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ブリスベン滞在経験(8)<最終回> 佐藤ひろ子 2011.6.8
ブリスベン滞在経験(7) 佐藤ひろ子 2011.6.8
ブリスベン滞在経験(6) 佐藤ひろ子 2011.6.8
ブリスベン滞在経験(5) 佐藤ひろ子 2011.6.8
ブリスベン滞在経験(4) 佐藤ひろ子 2011.5.25
ブリスベン滞在経験(3) 佐藤ひろ子 2011.5.25
ブリスベン滞在経験(2) 佐藤ひろ子 2011.5.25
地を走る"はやぶさ"初乗記 大木陸夫 2011.6.2
ブリスベン滞在経験(1) 佐藤ひろ子 2011.5.25
ミレー館を訪ねて 吉原 司郎 2010.2.7
『出雲国風土記』を訪ねる旅(4) 大木 陸夫 2007.8.20
『出雲国風土記』を訪ねる旅(3) 大木 陸夫 2007.8.9
『出雲国風土記』を訪ねる旅(2) 大木 陸夫 2007.7.4
『出雲国風土記』を訪ねる旅(1) 大木 陸夫 2007.6.29
利尻とウニ 今泉 みゆき 2007.5.25


 ブリスベン滞在経験(8)
佐藤ひろ子
2011年6月8日

 14)  Zoos

オーストラリアでは動物園の入場料が日本と比べると、とても高いです。
これまで何度もオーストラリアに行っていましたが、Bは犬・猫が好きな割にはその他の動物には興味がないらしく、または入場料が高いせいか、ブリスベンの近くの「Lone Pine Koala Sanctuary」というコアラとカンガルーしかいない(今は、鳥や羊なども居て、動物園も整備されています)動物園にしか、案内してもらえませんでした。
(現在、ここも2,700円位します。)
今回は是非クイーンズランドで一番大きいオーストラリア動物園に行きたいと思っていた私は、マディーとの日常会話で、そんな思いも話していました。

マディーはダンスの好きな、オシャマな女の子です。
お喋りで、良く私の話し相手になってくれました。
ある日、今度の土曜日にオーストラリア動物園に行くとチャックから言われました。
思いがけないことで一瞬驚きましたが、実はその日はマディーの誕生日で、彼女が誕生日のプレゼントに動物園行きをリクエストしたとの事でした。
その翌日は私の最後のホームステイの日でした。
優しいマディーの私への思いやりを嬉しく思い、奮発して彼女に可愛いブラウスをプレゼントしました。
デイビス家のみんなも、この動物園には行ったことがないそうです。

次の土曜日、お弁当・おやつを持ってピクニック気分で動物園に出掛けました。
車で約一時間、着いた動物園は動物の種類はあまり多くありませんでしたが、それなりに広い敷地です。
鰐、鳥類、象、羊、蛇などのショウやふれあいタイムが時間毎に設定されており、最後は質問の時間も有り、教育の場にもなっておりました。大人も子供も沢山質問をしていました。
動物園

動物園


オーストラリアはどこの動物園でも、10ドルぐらいの料金でコアラを抱いて記念写真を撮ることが出来ますが、ここでは、抱けません。しかし、低いユーカリの木にしがみついて居るコアラを無料で触ることが出来ました。こんなことは他ではありません。

ショウの合間にお昼を食べたり、おやつを食べたり、一日中ここで過ごしました。
入場料は53ドルでした。
あまりの高さにエッと思い、料金表をもう一度見直したほどです。
(3人家族、4人家族、5人家族など増えれば増えるほど安くなる家族割引がありました。)
チャックは、「家族四人、一日動物と触れ合ってその動物の事が良く解り、楽しく過ごせるのだからリーゾナブルな料金だ」と、満足しておりました。
勿論上記以外にもオーストラリア特有の動物がおり(ウオンバット、エミュー、ディンゴ)、カンガルーなど数えきれない位あちらにもこちらにも・・。
50セント位でカンガルーの餌が買え、手から食べさせることが出来るのですが、餌を買い与える観光客が多いのでしょう、ほとんどのカンガルーはお腹がいっぱいで寝ておりました。

園内はきれいに清掃され、飼育員は皆かなりの知識を持っており、丁寧に動物の世話をしていたのが印象的でした。

 15) Halloween

ハロウィーン

ハロウィーン

こちらでハロウィーンを祝う習慣は、アメリカの様にメジャーでないそうですが、楽しいことの好きなシャロンはご近所様と計画しておりました。
大人も子供も衣装を着けて、5軒の家を一軒ずつおよそ30分位かけて回って歩きました。
その家ごとに子供たちを持てなすゲームや模様押し物を用意し遊ばせ、大人は大人でパーティー気分で飲んだり食べたり楽しむのです。
私もマディーにピーターパンの様な服を着せられて、参加しました。
子供以上に大人が楽しんでおりました。
各々たった30分の持ち時間なのですが、どの家庭も「我が家こそ」と競ってハロウィン行事を盛り立てている様子が目に見え、とても面白かったです。
それにしても、本当にご近所が仲良しです。
デッキが出来上がった後は、お隣のご主人ロバートなど毎日の様に自分のビールを持ってデイビス家に顔を出していました。その奥様も例外ではありませんでした。

 ☆ Brisbane

ブリスベンの街には黒い人、白い人、黄色い人と様々な人が住んでいます。
電車などに乗っているとここはどこの国かと思うほど多くの人種がおり、推理不能な言葉が飛び交い、しかしトータルで6ヵ月間ブリスベンの町に住んでみて、これがオーストラリアなのだと認識が出来ました。
メルボルンの近くには、ここはギリシャかと思うような街もあるそうです。
戦後、国内の労働力需要の増大により、東欧系難民の受け入れがおこなわれ、さらにイタリア、ギリシャからの移民・移住が進められましたが、今は東南アジアからの移民を毎年15,6万人受け入れしているとの事。
ナンダ・コミセンのニュースレターでは、現在オーストラリア人は純粋の英国出身の夫婦は国民の25%を切り、次いでニュージーランド、ベトナム、中国、ギリシャ、フィリピン、インド、そしてスーダン、アフガニスタン、ソマリア、バングラディッシュからの移民で構成されていると書いてありました。

こんなに多くの移民・難民を受け入れて大丈夫なのかと思いますが、コミニティーセンターに通ってくる人には定住の為のトレーニングも有りますし、各種年金も出て、特に仕事が無くても困っているようには見えませんでした。
国もいろいろ人道的な立場で支援の政策があり、住民も上記の様に先祖は皆移民の様なもので人種差別意識も見られず、特に英会話クラスの先生方は英語以外にも親身になって新オーストラリア人(?)の相談に乗っており、感心しました。

それでも最近は市民としてふさわしいかどうかを審査するために、2007年より市民権テストが導入されたそうです。

また永住権(こちらは、選挙権がありません。)も、オーストラリアに役に立つ人かどうかの立場から、専門的な技術を持っている人に多くのポイントが与えられ、次いで年齢、英語が話せるかなどでポイントが課せられ、合計で120ポイントの条件を満たさないとビザの申請が出来なくなったそうです。

インターネットでユーチューブ・ブリスベンを検索しますと、もっといろいろなブリスベンの情報が動画で得られますので、試してみて下さい。
私の写真で紹介できなかった、きれいなブリスベンを楽しめます。
日本で云う桜の花の様に、9月頃から一ヶ月紫色のジャカランダの花がブリスベンの街中に咲きます。
散るとこれまた桜の様に、道路が紫の花びらの絨毯になります。
ジャカランタが終わると、ポインセチアに似た、ポインシーニアと云う真っ赤な花をつける木々も南国らしく美しいです。
街には、日本のお店で売っているようない美しい鳥が飛びまわっています。
xxxx、フォーエックスと云う美味しいビールもあります。工場の見学も出来ます。

ジャカランダ ポインシーニア

ジャカランダ

ポインシーニア

 ☆   In conclusion  ☆

若い頃から待ち望んでいた長期海外滞在でしたが、ここで学んだことは、当たり前の事なのですが、「どんな国に住んでも、自分の国の歴史や文化を理解しておく」
そして、「何かする時は、必ず目的を持ってする」と云う事でした。

昔から、なんとなく、との漠然とした思いで海外生活を実行した私は、せっかくのこのチャンスを半分以上無駄に過ごしてしまったと、今は後悔しています。
英語力をつけるなどの目的をここに付け加えていれば、もっとキチンとした英語を勉強するチャンスもあったでしょうし、話すようになれたでしょう。
"英語圏に住めば経験で、少しは上手になるだろう"と考えたり、お金がかかることを避けたばかりに、ダラダラ・フラフラと貴重な時間を無駄に過ごしてしまいました。

とは言え、この経験から得たものもありました。
センターでボランティアの先生方から英会話を教えていただいた経験から、本当に、昔から、なんとなく、日本に来ている外国人の方々に日本語を教えてあげたいと思っていた気持ちがハッキリし、帰国後準備を進め、2010年の4月からそれまでの精神障害者の作業所でしていたボランティアに加え、ふたつのボラを始めることになったのです。

そのひとつは、"NVGほどがや"(日本語ボランティアグループ)に所属し、日本語指導の勉強をさせて頂きながら、教室で外国人に日本語を教え始めました。
もうひとつは、インドネシアから介護福祉士の資格を取るために来日している女性に、日本語を教えながら資格試験の勉強を見てあげていることです。

放送大学に入学して2年が経ちます。ようやく学ぶ目的が見えてきました。

☆☆☆ 最後に ☆☆☆

今回のテーマ「ブリスベン滞在経験」の副題に「A present from my husband」とつけさせていただきました。
理由は、夫が亡くなる前の月に、病床の彼が私にあるプレゼントをくれました。
彼の貯金通帳です。
共働きだった私達は、生活に必要な経費をお互いに出し合い、残りの分は各自に貯金をしておりました。
どうして?と不思議がる私にニコニコしながら、これまでの私への御褒美だというのです。
そして、「これが僕に出来る、君への最後のプレゼント。このお金と僕の退職金で君の大好きな海外旅行に、世界一周の旅をして」と。
そう言う訳で、このブリスベン滞在も、彼からのプレゼントの一つでした。
夫は最後のプレゼントと言いましたが、彼からの旅のプレゼントはまだまだ続いております。

長い間、私の拙い文章を最後まで読んでいただきまして、本当に有難うございました。  (了)


 ブリスベン滞在経験(7)
佐藤ひろ子
2011年6月8日

12) Their children

 デイビス家の3人の子ども達は、10歳の男の子レンジー、9歳と7歳の女の子ケイトとマディーです。
それにグレイトデーンの雑種のサムという大型犬。
サムは人間と同じ居間に自由に出入りし、ソファーでも寝ます。
家中すぐに毛だらけになりますが、誰も気にしません。

 デイビス家は表通りに面して前庭、母屋(二階建て)、裏庭(デッキになりましたが)、プール、そしておばあちゃんの家と庭の縦長の作りです。
プールの脇にはグランマの家に行くための通路があり、またそれに沿って腰の当たりまでの高さの花壇がありました。

サムはあまり散歩に連れて行ってもらえず、前庭からグランマの庭まで毎日フラフラとしていますので、前庭にも、通路にも、グランマの庭にも糞をします。
庭、通路には大きなシャベルが置いてあり、サムの糞を見つけるとそれですくって花が植えてあるガーデンに捨てます。
私も最初の日から、通路にしてあった糞の処理の仕方を教えられました。
という訳でここの家のハエもすごいです。蚊もすごいです。
木登り

木登り

オーストラリアの木

オーストラリアの木

お弁当作り

お弁当作り

工作

工作

プール遊び

プール遊び

宿題

宿題

ある日キッチンの壁に真っ黒とうごめく何千、何万という蟻が現われました。
シャロンは「雨の前兆だから」と驚く様子も有りません。その内にいなくなると言いました。
皆、何でも、気にしないのです。蚊やアリに刺されて大変だったのは私だけの様でした。
ハエ取りは日本と違いランタン(手さげランプ)の形をしており、中に少し水を入れると魚の腐ったように臭いが発生し、ハエを誘います。
中に入ったハエは水におぼれたり、一度入ったら出てこられない仕組みになっていて、度々水を入れ、(大型のジャムの瓶ぐらいの大きさ)瓶口まで一杯になるまで使います。
日本の昔の天井から吊るすハエ取りも私には不気味でしたが、これまた不気味で、でもここで生活するには無くてはならないものでした。

子供達は活発で(近所の子供も)、家・庭は裸足で歩きます。普段、隣近所に行くのも裸足です。怪我をしないかと心配でした。ある日、マディーがガラスの小さな破片を足に刺し泣いて帰って来たことがありました。(やっぱりねぇ〜。怪我しない訳ないよねぇ〜!)
母親が棘抜きや針で取り除きましたが、その後洗いもせず消毒もせず、マディーもそのまま、また裸足で遊びに戻りました。
日本では本当に考えられない事が、ここでは当たり前の様に起こります。
大人達も裸足でガーデンの水まきをしていました。
しばらくして、ガーデンの水撒きは私の仕事になりました。

オーストラリア人の多くは裸足で居る人が多いそうです。
Dも、家に帰ると裸足でした。
裸足で出かける人もいるとBが言うので、半信半疑でいつも人の足元を見ていたことがありましたが、いました!
電車の中で家族3人らしき人達に会い、中学生くらいの男の子が本当に裸足だったのです
。 Bの隣のご主人も家から表通りのメールボックスまで、裸足で手紙を取りに行っていました。15,6メートルはあります。

ブリスベンではすごく太くて大きいのに地面からすぐに登れる形の木が多く、子供たちの恰好の遊び場になります。
女の子も男の子も木登りが大好きです。大人も誰も注意などしません。
この辺ではプールのある家が多く、休日は子供たちが集まって水中でボール投げをしたりゲームをしたり2時間近くはたっぷり水に浸かっています。
あまり楽しそうなので私も泳いでみましたが、水は冷たく10分ほどで日向ぼっこになりました。夕方になってもまだ泳ぎます。
本当に驚くほど丈夫です。

デイビス家では週に3,4回はレンジーとケイトが学校のお弁当を作り、残りの日を母親のシャロンが作っていました。
休日子供達はお互いに泊りに行ったり来たり、おやつもホットケーキなどガスレンジを使って上手に焼いていました。
女の子はアイロンを使ってビーズのブローチを作ったり、男の子たちはデッキの切れ端を使って工作などしていました。みんな大人の道具を使い手慣れたものです。
友達の誕生プレゼントは自分たちで綺麗な紙で包んだり、リボンをしたり(家の中にある物で)、手作りです。

ある日、隣の家に行くから飲み物を持って一緒に来いとチャックが言うのでついて行くと、近所の大人達がリビングに集まっており、小劇場の様に椅子を並べて座っていました。
実は子供たちが即興劇をするからと大人達を呼んだのです。
子ども劇ですが(小学校1年生から6年生)衣装もそれなりに決まっており、大人達もワインやビールを片手に楽しんでおりました。
演技力のすごかった女の子に「将来は女優になりたいの?」と聞いたところ、プライムミニスターだとの返事で、また驚かされました。
日本の子供達はどうでしょう・・・・と言っても、首相がころころ変わるこの国ではそういう気持ちにはならないかも知れませんね・・・。

子供達は家で仕事の役割分担はあるのですが、食器をしまったり、テーブルの用意をしたり、生ごみを堆肥作りの箱に捨てに行ったり、でしたね。

宿題のある時は朝食後にしていました。
宿題と云っても、先週一週間を家でどの様に過ごしたかとか、何を食べたかとかでシャロンと一緒に考えながら書いていました。
時間に余裕がある時は一年生のマディーの為に単語ゲームなどもしていました。
そんな時は私も誘ってもらい参加しました。いくらスペルに弱いと言っても、マディーには負けられませんからね。
でも、何回かのうちには私の知らない単語も結構ありました。
楽しかったです。

13) Their elementary schooly

 子供達の通う州立Sun Smart schoolは母親シャロンのレストランの近くにあり、家から車で7,8分の所にありました。
マディーは1年生。ケイトとレンディーは4年と5年生です。
洲によって入学の年齢が異なるそうですが、ここは5才からpre-schoolがありました。
幼稚園の様で、でも幼稚園ではないのですが教育の場で、今は10年前の小学1年生の7割位の授業をここでしているとの事です。

小学校は1年から7年生まで。8年生から12年生まではハイスクールになります。
試験はありません。大学は有料ですが、希望者全員が入学できるそうです。
労働者不足のオーストラリアでは、ハイスクール卒業後すぐ就職出来るので大学に進学する人はそう多くはないそうです。

デイビス夫人に「小学校の授業が見てみたい」と話したところ、すぐに「いいですよ」の返事をいただきました。
誰でも、いつでも授業は見学出来るそうで、オフィスで記録簿に名前と登校時間を記入し、帰りに退出時間を書くシステムになっていました。
時間のある親や祖父母たちが学校に行って1日中、子供や孫のクラスで先生と一緒に教えたり過ごしたりすることは、ここでは普通だとのお話でした。

州立のこの小学校は日本の様に教科書はなく、教師が各々授業計画を立て教材を用意します。
ここの小学校の教師は一度他の職業をやめて(看護婦、俳優、整体師、一般企業サラリーマンetc)大学で教育学を学び直し教師になった方が多いそうで(他の学校も似たり寄ったり)、授業計画は先生方がそれぞれに知恵を出し合い協力して進めていると、30年前にオーストラリア人と結婚し、10年位前からここでアシスタントの先生をしているという日本人のヨシさんが教えてくれました。

この日は、3人の子供のクラスを30分位ずつ見学させてもらいました。
授業風景

授業風景

モーニングティー

モーニングティー

日本語スピーチコンテスト

日本語スピーチコンテスト

小学校

小学校

シャロンのレストラン

シャロンのレストラン

4年生、ケイトのクラスは「橋」の作り方の勉強でした。
ストローを使い仮説を立てて、そのストローをどの様に組み立てたら頑丈な橋が出来るのかと、グループ毎にお互いの考えを述べあい、ノートしながら橋作りを進めていました。
重りを載せてどの程度まで耐えられたか、つぶれると何が原因だと思うか等検討させる物理の授業です。

ブリスベンには幾つ橋があり、何故橋が必要だったのかと、社会科の授業にもなります。
知的障害のある生徒にはアシスタントの先生が付き、やさしく説明しながらノートを取らせておりました。

1年生のクラスでは5人位に一人の先生が付き、グループで勉強していました。
マディーのグループは3文字単語の勉強でした。
ただ単語を覚えさせるのではなく、例えば C○P の〇の中に、cap cbp ccp cdpとアルファベット順に文字を入れ、声を出して読ませて意味をなすか、意味をなしたものだけノートに取らせます。ホニックス的な発音の仕方の練習も兼ねているでしょうね。

一つのグループはパソコンの練習です。
ブリスベンでは5年生になると宿題などの提出物はタイプでないといけないそうで、一年生からタイプの練習をするそうです。
難民や移民で家にパソコンの無い家庭の子供達の為にも、必須の授業との事でした。

この小学校は朝の9時から始まります。
9時から11時まで授業があり、その後コチラならでのモーニング・ティータイムが20分程あります。
子供達は果物やクラッカー、野菜など各自持参したものを雨の日以外、全員で校庭に出て頂きます。
肥満の防止の観点からチョコレートやキャンデーの様なものを禁止している学校が多くなってきているそうですが、その子の誕生日などは例外で、誕生日の子のいる家庭ではクラス全員にケーキなどの差し入れもあるそうです。
シャロンもマディーの誕生日の前日、クラス全員分のクッキーを焼いて持って行きました。

その後また一時間の授業があり、ランチタイムです。
そしてまた一時間の授業があり、2時半頃で授業は終わりです。

クラブ活動は基本的に週一回で、朝の7時半から希望者だけが受けます。
私がとても興味深かったのは楽器のクラブです。
それぞれの専門家が来て(ピアノ、バイオリン、フルート、チェロ、クラリネットetc)、年額たった7ドルで教えてもらえるとの事。
楽器のない子は貸してもらえます。いいですね〜!
テニス・バスケットボール・卓球・ダンス等、体育系のクラブ活動も有りました。
デイビス家の子供達も器楽・スポーツともに参加し、忙しくしておりました。

オーストラリアでは(イギリスもそうでした)、12歳までは保護者が学校への送り迎えをする義務があります。
学校の敷地内には仕事で早く出かけたり、遅くなる保護者の為にビフォアー・アフタースクールの建物がありました。
運営は私的企業で、一時子ども預り所みたいな施設です。

オーストラリアでは5年生から外国語の授業があり、この学校では日本語でした。
学校ごとに異なり、フランス語・中国語・スペイン語などがあるそうです。

ここでは私の滞在中に洲が主催する日本語スピーチコンテストがあり、校長先生からそのお手伝い依頼と、コンテストへの招待を受けました。
お手伝いはともかく、喜んでコンテストに参加させていただきました。
各学年から4組が選抜され、学年ごとのテーマで発表し、洲の教育委員会からのジャッジによって優勝が決まります。
少しお洒落をした日本人の私を見て、子供たちは州からのジャッジの一人と勘違いしてかなり緊張したようです。
悪いことをしました。

今回はここまでです。次回が最終回となります。おたのしみに


 ブリスベン滞在経験(6)
佐藤ひろ子
2011年6月8日

11 ) Homestay with an Australian family

 日本に戻る少し前、ゲイの彼らの生活はやっぱり普通のオーストラリアの生活と違うなと感じた私は、コミセンで知り合った千織さんにどこか私を受け入れてくれるオーストラリア人の家庭を知っているか尋ねておりました。
もう2年ぐらいブリスベンに住んでいる彼女は、こちらで知り合いになった人の友人にホームステイ斡旋の仕事をしている日本人がいるらしいので聞いておいてあげると返事をくれました。
そして、日本に戻った私に連絡が入りました。
 Dixson Yoshie さんです。
オーストラリア人のご主人とSETA(Student Education Tours Australia)という会社を設立し、幅広い留学に関する経営をなさっている方でした。
インターネットで「ブリスベン・SETA」で詳しい事がわかりますので、興味のある方は検索してみて下さい。

私はこの連絡先にメールでコンタクトをして、ナンダから電車で約15分のサンドゲイト(Sandgate)の、子ども三人、おばあちゃん一人、犬一匹の家庭、デイヴィス家にホームステイすることが決まったのです。
最初は2か月間の契約でしたが、BとDが2週間アメリカに帰省がてら旅行に行く事になったので留守中の猫のザールの面倒を見てほしいと連絡が入り、結局この家庭に一カ月半程お世話になることになりました。費用は3食付で1770ドルでした。
1日、約3千円位になりますね。
しかもこの家の奥さんは軽食レストランを経営し、ご主人は航空会社に勤めていると触れ込みでしたので、私には「ラッキー!」以外のなにものでもありませんでした。
料理おばさんや洗濯おばさんもしなくて済むと、内心これは安い! と喜びましたが、現実はそうはどっこい・・・問屋が卸さないとでも云えばよいのでしょうか・・・・。

2度目のステイの1週間後、デキソン・ヨシエさんがデイビス家に案内してくれる為、私をB宅に迎えに来てくれました。
予定ではデイビス家に行ってヨシエさんも含めてランチを食べながら私の引継ぎでしたが、デイビス家は自宅とレストランが一駅離れており、奥さんのシャロンは耳の手術を受けたばかりで自宅のベッドで療養中だったのです。
それで少し話をしただけで、私を置いて帰ってしまいました。
この日は多分、土曜日か日曜日だったと思います。子ども達がおりました。

私を部屋に案内し、奥様と面会した後、ご主人のチャックが子供たちを含め私のランチを作り始めました。
台所で大量の海老の皮をむき始めています。奥様の事情がわかった私は「お手伝いしましょうか?」と言い、「ありがとう、助かるよ」と言われてお手伝い。
「美味しそうですね」というと、HIROKOの歓迎の為にシャロンの母親(奥さんとレストランを共同経営)がその海老を差し入れしてくれたとの事でした。
豪華な海老入りのサンドイッチがその日のランチでした。
夕飯はシャロンのお母さんがレストランからローストチキンを持ってきました。
美味しかったです。
この残りは、次の日のランチのサンドイッチの中身になりました。

私に与えられた部屋は、ご主人チャックの母親が使っている離れ家でした。
おばあちゃんが同居という話でしたが、実際はその時、彼のお母さんはカンボジアの友人の家に長期旅行。
この様な事が何度もあるそうで、そのお母さんのいない時にホームステイを受け入れていると云う事が後でわかりました。
プールを挟んだこの離れ家はワンルームでしたが一軒家で、台所・シャワー室(トイレを含む)・机・テレビが備わったとても快適な環境でした。
それでもしばらくはゴキブリが顔をだし、毎日必死で掃除をしました。
この様な離れは、グランパ、グランマの部屋と呼ばれ、子供たちの住む母屋から少し離れた所に建てられる、オーストラリアでは典型的なおじいちゃんとおばあちゃんの住家だそうです。

翌朝起きてキッチンに行きますと、だいたい皆はトーストとミルクかコーヒー・紅茶での朝食でした。
私にもパンはここに、コーヒー・紅茶はここに、ミルク・マーガリンは冷蔵庫にと説明し、自分の好きな物を食べなさいと言います。
冷蔵庫の中に有る物は自由に食べていいと言われましたが、あまり大した物は有りません。
それ以前に私は、人様の冷蔵庫を勝手に開けるという事に抵抗感が有り、昨日とは打って変わって、三食昼寝つきの甘いホームステイの夢が最初の日から遠のく思いになりました。

ウッドデッキ作り

ウッドデッキ作り

デッキ完成パーティーり

デッキ完成パーティー

奥さんのシャロンもそれから2,3日で2階から起きて私達と一緒に夕食を取り始め、ご主人の奥さんの看病の為の休暇も終わろうとしていました。
彼は休み中、母屋とプールの間の15、6畳位の土地をウッドデッキにする大工仕事をしておりました。

こちらでは家庭を持つ男性の多くが大工仕事をよくやります。
(BとDは例外です。)
デッキ作りのアドバイザーらしい彼の友人が、デッキの出来上がり具合を見に来た時の事です。
私が感心してこのデッキ作りを見ていると、「我が家でも家の中を改造しているので興味があったら後で見に来い」と言いました。
もともと改装・改造を頭に入れて中古住宅を購入したそうです。
早速私はチャックと一緒にその友人宅を訪ねました。
その大工仕事は、もう、本当に、驚きの連続でした。

プールを作るため、大きな穴が掘られていました。
コンクリートも流し込んでおりました。
家の中は台所と居間を除いての大改造が行われていました。
部屋そのものの仕切りなども変え、広げたり小さな部屋にしたりしています。
ゲストルームにはシャワー室とトイレを作りかけています。
ドアや窓なども新しいものをはめ込んでおりました。
とても素人の仕事とは思えません。

「どこで勉強したのですか」と聞けば、「勉強なんかしないよ」と大笑いです。
親や人からの見よう見まねで、自分で経験を積むと云う事でした。
「日本の男はしないのか?」と質問され、「器用な人もいますが、ほとんどは工務店に頼みます」と答えると、「じゃ、休みは皆何をしている?」と聞かれ、「家庭サービスで子どもと遊んだり、奥さんに付き合ったり、家でゆっくり身体を休めたり・・・」と答えると、二人は顔を見合わせてまた大笑いでした。
庭の奥の小屋には小型のトラクターの様なものまでありました。

後でオーストラリアに詳しい日本人にこの話をしましたら、オーストラリアでも大工さんは居るけど技術は素人に毛が生えた程度の人が多く、また工賃はとても高いのだそうです。
それで男性の多くは休日に家の大工仕事をするとの事でした。
デイビス家の両隣のご主人も土日は家のフェンスの修理やペンキ塗り、庭の手入れなど小まめにしており、例外ではありませんでした。
ウッドデッキが完成し、ご近所さんを呼んでの完成披露のパーティーもありました。

ホームステイして5,6日後、デイビス家はいつもの生活に戻りました。
ご主人のチャックは朝の7時半には仕事に出掛けます。
奥さんも8時頃には3人の子どもを連れて小学校に送って行きながら、そのままレストランに直行していました。
時々お昼に帰って来て、パソコンで店の経理の様な仕事もしていました。
3時半ごろ一旦子供を連れて戻りますが、またレストランに戻ります。
そして5時頃ご主人が帰宅し、このご主人が夕飯の支度をするのです。
食事が整う7時頃、奥さんのシャロンは戻って来ました。

ホームステイをして2週間もしない内、朝起きてキッチンに行くとチャックが左腕に包帯を巻き腕を首から吊っていました。
「どうしたのですか?」と聞くと、奥さんと子供たちが「昨夜バスケットの練習中に転んで骨折した」と口々に話します。

デイビス家では毎週火曜日の夜は夕食前に全員でスイミングプールに泳ぎに行き、そちらでお仲間と食事をして午後9時頃帰って来ました。
チャックはその他、週に一度バスケットボールをしていたそうです。

という訳で、その後片手で料理をするチャックのお手伝いを、申し出た訳でも無いのですが私がする様になってしまったのです。

洗濯も、親子5人です。
洗濯機の前に山積みされた洗濯物が片付かないと、私の物が洗えません。
結局、私が洗濯するときは彼等の洗濯物を済ませ、または洗濯はしてあっても、もう出かけていないみんなの洗濯物を干してから自分の物を洗濯することになりました。
私は洗濯物が溜まるのはあまり好きでないので、豆に洗濯します。
ホームステイが終わる頃はシャロンから「クリーニング・レディー」と呼ばれておりました。

魚のパイ

魚のパイ

ピザ

ピザ

BBQ台(電気)

BBQ台(電気)

満潮時

満潮時

このステイで、オーストラリア人の食事は質素だとわかりました。
(お金は家にかけているようです)
朝は基本的にパンと飲み物です。
お昼は勝手に冷蔵庫の中の物を食べてと言われました。
夕食はおかずが一品とサラダです。時々デザートの果物がありましたが、リンゴか、私がスイカが好きだと言ったのでスイカが出ました。
デイビス家の皆さんはやはり他のオーストラリア人と同じく甘いものが大好きで、夕食後から寝る前までにお菓子やアイスクリームのようなものを食べているようでした。

火曜日は全員でスイミングプールに行くため、その日の私の夕食は冷蔵庫の物になります。
何かあっても昨日の残り物です。何もない時もありました。
この家では必ず夕食のおかずは同じものを二日分作り、残ったものを別な日にまた食べます。
ここでの美味しい記憶は、魚をパイシートで包んだ魚パイ(?)とピザ。ステイ初日の豪華な海老サンドイッチとその夜のローストチキンしか思い浮かびません。
そして私は美味しいものを食べたい一心で、餃子・カレー・手巻き寿司・スパゲッティなど子供達が好むものやその他の日本料理を作る羽目になったのです。
材料費はほとんど自前でした。

BとDも朝はトーストかシリアルとミルクまたは紅茶で、二人とも私が起きる6時半頃には出掛けておりました。
その代り、週末の朝はソーセージや卵・ベーコンなどを挟みマクドナルドのビッグマックの様な大きなサンドイッチを作って食べておりました。
ブリスベンでの多くの家庭は平日は朝が早い為、日曜の朝はゆっくりピクニック気分で家族そろってビッグブレックファーストにするそうです。
ここデイビス家でもそれは例外ではありませんでした。

しばらくして私は、美味しいステーキやDの作るラムチョップが恋しくて、午前中が英会話クラス、午後がガーデニングクラスのある木曜日はナンダのBの家に泊まって翌日サンドゲイトのデイビス家に帰る様になりました。

デイビス家から歩いて5分もするときれいなビーチに着きます。
小さな小さな半島の突端ショーンクリフ(Shorncliffe)からサンドゲイトを通り、その先に数十キロメートルと延々に続くLover road と呼ばれる美しい海岸散歩道です。
朝に晩に休日に、散歩・ジョギング・サイクリング・ハイキングと大人も子供も楽しんでおりました。

海岸線に沿って沢山の公園や、バーベキューの設備があります。(無料です)
勿論きれいなトイレも水道も有ります。水道は犬も飲めるように下の方に蛇口も水受けも有りました。

大変遠浅の為、潮の満ち引きでガラリと風景が変わります。
始め歩道すれすれの満潮の景色を見ていた私は、次に干潮の景色を見て、津波の前触れではないかと恐ろしく思ったほどでした。200メートルは裕にあると思う程海水が引きます。
フランスのモンサンミッシュエルがそうですね。

ショーンクリフからサンドゲイトまでは歩いて約25分。
その間に釣りが出来るきれいな桟橋も有りました。
私も散歩をしたり、ジョギングをしたりして楽しみました。
海の好きな私には最高の場所でした。

干潮時 桟橋

干潮時

桟橋

今回はここまでです。次回もおたのしみに


 ブリスベン滞在経験(5)
佐藤ひろ子
2011年6月8日

My second stay in Brisbane ( from September 12th to December 7th )

10 ) An unexpected incident, again !

このテーマの前に第二回目のブリスベン訪問の日の国民的なイベントを紹介したいと思います。

 2度目訪問当日がブリスベンリバーフェステの日であるとBから連絡があり、その日はそのブリスベンリバーサイドにホテルを予約し見学することになりました。
このお祭りはブリスベン市民の約40%が参加する大きなお祭りだそうです。
日本でいう花火大会で、約30分間、連続して花火が打ち上げられます。
夕方になると続々とブリスベン川の近くにある公園に市民が集まってきました。
公園はブリスベン河に沿って沢山あります。
横浜の山下公園ほどの混みかたではありませんでしたが、周りは座ることがやっとのオーストラリアでは通常にない混みかたでした。
フェスタは午後7時から始まりますが、5時頃からBrisbane riverに架けられたメイン3つの橋の交通が止められ、橋に仕掛け花火が準備されます。
セレモニーが始まるまで、生バンドがあちこちで音楽などを鳴らし、自然発生的に歌声も始まりました。

花火

花火大会

 花火大会のオープニングは6機の戦闘機のアクロバットで始まりました。みんなの大歓声。
これは毎年のお決まり芸だそうです。
軍隊を持つオーストラリアの一面を見ることが出来ました。
その後、火を噴いたような2機のジェット機が飛び、それを合図に一斉に花火が打ち上げられました。
ブリスベンリバーは地図を見ていただくとわかってもらえると思いますが、S字の様に曲がりくねっており、高いビルがないために、その場所だけでなく離れた他の橋から打ち上げられている花火を同時に見ることが出来ます。
また、目の前の橋からは滝のように流れる仕掛け花火、趣がありました。
花火の余韻に浸りながらその公園に残って音楽を聴きながらワイン・ビール・食事を楽しむ人、家路につく人。
私達はその日、Bがリバーサイドの古いですがオーストラリアの歴史あるレストランに予約をしていてくれ、典型的なオーストラリア料理を楽しみました。

10) のテーマに戻ります。

予期せぬ事件が、また起こりました。
4月にブリスベンを出発する日、私は肋骨を2本折りました。

今回は歯です。
フェステの翌日、Bの家でお土産の袋を開けようとして開かなかったため、歯で噛み切ろうとしたところ、「バリッ!」っと・・・・・・。
袋が破けた音ではありません。
裏張りしていた前歯が折れて、触るとぐらぐらして、今にも割れた部分が取れそう。(-_-;)
血の気が引く思いで日本の保険会社に電話をしました。

「歯の治療は、保険に含まれておりません」の声に、またもやガ〜〜ン!

海外での病院の治療費はものすごく高いとのイメージいっぱいの私は、必死で事情説明をしました。
「虫歯の治療ではないのです。歯が折れたのです。」
あまりに私の声が必死だったのか、保険会社の人が「もしかしてそれは転んで歯が折れたと同じ傷害扱いに成るかも知れませんので、一応治療を受け診断書と領収書を送って下さい。治療費は立て替えで」と云う事になりました。

Dの掛かり付けの歯医者に予約してもらい、二日後に治療を受けました。
「3カ月後に日本に戻りますので、とりあえずそれまで持つ一時治療で結構です」。 治療費がいくらかかるか心配な私は、そうドクターにお願いしました。
「O.K」で治療が始まりました。
15分で済みましたが、驚くことに出来上がりは日本で受けている治療と全く同じ!
日本だったら歯の色合わせを含め一時間位椅子に座らせられている治療です。
また、興味を引いたのは光除けのサングラス。
日本では椅子に座り口の中を見せる時、強いライトがまぶしくて目をつぶってしまいますよね。
ここでは患者にサングラスを着けさせ、目の前のモニターで映っている患者の口の中の治療進行を見せてくれるのです。感動しました!

面白かったのはこれからです。
治療費を払う段になりました。
思ったよりずっと安く140ドルでした。(日本円で約1万1千円)
百ドル札で2枚渡しました。
おつりを持ってくるからと奥に行った事務員は戻って来て「おつりがないから百ドルでいい」と、驚くことにもう一枚の百ドル札を返してくれたのです。

日本では絶対にありえない事です!
全てカードで支払いをする人の多いオーストラリアでは現金の用意がないのでしょう。
「信じられな〜い!」という私に、BもDもこれがオーストラリアだといいました。
帰りに儲かった40ドルで美味しいワインを買い込み家で乾杯しました!
日本では保険で治療費の全額、140ドルが戻って来ました。
更にこれと全く同じ様な事が、日本に帰る前の新型インフルエンザのワクチンを打った時の支払い時にもありました。この国の大らかさと云うか、いい加減と云うか、寛大さというか…その精神に脱帽です。(^^)/
仮治療で頼んだ歯も、いまだに健在です。

今回はここまでです。次回もおたのしみに


 ブリスベン滞在経験(4)
佐藤ひろ子
2011年5月25日

7) Nundah Community Center
   (English conversation class and gardening class)

 私は毎週火曜日と木曜日の午前中10時から12時まで、インターネットで調べておいたナンダコミニュケーションセンターの英会話クラスに参加しました。
いろいろな国の人がこの教室に通っておりました。
学習者は毎回10人前後(5.6人〜14.5人)で、ボラの先生も2人〜4人程度。
英語会話クラス
英語会話クラス
英語会話クラス

日本の様な日本語ボランティア教室とは違い、系統立てて英語を教えるというのではなく、集まったボランティアの先生がその日教室に訪れる学習者を相手に当番で時間を決め、当番になった先生が自分の好きな様に好きなことを教えるといった雰囲気でした。

先生が多い時は、ほとんど英語が話せない・書けない人のクラスと普通に話が通じるクラスとに分け、先生のつくったテキストでの授業がありましたが、4回に1回ぐらいでしたね。
通常はtea timeを入れた2時間内で、英語入門からゲーム、ニュース、対話、オーストラリアの祭日の話、イベントなどを取り入れてみんなが少しずつ満足するような授業でした。

11時になると約10分間のティータイムです。
瓶に入ったビスケットとコーヒー・紅茶・ミルクなどセルフサービスで頂きます。
ビスケットの隣にはドネイションの缶が置いてあります。
時々先生方がティータイムの為のワンコイン寄付を呼びかけていましたが、誰も気にする様子はなく、毎回まじめに小銭を入れるのは私だけで、それを見て時々は思い出したようにコインを入れるという人が多かったですね。
でもクラスで何かイベントをする時は、それぞれにお国料理など作って持って来ておりました。
学校の様に毎回必ず同じ人が出席するという訳ではないのですが思いつくだけでも、イラン・ベトナム・インド・ハンガリー・チリ・ペルー・フランス・ウガンダからの移民者がおりました。
韓国人・中国人も多かったですが、彼らは移民ではなくワーキングホリデーや親戚を頼ってもぐりの出稼ぎという感じでした。
日本人は私とご主人が大学に勉強に来ている千織さん(子連れ)、彼がオーストラリア人という敬さんの3人でした。

ガーデニングクラス

ガーデニングクラス
ガーデニングクラス
ガーデニングクラス

 ガーデニングクラスは募集をしたばかりでメンバーはボランティアを入れて5、6人でした。
オーガニックを基本とする花園・菜園はセンター敷地内に作ることになり、大量の堆肥が運ばれてメンバーでスコップや鍬で花や野菜のベッド作りから始めました。
私はろっ骨を折ってからまだ10日程でしたのでほとんど見学でしたが、メンバーはセンターのリーダーを含めみな素人。
HIROKO菜園を横浜に持つ私はついつい口や手が出てしまいます。
週に一回のクラスなのでガーデンらしいベッドが出来たのは2週間後。
それから種を蒔いたり苗を植えたり、毎日の水まき当番を決めたりしました。
パイナップルやマンゴー・バナナも植え、オーストラリアだなぁ〜など感心もしました。
ベッド作りから約1ヶ月間は大量のハエがセンター内の部屋にも入って来て閉口しましたが、私が日本にもどる三カ月後にはジャガイモを初め沢山の種類の野菜が収穫出来、暖かい気候のオーストラリアを実感出来ました。

ナンダコミュニティーセンターは英会話やガーデニングの他に、子育て支援事業、パソコン教育、移民者の就職研修指導、アート教室・各レクチャー等も行っており、このような内容でその他のどのコミニュティーセンターでも行われているようです。
またセルフサービスですが訪問者の軽食サービスがあり、後半のホームステイ先のサンドゲイとのコミニュティーセンターではその上に週に一度のランチサービスもありました。

エコの話.雨水タンク

 昨年から今年にかけてブリスベンは大洪水災害に見舞われましたが、その前までは干ばつでした。特に私が行った前の年2006年、2007年は公園の池の水が干上がり池の魚を別の場所に移したり、田んぼが乾いて穀物が出来なかったりで大変だったそうです。
そのため雨水の利用が奨励されており、各家庭には(5,000リットルの)タンクを設置すると州から補助金が下りる仕組みがありました。
タンクを設置した家の門には、タンク設置のマークが貼られていました。
その水の多くは庭の水まきでしたが、それでもガーデニングクラスではとても足りない時がしばしば。
タンクの設置していない家は水道からホースでの水まきは禁止で、車の洗浄はスタンドに行きます。もちろん有料です。日本の洗車とは全く違い皆全身びしょぬれでしています。
見ていると気の毒の様なのですが、Bが言うには留学生にはこの洗車アルバイトが結構人気だそうです。いいアルバイト料になるのでしょう。
ベルトコンベアの様に車が運ばれ、流れ作業での洗車です。洗剤には派手な色が部分ごとに赤・黄・青の様に吹きかけられて汚れが落ちたかどうか一目で分かるようになっていました。
ほとんどの洗車スタンドにはカフェがあります。整理番号札をもらい新聞や本などを読みながら洗車が終わるのを待ちます。
皆エコには寛大です。

8)Library

 コミセン(コミニティーセンター)に行かない時は、ナンダにもありますがそれ以外の各地域にある図書館にも足を運びました。
ここにも移民者の為の教育にパソコンが置いてあり、時間を決めて研修したり、使ったり出来るようになっていました。
本の貸し借りは、自分の図書カード(ブリスベン全体の図書館共通です)と本のバーコードを機械に通し、自分で行います。
(CDやDVDも借りられますが、この場合はケースを受付に持って行き中身を開けて取り出せるようにしてもらいます。)

図書館

図書館風景

またどの図書館にも毎日の様に、年齢別で子どもの為のストーリー・タイムがあります。
本の読み聞かせや、歌に合わせて体を使っての遊びをします。
小さな図書館のストーリー・タイムは利用者が一人・二人と少ないことが多いのですが担当者は一生懸命子どもに語りかけます。
子どもに本を好きになってもらう事が第一の目的ですが、子育て支援の一環事業にも思えました。
私はブリスベンで二番目に大きいマーケットモールがあるチャームサイドの図書館のストーリータイムが大好きでした。バスで15分で着きますがナンダからは一時間に一本ぐらいしか出ておらず、乗り遅れないようにいつも早めにバス停で待っていました。
帰りはモールでふらふらウインドーショッピング。楽しい時間でしたね。

やはりバスで15分ぐらいの所にあるハミルトンの図書館でも、有閑マダムが外国人の為に英語タイムを設けておりました。
ここにも何回か参加したのですが、会話の速度が速く、勝手に英語を解る人を対象におしゃべりをしているという感じで、私はついて行けず落ちこぼれました。
ハミルトンは港があり外国船などが寄港する所でお洒落なレストランがあります。
新鮮な魚のマーケットもあり、美味しいもの好きな私達も手巻き寿司にする時はここまで買い物に来ました。
ブリスベンでは高級住宅が多い所です。

9)Beaches and stars in the sky

 オーストラリア大陸は海岸線が5万キロに及び、その沿岸に一万以上のビーチがあるそうです。そしてこの国の人口の約85%が海岸線から50km以内に住んでいるというのです。
だから車で(バスや電車で)、または歩いてちょっと出かけると、きれいなビーチが見られます。前にも書いたと思いますが、ブリスベンにはゴールドコーストを初めレッドクリフ、モートンベイ、ショーンクリフなど大きなビーチも小さなビーチも沢山あります。どのビーチもとても美しかったです。
以前江の島のビーチに彼らを案内した時、あまりの込みようはともかく、「世界で一番汚いどぶの様なビーチだ」と言われました。ひどい言葉ですがよく気持ちがわかります。

ブリスベンの人達はビーチがあるのが当たり前で、毎日の生活に浸透しています。
かと言って、ビーチ・ビーチと意識することもありません。
週末の家族の憩いの場として、また人々の散歩やジョギング、サイクリングの場としてなくてはならない存在としてありました。

オーストラリアと言ったら、星は南十字星ですよね!
夜空を見上げると手に取れるように沢山の星が大きく輝いています。
私は今回以前にオーストラリアには4回行ったことがありましたが、南十字星がどこにあるのかわかりませんでした。
1月半ばからの約2か月間の南太平洋のクルーズには、「星のソムリエ」の肩書を持つ講師の貴重な星空教室がありました。そこに参加して、ようやく南十字星がどの星なのかわかったのです。そこではスバルも見えました。
A、Bはアメリカ人で星に興味が無いようですが、現地人のDでさえ、星の区別が出来ませんでした。オーストラリアに住みながら、何とももったいない話です。
ブリスベンはセントラルのビル以外住宅はほとんど平屋か二階建てですので、上を見ると遮るものがなく、空がとても広くどこまでも見えます。
プラネタリウムの様に、それ以上に船上から見た星々をはるかに超えてハッキリと大きく美しいのです。
ツアーでの旅行でしたら、ガイドさんが教えてくれているのかも知れませんね。
図書館では人間の宇宙開発の歴史など子どもたちが楽しく勉強できるシステムがあったのですが、星はどうだったのでしょう。
小学校・中学校の夜の野外授業は滞在中に聞いたことがありませんでしたので、たぶん授業としてはないのかも知れません。

短歌の先生に指導を受けて、南の国の感動を歌にしてみました。

  • 手に汲めば 色は無けれど 環礁の海 コバルト碧【ブルー】に 我を魅了す
  • 幾光年を 越えて輝く天の川 星の織りなす 宇宙【そら】の美し

オーストラリアの国旗の星は、南十字星をかたどっています。
真ん中にある星は7角形をしており、6つの州と特別区を表しているそうです。
ユニオンジャックは英連邦の一員を表しています。

7月の試験が終わり、8月にまたブリスベンに戻る予定でしたが留守家族が8月はアメリカに帰るということで、2度目のブリスベン滞在は9月からになりました。

では、次回もおたのしみに


 ブリスベン滞在経験(3)
佐藤ひろ子
2011年5月25日

6) The life I longed for in Brisbane, not as a "tourist" and the reality

 こうして、ただのツーリストでない待望のブリスベンでの生活が始まりましたが、その現実は楽しいものばかりではありませんでした。

例えば掃除・・ 掃除機は小型耕耘機の様に馬鹿でかく、小回りが利きません。
ろっ骨2本を折っている私は、いくら薬を飲んでいる・コルセットをしているとは云え、重くて小回りの利かない掃除機で、靴を履いて過ごすリビング・ダイニングの掃除。その掃除機の吸い口をきれいに拭き、2階まで運んでまた掃除(絨毯)。
狭い階段の掃除では、掃除機が転がり落ちそうになり、必死で食い止める私。
咳をしてもクシャミをしても飛び上るほど痛い状態なのに、毎日の様にこの掃除機との格闘がありました。

例えば洗濯・・ 大男二人の 山のような洗濯物。(本当に山になっていました)
どうして洗濯をしないのか、干したらたたんでしまわないのかをDに聞くと、洗濯係はBだそうです。
そのままにしていると仕事休みの週末までBは洗濯をしません。
おまけにBはお出かけ大好き。
週末は次々に旅の計画をはじめ各種イベントを探し出し、出掛けます。
(勿論お蔭様で私もいろいろな所につれて行ってもらえましたが・・・。)

ゆえに、パンツ・靴下・シャツ・ズボン等彼らの衣類の数は半端じゃありません。
そこに馬鹿でかいDの作業着が毎日加わります。
あまりの汚さに私は見るにみかね、我慢出来なくて毎日洗濯しました。
ところが、これがまた苦痛の種なのです。理由は壊れてなかなか開かない回転式の洗濯機のドアです。
引っ張っても、引っ張ってもなかなか開かないのです。
肋骨がギック、ギックと痛みます。
Dは「コツがあるんだ」と言いますが力が要ります。
最後はナイフをドアに挟み込んでトンカチで頭を叩き、てこの原理で押し広げて開けることにしました。

例えば料理・・ 毎回毎回、日本食のリクエスト。
人の好い私のことですので、美味しい・美味しいと言われ、初めはその気になって料理をしたのが大間違い。
夕食の時間になってもDはなかなか料理をしようとしない。(彼は平日の料理当番)
本とDVDが大好きなDは午後4時には家に戻りますが、家にいる間は本を読んでいるかDVDを見ているかのどちらか・・・・。
「夕食は何を作るの?」「いつ始めるの?」と聞いても全然やる気がみえない。
もうっ、たくっ! 私は普通のオーストラリアの生活がしたくてここに来てるんだよ!
私はあなた達のメイドで来たんじゃないんだから!
日本食ならあなたが日本に来た時にいつでも作ってあげるからもういい加減にして!と心の中で大叫び。

黙って洗濯物をたたんだり、料理を作っていると私を「シューフー」「シューフー」とニコニコしながら言います。
意味は「主婦」です。
そして3週間程たった頃、私は切れました!
驚いたDの顔。  !(^^)! やったね!

結局、私も居候のような立場でもありますので週に3回は彼、2回が私、土日がBの夕食当番という事でお互いに納得と相成りましたが、Bはレストランからのテイクアウトとピザの配達を頼むことが多かったですね。
日本に居た時Bはとても料理が上手で、子供の面倒もほとんど彼がしていましたが、ここブリスベンではBは夫、Dは妻としてのカップルだそうです。

例えば後片付け・・ 全自動食器洗い。
それまで男二人暮らしの彼らは食べた食器はディッシャーが一杯になるまで2日も3日も洗いません。
ブリスベンはここ数年ひどい水不足で、水を節約しているというのです。
食器はお皿がメインですから、どうっていうことはなく済むのですが、私が食事の度に手で洗うと、Bはディッシャーで洗えと言います。
自分がやりたくないせいか、きれいに洗えてない(ワイングラスですが)と文句。
でも、私には2日も3日も食器を洗わないで置くなんて、汚すぎる!
それでなくても自然いっぱいのブリスベンはハエもアリも沢山で、ゴキブリも出て来るのです。

オーストラリアのアリの多さは皆さんには想像出来ないと思います。
彼らの家ではアイスクリームをめがけて、アリが表から壁を這って冷蔵庫まで行列して来ます。
生ごみ入れに、べっとり付いたアイスクリームの空箱をそのまま捨てるので、本当に山のようなアリが家の中に来ます。
ごみ収集車

ごみ収集車

もちろんゴキブリもです。虫の嫌いな私にはとても苦痛です。
猫のザールはネズミ、カナヘビ、ポッサムの子どものようなものを捕まえては得意げに家に持って帰ります。
ごみの回収は週に一度。
家の外に大型の生ごみ用とリサイクル用のコンテナーが各家に配布されています。
上記の状態なので当たり前と言えば、当たり前ですが、彼らの家の生ごみコンテナーの中には蛆が湧いていました。
吐き気を抑えて殺虫剤を振り撒き、一晩おいて洗浄しました。
Bに言うと、いつも夏になるとそんなことがあり、業者に頼んで洗浄してもらっていたそうです。
家の中の掃除も階段から二階の絨毯のクリーニングを含めて、私が下見に行った9月とステイが決まった4月に業者に頼んで綺麗にしたそうです。
そんなことって、あり・・・・・・?

例えば・・・3人の会話
会話は英語です。
でも、Dの英語はとても聞き取りが難しい。
皆さんのなかにも経験した方がいらっしゃると思いますが、オーストラリアではテレビの中でさえ
today(ツダイ) good day(グッダイ)の発音は当たり前。
This is a way to は  this is a ワイ to
take the medicine は タイク the medicine
Do you know the medicine "pain away?" は Do you know the medicine "パインアワイ"
その paper 取って、と言われても・・・・・パイパーって何?
あそこの lake で・・・ the ライク there・・・・・何?
Open the page one ・・・ Open the パイジ one

Riceはロースと聞こえます。
Cheese は チース。
Sometimes は サムタムス でした。

意味不明でスペルを聞けば・・・
ヒッドと聞こえ、実は Head でも、エイチ イー アイ ディ と教えてくれるから私の頭のなかは heid となり、????
書いてもらえば簡単な事なのです!
例えですが、Tool ティ ダブル エル。私の頭のなかは twl となりますね。
No 2233 は2.2.3.3.と言わないのです。 No ダブル 2.ダブル 3 と言います。

人の事は言えません。私の英語も日本語英語の発音でなかなかオーストラリア人(地元の)にわかってもらえませんでした。
Bは日本の高校で Assistant English Teacher として3年間教えていましたから、私の英語をよく理解してくれます。
またBは声も大きく普段からゆっくり話すタイプなので私も聞き取りやすいのです。
それで3人でいる時の会話はDと私が意思の疎通を欠くと、私の英語をBがDに英語で、Dの英語をBが私になんて言ったのかを英語で説明するのです。
本当に笑い話の様な話なのですが、その時は笑えませんでした。
BとDは朝私がおきる前の6時半ごろそれぞれの会社に出掛けますが、Dは午後4時には家に戻ります。
(オーストラリアではみんな朝が早く、帰りも早い会社が多いそうです。)
Bは忙しい、忙しいと言って、それでもだいたい毎日午後6時頃には帰ってきます。
Dが戻った午後4時からBが帰ってくるまで私はDと2人で過ごすのですが、初めの頃は彼の発音が呑み込めず紙に書いてもらう事が多かったです。
私が紙に書くことも多かったです。スペルに弱い私は訛りの強いDからしょっちゅうスペルが違うと指摘され恥かしい思いもしました。
でもこれは多分、恥かしい思いをしただけにそのスペルは二度と忘れることがない良い思い出になりました。

AもBも、「Dの英語は現地訛りが強いので自分たちにもまだ解らないことがあるからHIROKOは気にしなくてもいい」と慰めてくれましたが、「言われたことが解らない、言ってることが解ってもらえない」と自信喪失になり、失語症状態も現れ泣いたこともありました。

でも、やはり言葉も習うより慣れろで、2回目のステイの時はお互いの努力もあってか楽しく生活が出来るようになりました。

第3回はここまでです。次回もおたのしみに


 ブリスベン滞在経験(2)
佐藤ひろ子
2011年5月25日

4)The night before my departure

出発前夜の出来事です。
出発前夜、というより旅立ちの日の4月9日の明け方、大きなハプニングが起こりました!
毎晩私の布団で一緒に寝ているミミを起こさないようにと、ミミをまたいでベッドを下り、トイレに行くはずだった私は、何かのはずみでコロリとベッドから落ち背中を強く打ちました。
あまりの痛さに、「痛い〜!」と叫んだ声でアマンダ達が驚いてとんできましたが、その時は自分でも何が起きたかよく分からず、「ベッドから落ちた」と言ってひとまずそれで終わり。
トイレから戻ってまた寝たのですが、何とも言えない不思議な痛みで、でもじっとしているとそれ程でもなく、でも寝返りをするとゴリゴリと不気味な音が背中から聞こえ、じわじわと痛みが増してきました。
痛みが増すに連れ、これは何かただ事でないことが起こっていると思いはじめ、改めてAを起こして事情を説明しました。
「この痛みは普通じゃないから朝一番で近くの整形に行ってくる。もしかしてどこか骨が折れているかもしれない。骨が折れていないにしてもこの痛みは普通じゃないのでその後どこか大きな病院に行って内臓の検査になるかもしれない。だから今日はオーストラリアに行けないかもしれないから、J一人で行く準備を考えておいてね」と。(JはAとBの子ども)

 翌朝、病院に行ってレントゲンを撮ると10番目と11番目の2本の肋骨が折れていることが判りました。
ガ〜〜ン! でした。
「先生、実は今夜事情があって、友達の子どもを連れてブリスベンに行くことになっています。無理ですよね?」と、たずねると意外な返事です。
「行こうと思えば行けますよ。ろっ骨の骨折は痛め止めと、骨がくっつくまでコルセットをしておく治療法しかありませんから」と・・・。
「向こうに行くと7月まで帰ってこれないのですが」、と言うとまた「じゃ、帰ってくる時はもう治っていますね」と淡々というのです。

家に戻りその事をAに話すと「じゃ、行けるのね!」と喜びの表情!
「先生は行こうと思えば行けるとは言ったけど、荷物も持てないし、向こうに行っても動けないし、とても無理だからとりあえず今日はJ一人で」と言うと、ジェットスターは保護者がいないと乗せてもらえないと言います。
JALやカンタスの様に子ども一人で搭乗するサービスがないのです。

ジェットスターというのは、JALやカンタスと違ってすごく安いチケットが買える航空会社です。 その上機内でのサービス(飲み物、食べ物、ビデオ、旅行ケースの持ち込み条件)などを自分で選ぶことが出来るため、それがチケット代に跳ね返りより安い選択が出来ます。 でも買ってしまったチケットは、払い戻しが効きません。
結局、もし私が行かないと今日中にまたJALなりカンタスなりのチケットを買いなおさないとJだけでは行けないのです。そしてそのどちらも今日のチケットはもう取れないとの事で、Aは必死の顔で私を見ます。

痛み止めを飲み、コルセットもしてしばらく横になっていた私は真夜中の痛みも少し和らいでいて、結局断れない性格があだになり、パスポートなど貴重品を入れた小さな肩掛けバックのみ持って、その夜の便で予定通りJを連れてブリスベンに行くことになりました。

A家族

A家族

旅行カバンはA家族とJが成田まで運び、ブリスベンでは空港のスタッフにお願いして手伝ってもらいました。
今考えても、そんな状態でよく行ったと自分に自分で呆れています。

(Aは日本に来た時、まだ日本人の恋人Tと結婚していませんでした。
仕事も見つかっていませんでしたので、Aとその息子Jは日本に来る時はブリスベンで往復の切符を買わなければならなかったのです。
4月からのAの日本での仕事が見つかりましたので、息子だけがとりあえず帰ることになりました。その付き添いを私がブリスベンに行く事で解決したのです。
また、Aのチケットを私が買い取った形にもなり、Aにとっては一石二鳥です。)
息子JはBの子どもでもありますので、一旦ブリスベンに戻り日本に滞在する準備をすることになっていました。

5)Welcome dinner with my friends

私の友達、Bはゲイです。
それが原因でAはBと別れました。
DはBの今の連れ合いです。
オーストラリアではゲイでも、普通の同棲でも、1年以上一緒に暮らしたという事実があればカップルとして認められ、夫婦と同じ便宜がはかられるそうです。
AとBは日本に来た時はすでに結婚しており、二人とも神奈川県の高校のAETとしてアメリカからやって来ました。22歳だったと思います。

私とBが知り合うきっかけとなったのは「おばさん英会話」です。
もう18年前の話になります。
当時団地に住んでいた私は英会話には興味があるものの英会話学校は授業料が高く、また中学生の子供もいましたので仕事帰りにどこかに行くには無理がありました。が、チャンスは次のように訪れたのです。

月に一回「外国のお惣菜」と称して日曜日に料理好きな親しい知人達と、息子の家庭教師だった横浜国大の大学院生を通して留学に来ている各国の外国人を紹介してもらい料理教室を我が家で開催していた時です。
知り合いの一人が「最近私の家の隣にフィリピン人がお嫁に来た」というのです。
そこで早速フィリピン料理の講師をしてもらうお願いに行きました。日本語もとても上手でした。
気持ちよく引き受けてもらい、料理を作っている間に英語も出てきます。
言葉の話になると「私、英語出来ます」というのです。
そこですかさず私は私たちに英会話を教えてもらえないかとお願いしました。
条件は週に一回。夕食が終わる午後7時半からの9時までの1時間半。場所は団地の集会場か我が家。お礼は一回千円でした。
お礼はいらないとも言ってくれ、オーケーしてもらえました。

それから生徒探しのビラを作り、団地のポストに配りました。
こちらも月謝は千円にしました。予想外に団地の主婦7人もの希望者が現われ、お茶菓子代も出来ました。
簡単なテキストを決めてもらい「How do you do ?」「My name is・・・」と、初歩の初歩から始まった楽しい楽しい女だけの笑い一杯の授業でしたが半年後に彼女が妊娠し、体調すぐれず続けることが困難になりました。
ところが運よく、メンバーの一人の娘さんが通う高校に初めて外国人の先生が4月から来たというのです。団地のすぐそばの学校です。
神奈川県が始めたAssistant English Teacher 制度でした。
とても明るいオーストラリアの女の先生と云う事なので、早速私はたどたどしい文章で私たちの事情を説明した手紙を書き、英会話の先生になってもらえないかと(お礼は一回2千円)その娘さんに届けてもらったのです。(私たちの月謝も1,500円に値上げしました)
そしてこれまた引き受けてもらうことが出来ました。
彼女(キャシー)がオーストラリアに帰るまで約2年間続きましたが、私が引っ越すことになりこのクラスは終りになりました。

英会話を続けたい私は引っ越した後も、次に来るAETをキャシーに紹介してもらい、今度は土曜日の午後1時から3時までの2時間、新しく友人仲間を募って始めました。
何人かAETが変わった後、Bと知り合ったのです。
彼はとても気さくで、冬休みにはオレゴン州の彼の家にも私を招待してくれました。Aの家にも行って来ました。
彼等はこちらに来て一年ぐらいで子どもが生まれたのですが、息子と同じ齢なので私は自分の息子や娘のように思えて、生まれる前から産婦人科の紹介や保育園の世話もしたのです。
生まれてからは、しばしばベビーシッターもやりました。
彼らが日本に来てからアメリカに帰るまでの3年間、今までのAETとは違ったお付き合いが出来たのです。
アメリカに戻ってから彼等は二人とも(特にAは大学で教える資格を取るため)、アメリカと比べ授業料が安い(1/10)ブリスベンの大学に進学し、Aは資格を取ってそのままグリフス大学で教える事になり、Bもブリスベンに就職しました。
その間も私がブリスベンに行ったり、彼らが日本に来たりの付き合いが続きました。
特に言語学を専攻していたAは毎年の様に日本に勉強に来て、我が家に滞在したのです。

話を元に戻します。

Dは食べることが大好きな大男で、大食いです。
しばらくして、私は彼と食べ物の好みが同じことに気づきました。
それからはレストランなどのオーダーに迷った時は、Dと同じものを頼むことしました。
間違いなくマイテイストを食べることが出来ました。

Dの作ったラムチョップ Bの猫ザール

第二回はここまでです。次回からはブリスベンでの生活が始まります。


 地を走る"はやぶさ"初乗記
大木陸夫
2011年6月2日

面接授業 「縄文文化の扉を開く」 青森学習センター

 この面接授業を受けたい理由の一つは、三内丸山遺跡の発掘、調査、保存と展示などに関わってこられた岡田康博先生の講義だということです。三内丸山遺跡は国特別史跡です。特別史跡とは、「史跡のうち学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもの」つまり、特に重要なものとみなされ、日本文化の象徴と評価されるものが特別史跡です。縄文時代の国特別史跡は、三内丸山遺跡、秋田県の大湯環状列石遺跡、長野県の尖石・与助尾根遺跡の三ヶ所です。三内丸山遺跡現地での授業は以前から受けたいと考えていました。もう一つの理由がはやぶさに乗車することでした。私は東北新幹線の新青森までの開通を機会に面接授業の科目登録申請をしました。


はやぶさ501号  東京発(08:44)10号車 6番A席[グランクラス]   新青森着12:49

はやぶさ
はやぶさ

 5月13日、はやぶさ501号は東京駅を定刻に発車しました。東北新幹線は2011年3月5日に新青森駅まで開通しましたが、一週間後の11日に東日本を襲った大地震で駅舎などに損壊があり運行出来なくなってしまいました。4月29日から、はやぶさは一日一往復だけの営業で再開されました。

 はやぶさグランクラスはJRでは初めてのいわば新幹線のファーストクラスです。シートは3席6列、私は1席側に座った。座席はリクライニングで最大45度まで倒すことができ、後部座席には影響しないもので、自在に角度を変えられる読書灯、アテンダントコールボタンがあり、テーブルは肘掛部分から引き上げ二段階に広げられるものでした。スリッパも用意されています。
グランクラス
グランクラス
はやぶさは東京、青森間を3時間で運行するのが売りでしたが、震災のため速度を緩めて4時間での運行です。今はグランクラス料金10000円のうち5000円は震災救援募金に回るということでした。乗車すると飲み物と軽食のサービスがあり、飲み物はボトムレス、軽食は和と洋で用意されて降車までの間にサービスされるという。私はコーヒーとシードルを頂き、仙台駅を出発してから和軽食を頂きました。仙台駅に近づくと、私は車窓の光景が気になりました。屋根にブルーシートがかかった家が散見されたこと、仙台駅ではちょっと下車して駅ホームの天井などを見ましたが特別異常は分かりませんでした 。

はやぶさの車両の特徴は、第一に先頭車両の流線形の鼻の長いこと、その長さ15メートルで1両の長さの6割にもなる。トンネル通過時の音や振動を低減するために断面積の変化を出来る限り緩やかにした結果である。第二に騒音対策としては、車両同士の継ぎ目を「全周ホロ」で覆っていたり、車輪が見えなくなるぐらいまで台車部分を覆う「台車フルカバー」がある。また、パンタグラフは10両に一つしかなく、風を切る音や火花を発するときの騒音の元を少なくしている。第三にエコの観点からは、カーブで車両を傾けて減速をせずに走行できることで減速、加速の回数を減らして消費電力を少なくしているし、乗客には揺れがなく快適となっています。「回生ブレーキ」は減速の時にモーターを発電機にして架線に戻して後続の車両の電力としていることなどがあります。

新青森駅
新青森駅
小牧野遺跡
小牧野遺跡

 時速300キロは体験できませんでしたが、はやぶさは快調に走り、新青森駅には定刻に到着しました。新青森駅は青森市西部にあって、周辺はまだ建物はなくレンタカーの店が目につくだけです。駅中のお店やレストランの様子などを見てから、ニコニコレンタカーのあるイェローハットの看板目指して駅前開発地の中の道を10分ほど歩いて行きました。ニコニコレンタカーは、最近横浜市営地下鉄の車内広告で料金が2525円と出ていたのでネットで検索し予約したものです。会員登録すると6時間2100円で借りることができました。

小牧野遺跡(ストーンサークル)

 青森に来たら必ず訪れる場所があります。小牧野遺跡です。レンタカーで行くことにしました。市街地にある森林博物館にこの遺跡からの発掘遺物の展示があるので、まず立寄りました。土器、石器、土偶はもちろんですが、三角型岩版というものがあります。それは、泥岩や凝灰岩を用いて、表面は亀甲状等の模様が彫られており、裏面は平滑だという。岩版が出土する遺跡は環状列石(ストーンサークル)の場合が多いとある。小牧野遺跡はまさに環状列石の遺跡です。森林博物館に隣接している青森市教育委員会文化財課を訪ね、資料などを頂くことができました。
 小牧野遺跡は、市内から10kmほどのところにあり、縄文時代の後期、今から4000年前ごろの遺跡です。三内丸山遺跡と比較すれば1000年ほど新しいといえます。環状列石は「中央帯」(直径3m)、「内帯」(直径29m)、「外帯」(35m)の三つの環からなっていて、周辺には墓、住居、地下式の貯蔵穴などの遺構があります。環状列石は斜面の高い方を削り、低い方を埋めて平面をつくりそこに2900個もの石を標高差60mぐらい下の荒川河川敷から運搬するなど、いわば土地の造成や、多量の大型石の運搬や設置など大規模な土木工事が行われたことが分かります。そこに立つと縄文人が働く姿、出来上がった祈りの場で祈ったり、祭りをする姿が想像されます。

そして、14日、15日の面接授業が三内丸山遺跡縄文時遊館で行われました。 (完)


 ブリスベン滞在経験(1)
佐藤ひろ子
2011年5月25日

My stay in Brisbane (A present from my husband)

Introduction

The year in 2009 was special for me, because I went overseas on a few trips.
Living in an overseas country was my dream since I was young and that year I finally had the opportunity.
So, I am going to write about the one of my experiences overseas.
hope that my essay brings something new to your life.
Enjoy!!

イントロダクションです。

2009年は私にとって特別な年でした。
なぜかというと、この年は7月と8月を除いてほとんど海外で過ごしました。
小さいころから私は異文化に興味があり、いつか海外に行ってみたい、長期に滞在して過ごしてみたいと思っていました。
そしてこの年、私が60歳になった年は、その願いがかなった年なのです。

My stay in Brisbane

1)Why Brisbane, not other countries ?

オーストラリアにはそれまでに何度か行ったことがありましたが、この憧れの海外生活の始まりのきっかけは2008年の1月、親しいアメリカ人Aが我が家に泊まりに来ていた時です。
Aはアメリカ人ですがブリスベンに住んでいました。
Aとは十年来の付き合いで、私が海外で住んでみたいという希望を持っていることも知っていました。

我が家のミミちゃん
我が家のミミちゃん

我が家にはミミという13年前に息子が拾ってきた猫がおります。
この猫はとても人見知りで、誰か人が来ると隠れてしまいます。
おまけに可愛げもなく、人が彼女に近づくと歯をむき出しにして「フーッ!」って怒ります。
息子も結婚して独立し、夫も他界して7年経ちました。
猫のホテルには馴染まないこのミミは、私が家を二日以上空ける時は、田舎の姉に来てもらうか、猫のシッターさんに来てもらうしかありませんでしたが、Aは毎年のように1ヶ月近く我が家に泊まりに来ていましたので、彼女にやや慣れておりました。

そのAが2007年の夏に我が家に来た時、「HIROKO、私は来年1月から日本に来て住むつもりだから、ここに住んで、ミミの面倒をみてあげる。だからひろ子はその1年間、どこでも好きな所に行って来ればいいよ。その代り家賃はなしでいいかな?」という話を持ち出し、私も「家賃はいらないけど日本で仕事が見つかったら、自分たちで使う公共料金くらいは払ってね。」と交渉が成立して、私の海外旅行計画は始まりました。

海外生活は英語圏でと決めていましたので、選択は知り合いのいるイギリスのロンドン、アメリカのシカゴ、そしてオーストラリアのブリスベンとなりました。

イギリスは以前に1週間程ですがストラットホードの田舎にホームステイをしたことがありましたし、ロンドンの郊外の知人の家に泊めてもらったことも有ります。シカゴも友人宅にお邪魔して、どちらも車がなければ快適な生活が出来ないことを認識していましたので、知っている道と自分の車でなければ運転出来ない私は、結局、駅の近くに引っ越したという車なしで生活できるAの前夫のBが住むブリスベンに白羽の矢を当てました。

2)Visit before living there in 2008.September.

それで2008年の9月、本当にそこで私が生活できるかどうか下見に行きました。
ブリスベン
オーストラリア/ブリスベン

世界地図がありましたらオーストラリアの地図を見て下さい。

オーストラリアはご存じのように日本と反対側の南半球にあります。
日本から飛行機でブリスベンまでは約8時間半です。
日本との時差はプラス1時間で、この国は日本の約20倍の国土を持ち、人口は約2千、2、3百万人で日本の約1/6の大きな国です。

オーストラリアの歴史などは皆さんの方が詳しいと思いますが、1770年にイギリスの海軍士官で海洋探検家、海図製作者のキャプテン・ジェームス・クックがブリスベンの下の方にあるボタニー湾に到着しこの国をイギリスの領土としました。
その後、イギリスの刑務所の過密状態を解消するために、その流刑地となりました。
1868年に流刑囚の輸送が停止されるまで約16万人が送り込まれたとの事です。

オーストラリアは6つの州と、特別区からなる連邦国で、首都は特別区にあるキャンベラです。(この特別区は、1901年にオーストラリア連邦が結成された際、シドニーとメルボルンがどちらもお互いが首都になることを譲らなかったため、1911年に特別区を制定しキャンベラを首都としたとの事です。)
ブリスベンは、Queensland州の州都です。
クイーンズランドは、オーストラリアで2番目に大きい州でもあります。
ブリスベンはニューサウスウエールズ州のシドニー、 ビクトリア州のメルボルンに次ぐオーストラリアでは3番目に大きな都市です。

クイーンズランドの気候は熱帯、亜熱帯に属し年間を通してとても住みやすい所です。
洲の上の方にはケアンズ(世界遺産のグレートバリア−リーフがあります)、ブリスベンの下側はどこまでも続く白い砂浜のゴールド・コースト、その他サンシャインコーストや(ケアンズの下)、モートンアイランド(ブリスベンの沖)など数々の観光地があります。
私はメルボルンの町は知りませんが、シドニーなど大都会と比べるとブリスベンはセントラルでも沢山の公園や憩いの場所が沢山ある素晴らしいシティです。

ニューファームの公園
下見・ニューファームの公園

下見にナンダのB宅に行っている間、ブリスベンに戻っていたAは私が生活に困った時に相談できる相手を沢山紹介してくれました。
毎日の買い物をするスーパーなどが歩いて10分位で行ける、またデパートが入っている大きなマーケットも歩いて20分で行けるし、近くに英会話などをボランティアで教えてくれるコミニュティーセンターもあることが判りました。
Bの家からナンダの駅までは徒歩7分、ここからブリスベンの中心地、セントラルシティーまで電車で15分程でした。
Bも私の滞在を大歓迎だという事で、結局、私の長期海外滞在先はブリスベンのB宅に決めました。

3)The first my stay in Brisbane ( from 2009.April 9th to July 7th )

ブリスベン滞在は、観光ビザで行きました。
私は2008年の秋に放送大学に全科履修生で入学しましたが、Aが婚約者と息子を連れて翌年1月14日に約束通り我が家にやって来ましたので、私は1月20日より約2カ月の南太平洋の船旅に出発しました。そのために1月の単位認定試験を受けられませんでした。
そこで7月の再試験に間に合うように初めのブリスベン滞在は、船旅から戻った後の4月9日より7月7日までに決めました。

  今回は、ここで一旦筆を置きます。次回はいよいよ出発前夜の4月9日から始まります。お楽しみに‥


 ミレー館を訪ねて
吉原 司郎
2010年2月7日

<空>武田信玄像
武田信玄像 (甲府駅前2010.2.2)
 単位認定試験も終わって、諸兄姉のみなさんは新年度に向けて新たな抱負を描かれていることでしょう。

 小生は一息ついたところで、帰郷する機会がありましたので山梨県立美術館に出向き、‘ミレーの絵画’を鑑賞してきました。本物を鑑賞できるワクワク感! 胸の高鳴りはひさしぶりのことでした。『落ち穂拾い』、『鶏に餌をやる女』、『種をまく人』など多くの農民画に感動しました。

 美術館の対面に文学館があります。たまたま、2月2日は幸運にも飯田蛇笏・龍太記念室のオープンの日でありました。最近誘われて俳句の会に入り、同郷出身の俳人の誼みもあり、蛇笏の作風に共感しておりましたのでラッキーでした。さっそく、句集を買い求めてきました。
      “ 芋の露連山影を正しうす ” 蛇笏

 その他、山梨にゆかりの文学者の作品や生い立ちを紹介しておりました。機会があればぜひ訪れることをお勧めいたします。

山梨県立美術館 http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/contents/
山梨県立文学館 http://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/


『出雲国風土記』を訪ねる旅(4)
大木 陸夫
2007年8月20日

古墳の土層
国府跡から茶臼山を見る
田和山遺跡
石宮神社の御神体
女夫岩遺跡
加茂岩倉遺跡
荒神谷遺跡
 5月30日、この日はガイダンス山代の郷という山代二子塚古墳の土層が見ることができる施設を訪ねることから始まりました。古墳の後方部の削られた壁面に現れている人工的に積まれた土層を見学できるのです。この古墳は1500年前人々が土砂を運んで造ったもので、一筋一筋に古代人の汗がしみ込んでいるように見えました。古墳の土層がこれほどの規模で見学できるのは全国でここだけだそうです。

 次に国史跡出雲国府跡とその周辺を歩いた。出雲国府跡の発掘は昭和43年から行われ、後殿や後方の官衙群が発掘されていて史跡公園となっています。正殿や脇殿は民有地の関係から発掘はされていません。遺跡の北側は農地が広がっていてその向こうに意宇郡の神名樋山【かむなびやま】、茶臼山があり、北東方には国分寺、国分尼寺跡があります。私たちは国庁から農道を国分寺に向かう。300メートルほど行くと、十字街【ちまた】に着く。ここは山陰道が東西方向に走り国庁や国分寺に通ずる南北方向の道との交差点である。ここも発掘調査されていて、道状遺構が確認された。『出雲国風土記』巻末記には、「国の東の堺より西のかたに去ること廾里一百八十歩にして、野城の橋に至る。(中略・橋の寸法)・・・又、西のかた廾一里にして国の廳、意宇の郡家の北の十字の街に至り・・・」とある。十字街は石見方面へ通じる正西道と、隠岐国へと向かう北に抂【まが】れる道・抂北道とに分かれる所である。それぞれの道は異郷に通じており、異郷から来た人が出会う場所である。チマタには市が立ち人々で賑わう。しかし、夕暮れは死者と交信する場所となる。柿本人麻呂は大和の軽のチマタに佇み、亡き妻の声が聞こえないかと耳を澄まし、道行く人の中に面影を探し求め、ついには妻の名を呼んで袖を振っている(「泣血哀慟歌」)。チマタは異界に通ずる道でもあったのだろう。

 十字街を直進して茶臼山の麓を通る道に突き当たる。民家が並ぶ。これを東に少し行くと出雲国分寺跡にでる。南門、中門、塔、金堂、講堂などの伽藍が基壇と礎石で復元されている。

 真名井神社は茶臼山の麓にある。

 この地域は出雲国の中心地だったので、山代郷正倉や古墳群がたくさんあります。私たちは八雲立つ風土記の丘資料館館長さんのガイドで岡田山一号墳を見学した。横穴式石室をもち、太刀や鏡、馬具が発見されています。石室は割石と自然石で築かれ、内部に家形石棺が安置してあります。

 国史跡田和山遺跡。弥生時代の環濠を持つ遺跡です。高さ48mほどの山に三重の環濠が廻らしてあります。横浜市の大塚遺跡や吉野ヶ里遺跡などは、環濠の内側に住居がありますが、田和山遺跡は三重の環濠の内側には、住居はありません。山頂部のあまり広くないところに、食糧庫か武器庫か分かっていませんが5本柱の遺構と9本柱の遺構があり、山頂部を取り巻くように柱列が、山の中腹部に三重の濠が廻らしてあります。濠の中には武器と思われるつぶて石や石鏃が、祭祀に用いられたと思われる石剣や分銅型土製品などが出土しています。

 『出雲国風土記』に宍道郷の地名起源譚が出てきます。「宍道の郷 郡家の正西卅七里なり。天の下造らしし大神の命の追い給ひし猪の像、南の山に二つあり。(中略・山の寸法が書かれている)猪を追ひし犬の像は長さ一丈、高さ四尺、周り一丈九尺なり。其の形、石と爲りて猪・犬に異なることなし。今に至るまで猶あり。故、宍道【ししぢ】といふ。」
 現在、この記述に比定しうる石の像とされるものが、石宮神社の磐座を「犬像」、境内の巨石を「猪象」とするもの、女夫岩遺跡の女夫岩を「猪象」とするもの、女夫岩を「猪象」とし、石宮神社の磐座を「犬像」とする説がある。
 女夫岩遺跡は、松江市宍道町白石字宍岩にある祭祀遺跡である。それは急な山の斜面を登って行き着く場所にあり、周辺からは土師器や須恵器などが出土しているという。この遺跡は山陰道の建設で無くなる計画でしたが、保存の声でトンネルとなり現存しています。

 加茂岩倉遺跡は、1996年10月農道整備の工事中に偶然発見されたもので、その場の作業員は銅鐸のことをバケツがころがっていたように思ったそうです。県と町の教育委員会は知らせを受け、現場に駆けつけ、作業の中止と現状の変更のないようにお願いしたそうです。
 私が実際現場に立って見ても、こんな所に銅鐸を39個も埋めるなんて考えられないような場所です。銅鐸は大きな銅鐸に小さな銅鐸を納めた「入れ子」状態になっていました。これらの銅鐸には、シカ、トンボ、イノシシ、カメや人面などの絵が写実性に富んだ形で描かれています。発掘の現場は工事のため崩されていて銅鐸も近くの田んぼの畦に並べてあったといいますが、かろうじて残っていた場所には発見時の銅鐸の姿が復元されていました。2000年前、何の目的でこのような形で埋納したのでしょうか。

 荒神谷遺跡は、銅剣358本と銅矛16本、銅鐸6個が出土した全国最多出土の青銅器埋納遺跡です。加茂岩倉遺跡とは山々をはさんで直線距離3.3kmという近い所にあります。1984年7月、こちらも農道建設予定地の試掘調査をしていたところ、大量の銅剣が発見されました。そこは、私が見てよくこんな場所を掘ってみようかと思うようなところです。実は、荒神谷博物館から遺跡までのハス池に沿う道の傍らで、調査員が須恵器の土器片を拾ったことがきっかけで入り込んだ谷の斜面を掘ったそうです。専門家はちがうなぁと、感心しました。加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡からの遺物は、古代出雲歴史博物館に展示されていてで初日にそれを見て大きな衝撃を受けたことを書きました。

 この旅の最後の見学地は西谷墳墓群史跡公園です。弥生時代の終わりから古墳時代にかけての墓地として使用された遺跡です。中国地方に多く分布する大型の四隅突出型墳丘墓が6基ありました。
 荒神谷遺跡からこの西谷墳墓群までの車窓には、出雲郡の神名火山、仏経山がみえていました。

 弥生時代から古墳時代、そして古代に至る人々の暮らしと精神文化の一端を見たにすぎないでしょうが、奈良時代に書かれた「風土記」という文書をとおして、これだけの歴史と文化、そして、地理に触れられたことは、大変貴重な体験でした。(完)


『出雲国風土記』を訪ねる旅(3)
大木 陸夫
2007年8月9日

大山展望
美保神社
熊野大社鑽火殿
夫婦椿
椿の葉っぱ
 島根半島の東端は美保関である。『出雲国風土記』には「美保の埼 周りの壁(崖)は、峙ちて嵬しき(けわしい)定岳【やま】なり」とある。展望台から東南に大山が見えた。国引き神話の綱を掛けた山である。

 東西60km程の島根半島を、一つの綱は三瓶山にかけ、もう一方は大山にかけ国引きをした。その綱が夜見の嶋(弓ヶ浜)だといってます。

 美保神社は半島を内側に回り込んだ所にありました。出雲大社の神が大黒様、美保神社の神は、ゑびす様です。由緒の文面には、「釣り棹を手に鯛を抱かれ福徳円満の神影で漁業の祖神、海上の守護神、産業福祉の道をお拓きになった御神様・・・」となってます。

本殿の造りは大社造りの二殿連棟という特殊な形式で、美保造りとか比翼大社造りなどと呼ばれています。本殿は国の重要文化財です。『出雲国風土記』には「美保の濱 廣さ一百六十歩なり。西に神の社あり。北に百姓の家あり。志毘魚を捕る。」とでてきます。

 島根半島と弓ヶ浜半島を結ぶのが境水道大橋である。橋の下を隠岐の島航路の船が白い航跡を残して通っていた。渡ったところが境港市(伯耆国)である。このコースは運転手さんのサービスの立ち寄りで、水木しげるロードにバスを止めてくれた。
 道路沿いにはかわいい妖怪たちが待っていてくれた。ボタンの花と薬用人参で有名な大根島を経由して松江市内に向かった。

 「朝酌促戸【あさくみのせと】の渡り 東に通道あり、西に平原あり、中央は渡なり。・・・(中略)(筌【せん】(竹で作った漁具)を使っての漁の模様や、丸干しにすることなどが書かれている)・・濱譟がしく【さわがしく】にぎわい、市人四【よも】より集ひて、自然に【おのづからに】いちくら(店)をなせり。」とある。出雲国から隠岐国へと向かう官道が通る場所で、渡し船が置かれていた所である。「朝酌の渡り 廣さ八十歩ばかりなり。国庁より海の邊に通ふ道なり」とある。渡し船は今でも人々の暮らしの中にあった。ちょうど学校帰りの女子学生が自転車と一緒に渡って行った。そこは、古代に市が立ち、人が寄り合い、客寄せの声や値切りの交渉など、暮らしの声が聞こえてきそうであった。

 熊野大社。『出雲国風土記』に、大社とあるのは杵築大社(出雲大社)とこの熊野大社の二社だけである。出雲国造が、すなわち、出雲大社の宮司さんが代替わりして国造(宮司)となるときには、先ず、ここ熊野大社で霊継【ひつぎ】をして、初めて神性国造としてその職を襲うことができるという。古来、連綿と代替わりのときに参拝し、神器のヒキリウス、ヒキリキネで神聖な火をキリ出して斎食を調整して、熊野大神と相嘗(共に食す)することにより新国造、神性国造となるそうです。写真はそのヒキリウスとヒキリキネの神事が行われる鑽火【さんか】殿です。また、毎年10月15日に出雲大社の宮司さんが、自らが出雲大社の祭事に使用するヒキリウスとヒキリキネをこの熊野大社から拝受するという神事があるのですが、このときに亀太夫という云わば一般人が、国の長官でもある宮司さんが持参したお餅を、「色が悪い」「ひびがある」「つぶつぶがある」などと出来栄えに苦情を言う場面があるそうです。そのやり取りの後、宮司さんは神舞を奉納、神器を授かることができるといいます。厳粛であるべき神事の中に俗な情景を組み入れることで一般大衆の心をつかんでいるのでしょうね。

 椿の葉っぱと『出雲国風土記』と関係があるの? 実はここの椿の木は根元が二本で中程が合体して一本に、そしてまた、二本に分れているというものです。ここは、八重垣神社です。「出雲八重垣、祈願をこめて、末は連理の玉椿」連理の玉椿は夫婦椿ともいうのです。写真は椿の葉っぱのアップですが、資生堂花椿会の椿のマークのモデルはこの椿だと聞きました。また、「早く出雲の八重垣様に、縁の結びが願いたい。」と出雲の古い民謡に謡われているそうですが、境内には鏡の池があり、その水面に銭を載せた紙を浮かべ、その沈んでいく速さで恋の成就、待ち人がいつ現れるかなどを占うといいます。『出雲国風土記』には佐久佐神社とでてきます。

ここで訂正があります。前回の(2)の文中に?が二か所出てきていますが、最初のは「?(フグ)は魚ヘンに台を書いた字」、二つ目は、秋鹿郡の神奈火山の「始終?歩は、始終を削除して?は四十の意味の横棒に縦棒を四本書いた字」です。


『出雲国風土記』を訪ねる旅(2)
大木 陸夫
2007年7月4日

出雲日御碕灯台
青木遺跡井戸
佐太神社遠景
狛犬しっぽ
狛犬親子
新潜戸
 一日目の旅はまだ続きます。稲佐の浜周辺には『出雲国風土記』に見える門石島に比定される関島(今は陸地)、そこには下宮神社があり、伊奈佐乃社、現在の因佐神社などがある。また、屏風岩という奇岩が民家の真ん前に立っていて、目かくしか防風のための屏風そのものであった。

 次に訪れたのが、日御碕神社。『出雲国風土記』には美佐伎社とある。徳川家光が寄進した楼門が国の重要文化財に指定されていて、朱塗りの社殿が鮮やかである。神社から海沿いの遊歩道を出雲日御碕灯台へ向かった。ここで灯台の写真を見てもらいたい。この灯台の高さが地上43m65cmということで、石積みの灯台としては日本一の高さである。そこで古代出雲大社の高さが48mだったことを思い出して欲しい、この灯台を数メートル超える高さだったのである。木造でこのような高さの社が建てられていたのである。私は、螺旋階段を途中休みながら登り、島根半島の西端の絶壁の景観を堪能したのは言うまでもない。写真は燈光会より提供して頂きました。

 青木遺跡。所在地は一畑電車おおてら駅北東300m位の出雲市東林木町。国道431号バイパス工事現場の発掘で、弥生時代の四隅突出型墳丘墓や井戸、掘立柱建物跡などが見つかっている。木簡や墨書土器、神像も発掘されている。建物のうち一棟は、9本柱で中心の柱が太く、深く埋められていたことなどから、大社造りの神社の可能性があり、神を祀る儀礼があったことを窺い知ることができて貴重である。写真は埋め戻された遺構の上に復元された青木遺跡である。

 一日目の見学はここまでで、宍道湖の北岸を松江市内のホテルに向かって進んだ。

 この夜は居酒屋さんで懇親会をした。そこで宍道湖七珍のうち、スズキ、テナガエビ(本当はモロゲエビですが漁獲が少なく出回らないといいう)、アマサギ、コイ、シジミを食べた。七珍には他にシラウオとウナギが加わる。
 私が食べた「番外の三珍」を紹介します。それらは日本海で獲れるものです。一番目が「あごのやき」。お皿に盛られたものと名前がなかなか一致しませんでした。「アゴ野焼き」だそうで、アゴとはトビウオのこと、その竹輪である。普段食べるものと違い歯ごたえと甘さがあった。それを作るときに「地伝酒」を使うことと、竹輪が大きいので焼き上げを屋外でやることなどに特徴があると解説された。
 地伝酒は、醸造に日本酒の二倍の米麹を使うため、濃厚な味わいとなり、その甘みはみりんの半分、旨味は酒の三倍から五倍あるそうだ。アゴ野焼きはこの地伝酒を使って作り上げるので、輪切りにして皿に出されただけで美味しくいただける一品であった。ちなみに地伝酒は昭和18年に製造されなくなり、平成2年に復活したそうである。
 番外の二番目は「十六島岩のり」である。十六島は地名で“うっぷるい”と読む。日本海の岩場で獲れる岩のりを焼きのりでいただいた。歯ごたえがあって香ばしい一品だ。『出雲国風土記』には、「但紫菜者 楯縫郡尤優也」(ただ、むらさきのりは、たてぬいのこほり、もっともまされり)の記述があり、この海苔のことだそうだ。
 番外の三番目はノドグロである。島根県の特産で、赤ムツの仲間の高級魚である。姿焼きで出てきた。頭からしっぽまでまるかじりした。おいしいさかなである。
 では、『出雲国風土記』に出てくる水産物を見てみると、中海(近年、干拓を中止したことで有名)や宍道湖のものとして、入鹿、和爾(ワニザメ)、鯔(ナヨシ、ボラ)、須受枳(スズキ)、近志呂(コノシロ)、鎮仁(クロダイ・チヌ)、白魚、海鼠(ナマコ)、海老、海松(ミル、海藻の名)、年魚(アユ)、鮭、麻須、伊具比(ウグイ)、魴(ナヨシ)、鱧、日本海のものとして、?(フグ)、佐波(サバ)、烏賊、鮑魚(アワビ)、螺(サザエ)、イガイ、ウムギ、カセ、ニシ、石華(セ、カメノテ)、蠣子(カキ)、海藻(ニギメ)、紫菜(ムラサキノリ)、ウニ、タコなどがある。古代から人々は、宍道湖や日本海から豊富な食料を得て、この地に住み文化を築いてきた。

 5月29日は佐太神社から旅の続きが始まった。『出雲国風土記』秋鹿郡に、「神名火山【かむなびやま】郡家の東北のかた九里始終?歩なり。高さ二百卅丈、周り一十四里なり。謂ゆる佐太の大神の社は、即ち彼の山下なり。」とある。『出雲国風土記』には神名火山が四座出てくる。カムナビは神隠り【かんなばり】の意であるが神名樋、神奈備、神名備、甘南備、甘嘗備、賀武奈備、賀茂那備など多様な表記がされる。
 ここ秋鹿郡の神名火山は、朝日山(標高341m・松江市東長江町)に比定されている。また、国引き神話の「狭田国」に大きな関わりがあるようだ。
 他の三つの神名火山は、意宇【おう】郡は茶臼山(171m・松江市山代町)、楯縫郡は大船山(335m地点)、出雲郡は仏経山(366m・斐川町)である。
 佐太神社の近くを流れる佐陀川は、恵曇【えとも】浜で日本海に流れ出る。「恵曇の濱 廣さ二里一百八十歩なり。東と西とは竝に家あり。西は野、北は大海なり。即ち、浦より在家に至る間は、四方竝びに石木なし。白沙の積れるがごとし。・・中略・・即ち、彫りて鑿てる磐壁は三所あり。其の中に川を通し、北に流れて大海に入る。」とある。また、「恵曇池 陂【つつみ】(堤)を築く。周り六里なり。」ともある。水田開発を行っていたのが分かる。恵曇神社にもお参りした。ここにでは珍しい狛犬さんたちに出会った。

 「加賀の神埼 即ち窟あり。高さ一十丈ばかり、周り五百二歩ばかりなり。東と西と北とに通ふ。」と出てくる、加賀の潜戸【くけど】は、佐太の大神が産まれた場所だという。そこは地殻変動による断層と浸食作用が加わってできた、と今風に解説してしまっては神話の国めぐりではなくなってしまうが、陸と海とに二つの大きな洞窟があって、遊覧船で巡ることができる。船は先ず新潜戸に私たちを案内した。東から西北に開いた洞窟を波に負けないように少し加速して潜り抜けた。神話では枳佐加比賣命【きさかひめのみこと】が大神を産もうとするとき弓を射た。行き詰まりの岩窟が神力によって向こう側まで抜け通って明るくなったというのである。当時の人はここを船で通るときには大声をとどろかせて、恐怖心を振り払ったという。旧潜戸は陸にある。船をおりて岩肌づたいの道を洞窟に入っていった。賽の河原のように小石が積まれていた。無数にあった。そこは、幼くして死んだ子供たちの集まる場所と信じられ、不幸にして愛児を亡くした親たちが遺品を持って訪れるという。ランドセル、人形、運動靴など所狭しとあるのが物悲しく観光気分では見続けられなかった。


『出雲国風土記』を訪ねる旅(1)
大木 陸夫
2007年6月29日

 この旅は横浜市歴史博物館で『続日本紀』和銅六年(713)五月甲子条に出てくる、“風土記”編纂の記事の『出雲国風土記』の特別講義を受けたことがきっかけであった。

 5月28日(月)7:20、旅のスタートは羽田空港のロビーに集合することで始まった。
 8:20 JAL1663 便は、富士山の火口を眼下に見下ろし、さらに琵琶湖や大山の上を飛び、出雲空港に降りた。空港からは観光バスで最初の訪問地出雲大社へ向かった。出雲平野を行くと随所に特徴のある築地松の生け垣が見える。冬の冷たい西風を避けるためであろう二階まで届く高さの松が独特の風景を見せてくれている。出雲ドームの丸い屋根を左に、右には出雲大社の北側の山並みを見ながら進む。
 出雲大社に詣でる前に旧JR駅舎の見学となった。大正13年改装の国の重要文化財に指定されている、旧JR駅舎は純和風の入母屋造である。駅舎に入ってみると時刻表や運賃表が廃業の時のまま残されていて、今にも改札掛の鋏の音が聞こえてきそうである。東京までの運賃は11,120円となっている。ホームには、上りの方向に蒸気機関車が展示されていて、出発信号が青になるのを待っているかのようである。私には発車の汽笛が聞こえ、石炭の煙の臭いがなつかしく漂ってきた。

出雲大社

 出雲大社は神話の夢舞台である。松並木の表参道から銅鳥居をくぐって社殿に向かった。私たちは千家【せんげ】権宮司さんから出迎えのご挨拶を頂いた。私は見学のつもりでこれを書いているが、実は「お庭ふみ」という宗教的な行いなので、装束を着け、お祓いを受けて社殿のご案内となった。八足門から瑞垣の内へ入ると荘厳な御本殿が目近なものになった。本殿は来年から平成の大修理が始まります。大社では「平成の大遷宮」といっています。現在の本殿は延享元年(1744年)に造営され、三度のの葺き替えと修理がされてきた。今回の大修理でも桧皮屋根の葺き替えや建物の修理がされるという。ご案内によると、桧皮の屋根には小鳥が巣をつくり穴があいているそうだ。実際、私たちも小鳥が出入りするのを目撃した。案内の神官の少しユーモアを交えた話ぶりが、荘厳な雰囲気に少々緊張気味だった私たちをリラックスさせてくれた。国宝建造物である本殿の修理をするためには、法律が必要だそうだ。年内には国会で決定する予定だという。着工すると五年程工事用の覆い屋根がかかる。この「平成の大遷宮」で、社殿がどのようにヨミガエリするのか楽しみな気持ちになった。
 「雲太(出雲太郎)、和二(大和次郎)、京三(京都三郎)」という言葉を知っていますか。平安時代(970年)の書物『口遊【くちずさみ】』にでてくるのですが、当時の巨大建造物は、「出雲大社が一番大きくて、次いで奈良の大仏殿、そして京都の大極殿」と順番をつけてこういったというのです。2000年4月に建物の巨大さを示す証拠の柱が出土した。八足門の前から三本の杉の木を束ねて一本の柱とした、その土中の部分が発掘されました。一本の杉の直径が1m35cmなので柱の直径は3mにもなるものである。このことから千家家に伝わる文書「金輪造営差図」に描かれた巨大な建物が現実だったということになった。現在の本殿の高さが24m、古代の本殿の高さは48m(一説には96m)あったといわれている。一本の木でこの高さを得ることは出来ないので、三本を途中つなぎどころを変えて長くしたんだろう。写真は古代出雲歴史博物館に展示されている柱である。向こう側の人と比べて見ると大きさが分かると思う。
 案内によると、本殿内部の構造は、九本の柱で四つのスペースに分けられる形となっていて、階を上がって最初の間、正面に壁があります。左に折れて次の間、さらに右に折れて御客座の間、右に向くと御神座となるそうです。ということは拝殿から本殿に向って手を合わせると横向きの神様を拝することになりますね。ですから神様に正対するために、西側の瑞垣のところから参拝なさる人もいるそうです。出雲大社の参拝作法は「二礼、四拍手【かしわで】、一礼」だそうです。

出土した柱(古代出雲歴史博物館展示)
 大社を後にして社家通りを東に歩いた。そこには北島国造【こくそう】家がある。古来、出雲大社の宮司は千家国造家と北島国造家が交代で務めてきた。今は千家国造家が大社の宮司を引き継いでおり、それぞれ別々の宗教活動をされているそうだ。この道筋は大社の神官などのお住まいが立ち並んでいる。

 島根県立古代出雲歴史博物館が次の見学地である。今年3月10日に開館したばかりの博物館で、ここには上述の三本柱や、後述する荒神谷遺跡や、加茂岩倉遺跡出土の弥生時代の青銅器など国宝、重要文化財が展示されている。強烈なインパクトを持って出迎えてくれたのが、大きな壁面を埋め尽くした、荒神谷遺跡出土の銅剣380本の展示である。誰もが感嘆の声を上げていた。平安時代の出雲大社本殿の1/10復元模型や玉作、たたら製鉄などの展示があった。そして、出口から国道に続くアプローチは、古代出雲大社の一丁の長さの階をイメージして作ったというもので、その長さを実感させてくれていた。

 昼食は、出雲そばを出雲流に食べる割子そばであった。

 稲佐の浜へ出た。ここは国譲り神話の舞台であり、また、旧暦十月に全国から神々がここに上陸し、神迎の神事が行われる場所である。正面に弁天島、長く続く砂浜を左に見ていくとその奥に三瓶山も見ることができた。『出雲風土記』の「三身の綱うちかけて、霜つづらくるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々と引き来縫へる国は・・」の綱の一本を掛けたのが三瓶山であり、もう一本を大山に掛けて国引きをしたという。そんな情景を思い描きながら見ていたら、古代日本人の自然の見方や、想像の豊かさ、作話の巧みさなど興味深く、この後の旅への期待が大きくなっていった。


 利尻とウニ
今泉 みゆき
2007年5月25日

<この作品は作者が所属していた山岳会の文集に「山と食べ物」というお題を受けて書いたものの転載であることをお断りします。>

 「海と山、どっちが好きか」と聞かれれば、ちょっと考えて「山」と答える私だが、「海の食べ物と山の食べ物、どっちが好きか」となると、これはもう間髪を入れず、「海!」となってしまうのだ。
 そう、好きな食べ物は、寿司。中でも特に好きな寿司ネタは、断然、ウニ!
 山行では鍋物を中心に数々の美味しいものを食べてきてはいるものの、悲しいかな、新鮮な海産物にだけはどうしてもお目にかかれない。せいぜい石狩鍋の鮭の切り身がいいところ。大好物のウニなんて夢のまた夢。
 ところがよくしたもので、島国日本には海と山が近接しているところがあった。その最たるものが北海道の北のはずれにある離島、利尻島の利尻山。ここならウニが食べられる!

■ことのはじまり〜チャリ旅

 それは1998年のこと。その夏私は稼ぎの良かった派遣の仕事を突然リストラされてしまった。普通なら失職して落ち込むところだろうが、そこは私、これは長期休暇の良いチャンスとばかりに以前からやりたかった北海道のチャリ旅に出かけた。テーマは「行き当たりばったりのビンボー旅」。そのテーマ通りに、宿泊はテント、食事は勿論自炊で、ご飯と味噌汁、それに缶詰やレトルトのおかず1品という貧しい生活を送っていた。特別に好きなわけでもないのに、安くて栄養があるからと、納豆をよく食べていた。贅沢と言えば温泉あがりの1本の缶ビール。いや、違う、正しくは発泡酒。それがささやかな食の幸せだった。
 ビンボー旅とは言っても、やっぱりもちっと美味しいものが食べたいと思うのは人情。たまには贅沢してもいいよね。別に誰かに清貧でいろと強制されたわけじゃないのだから。そこで思いついたのが利尻のウニだった。よし!利尻に渡ったらウニ丼を食べよう。
 そう決めて勢い勇んで行ったものの、利尻でもウニ丼は悲しいほどに高かった。たった1杯の丼物が2,500円もするではないか。う〜む、いくらなんでも高すぎる。もっと安いところはないのかと利尻山にも登らずに、周囲63kmの島をぐるっと一周走ってみた。しかしどこも大差はなく、泣く泣く諦め沓形【くつがた】岬公園キャンプ場へと戻った。
 ウニ丼で頭の中がイッパイになった傷心の身でも、ちゃ〜んとお腹はすくものだ。気を取り直して夕飯の買い物に沓形の町に出かけると、目に飛び込んで来たのは1軒の小さな魚屋だった。「これだ!」とばかりに入っていくと……やった〜!あったぞ!ウニだウニだっ!
 プラのパックに入れられたオレンジ色に輝くウニは、納得価格の900円。飛び上がって喜びたい気持ちを押さえ、冷静を装ってお買い上げ〜。毎度あり〜。
 そそくさとキャンプ場に戻ってコッヘルでご飯を炊く。炊きあがるまでのその時間がなんと長く感じられたことか。失敗なくきれいな炊けたホカホカの銀シャリの上にウニをたっぷりと乗せる。さてさてこれで夢にまで見たウニ丼の出来上がり。
 味は言うまでもない。とろ〜りと溶ける甘〜い味は絶品。ああ、これぞ至福のとき。たった900円でこんな幸せが得られるなんて、なんて安上がりな幸せなんだろう。
 ああ、極楽至極…。

■うれしい出逢い

 それから3年後の2001年6月、私は再び利尻にいた。この時の目的は利尻山の登山コースを確認すること。つまりガイドの下見だった。チャリ旅の時は重い思いをして登山靴を運び4日間も滞在していながら結局登らずじまいだったのだ。
 キャンプ場は以前と同じ沓形岬公園。利尻山に登るには、標高300m付近にある鴛泊【おしどまり】登山口の利尻北麓野営場が便利なのだが、私は敢えてそこを外し、沓形キャンプ場に幕営していた。ここは利尻島の西側に位置し、日本海に沈む夕陽を眺めるができるうえ、背後には利尻山を臨むこともできる。施設はトイレと水場だけと至って質素。5分も歩けば海を展望する温泉があり、買い出しにも便利だ。北海道のキャンプ場というのは20数カ所利用したが、その中で最も気に入っているのがこのキャンプ場なのだ。
 初日は車を稚内に残してフェリーで鴛泊に渡り、そこからバスで移動して沓形へ行った。キャンプ場には新たにコインランドリーが置かれた小屋ができていたが、その質素さは変わらなかった。
 利尻山に登る目的の他にもう一つ、再びウニ丼を食べるという目的があった。チャリ旅で味を占めた私は食堂などの高いウニ丼にはめもくれず、例の魚屋に喜々として出向いたのだ。しかし! なんとしたことか、ないっ!ないないっ!ウニが売られていないではないか!
 私のささやかな夢は儚くも崩れ去り、意気消沈の夜となってしまった。

 2日目の6月15日。素晴らしい登山日和の天気となった。
 テントで朝食を摂っていると「おねえちゃん、ウニ取りに行こうよ」と声をかけられた。そこには小学校高学年くらいの少年がおり、聞くと近所の漁師の子だという。「おねえちゃん」と呼ぶところがエライ!
 その誘いは興味あるものだったが、この日はなんとしても利尻山に登らなければならない。「今日は山に登るから明日にしよう」と言って断った。
 前日移動した道を再びバスで戻り、鴛泊栄町で下車。海抜がほぼ0mの地点から1719mをひたすらひたすら登るのだ。そしてまた降りるのだ。
 車道を歩くこと40分で3合目に当たる登山口に到着。唯一の水場である甘露泉を通り、針葉樹の樹林帯を進む。登山道や休憩適所などをしっかりチェックしながらも、先を急がなければならない。下山は沓形へと決めていたので、登山道部分だけでもコースタイムは8時間45分。その前後の車道を含めると10時間を超える長丁場となるからだ。
 登山中の話を詳細に書いていると既にもう長くなってるこの話は更に更に止めどもなく長くなってしまうので、はしょる。これは山行記録ではないから山行中の話はどうでもいいのだ。
 だけど、ちょっとだけ…。
 4合目〜5合目の灌木帯の林床はマイヅルソウの大群落。私がそれまで見た中では最大級のものだった。
 さらに歩を進めると傾斜は徐々に増してきた。岩が露出した第2見晴台から8合目となる長官山までは地図の等高線も混んでおり、コースタイムは40分となっている。頑張りどころかなと覚悟して登りにかかると、なんということか、わずか10分強で長官山に着いてしまったではないか。確かに急登をガシガシ登りはしたが、余りに早過ぎはしないか。後にゲストを連れて歩いたときも20分足らずだったことから、これは誤った記述に違いない。また、マイヅルソウの群落の位置表示も違っていた。「山と高原地図」さん、正しい情報をお願いしますよ。
 沓形分岐を過ぎると崩壊が進むザレ場。張られたロープの存在がありがたい。ローソク岩を右手に仰いでもう一登りすると、いよいよ利尻山北峰だ。視界を遮るものは何もなく、見下ろす下界は360度グルリと海。晴れていても山頂部だけ雲がかかっていることも多い利尻で、これほど見事に晴れ渡ってくれるとは! 他の山とはまるで違う開放感と爽快感は格別のものだった。
 下山は沓形コースへ。かつては3本あった登山路のうち、鬼脇コースは崩壊のため現在では立入禁止となり、この沓形コースも危険箇所があることから歩く人は少ないマイナーなコースだ。
 急なザレ場や鎖場、切れ落ちたような雪渓のトラバースを慎重に通過すると、上方から続くガラ場が待ち受けていた。絶え間なく聞こえる落石の音に緊張を強いられる。上部に注意を払いながら足速に進む私の足下も次々に崩れてゆくではないか。久々に楽しい(?)スリルを味わった。
 ひたすら下山すること2時間を超えた頃、下方から下手くそなウグイスの声が聞こえてきた。そう、それはウグイスではなく、それを真似た人の口笛だった。7合目の避難小屋で沓形から登ってきたという二人のオジサンが休んでいた。
 この出逢いこそが、このあと私を再びウニへと導くこととなる。
 先に下山して行った二人を途中で追い越し、沓形登山口からの長い車道を「一体キャンプ場までどのくらい時間がかかるのだろう」と思いながら下っていると、今後は車で登山口まで入っていた二人に追いつかれた。長くなりそうな車道歩きにうんざりぎみだった私は、あっさりとそのワンボックスカーに拾われた。車に乗り込むと、それはキャンプ仕様車であることが一目で判った。
 口ひげをはやしたオジサンM氏は日本画家であり、車で日本中を旅しながら制作を続けているという。そしてヒョロっと長身のT氏は、M氏をバックアップしている某有名デパートの社員ということだった。
 一人で山を歩いていると、悲しいかな若い男との出逢いはないのだが、オジサングループにはよく声をかけられ、そこから親交が始まった人たちもいる。短パン履いた元気なねえちゃんは、オジサンにはモテルのだ。この時も話が弾み、その勢いでそのまま二人の行きつけの店に一緒に行くことになった。
 一緒に山に登ったわけでもないのに、下山祝いということで生ビールで乾杯。長時間歩いた後のビールはウマイ!今となってはそれが何だったのか思い出せないが、いくつかの珍味も味わった。もちろんお二人からのご馳走。そこで私が酒好きであることが露呈したわけだが、それは大きな幸いだった。温泉で汗を流した後に夕飯を食べに行かないかというお誘いを受けたのだ。会話の楽しいオジサマ(サンからサマに変わってる)からのお誘いを断る理由はどこにもない。
 入浴の後再び合流し、向かった先は沓形の町にある居酒屋。昼間は沓形港で食堂を開き、夜には町中で居酒屋をやっているという。
 M氏はこの町の名誉町民であるらしく、この日の宴はこのお店の接待であったようだ。私はその御相伴にあずかってしまったというわけだ。そういうことだから、出るわ出るわ、頼まないのに次から次へと海産物が目の前に並べられる。もちろん、ウニもたっぷり!ウニは私を見放しはしなかったのだ。
 ああ、極楽至極…。

■そして再び

 下見を無事に終えた私は、翌月にはJTBの登山ツアーのガイドとして再び利尻を訪れることができた。これは勿論全食事付き。利尻の宿の食事いえば、必ずウニは付いてくる。前年に行ったガイドから、海産物をたらふく食べたと聞いていたこともあり、食事にはかなり期待をしていた。
 ところが、当初の宿が定員オーバーになってしまったことから分宿となり、スタッフが宿泊した宿は夕食に殻付きの生ウニは出たものの「ちょっとそれはないんじゃない?」とガッカリさせられる宿だった。おまけに同行したツアー会社の専属スタッフがガイド仲間からすこぶる評判が悪い奴でムカツクことしばしば。もひとつおまけに天気もイマイチで、なんだかあまり楽しい仕事ではなかった。

 しかし、ここで終わってしまっては尻つぼみではないか。
 大丈夫、ちゃ〜んとその2週間後にはまたしても利尻の地に足を踏み入れていたのだ。
 宿は鬼脇にある「プチホテル川村」。前回泊まり損ねた宿だ。宿のご主人と名刺交換をするまで、ご主人は「ガイド(女性)」というのはバスガイドさんだと思っていたそうで、それが登山ガイドだと知って痛く恐縮していた。と同時に気に入ってくれたようでもあった。ここでもオジサンにはモテルのだ。
 夕食は特別にスゴイということはなかったが(やっぱり当然ウニは出た)、十分に満足感は得られるものだった。
 そして話はここからがオイシイ。宿のスタッフ達が庭先で行う炉端焼きに私を招待してくれたのだ。このツアーは添乗員付きなので、ガイドは山の部分だけをしっかりやればいい。ゲストの目が少し気になるところだが、幸い添乗員が近くの温泉に連れて行ってくれて宿にはいなかった。
 この炉端焼きは仕事でしばらく利尻に滞在していた人の送別会だった。私はその御相伴にあずかってしまったというわけだ。(ん?なんか前と同じフレーズ。)そういうことだから、ビールは飲み放題、海の幸は食い放題。ぷりっぷりのデッカイ帆立に食らいつき、生ウニ、焼きウニ、蒸しウニと、次から次へと喰うわ喰うわ。とても夕食を食べた後とは思えない。こんなにもたらふくウニを食べられるなんて。
 ああ、極楽至極…。

 さんざっぱらビールを仰いだが、そこはもちろんプロ。翌日に残すことはなく、朝の4時には宿を出て、しっかり仕事をこなしたのは言うまでもない。
 山頂では、アポイ岳で知り合った標津【しべつ】町のオジサン軍団に会うという偶然があった。6月の利尻行きの前に標津に招かれ、ここでも海の幸をたらふくご馳走になっていたが、利尻に行くことは全く聞いていなかったので驚きと嬉しさの再会だった。
 そしてもひとつおまけのウニ。3日目のミニ観光でオタトマリ湖へ行った時、ツアーのスタッフということで土産物屋からウニのお寿司のご馳走があった。

 そうそうすっかり忘れていた。「ウニを取りに行こう」の少年は、翌朝再び私のテントを訪ねてきた。そして隣に幕営していたライダーのにいちゃんと共に岩場に出てウニ探しをした。これも「海賊」行為なのかなとちらっと思ったが、漁師の息子から誘われたのだから問題ないだろう。それに真剣さがなかった私は結局一個も見つけられなかった。それに対して真剣だった少年は長い昆布をたぐり上げ、昆布に付いた小さなウニを見つけてくれた。食べてしまうには可哀想なサイズだったが、少年の折角の好意を無駄にしてはいけないので、ナイフで割って食べた。あまりに身が少なかったため美味しいも何も判らなかったが、ウニにからんだ海水のしょっぱさは、子供相手に真剣にならなかった私の、楽しいながらちょっとしょっぱい思い出となった。

 北海道内で好きな場所というのはいくつもあるが、利尻は大雪、知床と並んでトップクラスに入る。それは決してウニの思い出のためではない。たとえウニが食べられなくても、また足を運びたい場所だ。
 山の魅力もさることながら、島全部が、好きだ。