよ」
「ごめんなさい。昨日の夜、詩織さんから電話がありました。私、自分の気持ちがよく分からなくなっちゃって・・・」
「進に、好きだって言えばいいじゃないですか」
 めぐみは黙り込んだ。
 そうは言ったものの、五郎には、菜摘になかなか好きだと告げられない自分自身が見え隠れしていた。
「いまは、まだ言えません」
「進、めぐみさんに告白されたら、舞い上がって喜びますよ、きっと」
 少々おどけて、五郎は言った。
「茶化さないでください」
 五郎はまた言葉が出なくなった。
 めぐみの真剣な横顔は、とても魅力的だった。直感的に、進が、いいなあと思う人がいる、と言った相手は、めぐみのことかもしれない、と五郎は思った。
「ゴローさん、私が進さんのこと、好きだなんて絶対、進さんに言わないでくださいね」
「・・・うん。分かりました」
「心配です」
「何が?」
「人がいいから、ゴローさん、何でもかんでも進さんに話しちゃうでしょ?」
「失礼だなあ。こう見えても、口は堅いんだから」
「それならいいんだけど・・・」
 五郎は不満顔をしている。
「ゴローさん、私たち、お互い、進さんの前では、知り合いじゃないことにしてくれませんか?」
「どうして?」
「私の気持ち、進さんに知られたくないの・・・」
「ぼく、何も言わないよ」
「私は、私の恋愛をもっともっと大事にしたいだけなんです。いつか必ず、自分で思いを伝えます」
「ぼくって信用ゼロか・・・。分かりました。進にはめぐみさんのこと、絶対話しません」
「ありがとう・・・」
 めぐみは安堵の顔を五郎に向けた。
「人を好きになると、話もできなくなるものなんですね」
「なぜか、意識し過ぎてしまうんです」
「それに較べて、ぼくとはよくしゃべりますね。ぼくに対して恋愛感情がない証拠だね」
 五郎は笑って言った。
「ごめんなさい」
「いえいえ、いいんですよ。ごめんなさい、だなんて、マイったなあ」
 五郎は頭をかいた。
「病室にいると、進さんと父はよく話をするんです。私は父の傍にいるだけですが、進さん、あなたのこと、いい親友だって嬉しそうに話しています。『ゴローのおかげで人を信じられるようになった』って言ったときはドキッとしました。あんなに明るい進さんなのに・・・」
「進、そんなことを・・・」
「はい」
「なぜ、そんなこと言うんだろう?」
「進さんとはいつから友達なんですか?」
「高校一年の時、進と同じクラスだったんです。あいつ、何となく孤立していて、それはみんな、ただ近寄り難かっただけなんです。一目置いていたという感じで・・・。進、ものすごく勉強ができたから。ぼくなんか、ほとんどビリのままで高校生活が終わった感じだったけど、進はいつも学年のトップを維持してた。進と親しくなったのは冬だったな。放課後、教室の前を通り過ぎようとしたら、あいつ、一人ぽつんと席に着いていたんです。ろくに話をしたことがなかったけど、『船村君、バイバイ』って言ったら、あいつ、泣いてたんです。驚いて傍に寄ると、お母さんが脳腫瘍で入院していて、危ないかもしれないって話してくれたんだ。ぼろぼろ涙ながしながら。あついにとっては一家の一大事だったんだろうけど、ぼくは話を聞いて、進のこと、いいやつなんだなって思ったんだ。お母さんは手術も成功し、すぐに元気になったんだけど、それから友達になったんです。そしたら、めちゃくちゃ面白い人間だった。それで昨日も話したけど、ぼくが、ビデオ映画制作研究会に入っていたので、進も入って、俳優さんみたいなことをするようになったんだ」
「そんなことがあったんですか。・・・ゴローさんに話しかけられて、進さん、安心したのよ。ゴローさん、そういう雰囲気あるもの」
「そうかなあ。でも、いま思い出したけど、その日、進と初めて一緒に帰って、コンビニであったかい缶コーヒーでもごちそうしてやろうと思ったんです。そしたら、あいつ、何て言ったと思います?」
「何ですか?」
「缶コーヒーはいらないから、あさりのみそ汁にお湯を入れてもらって来てくれって」
 二人は笑い合った。
「進、うまそうにみそ汁、飲んでたなあ」
「私、進さんがゴローさんと出会って、人を信じられるようになったってこと、分かるような気がします」
「・・・あいつ、そうかあ、そんなこと言ってたのか。今度ひやかしてやろっと」
「それはだめです。私が言ったことがバレちゃいます」
「あっ、そうだね。進にめぐみさんのことは絶対何も言いません。でも、モームで会ってもあいさつぐらいはさせてくださいね」
「もちろんです。私にとって、ゴローさんはもう大切な友人ですから」
 五郎は嬉しそうに笑った。
 小雨はいつのまにか止んでいた。二人はふと公園の入り口のほうを見た。詩織が立っている。二人を見守るように微笑んでいる。そして、二人の傍まで歩いて来た。
「サンドイッチ、作ってきたの。みんなで食べましょうよ」
 麦藁帽子をかぶった詩織は、持ち前のおだやかな笑顔で、二人を包み込んだ。


 十月になった。五郎たちの予備校にも秋の気配がひろがっていた。
 ある日、五郎は予備校の友人から、「百円映画会」という催しがあることを聞いた。
 その百円映画会というのは、ある旅行会社がツアーなどの宣伝を兼ねて、映画を上映するものだった。ここ一、二年のうちにロードショー公開された映画を、百円の入場料で観せてくれるのだった。友人が言うには、わりと評判のよかった映画が上映されるとのことである。この百円映画会は、毎月第三月曜日の午後七時から、B会館の五階ホールにおいて行なわれていた。
 十月の第三月曜日。その日、五郎は予備校の授業を終えて、B会館へ向かった。何の映画が上映されるのかは知らなかったが、とにかく行ってみようと思った。自習室で、相も変わらず、込み入った文語文法の問題と悪戦苦闘しているうちに、慌ててB会館へ行く始末になったのだが、午後七時には十分ほど遅れただけで済んだ。遅れはしたものの、上映前には旅行会社の宣伝などがあるとのことだったので、映画には間に合うだろうと五郎は楽観していた。
 B会館の中へ入ると、五郎は、エレベーターに乗り込んだ。そして、「5」と「閉」のボタンを押した。乗っているのは五郎だけである。しかし、突然、
「あっ、待ってください!」
 女性が一人、慌てて駆け込んで来た。それと同時に、とびらは閉まった。
「ふーっ、どうもすみません」
「あっ」
 五郎はその女性を見て、驚きの声を洩らした。女性も、
「あらっ」
 と驚き顔だった。
 そして、彼女は人なつっこく会釈した。
 その女性は菜摘だった。彼女は、白いワンピースの上に水色の薄手のカーディガンを着ていた。五郎は、予備校がどんなに忙しくても、何かと用を作って、菜摘の郵便局へ足を運び続けている。いつも、ほんの少し菜摘の姿を見るだけだったが、五郎に気づくと菜摘は必ず会釈をしてくれた。浪人が決まったときには、
「勉強、頑張ってくださいね」
 と小声で励ましてもくれた。
 五階に着くまで五郎と菜摘は何もしゃべらなかった。一度だけ目が合って、お互い、気恥ずかしさまじりに笑った。彼女は「5」のボタンにランプが点いているのを見て、他のボタンを押す気配を見せなかった。五郎は菜摘も百円映画会に来たのだと理解した。
 五階に着いてエレベーターから降りると、五郎と菜摘はホールの入り口まで歩いた。しかし、そこは薄暗く、人は誰もいなかった。
「どうしたのかしら?」
 菜摘は首をかしげた。
「今日は映画会、ないのかなあ。上野さんはいつも来られているんですか?」
「あら、どうして私の名前を?」
「・・・えっと、あの・・・郵便局で見ました」
「そう。・・・ああ、名札ね」
「はい。上野さんは映画会へはよく来られるんですか?」
「ううん。今日初めて来たの。大槻君は?」
「えっ、ぼくの名前を?」
「知ってるわ。だって、あなたの郵便物よく目にするもの」
 五郎と菜摘は、仕方なくエレベーターに乗って一階まで降りた。菜摘は、ふと思いついたように、持っていた小さなバッグから携帯電話を取り出し、誰かにかけはじめた。五郎は傍で待っていた。
 菜摘は、電話を切るとこう言った。
「今、百円映画会のことをよく知っている友達に訊いてみたんだけど、今日は中止らしいわ。先月の映画会の時、今月は何かの都合でお休みになることを係の人が言っていたそうなの」
「そうですか」
 五郎と菜摘はB会館の外へ出た。そしてそのまま、昔からの友達同士のように歩いていた。
「ねえ、大槻君、あなたの通っている予備校ってY予備校なの?」
「はい。そうです。でもどうしてですか?」
「きっとそうだと思ったの。だってこの町じゃ有名だもの。Y予備校って」
「そうですか。ということは、上野さんはこの辺りに住んでいらっしゃるんですか?」
 五郎は菜摘に尋ねた。が、彼女は五郎の顔を見て、吹き出した。
「えっ」
「あ、ごめんなさい。だって大槻君、さっきからとっても丁寧に話すんだもの」
 菜摘は明るく笑った。
「あっ、そっか。すみません」
「ほら、またあ。私、あなたより一つ年上なだけよ」
 菜摘は五郎の顔をのぞき込んで微笑んだ。そして声を出して笑い始めた。五郎は真剣な表情になり、一つ二つと咳ばらいをして、
「近くに住んでるの?」
 と言った。
「ええ、ここから歩いて、五分もかからないわ」
「それじゃ郵便局へは電車で?」
「そう。M駅から毎日」
 菜摘はM駅のほうを見て言った。
「それにしても、中止なら貼り紙の一つもほしかったな。初めて来る人もいるんだから」
「それはそうね。私が映画会のことを聞いたのは半年ほど前だったかしら。さっきの電話の友達ったら、私が行くのを知っていたなら、中止になったことを連絡したのに、と言ったわ。今日は私、突然、映画会に行ってみたくなっちゃって」
「上野さんに会えるなんて、ラッキーだな」
「本当にそう思う?」
「もちろん!」
 五郎は菜摘と歩きながら夢を見ているような気分だった。二人はいつのまにかM駅まで歩いていた。

〜5に続く〜


 面影の空に(3)
後藤 雄二
2008年7月10日

 夏休みの予備校は、さまざまな講習に現役高校生も加わり、いつもより賑わっていた。
 五郎も不得意科目を中心にたくさんの講習を受けている。国文学科志望のくせに、また一番好きな科目であるにもかかわらず、五郎は古文の成績が悪い。
「『下手の横好き』ってお前のことだよな」
 進のからかいにもめげず、高校時代は、
(古典の世界っていいなあ)
 と五郎は居心地のいい場所を見つけた気分で古文の授業を受けていた。
 高校時代の進は、学年でトップクラスの成績だった。もちろん、古文の成績もずば抜けていた。五郎は、
「文法がいけないんだよな」
 と呟きながら、文語文法のほぼ完璧な進を横目に、悲惨な結果の答案を情けない顔をして眺めることがよくあった。古文の教師の話はいつも興味深かったが、テストは文法的な内容が大半を占めていた。五郎には訳の分からないテストに見えた。
 しかし、やはり古典が好きだ。好きなものは仕方ない。絶対、手放せなかった。古典が勉強できさえすれば、大学はどこでもよかった。人一倍、進学情報に疎いせいもあって、結局、英文学科志望の進が受ける大学の国文学科を、進の真似をするように五郎は受験していた。
 この夏、予備校の図書室によく入り浸っている。本を読むためというよりも、休憩に来ているようなものだが、好きな作家のエッセイなどを読みながら、参加する講座が始まるまでの時間を潰したりしている。
 図書室で、ある詩人の随想を読んだ時、心に留まる部分があった。その詩人は、
「古典の魅力は『愛惜の情』にほかならぬ」
 と述べていた。「愛惜」という語句が五郎には難しかったが、辞書で調べると、「惜しんで、たいせつにすること。なごり惜しむこと」とあった。なぜ、自分は古典の世界に魅かれるのだろう。五郎は、今までそれをうまく説明することができなかった。しかし、その言葉は自分の気持ちを代弁してくれているように五郎には思えた。
 遠い昔の人々の心が、時に、現代に生きる自分たちの心に、身震いするほど、ぴったり重なり合う。別の時代、別の場所、一見客観的なものが、次第に五郎の生活空間のひとつになっていった。その不可思議なようで、よく考えると当たり前ともとれる心のあり方が嬉しくて心地よい、そんな気分だけを抱きしめて五郎は古典に接してきたように思う。いつのまにか大きな拠り所になっていた。おそらく自分は、これから先、古人の心を探り、目の前にある闇を抜け出そうと試みるときがあるだろう。古典の空間に漂い、自分の可能性を託すこともあるかもしれない。もちろん、単純にいいなあ、と思える世界であることが一番嬉しい。だからこそ、五郎にとって古典の世界は、まるで宝物のように大切なものであった。何よりも手放したくないもののひとつだった。古典への「愛惜の情」を感じとること、実はそれを五郎は何度も体験して来た筈だった。文法は苦手だけれど。
 詩人の言葉は、五郎の中に深く染み込んでいった。その言葉は、五郎に、安堵感のようなものと確かな意欲を与えてくれた。
 予備校のそばに「モーム書店」という店名の本屋がある。四階建てのビルの三階までが書籍のフロアーで、四階には倉庫と事務室があるという。比較的大きな本屋だ。予備校生や近くのS大学の学生がよく利用する。学生たちはこの店を「モーム」と呼んでいる。五郎が進の見舞いに持って行った文庫本もこのモームで買った。三階は文庫本だけのフロアーで、大学生や予備校生に特に人気がある。五郎がここへ来ると、いつも多くの手持ち無沙汰な感じの学生たちが文庫本の背を眺めている。店名は、おそらくサマセット・モームからとったのだろう、と学生たちは口々に言うが、五郎はモームという作家がいたことなど全く知らなかった。予備校の友人に教えられて、初めて知った。
 ここ数日、五郎はよくモームへ行っているのだが、三階のレジにいるアルバイト学生らしき女性が気になっていた。
(どこかで会ったような気がする)
 そんな気持ちで、彼女のことをちらちらと見ていた。しかし、モームへ行っても、ほとんど立ち読みするだけで店を出てしまう五郎だったので、彼女との接点は無きに等しかった。
 たまには小説の文庫本でも買おうと思い、五郎はある日の昼休み、またモームの三階へ足を運んだ。いつものように、彼女はレジにいた。彼女を見かけるようになったのは、季節が夏らしくなってからだから、おそらく彼女は夏休み中の学生なのだろう。五郎は、面白そうな文庫本を一冊見つけて、レジへ歩いた。
「いらっしゃいませ」
 彼女は五郎を見て、ニッコリした。そして、
「こんにちは」
 と言った。
「こ、こんにちは」
 五郎は咄嗟のことで慌ててしまった。
「私、三田です」
「・・・ミタさん、ですか?」
「進さんのお友達のゴローさんですよね」
 五郎はその瞬間、状況が理解できた。
「そうだ、そうだ! 病院で会いましたよね!」
「はい!」
「どうもすいません。いつも、どこかで会った人だなあ、と思っていたんですけど、はっきり分からなくて・・・」
「私は何日も前から知ってましたよ」
「バイトしてるんですか? あっ、もしかして、S大の人ですか?」
「はい、そうです」
「ぼくはS大、落っこっちゃったんですよ」
「でもK大志望なんですよね」
「・・・よく知ってますね」
「国文志望ですよね」
「何でも知ってるんですね」
「進さんが父に話してました」
「マイったなあ」
 彼女は一見して物静かな感じの女性だが、少し話しただけで、人当たりのいい受け答えをする陽気な女性であることが分かった。
「めぐみちゃん、お昼に行って!」
 店長と思われる中年の男が彼女に言いながら、レジの前を通り過ぎた。
「はい」
 めぐみは、そう答えて、五郎の持って来た文庫本にカバーをつけた。
「ゴローさん、ちょっと時間取れますか?」
「えっ」
 めぐみは五郎に文庫本を手渡し、楽しそうな表情をした。五郎はただどぎまぎしているだけだった。

 四階の事務室で、身につけていた黄色いエプロンを外し、三階にいる五郎のところへ来ためぐみは、五郎を促すようにして一緒に店の外へ出た。
「ごめんなさい。すぐ近くに親友の家があるんです。いつもそこで休憩させてもらうんです。ゴローさんもよかったら来てください」
「でも、ぼくなんかがおじゃまするのはよくないですよ」
「いいんです。気さくな人だから。今日は焼きそばを作って待ってる筈です」
「いいのかなあ・・・」
「行きましょ」
 めぐみは屈託なく微笑んで、急ぎ足になった。五郎はめぐみに言われるままに駆け出した。突然の出来事で、どう振る舞えばよいのか、五郎には考える暇もなかったが、妙に心楽しい気分になっていることだけは自覚できた。
 駆け出して五分もかからないうちに、二人は、ある高層マンションの前に来た。五郎は額から汗が流れるのを感じた。夏の日差しが自分に注ぐのを感じた。二人は、エレベーターに乗り七階で降りた。めぐみの後ろを歩いていると、表札に「平松詩織」とある室の前まで来た。めぐみはチャイムも鳴らさずにその室のドアを開けた。
「詩織さーん、おじゃましまーす」
 そう言いながら、めぐみは五郎を見て、手招きし、二人は室の中に入った。
「どうぞ、どうぞ。・・・あら、どなた?」
 奥から出て来た、ふくよかな顔つきの詩織は、五郎を見て少し驚きながら、二人を迎え入れた。年配の女性が目の前に現れたので、五郎は一瞬戸惑った。
(めぐみさんの、親友?)
 詩織は、めぐみの母親だと言っても差し支えないような婦人だった。
「おじゃまします」
 五郎は恥ずかしそうに頭を下げた。
「進さんのお友達のゴローさんです」
「大槻五郎です」
 めぐみに紹介されて、すかさず五郎は自分を名乗った。
「進さんのお友達? それは大変。いらっしゃいませ。どうぞ、中へ」
「人が多いほうが楽しいと思って、来てもらっちゃったの」
「そう。こんな家に、若くて素敵な男性がみえるなんて、ありがたいことだわ」
 詩織は大らかに笑った。場が急に和やかになった。

 三人は、食卓につき、詩織がホットプレートで作っている焼きそばを食べ始めた。五郎は昼食を軽くパンとジュースで済ましていたが、焼きそばがあまりにも美味しそうだったので、ついごちそうになってしまった。
「アツアツで美味しい! 今日のような暑い日には、かえって、こんな鉄板焼きなどがいいのよね。また、部屋もエアコンがきいていて快適!」
 めぐみは、自分の家に帰って来たかのように、くつろいでいる様子で言った。
「ゴローさん、サラダも召し上がってくださいね。焼きそばのお味、いかがですか?」
 詩織が訊いた。
「美味しいです。これ、コンソメスープがかかっているんですか?」
「分かりますか?」
「時々行くお好み焼き屋で、よく焼きそばを作って食べるんですが、仕上げにコンソメスープを混ぜるんです。その味によく似ているから」
「ソースだけじゃないんだ。私なんかインスタントの焼きそばしか知らない。こんなに野菜やお肉がいっぱい入っている焼きそばは豪華の極み! お店の焼きそばにも負けてないわ」
「めぐちゃんたら、オーバーね。お店のほうが美味しいに決まっているじゃない」
「ゴローさん、どっちが美味しいですか?」
 めぐみがそう訊いたので、五郎は真剣な顔をして、
「さて、どっちかなあ」
 と言った。
 そんな五郎の様子に、めぐみと詩織は顔を見合わせて大笑いした。
「ゴローさんたら、そんな深刻な問題じゃないでしょう?」
「真面目なんですね、ゴローさんって」
 笑っている二人をよそに、五郎は、
「詩織さんのほうが、美味しいかな」
 と焼きそばを頬張りながら独り言のように言った。
 めぐみが詩織を親友だと言ったことに、嘘はなかった。詩織は、めぐみとS大学で知り合い、互いに気の合う学友として親しくなった。詩織は四十七歳、めぐみは五郎と同じ十九歳。母子ほど年齢の違う二人は、共に文学部心理学科の学生であった。詩織は、二十歳の時、十歳年上の男性と結婚し、二十一年間幸せに暮らしていたが、夫を病気で亡くした。夫婦には、子供は授からなかった。詩織は、最愛の夫を失った辛い数年間を経て、前向きに生きていくしかない現実を思い知り、大学への進学を決意した。そして、今年、S大学の社会人入試に挑戦し合格した。卒業後は、大学院へ進学する希望を持っていて、臨床心理士になることを目指している。仕事はしていないが、真面目で働き者だった夫のおかげで、大学で学び続けることが可能な、また日常生活を送るには困らない経済環境にいる。
 めぐみには母親がいなかった。酒屋を営む父親と、店を手伝う五歳年上の姉との三人暮らしである。父親が入院中のいまは、姉が二人の従業員と共に店を切り盛りしている。母親はめぐみが小学一年生の時に交通事故で亡くなった。
「めぐみさん、モームのバイトはいつからやっているんですか?」
 五郎が訊いた。
「この夏休みからです。父が入院してるので、私も店を手伝うって姉貴に言ったの。そしたら、邪魔になるから、それだけはごめん、って言われちゃった。だから、当てつけがましくモームでバイトすることにしたんです。夏休み中でも、こうして詩織さんと毎日会えることだし。・・・詩織さん、私のお母さんだったらいいな」
 めぐみは詩織と顔を見合わせて微笑んだ。
 食事が済み、三人でお茶を飲んでいると、五郎はふと我に返って、
(何だか、妙な勢いでここに来て食事をごちそうになってしまったけれど、自分は随分図々しいな・・・。ほとんど初対面の人たちなのに・・・)
 と思いはじめた。
「どうも、おじゃまして申し訳ありませんでした」
 五郎は椅子から立ち、二人に頭を下げた。
「あら、もう予備校へ」
 めぐみが言った。
「はい」
「私もバイトに戻らなきゃ」
「詩織さん、何だか図々しくて、すみませんでした。でも、ものすごく美味しい焼きそばでした。ありがとうございました」
「どういたしまして。またいつでも来てくださいね。進さんのお友達ですもの。ご遠慮なさらずに気軽に来てくださいね」
 詩織が温かい口調で言った。
 五郎は、めぐみと詩織が何度となく、進さんのお友達、という言い方をするのを気に留めていた。色々と話している中で、次第に、めぐみが進に思いを寄せていることも分かってきた。また詩織がめぐみの気持ちをよく知っていて、相談に乗っている様子も想像できた。めぐみは、進さんの好きな食べ物は何ですか? どういうタイプの女性が好きかしら? 高校時代はどんな高校生だったのでしょうか? などと矢継ぎ早に五郎に訊いてくるのだった。五郎は進がビデオ映画の主役を演じていたことなどを話した。めぐみが自分を誘ってくれた時、五郎はちょっとした自惚れで、めぐみは自分に好意を持っているのかもしれない、と思ったりしたが、それは完璧な勘違いだった。進の親友である五郎から、進の情報を得ようとするために、めぐみは五郎に声をかけたのだった。
 三人は、詩織の室の玄関先で、立ち話をしていた。
「めぐみさん、お父さんの病院へはよく行くんですか?」
「はい。時々。父が来い、来いって言うものだから」
「進、あまり病室にいないでしょう?」
「そうですか? 私、よく知りません」
「病院の外へ出て、あいつ、喫茶店によく行くんです」
「私、ほとんど進さんと話したことありませんから・・・」
「でも、ぼくが進の友達だとよく分かりましたね」
「ゴローさんのことはなぜか印象に残っているから・・・。父に『船村君の友達だよ』って教えてもらっていたから・・・」
「進、入院している女子高生たちと楽しそうにしていたなあ・・・」
 五郎は、少し意地の悪い口調で言い、めぐみを見た。
「進さん、入院患者として、態度、最悪です。父が言ってました」
 めぐみは、進のことを色々と五郎から訊き出していたくせに、五郎が少しでも進の話をしはじめると、逆に、私には関係ないわ、という風を装うような表情をした。詩織はそんなめぐみをほほえましそうに見ていた。
「進さん、お付き合いされている方はいらっしゃるのかしら?」
 詩織が遠慮がちに言った。
「いいなあ、と思う人がいるって言ってたことがありましたけど」
 五郎は進の言葉を思い出しながら言った。
 めぐみは、その瞬間、顔を曇らせたかと思うと、無言で室から走り出して行った。五郎と詩織は、ただ、めぐみの後ろ姿を見ていることしかできなかった。
「私がゴローさんに不用意なことを質問しちゃったから・・・」
 詩織は、心配顔で五郎を見た。

〜4に続く〜


 面影の空に(2)
後藤 雄二
2008年6月25日

 五郎は受話器をにぎりしめ、思わずそう呟いた。

 船村進から電話をもらった日の翌日、五郎は午後から予備校を抜け出して、見舞いに行った。退屈だというので、書店で面白そうな小説の文庫本を五冊買って、持って行くことにした。
 受付で病室を聞くと、すぐさまその室へ向かった。国立病院で少々古めかしい雰囲気があり、一部改築工事をやっている。五郎には、工事の音が病室に響くのではないか、と余計な心配が出てきたが、中へ入ると、それほど気にはならなかった。室の前まで行くと、二人部屋らしく、「船村進」の名札の上に、「三田龍之介」という名札が差し込まれていた。
 五郎はノックしてドアを開けた。そして、中へ入った。しかし進の姿はなかった。主人のいないベッドが一つあって、その隣に「三田龍之介」という人物らしき華奢な男がベッドに横たわっていた。
「ああ、船村君のお友達ですか?」
 三田は、新聞を見ていた眼鏡を外して言った。そして、ベッドの上に起きた。
「はい」
「船村君はちょっと散歩に行っています。もう戻ってくるでしょうから、これに掛けて待っていてくださいますか。船村君、とてもよろこびますよ」
三田は、ベッドの傍の壁に立て掛けてあった、折り畳みのパイプ椅子を五郎に勧めた。
「あ、どうもすみません」
 五郎は椅子をひろげ、腰掛けた。
 病室は想像していたよりも明るかった。
「・・・元気なんですね。散歩に行っているなんて」
 五郎は三田に言った。何も話さずにいるのは失礼なように思えた
「船村君は元気なことは元気なんですが、やはりしっかり静養せねばならんのです。私も彼と同じ病気ですがね、ひたすら身体を休めることが大事なんです」
 三田は白髪まじりの頭に手をやりながら言った。
「そうですか。散歩になんか行っちゃって・・・」
「ハハハ、実は散歩だと言いながら、病院を抜け出して、喫茶店にでも行っているじゃないですかね。ただね、この肺結核というやつは、油断して無理すると、取り返しのつかないことになりますよ。肺結核から、二次的に病状が悪化するおそれがありますからね。ま、だけど船村君は若いから早くよくなりますよ。若いっていうのはうらやましいです。彼も初めはおとなしくしておったんですよ。それが少しずつ我慢できなくなってきているんだろうね。出歩いてばかりいますよ。私には真似できません。・・・ひたすらお医者様のおっしゃることを守っていくだけです。それにしても、船村君は病人とは思えませんなあ」
 三田は感心するように笑った。
「そうですね。ぼくもお見舞いに来て、本人が留守だなんて、拍子抜けしてしまいます」
「ハハハ、そうですね。だが、彼は要領がいいんだね。わりとよく眠っているし、結構食べるからね。眠っている時など、地震が起きても火事になっても絶対目覚めません、という感じで熟睡していますよ。いい青年だね。全然物事にこだわりがなくてね」
 進はなかなか戻って来なかった。五郎は、しばらく三田と話しながら、進が戻るのを待っていた。
 ノックの音がして、五郎はドアのほうを見た。大学生風の女性が病室に入って来た。彼女は五郎を見て、軽くおじぎをし、笑顔で三田の傍へ行った。
「ああ、よく来たね」
 三田は彼女に言った。
「娘なんですよ」
 五郎のほうを見て嬉しそうな顔をした。
「これ、お姉さんから」
 三田の娘は、ペーパーバッグに入った荷物を一つ持っていた。
「何?」
「下着かなんかでしょ」
 娘は素っ気なく言った。
「あっ、そうだ。船村君は待合室にいるかもしれませんよ。彼は小説を読むのが好きとみえて、待合室で読んでいることがありますから。だが、よく聞いてみると、待合室にいると、この病院に入院している若い女の子たちがたくさんいるとかで、そちらのほうが楽しみなのかもしれませんね」
 三田が五郎に教えてくれた。娘はつまらなそうな顔をした。
 五郎は待合室に行ってみることにした。ところが、病室を出て十メートルも歩かない場所で、戻って来た進に会った。進は二人の女の子と歩いていた。
「おっ、ゴローじゃないか! 来てくれたのか!」
 進は病人のような恰好ではなく、TシャツとGパンにスニーカーを履いていた。女の子たちは高校生風で、パジャマの上にジャケットのようなものを着ていた。
「それじゃ船村さん、あたしたちはここで」
「また、お芝居の話、聞かせてくださいね」
「ああ、二人とも注射で泣くんじゃないぞ」
 女の子たちは、行きかけて、振り向きざまに二人してアカンベーをした。それからキャッキャッと話しながら歩いて行った。何となく、学校のような病院だと五郎には思えた。進は手に小説の文庫本を一冊持っていた。
「楽しそうな入院生活だな」
 五郎は皮肉っぽく言った。
「そうかあ? つまんない毎日だよ」
「何だい、あの子たちは」
「さっき初めて会ったんだ、待合室で。二人とも高校生だって」
「そうか。芝居の話なんか、してたのか?」
「ああ」
 進も高校時代、ビデオ映画制作研究会に入っていた。五郎は撮影班の一員だったが、進は演技班にいて、よく主役を演じていた。
「だけど、お前、いつもそんな恰好してるのか?」
「いや、散歩に行ってたんだ。そのあと待合室で小説読んだり、さっきの子たちと話したりしていたんだ。ゴローが来るって分かってたら、じっと待ってたさ。お前、昨日の電話で今日来るなんて一言も言ってなかったじゃないか」
「それは悪かった。単なる気まぐれで来たんだよ」
「・・・ありがとう。おれも本当言うと、お前が来てくれる気がしていたんだ。でもよく考えると、お前、学校があるだろ? だから日曜日ぐらいかなと思って、即スニーカーで散歩さ。だけど、ゴロー、予備校は?」
「うん。サボった」
「ホントか?」
「本当」
「へえ、お前、成長したなあ。このバカ真面目の撮影監督さんが。偉い、偉い」
「一言多いよ」
 そう言いながら、五郎は元気そうな進の顔を見て、安心していた。

 進はせっかく五郎が見舞いに来てくれたのだから、このまま病院の外へ出てみようか、と五郎に言って歩き始めた。五郎は一向に構わなかったが、そんな進を見ていて、
(本当に、じっとしてなくていいのだろうか?)
 と今度は心配になってきた。
「ゴロー、映画、観に行ってる?」
「うん。安い名画座ばかりだけど、日曜日に行ったりしているよ」
「そうか。いいなあ。で、最近何を観た?」
「この間。『カッコーの巣の上で』という古い映画を観たよ。何かすごい衝撃を受けたよ」
「精神病院が舞台だったよね」
「ああ。観たことあるの?」
「あるよ。ゴロー、いい映画観てるね」
 高校時代、五郎と進は二人でよく映画を観に行った。二人とも映画が大好きで、映画と名のつくものなら、何でも観たかった。いつか、調子に乗って、ロードショーを三館ハシゴしたこともあった。しかし、高校を卒業してからは、五郎と進はほとんど会わなくなった。進が大学に入学し、五郎が予備校に通うようになってからは、ぷっつり会うことがなくなっていた。
 二人は、進が時々行くらしい、LEOという喫茶店に向かって歩いていた。明るく自由な感じでいる進だが、入院生活では様々に抑制を強いられているようだった。歩き始めてから、やけに饒舌なのだ。
二人はLEOに入った。新しくきれいな店だ。
「勉強の調子はどうだい?」
「うん。何とかやっているよ」
「古文の成績、少しはよくなったか?」
「相変わらず、かな」
 五郎は苦笑した。
「そうだろうな」
「何だい、その言い方。こういうときは励ますものだろ?」
「ゴローに古典文法は無理。めちゃくちゃだもん。せいぜい英語で稼ぐんだな。お前、英語はましだから」
「冷たいやつだなあ」
「違うよ。こういう一見、突き放したような言い方をして、ゴローをよい方向へ導いてやってるわけさ。感謝しろよ。親友だからこそさ」
「もっと心温まる親友がほしいよ」
 そう言いながら、五郎は、
(こんな会話、久しぶりだな)
 と思った。心地よい気分を味わっている自分に気がついた。予備校には進のような親友はいない。
「入院した日、診察で、先生がこう訊いたんだ。『君の趣味は何だね』って。で、『映画観ることです』って言ったんだ。でもそのあとが悪かった。『そうか、映画が好き、か。映画がねえ』だってさ。『仮に入院中に外泊許可が出ても、映画館はダメだよ。退院してもしばらくはおとなしくしてなきゃいけない』って先生に釘を刺されちゃったよ。ほら、映画館ってよく考えると空気のきれいな場所じゃないだろ。時々タバコ吸う不届き者もいるしね。・・・入院生活スタートにして、大ショックだったよ。そんなに大変な病気になったのかな、と不安にもなったよ。だけどもう二ヶ月めだろ、たった一日でも病院の中じゃ長く感じられるんだ。毎日ベッドの上にいると、重病人になっていくようで、本当はすごく恐かったんだ。『カッコーの巣の上で』じゃないけれど、医者の言いなりになって、病院の中に閉じ込められているような毎日が苦しくなっていったんだ」
 進は、ホットミルクを飲みながら、訴えるように言った。
「何だい、被害妄想的だなあ、進。患者さんたちは厳しく管理されているわけでもなさそうだし、それは単なるわがままだよ。入院は病気を治すためのことなんだから」
 五郎は、アイスティーを一口飲んで、言った。
「お前だって、入院生活を送ってみたら、分かることさ。好きな映画も観に行けない生活なんだぜ。もちろん、おれだって死ぬのは嫌だから、医者の言うことはちゃんと聞いているよ。だけど普通にしていたいんだ」
「だからTシャツにGパンでスニーカーってことか? 気持ちは分かるけど、病状が悪化しても知らないぞ。それに早く治さないと、来年も大学を休学なんてことになるぞ。それと、お前、劇団に入って芝居に磨きをかけるって、前に言ってたけど、それだって夢の夢になっちゃうぞ」
「ああ、分かってるさ。言ったろ。医者の言うことはちゃんと聞いているって。でも自分では本当に元気なんだぜ」
「それはよく分かるけどさ」
「心配するなよ」
「うん。分かったよ」
 五郎は苦笑加減に言った。
「映画の話でもしてくれよ」
「・・・お前、本当に映画、観たいんだな」
「ああ、観たい。DVDもいいけど、やっぱり映画館だよ。コメディーが観たいなあ。あの爆笑のどよめき。思い出しただけでもワクワクしちゃうよ」
「進・・・」
 五郎は、このまま進を連れ出して、思う存分、映画を観せてやりたい衝動に駆られた。しかし、そんな映画のような大胆なことは、決して五郎には出来るものではなかった。やはり進の身体が心配だ。いま病院を抜け出して話をしている最中でさえも、五郎は進の身体が気になって仕方がない。
「・・・まあ、我慢することだな、映画館は。そんなことより、模範的な患者になって早く退院することだよ」
「努力するよ」
「バカに神妙だな」
「たまには、ゴローの言うことも聞かなきゃな・・・。それより、お前、彼女は出来たのかい?」
 瞬間、菜摘の顔が浮かんだ。五郎は進にも誰にも、菜摘のことを話したことがない。
「突然何の話だよ。変なこと訊く奴だなあ」
「ま、ゴローには彼女は出来ないな。女性に対して、内気なゴローちゃんだもん」
「うるさいなあ。いまのおれは勉強一筋だよ。そんな暇はないよ。あっ、そうかあ。お前、彼女出来たんだな」
「まあね。相変わらずおれはモテモテだよ」
「その言い方は、彼女いないってことだな」
 五郎は笑って言った。
「お前はとことんひねくれてるなあ」
「お互い様さ」
「・・・いいなあ、と思う人がいるんだ。あれっ、おれ何でこんな話、ゴローにしてるんだろ。もうやめとこう、この話は」
「聞きたいなあ」
「いいよ。お前、もう帰れよ。勉強一筋なんだろ?」
「言いかけたことは聞かせろよ」
「恥ずかしいから、いいよ」
 進は本当に照れていた。
「・・・じゃ、帰るとするか。あっ、そうだ。本を持って来てたんだ」
 五郎はバッグの中から、予備校の近くの書店で買った五冊の文庫本を取り出して、進に手渡した。
「おっ、サンキュー。あれっ、これほとんど読んじゃったよ。お前が選んだのか?」
「そうだけど」
「あーあ、お前とおれの趣味は同じか。あー嫌だ」
「嫌ならいいよ。持って帰って読むから」
 五郎は膨れっ面をしながら、進の手から文庫本を取り上げようとした。
「あ、ゴメンゴメン。二冊だけもらっとく。読んでない本だから。これ、読みたかったんだ。・・・おいおい、そんな嫌そうな顔するなよ。心の中では感謝してるんだから。あ、そうだ。ゴロー、これ持って行かないか? おれが読んだやつだけど、もう読んじゃったから」
 進は、待合室で読んでいた小説を五郎に差し出した。
「読んだやつでゴメン。けっこう面白かったよ」
「そうか。じゃ読ませてもらうよ」
「うん。この三冊もよかったぜ」
 進は五郎が持って来た、残りの三冊を差し出して笑った。
「ああ、読むよ」
 二人は、LEOで一時間近く話した。そして、時々病院へ進の顔を見に行くことを約束して、五郎は帰途についた。

〜3に続く〜


 面影の空に(1)
後藤 雄二
2008年6月15日

 大槻五郎の家の前には、コンビニと郵便局が並んでいる。五郎の母などは、それをとても便利だと喜んでいる。しかし、いまの五郎はコンビニはともかく、家の前の郵便局をまず利用しない。郵便局へ行く必要のある時は必ず上野菜摘のいる郵便局へ行く。いや、無理に用事を作ってでも、五郎はあこがれの菜摘が勤める郵便局へ足を運んでいる。
 高三の冬休みのある日、五郎は母に手紙を出してくるように頼まれた。家の前に郵便局があるからといっても、めんどうなこともあるらしい。一人っ子の五郎は何かにつけて、母によく使いを頼まれる。五郎は外出するついででもあったので、それを引き受けた。
 母は五郎に、
「手紙と一緒に写真が入っているの。きちんと重さを量ってもらってから切手を買ってちょうだい」
 と告げた。
 母にその用を頼まれる前、五郎は二日前に名画座で観た『マイ・フェア・レディ』のサン・トラ盤を買いに出かけようと思っていた。ミュージカル映画はあまり観たことのない五郎だったが、オードリー・ヘップバーンの美しさにとろけてしまいそうになった。軽快な音楽が、五郎のまわりをいつまでも踊っていた。
  五郎は母から受け取った手紙をブルゾンの内ポケットに入れて、玄関を出た。そして、愛用のスクーターバイクを、シートを外して家の外へ出した。そのあと、家の前の郵便局で用を済ませるつもりだった。
 ところが、五郎はうっかりして、バイクに跨り、エンジンをかけて、走り出してしまった。しかし、ま、いいや、と呟いて、五郎は引き返すことをしなかった。それは、行こうとしていたCDショップの五、六軒ほど先に、たしか郵便局があった筈だ、という気持ちが五郎の中にあったからである。
 その郵便局こそが菜摘の勤める郵便局であった。
 冬晴れの、青空が澄み渡る日だった。
 五郎は郵便局よりも先にCDショップへ行った。
 そこは商店街だった。このCDショップに来たのは初めてだったが、商店街には時々バイクを走らせ、通り過ぎることがあったので、五郎はCDショップがあることを知っていた。
 店内に入ると、五郎のほかに客はいなかった。五郎は映画音楽のコーナーをさがし、思い通り『マイ・フェア・レディ』のCDを手にした。レジへ歩いた。レジにはその店の奥さんと思われる、痩せた女が何か考え事をしている様子で座っていた。 
「あの・・・」
 五郎が言った。
「あ、いらっしゃいませ・・・」
 と女は言って立ったが、五郎を見るなり、
「ひゃあっ!」
 と驚きの声を出した。そして、両手で胸を押さえ目を見開いて、しばらく五郎の顔をじっと見ていた。
 五郎は、自分の顔に何かついているのかと一瞬慌ててしまったが、そんな覚えはひとつもなかった。
「あの、CDを・・・」
 五郎は女にそう言ったが、女はまだ、五郎の顔を見ていた。
「CDを」
「・・・あ、すみません。ただいま」
 女は我に返った。
 五郎は、さらにこのCDショップで何か妙なことをやっただろうか、と店に入ってからのことを思い返してみた。しかし、何も思い浮かばない。何がどうなっているのだろう。五郎は様子が分からず嫌な気分だった。
「どうもありがとうございました」
 女は丁寧におじぎして、五郎にCDを渡した。
 五郎は店を出る時、ちらっと振り返った。女は、まだ五郎を見ていた。

 そんな出来事のあと、五郎は菜摘のいる郵便局に初めて行った。CDショップから七軒先に郵便局はあった。中に入るなり、五郎は菜摘と目が合った。不思議と、菜摘が自分をじっと見つめているようにも思えた。
 母の手紙の重さを量ってくれたのは菜摘だった。五郎は彼女を一目みて、胸が高鳴っているのを自覚した。こんなに気持ちのいい胸の高鳴りを経験するのは初めてだった。ついさっき、CDショップで奇妙な出来事があったのに、それをすっかり忘れて、五郎は菜摘に見惚れていた。
 菜摘は笑顔が可愛くて、明るく話す女性だった。髪は、肩にかかるか、かからないかの長さで、さらさらした感じだった。顔は、あごが少しだけ目立たない程度にとんがっていた。
 胸の名札には「上野」とあった。五郎はその姓をすぐに覚えた。
 そんな出来事をからませて、五郎は高三の受験シーズンを迎えた。いつも、郵便局へ行ける用を見つけては、菜摘の郵便局へ出かけていた。そして、部屋の中では、いつとはなく菜摘の顔を思い浮かべているのだった。だが、思い出そうとすればするほど、だんだんぼやけてきた。顔の輪郭だけが残り、目鼻立ちがぼんやりしてくる。そして、輪郭までもがぼやけはじめる・・・。五郎は、一日中、菜摘の姿を見ていたかった。
 高校で、ビデオ映画制作研究会に入っていた五郎は、何とか菜摘の姿をビデオに収められないか、と考えていた。でも面と向かってビデオカメラを構えるのは不自然だし、そんな勇気も持ち合わせていない。隠し撮りは最低だと思っている。叶わない夢に終わりそうだ。ましてや、思いを告げることなど、気の小さい五郎には、出来そうにもない。
 受験がすべて終了し、五つ受けたうちの四つの大学の不合格を知らされて、すっかり落ち込み、ごろごろ寝てばかりいた五郎は、また母に郵便局への使いを頼まれた。もちろん五郎はすぐに菜摘の郵便局へ行った。
 母に頼まれたのは、郵便振替でお金を払い込むことだった。母が受講しはじめた絵画教室の通信教育の受講料だった。
 郵便局に着くと、ちょうど暇な時間帯だったのか、郵便振替を扱う窓口に、二人の客が並んでいるだけだった。菜摘は切手やハガキを売っている窓口で事務の仕事をしている様子だった。仕方なしに、五郎が二人の客の後ろに並んでいると、仕事を終えた菜摘が郵便振替を扱う窓口のとなりの窓口に移りながら、
「こちらへどうぞ」
 と五郎を見て言った。
(今日は運がいいぞ・・・)
 五郎はそう思って、すぐさま菜摘の窓口に立とうとした。しかし、五郎の前に並んでいた主婦らしき小肥りの女が、すかさず菜摘の窓口に立った。と同時に、先頭にいたサラリーマン風の男が済んだので、五郎はその窓口の男性職員に、
「どうぞ」
 と言われた。
 菜摘の窓口に並んでいたかったが、そうも出来ず、あきらめて、男性職員に払込用紙を渡した。五郎は、それを処理してもらいながら、ちらちらと菜摘のほうを見ていた。
まもなく小肥りの女の処理が済み、女が郵便局を出て行くと、
「大学、どうでした?」
 と菜摘がニッコリ笑って、五郎に声をかけた。
「えっ」
 五郎は、大学の願書もすべてこの郵便局から送っていたのだった。菜摘が自分のことを少しでも知ってくれていた事実に感激し、また、菜摘からの話しかけに嬉しさを隠せないでいる五郎は、となりの窓口に立ったまま、菜摘と話した。
「・・・それが、なんともうまくいかなくて、あと一つダメだったら、浪人決定というところです」
 五郎は、そう言いながら笑った。
「合格だといいですね」
「はい!」
 五郎は郵便局を出る時、菜摘に会釈した。菜摘は人なつっこく微笑んだ。
 翌日、最後の大学の合格発表があった。全敗となった。

 五郎の浪人生活も三ヶ月目に入っていた。そんな六月のある日、船村進から電話がかかってきた。
 進は、五郎の高校時代からの親友で、いまK大学英文学科の一年である。五郎と同じ五つの大学を受験し、すべてに合格した。浪人生となった五郎は、国文学科を志望していたが、大学選びで、進の影響を受けていたことは否定できない。その進であるが、五月のはじめ、入院したという。
「だってさ、知らせるとみんな心配するだろ? おれ自身はとても元気なんだ。でも、やっぱりゴローには言っておこうと思ったんだ」
「そうか。でも本当に大丈夫なのか?」
「うん。元気だぜ」
 進は肺結核で入院しているのだった。病名を聞いても五郎はピンとこなかった。
「こんな病気になるなんて、意外だったよ」
 進は不思議そうな口調で笑った。
 大学に入ってから、しばらくして、急激に体重が減ってきたので、進はおかしい、と思った。もともと痩せていた進だったが、体重激減の体験など、今まで一度もなかった。それが気になり、病院へ行くと、医師は肺結核であると診断し、即入院となった。進の自覚症状は、体重が減っておかしいと思ったことだけで、痛いとか苦しいとか喀血するなどという症状は一切なかったという。
 進は大学が決まってから、ある出版社の倉庫でアルバイトをしていた。病気の直接の原因とは言い難いが、その倉庫は、埃っぽく、健康を害しそうな場所だった。その上、知り合ったバイト仲間と意気投合し、バイトが済むとほとんど毎夜、麻雀大会だったそうだ。進は覚え立てで、やけに調子もよかったため、面白くて夢中になった。
「あれがたたったんだよ。超睡眠不足だったもんなあ」
「そう言えば、進、お前、バイト始めた頃、よく麻雀の話、してたなあ」
「大学生を気取りたかったのかもな」
「ふん、こっちは浪人生だよ」
「誰もそんなこと言ってないじゃないか」
「でも今どき麻雀で大学生気取りだなんて、古臭くないか。それに気取らなくても、お前は立派に大学生なんだから・・・」
「確かにそうだな」
 進は五郎の言葉に小さく笑った。
「何笑ってんだよ」
「いや、何でもないよ。愛してるよ、ゴローちゃん」
「変なやつだなあ。電話切るぞ」
「おい、待ってくれよ。お前の生真面目なところがいいって言っているんだよ。そうだ! ゴロー、よかったら見舞いに来てくれよ。もう二ヶ月近くも病院の中だよ。退屈でたまらないよ。入院は来年の一月頃までなんだぜ。大学だって休学中だよ」
「休学? そんなに長く入院するのか?」
「よく分かんないけど、とにかく、栄養と睡眠をしっかり取ることが大事なんだってさ」
「そうか。お前、痩せてるもんな。やっぱり重病患者じゃないか。元気だ、元気だって言ってもさあ」
「ゴロー、そんなふうに言ってくれるなよ」
「うん。だけど大事にしろよ」
「分かってるって」
 病院で診察を受けた時、右の肺に穴があいているのが分かった、と進は言った。進の素人っぽい説明によると、血管部分に穴があいた場合は喀血することがあるそうだが、そうでない部分に穴があいていたので、血を吐くことなく済んだのだという。しかし、それは考えようによっては恐ろしいことであった。進が自分の体重が急激に減ったのを、
(大したことではない・・・)
 とでも思って放っておいたら、大事に至っていたかもしれない。こんなふうに今、電話で話すことなど出来ただろうか。
「進、早く病院へ行ってよかったなあ」

〜2に続く〜