タイトル
作 者
投稿日
木村流『蘭学事始』(1) 木村 勝紀 2009.10.6
木村流『蘭学事始』(2) 木村 勝紀 2009.10.26
木村流『蘭学事始』(3) 木村 勝紀 2009.11.10
木村流『蘭学事始』(4) 木村 勝紀 2009.11.25
木村流『蘭学事始』(5) 木村 勝紀 2009.12.11
木村流『蘭学事始』(6)〜(14) 木村 勝紀 2010.1.29
木村流『蘭学事始』(15)〜(20) 木村 勝紀 2010.4.1
木村流『蘭学事始』(21)〜(24) 木村 勝紀 2010.5.19
木村流『蘭学事始』(25)〜(27) 木村 勝紀 2010.8.27
木村流『蘭学事始』(28)〜(36) 木村 勝紀 2010.9.18
木村流『蘭学事始』(37)〜(41) 木村 勝紀 2010.10.14
木村流『蘭学事始』(42) 最終回 木村 勝紀 2010.10.19
木村流『蘭学事始』 読後感想 (投稿者)永井 藤樹 2010.11.16


 木村流 『蘭学事始』(1)
木村 勝紀
2009年10月6日

●序

 『蘭学事始』という書名を聞いて知らない人はいないでしょう。しかし、読んだことのある人となれば限られているのではないでしょうか。このシリーズは、杉田玄白(注1)の著した『蘭学事始』の原文の口語訳(緒方富雄(注2)訳)を参考に紹介するものです。適宜、解説を加えながら書き進めますので、蘭学の先達の回想録に親しむ一助となれば望外のよろこびです。

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●第1回
 蘭学というもの ─ 漢学と蘭学

 このごろ世間で「蘭学」ということがしきりにはやっていて、志のある人々は熱心に学び、知識のない人たちはむやみと偉いことのように思っている。
 この蘭学の起こりを思いおこしてみると、むかしわたしたちのなかま2〜3人で、ふとやり始めたことなのだが、もう50年に近くなる。いま、これほどまでになろうとはまったく思いもしなかったのに、ふしぎにもさかんになったものである。
 漢学のほうでは、むかし遣唐使をシナへつかわしたり、えらい僧を留学させたりして、直接にあちらの国の人について学ばせ、その人たちが帰ってくると、いろいろの階級の人々を教育指導するようにさせたものであるから、だんだんさかんになったのは、もっともなことである。
 蘭学のほうでは、そのようなことがまったくなかった。それなのに、このようにさかんになったのは、どういうわけであろうか。
 いったい医学は、その教えかたがすべて実地を重んずるので、わかりが早いのか、それともオランダ式の医学というもの自身が目新しく、いろいろ外国式のすばらしい療法でもあるように世の人も思っているので、わるがしこい連中がこれを看板にして宣伝し、うまく利益を得ようとするためにひろまるのであろうか。

(第1回完)

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<解説>

 文中の「このごろ世間では」とか「もう50年に近くなる」の言葉を読むとき、頭の切り替えが必要です。杉田玄白がこの回想録を書いているのは、文化12年(1815)で83歳のときなのです。「もう50年に近くなる」と書いているのは、安永3年(1774)に出版した『解体新書』のことを思い浮かべているのでしょう。
 『蘭学事始』が知られるようになるのは、明治2年(1869)福沢諭吉の世話で、出版されるようになってからなのだそうです。明治より以前は、わずかな限られた人々が写本によって読んでいたくらいで、蘭学者の仲間でも、多くの人が読んだという形跡がないといいます。『蘭学事始』をただ回想録として味わうのもいいが、玄白の述べる資料についてもさぐっていくならば、一層の興味を感ぜられるであろう、とは訳者の言ですが、このシリーズでは、そこまでの力量がありませんので、ご容赦のほどお願いいたします。

<注>

(注1)杉田玄白
享保18年〜文化14年(1733〜1817)江戸中・後期の蘭学者。前野良沢とともに江戸カピタン宿(長崎屋)を訪ね、通詞・蘭人医に接し、オランダ医学の精緻なるを知る。江戸千住の小塚原【こづかっぱら】の刑場で女の腑分けを目撃し、良沢・玄白が携行していた『ターヘル・アナトミア』と対比して、その図説の身体内景の実際とよく一致するのに感心して、翌日より良沢・淳庵らと翻訳に着手、4年間の苦心の末、1774年(安永3)『解体新書』5巻として完成刊行した。1815年(文化12)大槻玄沢の力を借りて成った回想録『蘭学事始』に記された『解体新書』翻訳の苦心談は、よく知られている。「コンサイス・日本人名辞典(三省堂)」

(注2)緒方富雄
明治34年〜平成元年(1901〜1989)。昭和期の血清学者、医史学者。大阪生まれ。東京帝大卒。37年緒方医学化学研究所を設立し所長となる。曽祖父緒方洪庵を初め洋学史を研究。蘭学資料研究会会長、日蘭学会・日本医史学会理事。「新潮日本人名辞典(株式会社新潮社)」


 木村流 『蘭学事始』(2)
木村 勝紀
2009年10月26日

●第2回
 鎖国・南蛮流外科・領国とオランダ・オランダ流外科

 さて、むかしから今日までの移り変わりをよく考えてみよう。天正・慶長のころに、西洋人がだんだんとわが国の西のはずれへ船をよこすようになったのは、おもてむきは貿易のためということにしているが、うらでは、下心があってのことであろう。その結果、いろいろの災いが起こったので、徳川の御治世以来それらの国との通商が厳禁された。これは世によく知られていることである。その原因となった邪教?キリシタンのことは、わたしの知らぬ「よそごと」であるからいうことはない。ただし、そのころの貿易船に乗ってやってきた医者から伝えてもらった外科の流儀のうちには、世に残っているものもある。これが「南蛮流外科」といわれるものである。
 そのころから、オランダ船は通過を許されて、肥前の平戸へ船をつけていた。外国船禁止になったころでも、このオランダの国だけは、なかまでないというので、ひきつづいて渡来を許されていた。そして、オランダ商館が平戸にたてられた年(慶長十四年・西暦1609年)から33年目になって、それまで長崎の出島に住んでいた「なんばん人」を追い出して、そのあとへオランダ人を住まわせることとなり、オランダ商館をここに移した。それは寛永十八年(西暦1941年)のことである。それ以来、オランダ船は毎年長崎の港に来ることになった。
 それから後、このオランダ船について来る医者で、やはりその外科の療法を伝えたものも多かったそうである。これを「オランダ流外科」というのである。もとより横文字の本を読んで習い覚えたわけではなく、ただその手術を見習い、その処方を聞いて書きとめておいたくらいのことであった。もっとも、こちらにない薬が多いから、病人をとりあつかうのに、代用薬を使うことが多かったであろう。

(第2回完)

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<解説>

 『蘭学事始』の執筆中は依然としてキリスト教はご禁制ですので、「キリシタンのことは、わたしの知らぬ(よそごと)であるからいうこともない」と杉田玄白も慎重です。なんばん人、オランダ人、平戸、出島の話題が中心ですので、解説に代えて、江戸時代の長崎について簡単に紹介しましょう。出島で知られる長崎は、西欧に対して開かれた唯一の窓口でした。16世紀後半にポルトガル船が来航するようになってから、貿易港として、またイエズス会の一拠点として、急速に発展しました。
 江戸幕府は長崎を重要な港として直轄地にし、寛永13年(1636年)に出島を築いてポルトガル人を収容しましたが、翌年、島原の乱が起きると禁教政策の強化徹底を図り、ついにポルトガル船の来航を禁止します。杉田玄白が「なんばん人」と称するのはこのポルトガル人のことと思われます。ポルトガル人にかわって出島に居留したのはオランダ人で、平戸にあったオランダ東インド会社の日本商館が移転させられました。オランダは日本の金銀銅を買い付け、日本へはおもに中国の生糸・絹織物を持ち込んで利益をあげました。オランダ商館長は、長崎奉行を通じて幕府に海外情報を記したいわゆる『和蘭風説書』を提出し、また毎年江戸に参府して将軍に謁見しました。オランダがもたらす情報や医学・科学などの先進的な知識は、日本の蘭学の発展に大きく貢献したのでした。オランダ商館長の宿泊した定宿が、以前「jinhoyu-net」でご紹介した「長崎屋」だったのです。
 出島の写真を添付します。

 出島は、面積わずか3969坪(東京ドーム約0.3個分)の扇形の地形です。ここに日本側の管理のための建物が17棟、カピタン(商館長)などの居住施設が15棟、大小の倉庫が16棟並んでいました。長崎の町とは一本の橋でつながるのみで、出入りは厳しく管理されました。滞在するオランダ人は10人前後で、彼らは「国立の牢獄」と評したほど、窮屈な生活を強いられたといいます。写真は1830年ごろの様子を描いたもので、右上の大きな建物が商館長のカピタンの部屋で、高くはためくのがオランダ国旗です。

<参考文献>

『大江戸見聞録』小学館 2006年刊
『江戸博覧強記』小学館 2007年刊


 木村流 『蘭学事始』(3)
木村 勝紀
2009年11月10日

 今回はやや長めになりますが、外科の流派のいくつかを紹介しているところです。蘭医の名前が多数紹介されますので、解説の中でプロフィールをお伝えします。
 『蘭学事始』の記事の写真を添付します。

拡大図

第3回
 鎖国・南蛮流外科・領国とオランダ・オランダ流外科

 そのころ「西流【にしりゅう】」という外科の一家ができた。その家の祖先は、なんばん通詞の西吉兵衛という人で、なんばんの医術を受け伝えて、人にほどこしていたが、なんばん船の入港が禁じられてから後は、オランダ通詞となり、オランダの医術も伝えた。

 このように、なんばん流とオランダ流とをかねて、「南蛮和蘭両流」と唱えていたのを、世間では「西流」と呼んだそうである。そのころはこういうことはいたって珍しいことであったから、非常にはやって、その名も高かったからであろう。後には幕府におかかえの医者(官医)として召し出され、名を改めて「玄甫先生【げんぽせんせい】(木村注1)といわれたそうである。その子の宗春【そうしゅん】といわれた人は、病気がちで、早くなくなったので、家が絶えてしまったそうである。これがわたしの先祖の甫仙【ほせん】というかたの先生にあたる家である。いまの玄哲【げんてつ】君のおじいさんの玄哲先生(木村注2)も後に召し出されて、やはり官医となられたが、この人は玄甫先生のめい(姪)の続きあいになるということである。そもそも、この玄甫先生が、初めて西洋流の医学を唱えられたからこそ、幕府にも採用されるようになったのであって、これが、オランダ医学が御用にたった最初である。

 また「栗崎流【くりさきりゅう】」というのがある。これを唱えた栗崎氏は、なんばん人とのあいだのこだという。なんばんのキリシタン邪宗が厳禁となり、なんばん船の来ることも禁じられたが、それ以前は平戸や長崎の地であちらの人たちが日本人といりまじって住み、日本人の妻を持ち、子のあるものもあったので、後にはこれらのこどももよく調べて、なんばん人の血のまじっているものは、残らず日本から追い出してしまった。その中に栗崎というみょうじで、名を「ドウ」という人があった。この人はあちらで大きくなってもキリシタン宗にはいらず、ただその国の医学を学んだだけで、邪宗にはいらないという理由で日本に帰ることが許され、呼び帰されて長崎に住んだ。この人の外科は非常にじょうずで、おおいにはやったので、人々はこれを「栗崎流」と称したそうである。この人の名の「ドウ」というのはオランダ語で「露」ということだそうだ。後に文字をあてて、「道有【どうう】(木村注3)と書いたのだという。いま官医になっていられる栗崎君の祖先なのか、また別の家の 栗崎氏なのか、くわしいことは知らない。

 このほかに「吉田流」「楢林流【ならばやしりゅう】」などという外科の家は、いずれも、もとオランダ通詞で、オランダの流儀を学んで開業したのである。

 「桂川家」は、いまの代から五代まえに甫筑【ほちく】先生(木村注4)というかたがあって、六代将軍家宣公がまだ藩邸にいて、甲府候といわれたときに召し出された外科の家である。その先生(木村注:甫筑先生の師匠と思われる)は平戸候の医者で、嵐山甫安【あらしやまほあん】(木村注5)といわれたそうである。この甫安という人は、殿様のいいつけで、出島の蘭館につとめていたオランダの外科医に預けられて、その術を親しく学ばれたということである。
 この桂川家は、オランダの船が平戸へ来るようになって以来ずっと、あちらの国の人と親しく交際することも自由だったそうである。当時はいまのようにきびしくなかったのであろう。甫筑先生はそのころ、まだ若くて門人となり、先生につれられて出島へときどき行かれたけれども、もっぱら嵐山の流れを受け伝えられたということである。そのころのオランダの外科医は、ダンネルとアルマンスという人であったと聞いている。
 桂川氏は、もとは大和の国の人で、森島という名であったが、「嵐山の流れをくむ」という意味から、家名を「桂川」と改められたということである。それで 世に「桂川流」と称したわけである。桂川君(木村注6)のおじいさんの甫三【ほさん】(木村注7)というかたは、わたしが若かったときに交際が深かったので、このかたから話をうかがって覚えているのである。

 むかしから、「カスパル流」という外科がある。寛永二十年(1643年)に南部の山田浦へ漂流したオランダ船があったが、その船員のうちで江戸へ呼び出されたもののなかに、カスパルという外科医があった。幕府では彼を江戸に三〜四年とめておいて、その治療法を伝えさせたので、これを学んだものがあった。そういう人たちもだんだん長崎へ送られたということである。正保【しょうほう】のころ、江戸と長崎とにこのカスパルから伝えた療法があったそうである。事情はよくわからないが、後に「カスパル流」と唱えているのがそれであろうか。また別にカスパルという名の外科医がやって来たことがあったか.もしれない。

 そのほか、長崎に「吉雄流【よしおりゅう】」というのがある。その後渡来したオランダ人から受け伝えている治療法もあるので、「吉雄流」といった。

 これらの家々には「伝書」といった、それぞれの家に伝わる治療法を書いたものがある。それを見ると、みな、こう薬・あぶら薬を使う法ばかりで、くわしいことは書いていない。こんなふうに、不完全なものばかりなのであるが、それでもその治療法はシナの外科よりは大いにまさっていたし、また、わが国にむかしから伝わっている外科よりもずっとすぐれていたということはできよう。これらの書きもののなかで、わたしの見たものに、楢林家の『金創の書』というものがある。そのなかに、人のからだのなかには「セイヌン」というものがあって、生命に関係のあるたいせつなものであると書いてある。いまからみれば、これは「セーニュー」(zenuw)であって、わたしたちが「神経」と意訳したものに当たると思われる。わずかではあるが、これだけでもオランダ医学のことを聞いて書いたものは、この書きものが初めてであろう。

(第3回完)

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<解説>

 蘭学は江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術を研究しようとした学問です。蘭学を志した人びとは皆、進取の精神に富んだ逸材ばかりだったのでしょう。杉田玄白は享保十八年(1733年)生まれですが、ここに出てくる外科医の先達はいずれも各流派の始祖だけに杉田玄白より前時代のかたがたばかりです。それでは以下にプロフィールを紹介しましょう。

(木村注1)西 玄甫【にしげんぽ】 ?〜1684
江戸前期の医者。南蛮通詞西吉兵衛の子、母は肥前国佐賀の西次郎右衛門の娘。西洋医学をクリストアン・フェレイラ(日本名:沢野忠庵)らに学び、とくに西洋外科に通じた。

(木村注2)西 玄哲【にしげんてつ】 1681〜1760
江戸中期の蘭方医。玄甫の甥。オランダ商館の医者から蘭方医学を学び、幕府に出仕し、また家塾を開いた。『解体新書』の訳者杉田玄白はその門人の一人。

(木村注3)栗崎道有【くりさきどうう】 1664〜1726
江戸中期の洋方医学者。家学の南蛮流外科を継ぐ。のちオランダ流外科を取得。元禄四年(1691)江戸に到り、幕府の医官となる。のち法眼に叙せられる。元禄十四年(1701)吉良義央が殿中で刃傷を受けたとき治療した。

(木村注4)桂川甫筑【かつらがわほちく】 1661〜1747
平戸藩医嵐山甫安より蘭方外科を学ぶ。甫安の命により桂川と改姓。のちダンネル・アルマンスに師事して外科を修めた。徳川家宣に仕え、のち幕府の医官となる。享保九年(1724)幕命によりカピタン(オランダ商館長)と対話した。のち法眼に叙せられた。

(木村注5)嵐山甫安【あらしやまほあん】 1632〜1693
江戸前期の蘭方医。平戸藩主松浦鎮信の許しを得て、長崎出島のオランダ商館医D.ブッシュらから西洋外科を学ぶ。のち京都で公家などの治療に当り、嵐山の姓を与えられた。門人に桂川甫筑などがいる。

(木村注6)桂川君
実名が出ていないが、文章の前後関係、杉田玄白との年齢関係から類推すると桂川甫賢と察せられる。
桂川甫賢【かつらがわほけん】 1797〜1844
江戸後期の蘭方医。大槻玄沢・坪井信道らと蘭学を学び、渡辺崋山とも蘭書の貸借など交友があった。父の死後、跡を継いで幕府の医官となり、天保二年(1831)法眼。

(木村注7)桂川甫三【かつらがわほさん】 1728〜1783
江戸中・後期の医師。宝暦十年(1760)父の跡を継いで奥医師となり、外科に長じた。明和三年(1766)。 

<参考文献>

『コンサイス日本人名事典』三省堂 1990年


 木村流 『蘭学事始』(4)
木村 勝紀
2009年11月25日

 八代将軍徳川吉宗は「享保の改革」で数々の政治改革を実行したことで皆様ご存知の通りです。後世への目立たぬ功績として禁書の緩和がありました。従来からの鎖国政策の中で、洋書の禁書政策を緩和しオランダの科学・技術といった実用的な洋書の輸入を認めたのです。今回は、その辺のことに触れた記述になります。

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第4回
 鎖国とオランダ通詞・オランダ通詞の発憤

 徳川ご治世の初めのころ、いろいろの事件(木村注1)があって,西洋のことはすべてきびしく禁じられることになり、渡来が許されていたオランダでさえも、その国で使っている横文字をわが国で読み書きすることは禁じられていたので、通詞の連中も、ただオランダ語をかたかなで書きとめるという程度であり、口で覚えていて通弁の用を足していたのである。こんなありさまで年月がたってしまったが、事情が事情であったので、その間には、横文字の読み書きを習いたいという人も無かったのである。
 ところが万事は、その時が来ればおのずからひらけ、整うものなのであろうか。八代将軍吉宗公の御時に、長崎のオランダ通詞の西善三郎(木村注2)・吉雄幸左衛門(木村注3)と、もう一人名は忘れたが(木村注4)、こういう人たちが相談して、これまで通詞の家でいっさいの御用を取り扱っているのに、あちらの文字というのを知らないで、ただ暗記していることばで通弁し、いりこんだ多くの御用をどうやら弁じてつとめているというのでは、どうもあまりに不十分である。どうにかして自分たちだけでも横文字を習い、あちらの国の本を読んでもよいようにお許しを受けてはどうか。そうなれば万事につけ、あちらの事情がはっきりわかって、御用も弁じよくなるであろう。現状のままでは、あちらの国の人にだまされるようなことがあっても、それのつきとめようもない、三人はこういい合わせて、どうかこのことをお許し願いたいと、幕府へ申し出たところ、聞きとどけられ、しごくもっともな理由であるとて、すぐに許可になったということである。これこそ、オランダ人が渡来するようになってから百年余り、横文字を学んだ最初だということである。
 こうして横文字を習い覚えることができるようになったので、西善三郎などは、まず『コンストウォールド』という字引をオランダ人から借り受けて、それを三とおりまで書き写したということである。オランダ人もその精力に感じて、その字引をすぐ西氏に与えたそうである。

(第4回完)

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<解説>

 江戸時代の日本はいわゆる「鎖国」政策をとり、西洋からの学術・文化・技術などは交易国であるオランダから長崎経由で伝えられました。「蘭学」です。しかし、西洋の学問は「鎖国」以前にもポルトガルやスペインから入っていましたので、オランダからの「蘭学」に対してそれらを「南蛮学(蛮学)」と呼びました。幕末の開港以降は、イギリス・フランス・ドイツなど諸外国の学問を習得する必要が生じ、これを「洋学」と呼びました。「蘭学」の本格的な興隆は、玄白のいうとおり享保から元文期(1716〜1740)の八代将軍徳川吉宗の政策に始まりました。

八代将軍徳川吉宗公<写真解説>

 添付した肖像画は八代将軍、徳川吉宗公(1684〜1751)です。以下は文献の転載になります。紀州徳川家二代光貞の四男に生まれる。1697年に越前国丹生郡三万石を与えられる。1705年、兄たちの相次ぐ死の結果、紀州藩主となり、改革を励行する。家継(七代将軍)の死去とともに、老中たちの推挙により将軍に。就任早々、間部詮房・新井白石を罷免して人心を一新し、 以後目安箱や御庭番を設置して情報収集に勤め、高品位の通貨を発行し、財政改革に邁進し、一連の改革によって幕威を回復した。将軍職を退いた後は、大御所となった。 『徳川将軍家展』NHK・プロモーション編より

<注>

(木村注1)いろいろの事件
島原の乱(1637〜1638)のことを想定していると思われます。この乱に手こずった幕府は、これを機にキリシタン弾圧を強化し、1639年ポルトガルとの通商を断ち鎖国に入ったのでした。

(木村注2) 西善三郎【にしぜんざぶろう】 1717〜1768
江戸中期のオランダ大通詞。延享2年(1745)吉雄耕牛・本木良永とともに、 蘭書の訳読をはじめて許され、以後の蘭学興隆の基を開いた。オランダ人ピートル・マーリンの辞書を和訳して蘭和辞書をつくることに従事したが、完成をみないで没した。

(木村注3) 吉雄幸左衛門【よしおこうぎゅう】 1724〜1800
上記、西善三郎の項に出ている吉雄耕牛【よしおこうぎゅう】のことである。 江戸中期のオランダ通詞・医師。通称幸左衛門、剃髪後の号を耕牛。代々オランダ通詞の家柄で、祖父の代から医学にも手をそめた。外科の術にすぐれ、日本の外科医学の発達史上重要な人物で、前野良沢・杉田玄白・平賀源内・大槻玄沢らもその門をたたいた。『解体新書』第一冊に序文を書いている。

(木村注4)もう一人名は忘れたが、上記、西善三郎の項に出ている本木良永【もときよしなが】と思われる。
本木良永【もときよしなが】 1735〜1794
江戸中後期の蘭学者。オランダ通詞本木良固の養子。寛延2年(1749)オラ ンダ通詞となり、オランダ商館長に従い3度江戸参府。その間、オランダ語文献の翻訳につとめ、安永3年(1774)「天地二球用法」ではじめて日本にコペルニクスの地動説を紹介した。

<参考文献>

『コンサイス日本人名事典』三省堂 1990年
『日本全史』講談社 1991年
『徳川家歴史大事典』新人物往来社 2007年


 木村流 『蘭学事始』(5)
木村 勝紀
2009年12月11日

 前回は将軍吉宗の洋書の禁書政策緩和の話題でしたが、今回は具体的に自ら洋書を手にとって、その図の詳細におどろき、オランダ語を学者に学ばせるというくだりを紹介している記述になります。本文に出てくるオランダ語のいくつかの単語ですが、英語と独語を少しかじった程度でも理解できるのが楽しいですね。

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第5回
 吉宗将軍とオランダ書・野呂元丈と青木文蔵とのオランダ語勉強

 こういうことなどが、自然と将軍にも聞えたとみえて、オランダの本というものをいままでごらんになったことがないから、なんでも一冊さし出すようにという御希望があったので、何の本であったか、図のはいった本を提出したところ、将軍がごらんになって、これは図だけでも非常に精巧なものである、そのなかに書いてあることが読めたら、きっと役に立つことであろう、江戸でもだれか学び覚えるがよい、ということになり、初めて御医師の野呂元丈(木村注1)青木文蔵(木村注2)の二人にこれを命じられたということである。

 これ以来お二人はこのオランダ語の学習を心がけられたのである。しかし毎春一度ずつ将軍に拝礼に来るオランダ人に付き添って来る通詞たち(木村注3)から、短い滞在の間に聞かれることでもあり、お二人ともおいそがしくて、なかなかひまのないことであるから、ゆっくりと学ばれるわけにはいかない。それで数年かかって、やっと
「ソン」(zon)日、
「マーン」(maan)月、
「ステルレ」(sterre)星、
「ヘーメル」(hemel)天
「アールド」(aard)地
「メンス」(mensch)人
「ダラーカ」(draak)竜
「ティゲル」(tijger)虎
「プロイムボーム」(pruimboom)梅
「バムブース」(bamboes)竹
というくらいのものの名と、オランダ文字二十五字(木村注4)を書き習われた程度にすぎなかった。とにかく、これがオランダのことを学び始めた最初である。

(第5回完)

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<解説>

 将軍吉宗は従来の禁書制度を緩め、オランダや中国の科学・技術といった実用的な漢訳洋書の輸入を認めました。蘭学の実学重視の傾向は、この時期の農業生産の高まりや商品経済の進展を背景に、甘藷・サトウキビ・朝鮮人参などの栽培を奨励する殖産興業政策とともに発達していきました。本文に出てくる青木文蔵とは青木昆陽のことです。放送大学本部の近く、大学本部と京成幕張駅の中間点に昆陽神社があり、その地で青木昆陽は甘藷の栽培法を教えたといいます。オランダ語の習得を命じられた医師の野呂元丈と青木昆陽の二人は、江戸参府のオランダ人が滞在する本石町三丁目の長崎屋へしばしば訪れ、文字・文章の読解や翻訳などを学んだのでした。次回からはいよいよ前野良沢の話題に移ります。

<写真解説>

 今年6月27日に長崎屋跡の碑文を見に行き、その時に現場で撮ったものです。長崎屋はいろいろな機会にご紹介してきましたが、長崎出島のオランダ商館長が江戸参府のたびに定宿にした旅館です。杉田玄白をはじめ当時の蘭学を志した多くの日本人が訪れたといいます。写真は地下鉄・新日本橋駅の出入口に貼り出された長崎屋の碑文銘版です。いつか日本橋界隈をご案内したいものです。

長崎屋跡の碑

<注>

(木村注1)野呂元丈【のろげんじょう】 1693〜1761
江戸中期の医家・本草家。伊勢の生まれで京都に出て、並河天民に儒学を、山脇玄修に医学を、稲若水に本草学を学んだ。採薬のため諸国を旅行し、享保8年(1723)紀伊徳川氏に謁見、医術・本草に精通し、元文4年(1739)将軍徳川吉宗に謁し、御目見医師となった。吉宗の内命でオランダ語を学び、毎年江戸に参府するオランダ商館長・医師に接して、ドドネウスの本草書を研究・翻訳、それをまとめたものが『阿蘭陀本草和解』となった。

(木村注2)青木文蔵【あおきぶんぞう】 1698〜1769
江戸中期の儒学者・蘭学者。通称文蔵、昆陽は号。伊東東涯に古学を学ぶ。享保4年(1719)ごろ江戸で儒学を講じ、町奉行大岡忠相の組下与力加藤枝直(千陰の父)の推挙で忠相に知られ、また1735年甘藷栽培法の研究書『蕃書考【ばんしょこう】』が、将軍徳川吉宗に認められ幕府に出仕。幕府の殖産政
策もあって<甘藷先生>とあだ名される。元文4年(1739)御書物御用達・御留守居支配となり、諸国の古文書の調査・採訪に従事。野呂元丈とともに徳川吉宗の内命を受け、オランダ人や通詞を訪問、対話してオランダ語を習得。『和蘭貨幣考』『和蘭話訳』『和蘭文訳』『和蘭文字略考』等を著す。

(木村注3)通詞たち
毎年江戸に参府したオランダ商館長に帯同してきた通詞たちで、商館長らとともに江戸長崎屋に逗留した。野呂元丈や青木昆陽らもしばしば訪れ、彼らと接触する中でオランダ語の習得に努めたと思われます。

(木村注4)オランダ文字二十五字
この二十五字というのはアルファベットのことです。当時は「i」と「j」を同じとみたため二十六文字が二十五字になったのだといいます。

<参考文献>

『コンサイス日本人名事典』三省堂 1990年
『成熟する江戸』吉田伸之著 講談社 2002年 
『歴史の群像・先駆』集英社 1985年


 木村流 『蘭学事始』(6)〜(14)
木村 勝紀
2010年1月29日

 今回は、第5回以降少し間が空きましたので、第6回から第14回まで続けて一挙に紹介します。前野良沢、平賀源内、中川淳庵などの名前が出てきます。『解体新書』は前野良沢、杉田玄白、中川淳庵の三人が共同で翻訳したのですが、この三人の出会いが綴られます。また同時代人の平賀源内のエピソードが紹介されます。

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第6回
 前野良沢

 さて、わたしの友に、豊前の中津候の医官で、前野良沢(木村注1)という人がある。この人はおさないときに父母を失い、淀候の医師で伯父に当たる宮田全沢【みやたぜんたく】という人に養われて成人した。この全沢は博学の人であったが、なかなか変わった人で、好むところがすべて普通の人とは異なっていた。良沢を教育するのにも、やはり、ずいぶん変わっていたそうである。この全沢が良沢に教えていうには、人というものは、世の中からすたれてしまいそうな芸能を学んでおいて、末々までも絶えないようにし、いまは人が捨ててかえりみなくなったようなことをして、世のために、あとあとまで残るようにしなければならぬと。
 いかにも、良沢という人も生まれつき変わった人で、この全沢の教えにそむかなかった。専門は医業で、吉益東洞【よしますとうどう】(木村注2)の流をくんでつとめていたが、遊芸の方面でも、もう世にすたれていた「一節截【ひとよぎり】(木村注3)をけいこしてその秘曲をきわめ、またおかしいのは、猿若狂言の会があると聞いて、これのけいこに通ったこともあった。
 このような奇を好む性質であったから、青木氏の門にはいって、オランダの文字と、少しはオランダのことばも習ったのである。
 良沢が後に著した『和蘭訳筌【おらんだやくせん】』という本を見ると、ずっと以前のことらしいが、同じ藩の坂江鴎【さかこうおう】という隠士が、あるときオランダ語の本の断片を良沢に見せて、これは意味のわかるものなのだろうかといった。それで、良沢はこれを借り受けて、つくづく思った。いくら国がちがい、ことばがちがうといっても、同じく人のすることで、自分にできないものがあろうかと。そこで良沢はこれを読んでみようと志したが、とりつきようもないので、くやしく思っていた。そのうちにふと、青木先生がこの学に通じていられると聞いて、ついにその門にはいってこれを学び、青木先生の『和蘭文字略考【おらんだもじりゃくこう】』などという書をさずかり、先生が学んで知っていられるところを、うかがいつくしてしまったということである。 これは青木先生が長崎から江戸へ帰られて後のことと聞いた。先生が長崎へ行かれたのは延享【えんきょう】(1744〜48)のころであろうと思われる。良沢が入門したのは、宝暦【ほうれき】(1751〜64)の末か、明和【めいわ】(1764〜72)の初めで、彼が四十歳余りのときであったろうか。これが医者で、しかも官職にない人がオランダ語を学んだ初めであろう。

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第7回
 『紅毛談
【オランダばなし】』の絶版 ─ オランダ文字

 しかしそのころは、とりわけ普通の人がみだりに横文字をとりあつかうことは遠慮していた。たとえば、そのころ本草家【ほんぞうか】(木村注4)と呼ばれていた後藤梨春【ごとうりしゅん】(木村注5)という人は、オランダのことについて見聞きしたことを書きあつめて、『紅毛談【こうもうだん】』というかな書きの小さな本を著して出版したところ、そのなかにオランダ文字二十五字がほり入れてあったので、どちらからかとがめをうけて、絶版になったこともある。
 それからあとのことだが、山形候の医師の安富寄磧【やすとみきせき】という人が麹町に住んでいた。この人は長崎に遊学して、そこでオランダ文字二十五字を習い、その文字で「いろは」四十七文字を書いたのを借りて帰り、人に誇って、オランダの本も読めるかのようにいいふらしていたのを、わたしもめずらしいことだと思ったものである。わたしと同じ藩の中川淳庵【なかがわじゅんあん】(木村注6) などは、やはり麹町に住んでいたので、この人からオランダ文字を初めて習ったのである。

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第8回
 良沢とわたし ─ 大通詞西善三郎 ─ オランダ語

 わたしは、良沢がかねがねオランダのことに関心を持っていたことを知らなかった。ところが明和三年(1766)のことであった。その年の春、いつものようにオランダ人が江戸へ拝礼にやって来たとき、ある日、良沢がわたしの宅へおとずれてきた。これからどちらへ、とたずねるときょうはオランダ人の宿へ行って、通詞に会ってオランダのことを聞き、つごうによってはオランダ語などもたずねようと思っているとのことである。わたしはそのころまだ年も若くて、血気にはやりやすく、何でもやってみたくなるころであったから、どうかわたしも連れて行っていただきたい、わたしもいっしょにたずねてみたいというと、良沢は、それはやすいことだといって、いっしょに、オランダ人の泊まっている宿へ行った。
 その年は、大通詞としては西善三郎という人が来ていた。良沢の引き合わせで、わたしは、オランダ語を学びたいという希望を申しのべたところ、善三郎は聞いて、それはおやめなさいという。あちらのことばを習って理解することはむずかしいことです。たとえば湯水や酒などを「飲む」ということをたずねるには、最初に手まねでたずねるよりしかたありません。「酒を飲む」ということを問うには、まず茶わんでも持ち上げて、これに注ぐまねをし、それに口をつけて、「これは?」と問うと、うなずいて「デリンキ」(drink)と教えてくれます。これが「飲む」ことなのです。さて上戸【じょうこ】と下戸【げこ】とを問うには、手まねでたずねようもありません。こんなのは、たくさん飲むのと少し飲むのとで区別がわかります。しかし酒を多く飲んでも、酒の好きでない人があるし、少なく飲んでも好きな人があります。これは心もちのうえのことですから、どうにもしかたがありません。さて、その「すきこのむ」ということは「アーンテレッケン」(aantrekken)というのです。自分は通詞の家に生まれ、おさないときから通弁にはなれておりながら、このことばの意味を知らずにいたところ、やっと五十歳になって、こんどの拝礼の道中で初めてわかりました。「アーン」とはもと「向かう」という意味、「テレッケン」とは「引く」ことです。「向かい引く」というのは、「むこうのものを手まえへ引き寄せる」のです。酒を好む上戸も、むこうのものを手まえに引きたく思うのです。すなわち、「好む」の意味になるのです。また、故郷を思うのもこういいます。これもまた、故郷を手もとへ引き寄せたいと思う心があるからです。あちらのことばをつきすすんで習うのは、こんなに面倒なもので、わたしのようにつねにオランダ人に接していてさえ、たやすくわかりにくいのです。ましてや、江戸などにいて学ぼうと思われるのは、不可能なことです。野呂・青木の両先生なども、そのための御用で年々この宿へおこしになり、ひとかたならず御勉強ですが、なかなか、はかばかしく御理解ができないようです。あなたがたもおやめになったほうがよいでしょう。???と忠告した。
 これを良沢はどう聞いたか知らないが、わたしはせっかちなので、その説をもっともと聞いて、そんなに面倒なものをやりとげる根気もないし、そんなことでいたずらに日月を費やすのは無益なことだと思い、無理してまで学ぶつもりもなかったので、そのまま帰ったのである。

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第9回
 オランダのもの

 そのころから、世の人はオランダの国から渡って来たものをなんとなく珍重し、すべて舶来のめずらしい器などを好み、少し好事家といわれるような人は、多少とも集めて愛好しないものはなかった。
 ことに、もとの相良候(田沼意次)が老中として政治をとっておられたころで、世のなかが非常にはでな時代であったから、「ウェ−ルガラス」(weerglas)天気験器【てんきけんき】、「テルモメートル」(thermometer)寒暖験器【かんだんけんき】、「ドンドルガラス」(donderglas)震雷験器【しんらいけんき】、「ホクトメートル」(vochtmeter)水液軽重清濁験器【すいえきけいじゅうせいだくけんき】、「ドンクルカームル」(donkerkamer)暗室写真鏡、「トーフルランターレン」(tooverlantaren)幻妖鏡【げんようきょう】、「ソンガラス」(zonglas)観日玉【かんじつぎょく】、「ループル」(roeper)呼遠筒【こえんとう】、というようないろいろの器がオランダ船で渡って来たし、そのほかいろいろの時計・千里鏡・ガラス細工物の類など、ほとんど無数であった。人々はその精巧なのに感心し、その原理の微妙なのに感服して、毎春拝礼のオランダ人が江戸に滞在している間は、その宿へ自然と人がおびただしく集まるようになった。

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第10回
 ヤン・カランスとパブル ─ 大通詞吉雄幸左衛門の門人となる ─
      刺絡
【しらく】─ ヘイステルの外科書を写す

 何年のことかわすれたが、明和四年(1767)か五年(1768)のころであろう。カピタンとしてヤン・カランス(Jan Crans)、外科医としてパブル(George Rudolf Bauer)が江戸へ来たことがあった。このカランスは博学な人であり、パブルは外科がうまかったそうである。大通詞の吉雄幸左衛門(のちに幸作、号を耕牛といった)はもっぱらこのパブルを先生にしたという。幸左衛門は外科がうまいというので名が高く、西国・中国あたりの人が長崎へ行って、その門に入るものがいたって多かった。このカランスとパブルとが江戸へ来た年にも、幸左衛門が付き添ってきていた。わたしは彼についてこのようなことを伝え聞いたから、すぐ幸左衛門の門人になり、その術を学んだ。こういうわけで、わたしは毎日かれの宿へ通った。
 ある日パブルが、川原元伯【かわはらげんぱく】という医学生の舌疽【ぜっそ】を治療し、そして刺絡【しらく】の術をほどこすのをみた。それは実に手にいったものであった。血のとびだす距離をあらかじめ考えて、この血をうける器をよほど引きはなしておいたところ、ほとばしった血はちょうどその中へはいった。これが江戸で刺絡をした初めである。
 そのころは、さきにもいった通り、わたしは年も若く、げんきはあり、かれらの滞在中は、おこたらず宿へ通っていた。あるとき幸左衛門は、一冊のめずらしい本を出してわたしに見せながら、これは去年初めて輸入されたヘイステル(Laurens Heister)という人の『シュルゼイン』(外科治療)という書であるが、自分はどうしてもこれがほしかったので、境樽【さかいだる】二十ちょうと交換した、と語られた。これを聞いてみても、書いてあることは一字・一行も読むことはできないけれど、その図は和漢の書のとは大いにちがって、非常に精巧で、これを見ているだけでも心がひらけそうである。それでわたしはその本をしばらく借り受けて、せめて図だけでも写しておこうと、夜を日についで写し、彼の滞在中に写し終わった。このために、あるときは夜どおしをして、あけがたに及んだこともあった。

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第11回
 吉雄幸左衛門と前野良沢 ─ 良沢の長崎ゆき

また、年をわすれたが、こんなこともあった。ある春、かの幸左衛門がやはりオランダ人に付き添って江戸へ来たときのことである。
 豊前中津藩の御邸【おやしき】のなかで、奥平昌鹿【おくだいらまさか】候の御母君が御座敷で脛の骨折をなされたということであった。身分の高い人であるから、大さわぎで、かれこれと医師を招かれたが、さいわいに吉雄幸左衛門が江戸にいあわせたので、すぐにお招きになって、治療を命ぜられたところ、順調におなおりになった。このとき前野良沢が御手医師のことゆえ、いろいろ交渉を命ぜられたので、そのために幸左衛門とちかづきになった。これなども、蘭学が世にひらけるきっかけの一つということができるであろう。そののち良沢は主君のお供で中津へ行ったとき、殿様にお願いして長崎へ行き、百日ばかり滞在しもっぱら吉雄・楢林らにしたがって、昼夜をわかたず精いっぱいにオランダ語を習い、さきに青木先生から学んだ『類語』と題した本に出ていることばをもとにして復習訂正し、これに付け足してやっと七百語余りを習い、オランダ文字の字体・文章などのこともあらまし聞き写して持ち帰ったことがあった。これが、外科修行のためでなく、オランダ語を学ぶために長崎へ行った人の初めである。

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第12回
 「対話」─ 平賀源内 ─ カランスと源内

 オランダが、医術やいろいろの技芸も発達している国であるということがようやく世に知れわたり、世の人もその影響を受けてきた。このころから、オランダ人が江戸へ来るたびに、もっぱら官医の志ある人々は、毎年対話ということを願い出てその宿に行き、治療法・処方のことなどをたずね、また天文家の人も、同じくそれぞれ自分の専門のことを問いただした。当時はその人々の門人なら、いっしょに連れて行くことも自由であった。それで、なかにはその人たちの門人だといって出入した人もあった。長崎では規則があって、みだりに彼らの宿へ出入はできないのであるが、江戸のほうは、しばらくの間のことであるから、自然にかまいもしないというありさまであった。
 そのころ、平賀源内(木村注7)という浪人があった。この人の専門は本草家で、生まれつき理論にさとく、才能もすぐれていて、ちょうど当時の気風に適した生まれの人であった。何年のことであったか、うえに述べたカランスがカピタンとして江戸へ来たときのことである。ある日、彼らの宿に人が集まって、さかもりがあったとき、源内もその席にいた。そのときカランスは、たわむれにお金を入れる袋をひとつ出して、この袋の口をあけてごらんなさい、あけた人にあげましょう、という。その口は「知恵の輪」のしかけになっている。客はこれをつぎつぎに回して、いろいろとくふうするのだが、だれも開くことができない。とうとう座の末にいた源内の番になった。源内はこれを手にとってしばらく考えていたが、すぐに口を開いてみせた。一同はいうまでもなく、カランスもその才のするどいのに感心して、すぐにその袋を源内に与えた。こんなことがあってからは、カランスと源内との親しみは深くなり、源内はその後はたびたび宿へ行って博物のことをたずねた。
 またある日、カランスはひとつの碁石のような形の「スランガステーン」というものを出して、源内に見せた。源内はこれを見て、その効能をたずねて帰り、あくる日別に新しく一個つくって持って行って、カランスに見せた。カランスはこれを見て、これはきのう見せたものと同じ品だといった。そこで源内は、あなたがお見せになったものは、あなたのお国の産物か、それとも外国で求めたものか、とたずねると、カランスは、インドのセイロンというところで求めて来たものであると答えた。源内はまた、その国のどんな場所から産するのかとたずねると、カランスが答えていうには、その国でいいつたえているところでは、大蛇の頭の中から出る石だということだ。源内は、そんなことはないでしょう。これは竜の骨でつくったものでしょうという。カランスはこれを聞いて、竜などというものは実在しないものである。どうしてその骨からつくることができるかという。そこで源内は、自分の故郷の讃岐の小豆島から出た、大きな竜の歯につづいている竜の骨を出して見せて、これが竜骨である。『本草綱目』というシナの本に、蛇は皮をかえ、竜は骨をかえると説いている。わたしがお見せしたスランガステーンは、この竜の骨でつくったものであるといった。カランスはこれを聞いて大いにおどろき、ますます源内の奇才に感じた。そしてカランスは『本草綱目』を買い、竜骨を源内からもらって帰った。カランスはその返礼として、ヨンストンスの『禽獣譜』【きんじゅうふ】、ドドネウスの『生殖本草』、アンボイスの『貝譜』【かいふ】などというような博物家のためになる書物を贈った。
 もちろんこれらのことは、オランダ語を直接に話して弁じたのではなく、付き添った内通詞部屋附といったような人が通弁したのであって、一言一句通じたわけではない。
 源内は、そののち長崎へ行ってオランダの本や器なども求めて来て、またエレキテルというふしぎな器械を手に入れて江戸に帰り、その働きのことも考えて、多くの人をおどろかした。

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第13回
 中川淳庵 ─ 明和八年 ─
      『ターヘル・アナトミア』『カスパリュス・アナトミア』とわたし

 世のなかは、こんなふうで、西洋のことによく通じているという人もなかったが、そうかといって、ただ何となく西洋のことを遠慮することもないようになった。オランダの本などを持つことが許されているというわけでもないのだが、ときどきは持っている人もあるというふうに移り変わってきた。
 わたしと同じ藩の医師中川淳庵は、本草がとても好きで、オランダの博物の学も学びたい志があって、田村藍水【たむららんすい】(木村注8)・田村西湖【たむらせいこ】先生などとも同志で、毎春江戸へ来るオランダ通詞たちともゆききしていた。
 明和八年辛卯【かのとう】(1771)の春のことである。淳庵がオランダ人の宿へ行ったところ、『ターヘル・アナトミア』と『カスパリュス・アナトミア』という、からだの内部の構造を図説した本を二冊出してきて、希望者があればゆずろうというものがあるというので、それを持って帰って、わたしに見せた。もとより一字も読むことはできないが、内臓の構造、骨格の具合など、これまで本で見たり、耳で聞いたりしているところとは大いにちがっている。これはきっと実地にみて図説したものにちがいない。そうとわかると、わたしは、何とかしてほしいものだと思った。そのうえ、わたしの家も、もともとオランダ流の外科を唱えているのだから、せめてこの本を本箱のなかにでも備えておきたいものだと思った。しかしそのころは家もはなはだ貧しくて、これを買うだけの力がなかったので、同じ藩の太夫である岡新左衛門という人のところへ持って行って、これこれのわけでこのオランダの本を買いたいのですが、買うだけの力が足りなくて、どうにもならないのです、とうちあけた。新左衛門はこれを聞いて、買っておいて役に立つものであるか、もしそうならば、代価はお上からくださるようにとりはからおうといわれた。そのとき、わたしは、たしかにこうという目あてなどありませんが、なんとしてでも役に立つものにしてお目にかけましょうと答えた。かたわらの倉小左衛門(のちに青野と改めた)という人がいたが、この人も、それはぜひ手に入れてやっておあげなさい。杉田氏は、これをむだにする人ではありませんと、ことばを添えてくれた。
 こうして、きわめてたやすく希望がかなって、本が手に入った。これが、わたしにオランダの本が手に入った最初である。

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第14回
 オランダ書翻訳ののぞみ

 かねて、わたしは平賀源内などに会うたびに、よく話し合ったことであったが、だんだんと見聞きすればするほど、オランダの実地研究については感心することばかりである。もしもオランダの本を直接に日本語に翻訳したら、ずいぶん利益をうるにちがいない。ところがこれまでにそれをやろうと思い立った人のないのは口おしいことだ。なんとかこの道をひらく方法はないものだろうか。江戸などではとてもできぬことだから、長崎の通詞にでも頼んで読みわけさせたいものだ。一冊でもできあがったら、国のためのおおきな益になるだろうにと、それのできないのを、がっかりしてためいきをつくのは毎度のことであった。しかし何ともしかたがないので、むなしくなげくばかりであった。

(第6回〜第14回完)

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<解説>

今回の内容は『解体新書』出版の端緒となる「腑分け」の実見をする以前のことで、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を手に入れるところまでです。前野良沢という人は、『解体新書』を杉田玄白、中川淳庵とともに翻訳した人でした。オランダ語の素養は他の二人よりも格段にすぐれ、むしろ主役を演じた人なのです。にもかかわらず『解体新書』の翻訳者として名を連ねていません。杉田玄白ばかりが著名になりました。これは「なぞ?」なのです。杉田玄白は、第6回の文中、「良沢という人は生まれつき変わった人で・・・」と書きました。この辺に「なぞ」を解く鍵があるのかも知れませんね。前野良沢は完全主義者で未完成な『解体新書』を出版したくなかった。一方、杉田玄白は不完全であっても早く『解体新書』を世に問いたかった。次回はいよいよ『ターヘル・アナトミア』を手に二人は腑分けを見に行きます。 ご期待下さい。

<写真解説>

 前野良沢の著した『和蘭訳筌』の本文および山本才助の自筆写本の一部です。写真では判読不能と思われますので、ご参考までに木村流の解釈で転載いたしましょう。

『和蘭訳筌』

第1図:右側の山村才助の自筆写本
 和蘭訳筌 本編 字体音韻
 和蘭ニテ文字ヲ「レッテル」ト云フ。其ノ数二十六アリ統(スベ)テ名ヲ「アベセ」ト云フ。是(レ)其(ノ)首(ハジメ)ノ三字ヲ取リテ、コレヲ称スルナリ。字体ハ其(ソノ)国字ノ外(ホカ)「ロメイ」国、「イタリアン」国等ノ文字ヲ採(リテ)コレヲ交(マジ)ヘ用(モチユ)ルナリ。凡(オヨソ)十余種アリ。是(コノ)編、只(タダ)初学ノ當、先(マズ)知ルベキ者(ハ)八種ヲ撰(エラ)ム(木村注:この編は初歩用のため8種から撰んだ)。凡(オヨソ)字ヲ書スニ鵝□(木村注:□は判読不可、鵞鳥と思われる)ノ本(木村注:羽の根元)ヲ削リ夫(ソ)レ(ヲ)以テ筆ニ代(カエ)テ用(モチ)ユ。コレヲ「ペン子」ト名(ズ)ク。

第2図:左側の本文
 予(ヨ)晩学ニシテ書字ヲ習(ナラ)ヘル暇アラズ姑(フル)イ吾邦ノ毫筆(モウヒツ)ヲ用(モチイ)テコレヲ写ス故、其(ソノ)字様悉(コトゴト)ク近似ナル者(モノ)ニ属ス。閲者(木村注:閲覧者ハ)須(スベカラク)先(マズ)コレヲ知ルベシ。
 凡(オヨソノ)書法(ハ)左ヨリ衡列ス、今、各字ノ下ニ吾国(ノ)字ヲ以テ字名ヲ附ス。即(スナワチ)Aヨリ起(コシ)テZニ止(マ)ルナリ。

 文章は以上の通りですが、左側に表があり、アルファベットの小文字と大文字が上下に表記されています。

<注>

(木村注1)前野良沢【まえの りょうたく】 1723〜1803
江戸後期の蘭方医学者。豊前国中津藩医の子。良沢は通称、号を楽山、俗称蘭化。母方の大叔父淀藩士宮田全沢に養われる。明和6年(1769)47歳にして発奮、蘭学に志し、青木昆陽について学ぶ。'70長崎に赴き、吉雄幸作について研修し、江戸に帰って、カピタンの江戸参府の折その客館に蘭医や通詞を訪ねて質問し、学んだ。『解体新書』の訳述には同志の盟主となった。著書に『和蘭訳筌』他。

(木村注2)吉益東洞【よします とうどう】 1702〜1773
江戸中期の医学者。医師畠山重宗の長男。安芸国広島生まれ。通称周助(介)、字は公言、初め東庵と号す。山脇東洋と交渉をもち、その推賞を得て有名になった。

(木村注3)一節截【ひとよぎり】・一節切・一簡切とも
尺八の一種。長さ一尺一寸一分(約33.6cm)のまっすぐな竹の縦笛で、指孔は前面4孔、背面1孔。中世末期から近世にかけて奏された。当時は単に尺八と呼ばれ、のちに竹管に節が1個だけあることから一節切と称す。幕末に衰滅。一節切尺八。小竹【こたけ】

(木村注4)本草家【ほんぞうか】
本草学の研究家。本草学とは、中国に由来する薬物についての学問。薬物研究にとどまらず博物学の色彩が強い。日本へは奈良時代に伝えられ、「本草和名」などが現れたが、江戸時代に最も盛んとなり、貝原益軒の「大和本草」、小野嵐山の「本草綱目啓蒙」が現れ、さらに西洋博物学の影響も加わって、多くの人がその発展に寄与した。

(木村注5)後藤梨春【ごとう りしゅん】 1696〜1771
江戸中期の本草学者。名は光正、号を梧洞庵、梨春は字。田村藍水に物産学を学び、本草学で稲若水と相伯仲するといわれた。オランダに関する著書を著し、「紅毛談」2巻は、オランダ文字の挿入があり、幕府によって禁書処分に付されて絶版となった。

(木村注6)中川淳庵【なかがわ じゅんあん】 1739〜1786
江戸後期の医者。江戸生まれ。名は玄鱗、字は攀卿。初めは山形藩医安富寄磧にオランダ語を学び、蘭学に通じた。物産学を好み、平賀源内と火浣布を作る。杉田玄白らと協力して『解体新書』の訳述にあたる。

(木村注7)平賀源内【ひらが げんない】 1728〜1779
江戸中・後期の本草学者・戯作者。高松藩足軽白石良房の3男。家督後先祖の平賀姓となる。名は国倫【くにとも】、号を鳩渓【きゅうけい】。戯作号を風来山人、俳号を李山。藩命により長崎に留学、医学、蘭学を学ぶ。江戸に出て、田村藍水に師事。本草学者として名声を得たが、高松藩を辞して浪人。本草研究を整理して『物類品隲』を発刊、ついで火浣布、寒暖計、羅紗の製作、鉱山開発、油絵などあらゆる分野に才能を発揮、エレキテルはもっとも人を驚かした。

(木村注8)田村藍水【たむら らんすい】 1718〜1776
江戸中期の医者。本姓阪上氏。江戸生まれ。名は登、字は玄台、通称は元雄、藍水は号。幼少より本草を好む。朝鮮人参の栽培に尽力した。

<参考文献>

『コンサイス日本人名辞典』三省堂 1190年
『広辞苑』第四版 岩波書店 1998年 
『世界教養全集・17』平凡社版 1970年


 木村流 『蘭学事始』(15)〜(20)
木村 勝紀
2010年4月1日

 前回は、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を入手する経緯までを紹介しました。今回はいよいよ『ターヘル・アナトミア』を手に実際の腑分けを実見する場面です。杉田玄白と前野良沢は、お互いに『ターヘル・アナトミア』を所持していることを初めて知って、その奇遇におどろき感激しあうという劇的なエピソードが語られます。

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●第15回
 明和八年三月三日 腑分
【ふわけ】のしらせ

 そういうやさきに、ふしぎにもオランダの解剖の本が手に入ったのであるから、わたしは、なによりもまずその図を実物と照らし合わせてみたいものだと思っていた。ところが、この春この本が手にはいったということは、ふしぎといおうか、妙といおうか、実にこの学のひらける時期がやってきたのであろう。三月三日の夜のことである。当時の町奉行、曲淵甲斐守【まがりぶちかいのかみ】殿の家来の得能万兵衛【とくのまんぺえ】という人から手紙がとどいて、明日手医師のなにがしというものが、千住の骨が原(木村注1)で腑分けするということですら、お望みならば、そちらへおいでになるようにというしらせである。
 かねてわたしのなかまの小杉玄適【こすぎげんてき】(木村注2)というものが、まえに京都で山脇東洋先生(木村注3)の門人になって勉強していたとき、先生の発起でふわけがあったので、この人もついて行って、くわしく見たところ、古人の諸説はみなうそで、信じられないことばかりであった。むかし九臓【きゅうぞう】と称したものをいま五臓六腑などと区別しているが、これは後の人のまちがいであるという話なども聞いていた。そのとき東洋先生は『臓志』【ぞうし】という本を出された。わたしは東洋先生の本も見ていたことであるし、よいおりがあれば、自分でも解剖を見たいものだと思っていたところである。そこへちょうどオランダの解剖の本が初めて手にはいったのであるから、いまこそ実地に照らし合わせて、いずれが本当かを自分でためすことができるわけでうれしい。これはひとかたならぬ幸運の時期がやってきたものだと、わたしの心はもうそちらへ行くことでいっぱいで、ただうきうきするばかりであった。
 さて、このようなしあわせな機会は、自分ひとりでしめるべきではない。友だちのうちでも専門の業に熱心な同志の人々へは知らせてやって、これをいっしょに見て、仕事の益はたがいに分けたいものだと考え、まずなかまの中川淳庵をはじめ、誰彼に知らせた。れいの前野良沢にも知らせてやった。
 良沢はわたしより十ばかり年上で、わたしより先輩であったので、おたがいに知り合いではあったが、いつもはゆききもまれで、つきあいも少なかった。しかし、医学のことに熱心であることは、たがいによくわかっているあいだがらであるから、この場合もらすことはできない人である。何はともあれ、早く知らせたく思ったが、なにしろもう時がさしせまっている。そのうえ、このころ、ちょうどオランダ人が江戸に滞在していて、この夜もわたしはその宿にいたので、帰って来たのが夜おそくであった。にわかに知らせる方法もない。どうしようかと考えたが、ふと思いついて、まず良沢に手紙を書き、これを持って知人のところへ立ち寄り、相談の末、本石町の木戸のそばにいた辻町かごのかごかきをやとい、この手紙を良沢の宅へおいたまま帰れといって持たせてやった。手紙には、これこれのことであるから、御希望ならば、朝早く浅草の三谷町出口の茶屋までおこしください、わたしもそこへ行って、待ち合わせましょうとしたためた。

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●第16回
 明和八年三月四日 良沢と『ターヘル・アナトミア』とわたし

 あくる朝、はやく支度を整えて、約束の茶屋へ行くと、良沢も来あわせているし、そのほかの友だちもみな集まっていて、わたしを出迎えた。
 その時である。良沢は一冊のオランダの本をふところから出して、開いて見せていうには、これは『ターヘル・アナトミア』というオランダ語の解剖の本である。自分が先年長崎へ行ったときに買って帰り、持っているのであると。これを見ると、わたしがこの間手に入れて、きょう持って来たオランダの本とまったく同じ本である。版まで同じである。これはまことに奇遇だと、おたがいに手をうって感激しあった。さて、良沢は、長崎遊学中にあちらで覚えたのだがといって、ページを開き、これは「ロング」【rong】といって肺、これは「ハルト」【hart】といって心臓、この「マーグ」【maag】というのは胃、「ミルト」【milt】というのは脾臓であると指さして教えた。しかも、それらはシナの説をといた本にある図とは似ても似つかないものなので、直接に見ないうちは、だれも心のなかでは、どうであろうかと思ったことであった。

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●第17回
 明和八年三月四日 骨が原のふわけ

 これから、みなうち連れて、骨が原のふわけを見る予定の場所へ着いた。この日のお仕置きの死体は、五十歳ばかりの女で、大罪を犯したものだそうである。京都の生まれで、あだ名を青茶婆【あおちゃばば】と呼ばれたという。さてふわけの仕事は虎松【とらまつ】というのが巧みだというので、かねて約束しておいて、この日もこの男にさせることに決めてあったところ、急に病気で、その祖父だという老人で、年は九十歳だという男が代わりに出た。丈夫な老人であった。かれは若いときからふわけはたびたび手がけていて、数人はしたことがあると語った。それまでのふわけというのは、こういう人たちまかせで、その連中がこれは肺臓ですと教え、これは肝臓、これは腎臓ですと、切り開いて見せるのであって、それを見に行った人々は、ただ見ただけで帰り、われわれは直接に内臓を見きわめたといっていたまでのことであったようである。もとより内臓にその名が書きしるしてあるわけでないから、彼らがさし示すものを見て「ああそうか」とがてんするというのが、そのころまでのならわしであったそうである。
 この日も、この老人がいろいろあれこれとさし示して、心臓、肝臓、胆嚢、胃、そのほかに、名のついていないものをさして、これの名は知りませんが、自分が若いときから手がけた数人のどの腹の中を見ても、ここにこんなものがあります。あそこにこんなものがありますといって見せた。図と照らし合わせて考えると、あとではっきりとわかったのであったが、動脈と静脈との二本の幹や、副腎などであった。老人はまた、今までふわけのたびごとに医者の方にいろいろ見せたけれども、だれ一人それは何、これは何と疑われたお方もありませんといった。
 これをいちいち、良沢とわたしが二人とも持って行ったオランダの図と照らし合わせてみたところ、ひとつとしてその図とちがっていない。古い医学の本に説いている、肺の六葉両耳【ろくようりょうじ】、肝の左三葉右四葉【ひだりさんようみぎしよう】などというような区別もなく、腸や胃の位置も形も、むかしの説とは大いにちがう。
 官医の岡田養仙【おかだようせん】、藤本立泉【ふじもとりっせん】のお二人などは、そのころまで七〜八度もふわけされたそうであるが、みなむかしの説とちがっているので、そのたびごとに疑問が解けず、異常と思われたものを写しておかれた。そして、シナ人と外国人とでちがいがあるのであろうか、などと書かれたものを見たこともあった。
 さてその日のふわけも終わり、とてものことに骨の形も見ようと、刑場に野ざらしになっている骨などを拾って、たくさん見たが、今までの古い説とはちがっていて、すべてオランダの図とは少しもちがっていない。これにはみなおどろいてしまった。

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第18回
 明和八年三月四日 帰り道
『ターヘル・アナトミア』の翻訳を思い立つ

 帰り道は、良沢と淳庵とわたしがいっしょであった。われわれは途中でたがいに語り合った。さてさてきょうの実地検分は、いちいちおどろきいった。それをこれまで気づかなかったことがはずかしい。いやしくも医術でたがいに殿様に仕える身でありながら、そのもとになるわれわれのからだのほんとうの構造も知らずに、いままで一日一日とこの業をつとめてきたのは、面目ないしだいである。なんとかして、きょうの体験に基いて、おおよそでもからだのほんとうのことをわきまえて医を行えば、この業で身を立てていることのもうしわけにもなろう。こういって、ともどもにためいきをついた。良沢も実にもっとも千万同感であるといった。
 そのときわたしがいった。この『ターヘル・アナトミア』の一冊でも、なんとかして新しく翻訳したならば、からだの内外のこともよくわかり、今日の治療のうえに大きな益があろう。なんとかして通詞の手を借りずに、読みわけたいものである。こういうと良沢は、自分はかねがねオランダの本を読みたいものだと願っているのだが、これと志を同じくするいい友がいない。それをいつもなげかわしく思って日を送っていた。みなさんがいよいよ御希望ならば、自分は先年長崎へも行ったし、オランダ語も少しは覚えているから、これを種にして、いっしょに読み始めようではないかという。これを聞いたわたしは、それはなによりうれしいことである。同志で力を合わせてくだされば、わたしたちもしっかりと志を立てて、ひとがんばりやってみましょうと答えた。良沢はこれを聞いて非常に喜んだ。それでは「善は急げ」ということわざもあるから、すぐに明日わたしの宅へ集まっていただきたい、なんとかくふうもあるだろう、ということで、しっかりと約束して、その日は別れ、おのおの宿へ帰った。

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●第19回
 明和八年三月五日 良沢の宅に集まる ─『ターヘル・アナトミア』にむかう

 そのあくる日、みな良沢の宅に集まった。そしてきのうのことを語り合いながら、まず、かの『ターヘル・アナトミア』の本にむかった。
 ところが、まるで、「ろ」や「かじ」のない船が大海に乗り出したように、ぼうっとして寄り付くところもなく、ただあきれているばかりであった。
 しかし、良沢はかねてからこのオランダ語のことを心がけ、長崎まで行って、単語のことや、文章のつづきあいのことも、少しは聞き覚え、聞き習った人であり、年もわたしなどより十も上の先輩であったから、この良沢をなかまの主とさだめ、また先生とも仰ぐこととした。なにしろ不意に思い立ったことであるから、わたしは当時まだ文字二十五字さえ習ってもいないのに、だんだんと文字を覚えて、またいろいろなことばも習っていったのである。

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●第20回
 翻訳にとりかかる ─ 苦心

 さて、この『ターヘル・アナトミア』を、どんな方法で読んで、原稿を書いていこうか、われわれはこれを相談した。からだの中の構造のことは、初めからは、とてもわからないであろう。この本の最初に全身の前向き、後向きの図があるが、これはからだの表面のことであり、その名はみなわかっているのであるから、この図と説明のしるしとを照らし合わせて考えるのが、とりつきやすいであろう。これが図の初めでもあるから、これからまず始めようということに決めた。こうしてできたのが、『解体新書』の「形体名目篇」なのである。
 ところが、そのころは「デ」【de】とか、「ヘット」【het】とか、また「アルス」【als】、「ウェルケ」【welke】などの助辞のたぐいも、何がなにやらはっきりわからないものが多く、少しずつは覚えていることばがあっても、あとさきのことは一向わからないことばかりである。たとえば、「眉(ウェインブラーフ)というものは目の上に生えた毛である」というような一句なども、意味がぼんやりしていて、長い春の一日かかってもわからない。こんなふうに日が暮れるまで考えつめ、たがいににらみあって、わずか一〜二寸ばかりの長さの文章、一行の文章が、それもわかるとはきまらなかったのである。またある日、「鼻」のところで、「フルヘッヘンド」しているものであると書いてあるところにきた。ところがこのことばがわからない。これはどういうことだろうと、みなで考え合ったが、わからなくて、どうにもならない。もちろんそのころは『ウォールデンブック』(字引)というものはない。ただ良沢が長崎から買って帰った簡単な小さな本があったので、それを見たところ、「フルヘッヘンド」の説明に、「木の枝を切り取れば、そのあとがフルヘッヘンドし、また庭をはけば、ちりや土が集まってフルヘッヘンドする」というような意味のことが読めてきた。これはどういうことであろうと、いつものように、みなでこじつけて考えてみるが、それでもわからない。そのときわたしは思った。木の枝を切ったあとがなおると、うず高くなるし、庭をはいてちりや土が集まれば、これもうず高くなる。鼻は顔のまん中にあって、うず高くなっているものであるから、「フルヘッヘンド」は、「うずたかい」ということであろう。だからこの語は「堆」と訳してはどうだろうと。一同はこれを聞いて、いかにもそのとおりだ、「堆」と訳せば当るだろうということで、そう決めた。このときのうれしさは何にたとえようもなく、世にも尊い宝玉でも手に入れたようなここちがした。こんなふうにおしはかっては訳語を決めたのである。そのうちには、その数もだんだんふえていったわけで、こうして、良沢がそれまでに覚えていた訳語の覚書を増補していったのである。
 そのなかには、「シンネン」【zinnenn】(精神)などということばが出てきたりして、まるで見当がつかないことも多かった。そんなときは、これらもそのうちにはわかるときもあろう、とりあえずしるしをつけておこうというので、丸のなかに十文字を書いておいた。そんなわけで、そのころ、知らぬことを「くつわ十文字」と名づけていた。会合のたびごとに、いろいろと相談し、考えてみてもわからないことがあると、苦しさのあまり、「それもまたくつわ十文字、くつわ十文字」といったものである。しかし、「為すべきことはもとより人にあり、成るべきは天にあり」ということわざのように、きっとなるにちがいないと信じて、一ヶ月に六〜七回集まって、このように思いをこらし、勢力を費やして、苦心したのである。
 こうして、きめた日にはなまけず、必ずみんな集まって、相談をして読みあっていったところ、まことに「くらくないものは心」とやらいうとおりで、およそ一年余り過ぎると、訳語の数もようやくふえ、読むにつれて、オランダの国の事情も自然にわかるようになり、あとになると、文章・文句のまばらなところは、一日に十行も、それ以上も、たいして苦心をしないでもわかるようになった。
 もっとも、毎春江戸へくる通詞たちにたずねたこともあるし、その間には解剖などもあり、また、けものを解剖して照らし合わせたことも、たびたびあった。

(第15回〜第20回完)


						

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<解説>

 今回は、腑分けの実地検分そして持参の『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに驚き、その翻訳を決意するところまでが前半でした。翻訳への情熱を語り合って意気投合するところなどは読む者の心まで熱くさせますね。そして、後半では、その翻訳の苦心談を綴った場面でした。真実を追究しようとする科学者魂を彷彿とさせます。時に良沢49歳、玄白39歳、淳庵33歳でありました。翻訳作業については、ここでも前野良沢がリーダーであったことがわかります。口語訳ではない原本の<誠に、艫舵なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれていたるまでなり>の記述は、のち、福沢諭吉をして『蘭学事始』の発刊に奮い立たせた有名なくだりだったといいます。次回は『解体新書』の完成までの話題になります。ご期待下さい。

<写真解説>

 写真とはいっても想像図です。大正・昭和時代の画家、長谷川路可の手になるものです。想像図であっても画家の想像力を駆使した作品には迫真の情景を浮かび上がらせています。前野良沢を先生とも仰ぐという描写が人物の微妙な距離感に示されています。

『和蘭事始』三人会合図
『和蘭事始』三人会合図

<注>

(木村注1)千住の骨が原
鈴が森と並び称される江戸時代の刑場。現代では小塚原と書きます。獄門、磔、火あぶりなどの極刑が行われ、晒し場がありました。安政の大獄による吉田松陰らの志士の処刑もここで行われました。現在の地下鉄日比谷線「南千住」駅の近くです。

(木村注2)小杉玄適【こすぎげんてき】 1734〜1791
江戸中期の医者。若狭国小浜生まれ。小浜藩の藩医。杉田玄白と同僚。京都の官医古方医の山脇東洋に学ぶ。

(木村注3)山脇東洋【やまわきとうよう】 1705〜1762
江戸中期の古方医。清水東軒の子、山脇玄修の養子となる。丹波国亀山生まれ。初め医を養父の玄修に学び、のち後藤艮山について古医方を修める。宝暦4年(1754)小杉玄適らと京都の西郊で刑屍を解剖して、図誌『蔵志』を作った。これはわが国における解剖図誌の嚆矢である。在来の漢方医の臓腑の形態概念を打破し、自然観察の重要性を説いた。

<参考文献>

『ブリタニカ国際大百科事典』
『コンサイス日本人名辞典』三省堂 1990年


 木村流 『蘭学事始』(21)〜(24)
木村 勝紀
2010年5月19日

 前回は、腑分けを実地検分し、持参の『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに感動して、翻訳を志し、その苦心談が語られました。今回は、『解体新書』のできるまでの経緯と、翻訳にたずさわった人々との交流が語られます。

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●第21回
 『解体新書』の完成─「蘭学」という名─翻訳書の初め
 

 この会合をおこたらずにつとめているうちに、だんだん同志の人もふえて、集まってきた。しかし、めいめいの志すところがあって、同じではなかった。  
 わたしは、前に述べたように、あちらの国の解剖の本を手に入れて、直接に実地とひきあわせ、いままでの東洋の説と非常なちがいのあることをつきとめて、おどろきもし感心もし、なんとかして、これだけでもはっきりさせて、治療の実地に役に立てて、世の医者の仕事にも啓発されるところがあるように、この一冊を一日も早くそういう用に立つようにしてみたいというのが目的であったから、ほかに望むところもなく、一日の会合でわかったところは、その夜訳して原稿をつくっていった。それにつけて、訳し方をいろいろくふうし、考え直したことはいうまでもない。こうして四年の間に十一回まで書き直したうえで、板下にわたすまでとなり、ついに『解体新書』の翻訳の仕事はできあがったのである。「解体」とは、それまで「腑分」といいふるしたことを、あたらしく訳したのである。
 このように、この学問は江戸で創始され、なかまでだれいうとなく「蘭学」という新しい名ができて、やがては日本全国にとおる名になった。
 これが、蘭学が今日のようにさかんになる初めであったのである。いまから考えれば、前に述べたように、これまで二百年このかた、あちらの外科の法は伝わっていたのであるが、あちらの医学の本を直接に訳すということは、まったくなかったのである。しかもこの時のはじめの事業が、ふしぎにも、およそ医学のいちばんのもといであるからだの内部構造の本を翻訳によって始まったのは、別に計画的にやったわけではないけれども、実に天の心というべきであろう。 

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●第22回
 『解体新書』のできるまで
同志の人々

 過去をかえりみると、まだ『解体新書』ができあがらない前のことである。このようにはげんで、二〜三年もたち、ようやくわけがわかるようになるにつれ、しだいにサトウキビをかみしめるように、そのあまみが出てきて、これで、長い間の誤りもわかり、そのすじみちがたしかに通るようになることが楽しくて、会合の日は、前の日から夜の明けるのを待ちかねて、まるで女や子供が祭を見に行くようなここちがしたものである。
 さて、江戸は風俗がはででうわついたところだから、ほかの人もこれを聞き伝え、ただわけもなく雷同して、なかまにはいってきたものもあった。その当時の人々を思い出すと、この事業をとげた人も、とげなかった人も、今はなくなった人がずいぶん多い。
 嶺春泰【みねしゅんたい】(木村注1)、烏山松円【からすやましょうえん】などは、ずいぶん熱心であったが、いまはもうなくなった。なかまの淳庵なども『新書』が出版になったあとではあったが、五十にならないうちに、早くなくなった。 
 そのころゆききした人で、今日まで生き残っているのは、わたしよりずっと年下であるが、弘前の医官桐山正哲【きりやましょうてつ】までである。
 またそのころ、この事業の着実なのを知っているものは別であるが、まったく知らないもののなかにも、その完成を大いに疑うものも多かった。また、集まって来たもののうちには、その仕事がはかばかしく進まないうえ、とりとめなくめんどうなので、ついに精力がつきてしまい、また「きょうの暮し」に追われる人は、その効果が見えないのにあきて、あるいはしかたなく、中途でやめるやからも多かった。また熱心だった人で、病気がちのため仕事が完成しないうちに、早く死んだものもたくさんあった。

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●第23回
 同志の人々−前野良沢−中川淳庵−桂川甫周−わたしの意図

 なかまの人々が毎日集まったことは、前に述べたとおりであるが、おのおの、その志すところがちがっていた。これは人情である。
 たとえば、まず第一にわれわれのなかまの主である良沢は、特別な才能のある人であるから、この学を一生の業と考え、オランダ語にことごとく通じて、その力で西洋の事情を知り、あちらの書物ならば何でも読めるようになりたいという大きな望みであるから、その目当てとするところは『康熙字典』【こうきじてん】(木村注2)などのような『ウォールデンブック』【woordenboek】(字引)を了解しようというので、深くそのことに心がけていた。それゆえ世間のうすっぺらな人とは、とかく交わることをきらった。
 この蘭学という学問のひらける天の助けのひとつといっていいのは、この良沢という人は、生まれつき病気がちだといって、このころから、いつも門をしめて、外へも出ず、またむやみに人とも交わらず、ただこの仕事を楽しみに、日をくらしていた。殿様の昌鹿【まさか】公は、良沢の心持ちをよく知っておられ、かれはもともと変人であるといって、別に深くおとがめにもならなかった。しかし良沢があまり本業をなまけがちであったので、これを殿様に告げた人もあった。殿様は、毎日の治療をつとめるのもつとめであるが、その仕事のためを思って、ついには天下後世の人々に有益なことをしようとするのも、とりもなおさずその仕事をつとめるものである。かれは何か欲するところがあるようであるから、かれの好きなようにさせておくがよいといわれて、そのままにしておかれた。そのころ殿様はボイセンという人の『プラクテーキ』などという内科書を買い求められ、その紙のはしに印章を押されたうえで、良沢に与えられたこともあった。良沢は、前は、その号を「楽山」と呼んだが、年をとってから、みずから「蘭化」と称した。これはむかし殿様からたまわった名だということである。殿様がつねに、良沢はオランダ人(和蘭人)の化物だとたわむれにいわれたのから出ている。このように殿様のお気に入りであったので、良沢は心のままにその学の修業ができたわけである。前に述べたように、うわついたやからで雷同して事に当たったものも多いが、創業の仕事のまわり遠いのにあきて、やめてしまったものも少なくなかったのに、この先生は生涯一日のごとく、どっかりと動かなかったからこそ、そのなかには、今のようにその業を完成したものがあるのだと思われるのである。これはまったく、この蘭学がひらける機会にちょうどぶつかったからであろう。
 中川淳庵は、かねてから博物の学を好んでいたから、なんとかしてこの蘭学を勉強して、海外の博物を研究したいと思っていた。そのほかのめずらしい器や精巧な技術が好きで、自分でくふうして、新しく作ったものも少なくない。『和蘭局方』【おらんだきょくほう】を訳しかけたが、完成しないうちに、天明の初めに、隔症【かくしょう】(木村注3)でなくなった。
 最初から会合に加わられた桂川甫周君は、性質が敏で、群をぬきんでた才の人であったから、あちらの文章・字句を了解されることも、なにかにつけ人よりはすみやかで、まだ若かったけれども、なかまでは末たのもしいとほめていた。もっともその家は代々オランダ流外科の専門の医官であるうえ、父君の甫三君は、青木先生から「アベセ」二十五字をはじめ、わずかではあるがオランダ語などもおそわって知っていられたのを、聞き覚えて、少しはその下地もあったためであろう。別に、これという特別の目当てなどもあるようにみえないが、前にもいったような家がらであるから、ただなんとなくこれが好きで、年は若いし根気は強いし、あきる様子もなく、会合のたびごとにおこたりなく出席せられた。
 わたしなどは、こういう人たちとは、大いにちがっていた。初めてふわけを見、オランダの解剖図と照らし合わせて、シナの書物の説くところと非常なちがいがあることにおどろき、なんとかしてこのことだけでも早くはっきりさせて、治療の用に役立たせたく、また世の医者がいろいろな術の発明の役にも立つようにしたいという志だけであったから、この本一冊をどうかして一日も早くまとまったものにしたいと心がけ、この一冊の訳さえ完成すれば、望みは達したようなものだと心に決めてやり始めたのであって、あちらのことばを深く覚えて、ほかのことまでする望みはなかったのである。五色の糸の乱れたのは、みな美しいものだが、わたしはそのなかの赤とか黄とかの一色を決め、あとの色の糸はみな切り捨てる決心で思い立ったのである。
 その時考えたことだが、応神天皇の御時、百済の王仁【わに】が初めて漢字を伝え、書物を持って渡ってきてから、代々の天皇は、学生をシナへつかわされ、あちらの書物を学ばせるようにせられ、数百年後の今日にいたって初めて、漢人にもはずかしくない漢学ができるほどになったのである。いま初めて唱えだしたこの事業が、どうしてにわかに整って完成する道理があろう。ただ人体の構造というたいせつなことが、シナの書に書いてあるところとちがっていることを世に示し、なんとかしてその大体を知らせたく思ったまでのことで、ほかに望むところはない。こう決心して、さっきもいったように、一日会合して解したところを、その夜宿へ帰ってすぐ翻訳し、書きしるして、ためていったのである。
 なかまの人々は、わたしがせっかちなのをときどき笑うので、わたしは答えたものである。およそ丈夫は草木とともにくちてしまうものではない。あなたがたはからだも健やかで、年も若いが、わたしは病気がちで、年もとっている。ひょっとすると、この道が完成する時期にはめぐり会えないだろう。人の生死はあらかじめ定めがたいものである。「はじめに発するものは人を制し、おくれて発するものは人に制せられる」ということである。それだから、わたしは急ぐのだ。諸君が成功される日は、わたしは地下の人となって、草葉のかげにいて、拝見いたそうと・・・。
 それで桂川君などは、大いに笑って、あとになって、わたしにあだ名をつけて、「草葉のかげ」と呼ばれたものである。
 こんなことで年月はあわただしく過ぎて、とかくしている間に三年四年の月日がたち、だんだん世の人も聞き伝えて、たずねてくる人もあるようになったので、西洋の説くところの臓器・血管・神経・骨格・関節の様子など、すでにわかったところをもとにして、そのほんとうのありさまを、おおよそは説明できるほどになった。

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第24回
 建部清庵とわたし−蘭学問答−和蘭医事問答

 『解体新書』がまだ出版されない前のことであった。奥州の一ノ関の医官の建部清庵【たてべせいあん】(由正)という人が、はるかにわたしの名を聞き伝えて、自分が日常しるしておいた疑問を、わたしに書いてよこしたことがあった。書いてあることは、わが医業について感服することが多かった。それまでは、たがいに知らぬ人なのに、わたしとすっかり志の同じ人である。そのなかに、こういうことが書いてあった。これまでのオランダ流の外科というのが、かたかな書きの伝受書だけにたよってこの術の基本としているのは、まことに残念なことである。わが国にも教養のある人が出て、むかしシナで仏教の経典を翻訳したように、オランダの本も日本語に翻訳したならば、本格的なオランダの医術が完成するであろうと。これは清庵が、その時より二十年余りも前から絶えず心にかけていたことであったという。
 その見識は実に感服して余りあるものである。わたしは、はからずもかかる高い見識の人に会ったことを喜び、われわれの知己は、実に千載の一奇遇であると返事をしたことであった。それからあとは、手紙を絶えず往復し、それがきっかけでいろいろのこともあった。この手紙は、門人が書き集めて、「蘭学問答」という名をつけて保存してあったが、後に門下生たちによって出版された(寛政七年・一七九五年)。『和蘭医事問答』というのが、それである。  

(第21回〜第24回完)

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<解説>

 翻訳開始から1年10ヶ月たった安永2年(1773)、玄白は『解体約図』という『解体新書』の予告編を世に出しました。評判は上々で、訳本刊行への玄白の心ははやるのでした。玄白は少々の間違いがあっても、全体として西洋医学というものは、こういうものであるということが日本人に知られればいいという主義でした。一方の前野良沢という人は、完全主義者で、学研肌の人ですから、完璧な訳書を出したいと思っていたようです。
 翻訳に着手してから実に3年6ヶ月の歳月を費やして『解体新書』が完成します。玄白は得意げに胸を張って『解体新書』をまず将軍家、それに老中、公家にまで手際よく献上します。そこには、若狭、杉田玄白、翼訳とのみ記され、ここに前野良沢の名がなかったのです。
 杉田玄白は、翻訳の最大の功労者である前野良沢に、その序文を頼みに行ったのです。ところが前野良沢は、玄白の請いを断りました。これが今日まで謎を呼んでいるわけですが、今回掲載した「第23回−同志の人々」の中に謎を解く鍵があるのかも知れませんね。

<写真解説>

 1 『杉田玄白像』 石川大浪筆 早稲田大学図書館蔵

『杉田玄白像』
「杉田玄白像」

 2 『解体新書』 国立国会図書館蔵

『解体新書』
『解体新書』

<注>

(木村注1)嶺春泰【みねしゅんたい】 1746〜1793
中国の字書。清の康熙帝の勅命により編纂。康熙55年(1716)刊。「字彙」「正字通」に基いて増補した画【かく】)引き字書。所収4万7000字余。最も権威ある字書とされ、今も漢字の規範を示すと意識される。(広辞苑)
江戸後期の医学者。嶺春安の子。字は子光。春泰は号。宝暦7年(1757)父春安のあとをつぎ上野国高崎藩主の侍医となる。1762年居を江戸に移す。前野良沢ににつき、蘭学を修め、『解体新書』の翻訳にも関与した。江戸における蘭書翻訳の功労者。

(木村注2)康熙字典【こうきじてん】
中国の字書。清の康熙帝の勅命により編纂。康熙55年(1716)刊。「字彙」「正字通」に基いて増補した画【かく】引き字書。所収4万7000字余。最も権威ある字書とされ、今も漢字の規範を示すと意識される。(広辞苑)

(木村注3)膈症【かくしょう】
飲食物が胸につまるように感ずる病症。胃がん・食道がんなどに当たるという。かくのやまい。浮世風呂(前)「まずどなたのお見立ても膈症じゃと仰せられます」。(広辞苑)

<参考文献>

『コンサイス日本人名辞典』三省堂 1990年
『日本史探訪』第8集 角川書店 1978年


 木村流 『蘭学事始』(25)〜(27)
木村 勝紀
2010年8月27日

 前回までで悪戦苦闘の末、ついに『解体新書』の完成、出版にこぎつけ将軍家ほかに献上するまでが回想されました。今回の第25回から27回では、玄白の翻訳についての考え方を中心に謙遜気味に述べられます。

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●第25回
 わたしと翻訳─の心がまえ

 わたしはもともと大ざっぱで、学問も浅いから、オランダの学説をかなり翻訳しても、人に早く理解してもらえて、益になるようにする力がない。そうかといって、人にまかせては、自分の本意も通じにくいので、しかたなく、つたないのをかえりみずに、自分で書きつづったのである。なかには、ここは細かな意味があるにちがいないと思われるところでも、わからないところは、大ざっぱでいけないと知りながら、無理に訳すことをしないで、ただ意味の通じたところだけを書いておいた。たとえば、江戸から京都へ上がろうと思えば、まず東街道と東山道との二つの道のあることを知った上で、西へ西へと行けば、しまいには京都に着くのだというところが、いちばんたいせつである。そのつもりで、そのすじみちを教えればいいのだと思ったので、そのあらましだけを唱えだしたのである。そしてこれをてはじめにし、一般の医者のために翻訳の仕事を始めたのである。もとよりわたしは、仏教僧の梵語の経典の翻訳の法は知らない。ことにオランダの本の翻訳ということは、これまでになかったことなのであるから、最初から細かいことがわかるはずがない。ただ、医者たるものは、第一に臓器の構造、その本来の働きを知らないではすまされない。どうか医者がみなその真実をわきまえて、たがいに治療の助けになるようにしたいというのが、その本意であったのである。
 こういう志であったから、この翻訳を急ぎ、早くその大筋をだれにもわかりやすくし、医者がこれまでに覚えている医学の体系と比べて、すみやかにさとることができるようにしてあげることができることを第一とした。だから、なるべくシナ人が使っている古い名を用いて全体を訳したかったのであるが、こちらでつけている名と、あちらで呼んでいるものとはちがっているものが多いので、こうと決めてしまうことができなくて、ずいぶん迷った。
 しかし、いろいろ考え合わせれば、なんといっても、この仕事はわれわれが最初になることなのだから、なんでも「人にわかりやすく」ということを目当てとして決めていく方針を立てて、あるいは「翻訳」し、あるいは「対訳」し、あるいは「直訳」、「義訳」というふうに、さまざまにくふうし、ああでもない、こうでもないといろいろ改め、昼も夜も自分がかかりっきりにかかって、さきにもいったように、原稿は十一回、年は四年いっぱいもかかって、ようやくその業を完成したのである。
 もっともそのころは、オランダの風俗・習慣の細かなことははっきりわかるはずがない。今のように予想以上にひらけてしまってから見る人は、『新書』は誤解ばかりだというであろう。しかし、ものを初めてやりだすときには、あとの「そしり」を恐れるようなつまらない心がけでは、くわだてごとはできないものである。われわれは、どこまでも、大体わかったというところを訳したまでのことである。梵語からの漢訳も、『四十二章経』の翻訳から始まって、だんだんと発展して、いまの『一切経』(木村注1)ができるまでになったのである。こういうふうにだんだん発展するというのが、わたしのころからの望みであって、そうあってほしいと期待したところである。
 この世に良沢というような人がなければ、この蘭学の道はひらけなかったであろう。これもまた、天の助けというものであろう。

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●第26回
 『解体訳図』─長崎通詞

 さて、このように、『解体新書』の翻訳はひととおりはできたけれども、そのころはオランダの説というものを、少しでも聞いたり、聞いて知っているものは、まったくなかったので、世に公にしたあとで、シナの説ばかりを主張する人が、そのよしあしもわからずに、これを異端の説であるとおどろきあやしみ、かえりみる人もないであろうと思ったので、まず、『解体約図』というものを出版して世に示した。これはいわば「ひきふだ」(宣伝ビラ)と同じようなものであった。
 この業が江戸で唱え始められてから二〜三年も過ぎたころ、毎年拝礼に江戸に来るオランダ人の一行の便りによって長崎にも伝わって、蘭学というものが江戸で大いにひらけたことに対して、通詞たちは反感を持っていたということである。いかにもそうであろう。そのころまでは、かれらは通訳をするだけのことで、書物を読んで翻訳をするというようなこともなかった時代で、たとえば「ひやめし」を「さむめし」といい、「一部、一節」とも訳すべき「エーン・デール」(een deel)という語を「一のわかれ、二のわかれ」と和訳して、それで通じて、ことがすんでいたというようなありさまであったようである。もちろん医学や人体の構造のことなどは、だれひとり知る人がないはずである。
 ある通詞がこの『解体約図』を見て、「ゲール」というものはからだ中にはない、「ガル」の誤りであろう。「ガル」は「胆」であるといって、いぶかったということである。それはそれとして、わたしたちが関東で創業の挙があったので、その本家たる長崎の通詞たちの気持ちも大いにひきたてられたことと思われる。

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●第27回
 『解体新書』の出版

 『解体約図』がすでにできあがり、「本編」である『解体新書』も出版になったが、前にいったように、『紅毛話』さえ絶版になったほどの時代であるから、西洋のことはかりそめにも唱えてならぬのか、それともオランダはその中でも特別なのか、はっきりしない。これなら、きっとよいであろうと決め込んでしまうわけにもいかず、もしひそかに公にすれば、万一禁令を犯した罪を受けるかもしれない。こればかりは、ずいぶん心配した。しかし、横文字をそのままに出すわけではなく、読んでみればそのようすはわかることであって、わが医術の道をひらくためであるから、さしつかえないと自分で決め、ともかくも、翻訳を公にするということのさきがけをしようと、ひそかに覚悟して決断したことであった。それにしても、これは最初のことであるから、どうか一部を、恐れ多いが冥加のためお上へ献じたいと考えた。ところが幸い同人に桂川甫周君の父君の甫三氏は、前にいったとおり、わたしの古くからの友であったから、この人(法眼であった)にそうだんしたところ、同氏の世話と推挙によって、御奥から非公式に献じた。このようにさしさわりなくすんだのは、ありがたいことであった。
 またわたしのいとこの吉村辰碩【よしむらしんせき】は、京都に住んでいたので、この人のすいせんで、ときの関白九条家と近衛准后内前公【このえじゅんごううちさきこう】および広橋家へも一部さしあげた。それによって三家からは、めでたい古歌を自らしたためてくだされたし、東坊城家【ひがしぼうじょうけ】からは七言絶句の詩を作って、くださった。それから、ときの御老中のかたがたへも同じく一部ずつ進呈した。どこでもなんのさわりもなくすんだ。これでようやく安心したことであった。
 これがオランダの翻訳書が公になった初めである。

『資料が語る津山の洋学』
編集/発行:津山洋学資料館

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<解説>

 今回の第25回から第27回目では、翻訳についての考え方と若干のエピソードを交えて淡々と語っています。しかし、文中で「ものを初めてやりだすときには、あとのそしりを恐れるようなつまらない心がけでは、くわだてごとはできないものである」とか、禁令を犯すことになるかもしれない翻訳書の出版について「わが医術の道をひらくためであるから、さしつかえないと自分で決め、ともかくも、翻訳を公にするということのさきがけをしようと、ひそかに覚悟して決断したことであった」のくだりを読む限り、杉田玄白という人は並みの人物でないことを物語っています。知力だけでなく日本の医学発展への熱い思い、そして胆力も備わっていたとうことでしょうか。さて、次回以降は大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、宇田川玄真など蘭学や解体新書を通して親交のあった当時の蘭学者・医学者の話題に移り終章に向かって行きます。ご期待ください。

<注>

(木村注1)『一切経』
仏教経典全部をいう。『大蔵経』ともいう。釈迦の説いた教えを文字としたものを経蔵、教団の規律を律蔵、後世の仏教徒が演繹注解したものを論蔵といい、この三蔵の総称。伝播にしたがって論蔵は増加し、ほかに目録・史伝・雑部が追加された。鎌倉時代以来輸入され、江戸時代には、天海や鉄眼道光らが刊行した。(日本史事典より)。

<写真>

 佐桑さんから寄贈を受けた『資料が語る津山の洋学』の関連記事を抜粋して使わせていただきました。佐桑さん、ありがとうございました。 


 木村流 『蘭学事始』(28)〜(36)
木村 勝紀
2010年9月18日

 今回からは杉田玄白の人物月旦です。皆さん日本史の勉強でおなじみの人物も出てきます。また、蘭学、医師の縁で一般の私たちでは知るよしもない杉田玄白ならではの人物にも回顧談が及びます。お楽しみ下さい。

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●第28回
  蘭学の隆盛−大槻玄沢
【おおつきげんたく】

 わたしの初めの予想では、この蘭学が今のようにさかんになり、こうまでひらけるとは思いもよらぬことであった。これは、わたしが不才で先見の明がとぼしかったためであろう。今になって考えてみると、漢学は文句をかざった文であるから、そのひらけかたがおそく、蘭学は事実をありのままにことばでしるしたものであるので、わかりも早く、そのためにひらけかたが早かったのであろうか。それとも実は、漢学によって人の知識がひらけたあとに蘭学が出たので、こんなにすみやかなのであったのか、それもわからない。
 それにしても、この業がひとりでにひらける気運に向かっていたというのであろうか。前にしるした建部氏は、わたしより二十歳ばかりも年上の老人で、ふしぎと手紙の往復があったが、わたしの返事を見て、実にうれしくてたまらないといってよこされ、自分のおいぼれではどうにもならないというので、令息の亮策【りょうさく】をわたしの門人にし、つづいて自分の門人の大槻玄沢【おおつきげんたく】(木村注1)という男を江戸へ出してわたしの門に入れられた。
 この玄沢という人の性質をみると、およそものを学ぶには、実地に当たってみなければ承知しないし、心に徹底しないことは、言うことも書くこともしない。気が、大きくて強いというところはないが、すべて、浮いたことを好まず、オランダの科学の勉強には生まれつきの才を持った人である。わたしはその人物と才とを愛して、つとめて指導し、あとでは直接に良沢翁にも頼んで、蘭学を勉強させたところ、はたしていっしょうけんめいにはげみ、良沢もその人物を知って、この学のしんずいを伝えたので、ほどなく、オランダ書を解することの要領を覚えた。その間に、同僚の中川淳庵・桂川甫周・福知山候などとも交わって、この業を研究した。また大いに奮発して、この上は長崎へ行って、直接にオランダ通詞に従って学びもし、勉強もしたいという相談をもちかけたので、わたしも良沢も喜んで許し、おまえは年も若いのだから行っておいで。大いにつとめるがよい。それをすませば専門の業もますます進むであろうとはげました。それで、玄沢もいよいよ遊学の決心をした。けれども貧しい書生のことであるから、自分の力ではどうにもならない。わたしはかれに志を感じて、なんとか力を添えてやろうと思ったが、わたしもそのころはくらしむきが楽でなく、思うようにもならないので、自分の力でおよぶだけのことをしてやり、かつ御同学である福知山候にもひとかたならぬお世話をいただいた。玄沢はやがて長崎に行き、本木栄之進という通詞の家に寄宿して教えを受け、いろいろ熱心に修行して江戸に帰った。その後は江戸に永住する人となることができた。
 さて玄沢は、かつて自分がまとめておいた『蘭学階梯』【らんがくかいてい】(木村注2)という本があったのを、江戸に帰ってから出版し、同志に示した。この本が出てから、世に志あるものはこれを見て新たに発奮し、蘭学に志すものが多くなった。こういう人が出てきて、このような本が出ることになったのも、わたしの本志を天が助けてくださったことのひとつかと思ったのであった。

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●第29回
  荒井庄十郎
【あらいしょうじゅうろう】

 このほかにわたしの門に出入りしたもののうち、この蘭学を勉強し始めたものは、多かったけれども、あるいは久しく江戸にとどまっていることができなかったり、あるいは官職につき、あるいはくらしむきに追われ、あるいは病気、あるいは早死などと、みなはかばかしくことをとげたものはなかった。しかしわたしがこのことを思い立った後、その支派・分派が生じたことは少なくなかった。
 安永718年のころ、長崎から荒井庄十郎という男が平賀源内【ひらがげんない】のところに来た。西善三郎のもとの養子で、政九郎といい、通詞の仕事をやっていた人であった。わたしたちが蘭学を起こした最初のころであったから、かれをわたしの宅へ招き、淳庵などといっしょに「サーメンスプラーカ」(会話)を習ったこともあった。源内の死んだ後、桂川家に寄宿して、その業を助け、また福知山候へも出入りして、候の地理学の仕事のおてつだいもした。候はもっぱら地理学を好まれ、『泰西図説』【たいせいずせつ】などの訳編がある。庄十郎は後にほかの家にはいって森平右衛門と改名した。この人も江戸にいて、少しはなかまを指導したであろう。今はなき人となった。

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●第30回
  宇田川玄随
【うだがわげんずい】

 津山候の藩医に、宇田川玄随【うだがわげんずい】(木村注3)という人がある。元来漢学が深く、ものしりで、ものおぼえのいい人である。蘭学に志して、玄沢についてオランダ書を習い、玄沢の紹介でわたしと淳庵とも往来し、桂川君、良沢とも交際していた。玄随は後に、もと長崎の通詞で、白河候(木村注4)の家来になった石井恒右衛門という人などにも出入りして、オランダ語のかずかずをも習ったが、元来が秀才で根気のいい人であるから、勉強が大いに進んで一書を訳し、『内科撰要』【ないかせんよう】という十八巻の本を著した。簡単な本ではあるが、わが国の内科書の翻訳の初めである。おしいことに四十三歳でなくなった。この『内科撰要』は、この人がなくなったあとでようやく全部出版になった。

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●第31回
  小石元俊
【こいしげんしゅん】

 京都に小石元俊【こいしげんしゅん】(木村注5)という学者がある。永富独嘯庵【ながとみどくしょうあん】(木村注6)の門人で、医学のことにいたって熱心な人である。初めから、知り合った人ではなかったが、かれは『解体新書』を読んで古い説とちがっているところに疑いをいだき、自らたびたび解剖して、『新書』が真実であることに感心し、それ以来深く『新書』の出たことを喜んで、わたしに手紙をよこし、まだ自分でわからない疑問をたずねてきた。天明五年(1785年)の秋、わたしは殿様のお供で、お国まで行った帰り道に、京都に滞在した。そのとき元俊は日夜おとずれてきて質問した。その後、江戸へ遊学して、玄沢の宅を中心に一年近くおり、蘭学のことでなかまの人たちとたびたび討論したものである。蘭学としては勉強しなかったが、京都へ帰ってからは、塾において、出入りの生徒に『解体新書』をいつも講じ、その堅実な体系を示したということである。これが関西の人々を啓発したひとつの原因である。

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●第32回
  橋本宗吉
【はしもとそうきち】

 大阪に橋本宗吉【はしもとそうきち】(木村注7)という人がある。傘屋の紋を書く仕事をして、老いた親を養い、くらしをたてていたそうである。学問はないが、生まれつき奇才があるので、土地の金持ちの商人たちがみたてて力をそえ、江戸へ出してやって玄沢の門に入れた。
 わずかの滞在の間に精を出してその大体を学び、大阪に帰ってからも自分で勉強して、業が大いに進み、後には医者となって、ますます蘭学を唱え、門人も多く、翻訳もし、五幾・七道・山陽・南海の諸道の人を指導して、今もいよいよさかんだと聞いた。江戸へ来たのは寛政の初めのことである。大阪へ帰った初めのうちは、さっきいった小石元俊もかれの志を助けて、業をはげましたということである。

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●第33回
  山村才助
【やまむらさいすけ】

 土浦候の藩士に山村才助という奇人がある。その叔父の市川小左衛門の紹介で、わたしのところへ蘭学の勉強に来た。わたしはそのころはもう年をとっていて、蘭学のことはすべて玄沢にまかせてあったから、玄沢がかれにオランダ文字二十五字から教えてやった。生まれつき学才が備わっていて、ことに地理学を好み、もっぱらその方面の勉強をした。白石先生(木村注8)の『采覧異言』【さいらんいげん】(木村注9)を増訳重訂して、十三巻の書とした。この本は栗山【りつざん】先生の推挙でお上へも献上した。そのほかに翻訳の内命も受けていたが、完成しないうちに早死した。おしいことであった。万国地理の諸説はシナの人もまだ知らないところのものが多い。それというのも、蘭学がこの方面にまで延びたおかげである。

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●第34回
  石井恒右衛門
【いしいこうえもん】

 石井恒右衛門は、もと長崎の通詞で馬田清吉【ばだせいきち】という名であったが、その家業を他人にゆずって、江戸へきて、天明のなかごろ白河侯の家来となった。候はそのもとの職業を知られ、ドドネウスの本草を和訳させ、十数巻の訳ができたが、完成しないうちにこの人もなくなった。稲村三泊【いなむらさんぱく】(木村注10)が手をつけた『ハルマ』の辞書は、まったくこの石井氏の力によるものである。この辞書は近ごろの初学者の人々には参考書として益があるということである。この石井氏は、もとの通詞の職業で官職につくつもりで江戸へ来たのではないが、このようにさかんな最中に来たことであるので、もっぱらこの道の助けとなった。

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●第35回
  桂川甫周
【かつらがわほしゅう】>

  桂川家のことは前にもいったとおりである。甫周君は抜群の俊才であるから、およそオランダのことといえば大体知っていて、その名声も四方に広く、それにこの事業の趣旨はお上でもごぞんじであったので、ときどき西洋のことは和訳の御用も命じられたそうである。その原稿は桂川家にあるであろう。『和蘭薬選』『海上備要方』などという著書もあると聞いたが、完成した本は出ていない。歳は六十にならないでなくなられた。

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●第36回
  稲村三泊(海上随鴎)−オランダ辞書(江戸ハルマ)の完成

  因州候の医師に稲村三泊という人がある。国にいて『蘭学階梯』を見て発奮し、江戸に来て玄沢の門に入り、蘭学を学んだ。後にハルマという人の著わした辞書を石井恒右衛門について訳をうけ、十三巻という大きなオランダ辞書、いわゆる『江戸ハルマ』を作った。初め玄沢が、かれを石井へ紹介し、原書も貸し与えたという。その初稿は宇田川玄随・岡田甫説【おかだほせつ】が力を添え、ときどき石井のところへ往来して完成したそうである。訂正のときには、ほかに力を添えたものもあったと聞いた。後にわけがあって殿様のもとを辞して、下総の国海上郡のあたりでぶらぶらしており、あとで名を随鴎【ずいおう】と改め、京都にいて、もっぱら蘭学を唱えたという。いまは、この人も故人になったと聞いた。
 けだし辞書を作ることをくわだてたのは、初学者のためにひとつのてがらということができよう。

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<解説>

  『解体新書』を発行した後の玄白は、ほとんど自分では訳書を作らず、オランダ語を勉強したい人が弟子入りを頼むと、前野良沢や高弟の大槻玄沢のもとへ行かせました。そして彼自身は、医者の仕事が多忙であり、収入も多かったといいます。しかし、その金でオランダ書をたくさん買い込んで、それを若い人たちに惜しみなく貸したり読ませたりしました。蘭学者を育て上げることに、大いに努め、日本の医学の向上を絶えず願っていたのでしょう。
 寛政6年(1795)11月11日、江戸の蘭学者たちは、大槻玄沢の塾、芝蘭堂【しらんどう】に集まって、太陽暦の元旦を祝いました。俗にオランダ正月ともいいます。これは、当時の新しい洋学を身につけた人々の集まりとして、以後40年余りも続いたといいます。大槻玄沢は、玄白と良沢に学び、この両人のあとを継いで蘭学を発展に導いた二人の継承者です。後年、彼の手によって『解体新書』は『重訂解体新書』としてより完全なものになったのでした。大槻玄沢は、玄白の語る人物月旦の最初を飾るにふさわしい人物だったのでしょう。

<注>

(木村注1)大槻玄沢【おおつきげんたく】1757〜1827
 江戸後期の蘭学者・蘭方医。医家大槻玄梁の子。陸奥国一ノ関生まれ。安永7年杉田玄白・前野良沢に蘭学を学ぶ。杉田玄白・前野良沢両師の各一字をとって玄沢と称す。1786年江戸で家塾<芝蘭堂>を開く。同年仙台藩侍医となる。

(木村注2)『蘭学階梯』
 大槻玄沢著。2巻。天明2年(1783)成立。日本で刊行された最初の蘭学入門書。上巻では蘭学研究の意義と歴史を述べ、下巻でアルファベットの文字、アラビア数字、発音、訳方、文法、参考書を述べ、学訓をもって終わる。

(木村注3)宇田川玄随【うだがわげんずい】1755〜1797
 江戸後期の蘭学者。津山藩医宇田川道紀の長男。玄随が幼少のため弟子潜が養子となり、玄随はその養子となって家を継ぐ。家学の医のほか、桂川甫周、杉田玄白、前野良沢に蘭学・医学を学ぶ。オランダのヨハンネス・デ・ゴルテルの内科書の翻訳を甫周にすすめられ、苦心の末寛政5年(1793)『西説内科撰要』と名づけて刊行。これはオランダ内科医書翻訳出版の嚆矢で、この方面の研究の普及発展を促進した記念碑的出版である。津山は佐辮T二さんの故郷です。

(木村注4)白河候(松平定信、1592〜1651)
 「寛政の改革」でおなじみの松平定信です。江戸後期の老中。八代将軍徳川吉宗の孫。田安宗武の三男。陸奥国白河藩主松平定邦の養子。老中首座となり寛政の改革を断行。

(木村注5)小石元俊【こいしげんしゅん】1743〜1808
 江戸後期の医者。小浜藩士小石李伯の子。本姓林野氏。8歳で大阪に出て医学を淡輪元潜・永富独嘯庵に学ぶ。『解体新書』に心服し、江戸に赴いた際、前野良沢・杉田玄白らと意見を交え蘭医学の精確なのを知り、蘭学を修め、京阪での蘭学興隆の基となった

(木村注6)永富独嘯庵【ながとみどくしょうあん】1732〜176
 江戸中期の医者。勝原翠翁の子、医者永富友庵の養子。長門国豊浦生まれ。13歳で京都に上がる。山脇東洋の門に入り、古医方を修める。大阪で開業。

(木村注7)橋本宗吉【はしもとそうきち】1763〜1836
 江戸後期の蘭学者。傘屋の紋書き職人をしていたが、大阪で小石元俊・間重富に認められ、その援助を得て、寛政2年(1790)江戸へ出て大槻玄沢に蘭学を学ぶ。オランダ語を4ヶ月間で4万語暗記したといわれる。帰阪後、医業を開く。オランダ医書、天文、地理書の翻訳多数。

(木村注8)白石先生(新井白石、1657〜1725)
 新井白石です。江戸中期の儒学者・政治家。上総国久留里藩土屋利直の家臣正済の長男。江戸生まれ。白石は号。以下みなさまおなじみですから省略。

(木村注9)『采覧異言』【さいらんいげん】
 地理書。新井白石著。5巻。正徳3年(1713)に成り、享保10年(1725)改訂。将軍家宣の命により、マテオ・リッチの『坤輿万国図』【こんよばんこくず】を基とし、イタリアの宣教師シドッチやオランダ商館長などに世界各地の地理・風俗を質して編纂したもの。

(木村注10)稲村三泊【いなむらさんぱく】1758〜1811
 江戸後期の蘭学者。町医者松井如水の次男。鳥取藩医稲村三杏の養子。江戸に遊学して大槻玄沢に師事する。蘭和辞典の編術を志し、長崎通詞石井庄助(恒右衛門)や宇田川玄随らの協力を得て、オランダ人ハルマの蘭仏対訳辞典を基に8万余語を訳出。13巻の『波留麻和解』【はるまわげ】(江戸ハルマと称す)を印刷、日本最初の蘭和辞典を作った。

<写真解説>

 一つは、大槻玄沢の肖像画と著書『蘭学階梯』の写しです。もう一つは、宇田川玄随の肖像画です。そして、翻訳書『西説内科撰要』の写しです。いずれも本文の中で紹介されているものです。出所は「津山洋学資料館」発行の『資料が語る津山の洋学』から拝借しました。

大槻玄沢の肖像画と著書「蘭学階梯」
宇田川玄随の肖像画
宇田川玄随の翻訳書「西説内科撰要」
『資料が語る津山の洋学』
編集/発行:津山洋学資料館

<参考文献>

『コンサイス日本人名事典』三省堂
『ブリタニカ』
『広辞苑』
『資料が語る津山の洋学』津山洋学資料館発行


 木村流 『蘭学事始』(37)〜(41)
木村 勝紀
2010年10月14日

 いよいよこのシリーズも今回を含めて二回分のみとなりました。次回の最終回は杉田玄白の「むすび」と口語への翻訳者の緒方富雄氏の解説、そして不肖私の結びの解説で締めようと思います。今回の内容は、今までとは趣が異なります。杉田玄白にも学問とは別に、養子縁組という後継者問題でご苦労があったようです。それも宇田川玄真という人物を巡って、宇田川玄随、大槻玄沢などをも巻き込むという複雑な事情が述べられます。最後にはハッピーエンドで収まるところが救いです。

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●第37回
  宇田川玄真

 今の宇田川玄真は、初めは伊勢の安岡という名で、京都生まれの人である。江戸へ出て岡田という名をつぎ、上に述べた宇田川玄随の漢学の弟子であったという。ところが玄随は、玄真の才がしっかりしているのを知って、蘭学に導こうと考え、よく玄沢にもこの人のうわさをしたことがあったそうである。
 ところが、玄随が殿様のお供をしてお国へ行ったころであろうか、玄真は養家を辞して、本姓の安岡氏に復したとき、先生の玄随のいいつけで初めて玄沢のところへ来て、蘭学を学びたいと願った。オランダ文字の書き方までは玄随に習っていたらしかったので、オランダ語の訳語の小さな本を授けて写させ、またあちらの局方の本を読ませた。かれは日々やって来て、ついには玄沢の家に寄食させてほしいと頼んだが、そのころはさしつかえがあって、しばらく嶺春泰のところに頼んだ。このころ春泰は病気で、それもだんだん重くなり、ついになくなった。そこで玄沢は、桂川甫周君に頼んで同君のもとに預け、この男は蘭学に熱心であるが、身を寄せるところがなくて困っている、これをお世話くだされば、ときどきは君の業をお助けすることもあろうといった。そこで甫周君はすぐに引き受けたので、玄真はこれから桂川家の塾にはいることになった。それでも玄真は、玄沢のところにも往来して、訳法を問うことがしばしばであった。
 もともとこの男はオランダの学説の実際にすっかりほれこんで、自分はほかに望むところはない、思うがままにこの業の修行ができるならばどこへでも寄宿したいという希望である。それだから桂川家に頼んだのである。ところがそのころ桂川家は官の仕事と医業がいそがしくて、玄真の本来の望みを達することができないといって、たびたび玄沢にうったえた。ある日玄沢はこのことをわたしに語った。わたしは、そのころはしだいに専門の医術の方がいそがしくなり、少しもひまがなく、本来の蘭学の仕事をつとめるいとまがない身となっていた。しかし、もちろんわたしはこの道に志を深くひそめていたので、いよいよもってその道をひらきたい望みを断ち切ることができず、『解体新書』の完成のあとも、かのヘイステルの外科の翻訳も手がけ、それの「金創」「瘡瘍」の諸編をはじめ、数巻分の原稿はできていたが、そのころたびたび病気にかかったものであるから、まわりの人もいさめて、これは蘭学をあまり勉強なさるたたりであるから、少しおやめになるがよいという。玄沢なども、ひたすらのんきに老後の養生をなさるがよい、仕事の方は、ふつつかではありますが、わたしが代わっていたしましょうといってくれる。わたしもしだいに年をとり老いぼれていくし、長く大事業を完成する根気もない。今でこそ中絶しているが、元来の志やみがたく、数年の間、見当たったオランダ書は大部のものでも、自分の資力のおよぶ限りのものは費用をかまわず買い求めて、かなりに蔵書も集まっている。この蘭学を専門にしようというものは、志があっても、書物にとぼしければ事業は完成しないと思い、自分で読むひまはなくても、師弟はもとより志ある人に貸してやっても、この道のひらけるための助けになろうと思い、数十巻を蔵していた。
 また同じことなら、年が若く、この道に志のあつい人を見つけて、別に一女と結婚させて養子とし、この業を遂げさせて、わが医道のまだひらけないところ、足りないところをひらいて補い、人々の病苦を広く救いたいものと常に心にかけていたおりであるから、わたしは、さいわいに玄真のあることを喜んで、これを招いてその心持を聞いたところ、そのいうところは玄沢がわたしにいったこととちがっていない。そこで玄真をわたしの家に迎えて、父子のちぎりを結んだ。玄真もその希望がかなったので、深く喜び、わたしの家の蔵書を自由に利用して日夜おこたらず学び、勉強はひととおりのことではなく、ややもすれば夜どおしをすることもあった。その精力がこのようであったから進歩も早く、その実績はむかしに倍した。わたしの喜びも察していただけると思う。そんなふうではあったが、そのころ玄真は年も若かったから、よく勉強はするが、身持ちがいたってだらしなくなった。わたしもたびたび忠告したけれども、いよいよつのってやまないので、おしむべき才とは知りつつも、捨てておけばどんなことをしでかして殿様の御名を汚すことになるかもしれないと思い、老人のわたしは、毎日心配でたまらず、やむをえず離縁して、長いこと絶交したのである。
 そのために、なかまの連中も交際せず、かれも頼み少ない身となってたいそう困っていたが、しかし好むところの業はやめなかった。それで稲村というような人たちがひそかに金をみついだということである。そのさい、稲村などはわたしの子の伯元に内々相談して、わたしの蔵書のうち内科書を1〜2部貸して訳させたりなどして、困っているのを助けたということをあとで聞いた。そのうちに玄真も反省して、志を改めたと聞いた。そのころ稲村がくわだてた『ハルマ辞書』は玄真がてつだいをして、その完成を助けたそうである。
 2〜3年すぎて、宇田川玄随が病気で死んだ。あとつぎの子がないので、養子を広く求めた。そこで稲村氏が仲立ちして、玄真に宇田川家の家をつがせた。玄随とは前にも述べたとおりの縁もあり、当人のなくなったあとではあったが、いまはなき父となった人の志をついで、自分も志すところの本意を達したものというべきである。玄真はそれからますます専心に勉強して、たくさんの訳書も出し、『医範提綱』【いはんていこう】(木村注:写真掲載)というものを出版し、すでに一家をなした。このように玄真は、その行ないも改まり、その志もしっかりたったうえで、宇田川姓もついだことでもあるから、伯元や玄沢がわたしとの交際を許してあげてくださいというので、わたしもそうなった上は、もとのようにあい親しんだ。玄真はわたしに仕えること、先生か父のようであったから、わたしもかれをわが子のように思い、むかしのあいだがらにかえった。

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●第38回
  大槻玄沢・宇田川玄真
―天文台の訳官となる―

 大槻玄沢はその名声がすでにあがっていたが、近ごろ(文化八年・1811年)幕府から新たに、御所蔵のオランダ書の翻訳の命をこうむるにいたった。むかしわたしたちがかりそめにくわだてた事業であったのに、いまわたしの在世中にこのような名誉ある厳命までこうむるにいたったことは、まことにありがたく、わたしの年来の願いがかなったというものである。
  なんとかして人々を広く救いたいと思い立って、とりつきにくいこのことに苦心した創業の功は、ついにむなしくなかった。つづいて玄真も同様の命をこうむって、ともにこの仕事に従うことになった。
 わたしがこの老人になるまでの年齢をたまわった天からの禄もありがたく、あのころ「草葉のかげ」とあだ名されたわが身を、いまもなお聖代にながらえさせて、その完成のすがたを見せてくださったことは、かぎりなきお恵み、ありがたいかぎりである。

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●第39回
  出藍の人々

 このほか玄沢・玄随・玄真の門人で、出藍のほまれある人々もあるそうだが、これはわたしの子の子の孫彦であって、くわしくは知らない。きっと京都・江戸・大阪や、諸侯の国々に散らばっている人が多くあろう。

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●第40回
  長崎の通詞の人たち
−志筑忠次郎−馬場佐十郎−

  むかし、長崎で西善三郎は『マーリン』の辞書を全部翻訳しようとくわだてたそうであるが、すこし手をつけただけで完成しなかったと聞いた。明和−安永のころであったか、本木栄之進(木村注1)という人に、1−2の天文暦説の訳書があるということである。そのほかは聞いていない。この人の弟子に志筑忠次郎(木村注2)という通詞があった。生まれつき病気がちで早くその職をやめて他人にゆずり、本姓の中野氏にもどってひきこもり、病だからといって世人との交際を断って、ひとり学んでオランダの本に読みふけり、多くの本に目を通して、文学の書を研究したということである。
 文化の初めのころ、吉雄六次郎・馬場千之助(木村注3)などという人たちも、その門にはいってオランダ語の文法の要領をおそわったということである。この千之助は、いまは佐十郎(真山)と改名し、先年臨時の御用で江戸に召し寄せられたが、それから数年江戸に滞在し、当時御家人に召し出され、ついに江戸に住みついて、もっぱらオランダ語翻訳の御用をつとめ、この学を好むものがみなその読法を教えられることになった。わたしの子弟孫子もその教えを受けていることであるから、おのおのそのしんずいをつかんで、本格的な訳も完成するであろう。
 さきの忠次郎という人は、わが国にオランダ通詞という名ができてから、いちばんよくできた人であろうということである。もっともこの人が引退しないで職にいたならば、かえってこうはならなかったかもしれない。あるいは、江戸でわれわれのなかまが、先生もなしにあちらの本を訳することを始めたので、この人もこれに発奮した結果かとも思われる。これまた、平和の日が久しく続いたため、発達するのに適した気運といってよかろう。

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●第41回
  感銘

 一滴の油は、これを広い池の水に落とすと、だんだんひろがって池全体におよぶという。ちょうどそのように、そのはじめ、前野良沢、中川淳庵、そしてわたしの三人が申し合わせて、かりそめに思いついたことがもとで、五十年に近い年月のたった今日、この学が全国におよび、ここかしこと四方にひろがり、翻訳の本も毎年出ると聞いている。これは一匹の犬が実を吠えると、万犬が虚をほえるというたぐいで、そのなかに良いものも悪いものもあろうが、それはしばらく問題にすまい。こんなに長生きすればこそ、今のように発展したありさまを聞くことができるのであると、喜びもし、おどろきもしている。
 いまこの業を主張する人のうちには、これまでのいろいろの事情の聞き伝え、語り伝えを誤って言いふらすものが多いと思うから、前後はまちがいがあるが、覚えているむかしばなしを、このように書きすてたのである。

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<解説>

 宇田川玄真が苗字から連想できるように、宇田川玄随の養子であったことは、比較的世に知られていましたが、杉田玄白の養子の時代があったことを知る人は少なかったのではないでしょうか。わたくしも、この『蘭学事始』を読んで初めて知った次第です。玄真が玄白から離縁された理由は、せっかく才能がありながら残念でしたが、若気の至りと思えば許すこともできるように思います。世の中には、若者を誘惑してやまないたくさんの魑魅魍魎の世界がありますからね。玄真が正気にもどって、学問の世界に功績を残したことは、まことに喜ばしいことでした。野口英世が外国渡航の前に、ご祝儀のすべてをお遊びに散財したという話は有名です。
 「一滴の油は、これを広い池の水に落とすと、だんだんひろがって池全体におよぶという・・・」のくだりは、杉田玄白の本当の感慨であったと思います。どんなに小さい世界でも、一滴の油を落とし、一石を投ずる側の人生でありたいものですね。

<注>

(木村注1)本木栄之進【もときえいのしん】 1735〜1795
 本名、本木良永【もときよしなが】。江戸・中後期の蘭学者。医者西松仙の次男、母は本木庄太夫栄久の娘多津。オランダ通詞本木良固の養子。通称栄之進。寛延2年(1749)オランダ通詞となり、オランダ商館長に従い3度江戸参府。その間、オランダ語文献の翻訳につとめ、安永3年(1774)『天地二球用法』ではじめて日本にコペルニクスの地動説を紹介した。

(木村注2)志筑忠次郎【しづきちゅうじろう】 1760〜1806
 本名、志筑忠雄【しづきただお】。江戸後期の天文学者・蘭学者。中野氏の出。長崎通詞志筑孫次郎のあとをつぎ8代目となる。家学をうけ本木良永にもつく。ひたすら蘭学の研究に励み著書30余種。うち3分の2は天文学、他は語学関係。ニュートン、ケプラーの諸法則の紹介だけでなく、独創的な星雲説など日本の物理学、天文学の父と称される。著書の『鎖国論』は、はじめて鎖国のコトバを使った著書としても有名です。

(木村注3)馬場千之助【ばばせんのすけ】 1787〜1822
 本名、馬場左十郎【ばばさじゅうろう】。江戸後期のオランダ通詞。三栖谷敬平の子、母は下川氏。兄馬場為八郎の養子。若くしてオランダ商館長ズーフにオランダ語を学び、アブラハムというオランダ名をもらう。その後、志筑忠雄の門人となる。文化5年(1808)江戸に出て幕府の天文台に勤める。天文方に蕃書和解御用【ばんしょわげごよう】がおかれると、大槻玄沢とともに、実質上の責任者の地位について『万国全図』の補訂事業やショメール翻訳に参加、その成果を『更正新編』として訳述。

<写真解説>

 今回も『資料が語る津山の洋学』から拝借しました。宇田川玄真の肖像画と玄真の著作『医範提綱』です。『医範提綱』3巻は、ヨーロッパの解剖学者の説を集めたもので、玄真が漢学の出身だけあって、とくに漢文の文章が立派で当時の医学生に良く読まれたといいます。

以上 文責:木村勝紀

宇田川玄真の肖像画と著書「医範提綱」

<参考文献>

1 『コンサイス日本人名事典』三省堂
2 『資料が語る津山の洋学』津山洋学資料館発行


 木村流 『蘭学事始』(42)最終回
木村 勝紀
2010年10月19日

 この講読シリーズも最終回です。第一回目から数えてちょうど一年になりました。最後は、杉田玄白の第42回「むすび」と口語訳への執筆者緒方富雄氏の解説、そして不肖木村の結び解説で締めたいと思います。

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●第42回
  むすび

 かえすがえすもわたしはうれしい。この道がひらければ、百年・千年後の医者は本式の医術を覚えて人の命を救うという、大きな益があるだろうと思うと、いてもたってもいられないほどうれしい。
 もちろん、わたしがさいわいに寿命が長くて、この学のひらけはじめた最初から今日このようにさかんになるなりゆきを自分の目で見ることのできるのは、わが身に備わった幸いであるとばかりいってはならぬ。考えてみると、実は国内の平和のおかげである。どんなに熱心な人があっても、世が戦争で乱れ、たたかいが行われているさなかに、どうしてこの仕事を始め、このさかんな発展をとげるいとまがあろうか。おそれおおくも、ことし文化十二年乙亥(1815年)は二荒の山【ふたらのやま】の大御神(家康公)の二百年の御神忌に当らせられる。この御神が天下を統一して太平にせられたその御恩が、かずならぬわたしたちにまで加わっているのであって、いたるところにあまねく神徳の日の光が照り輝いた御徳であると、おそれかしこんで、仰ぐもなお余りある御ことである。
 わたしは、だんだん老いぼれてきたから、これからさき、こんな長いものを書くとも思われない。この世に生きているうちに書く絶筆のつもりで書きつづけた。八十三歳 九幸翁。

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<緒方富雄氏(口語訳者)の解説>

 この本文は、杉田玄白の『蘭学事始』を、わたしが現代の国語に訳したものである。玄白のこの名作がひろく読まれるには、現代語にうつすのが一番いいと考えて、これを出版したのは、昭和十六年であった。(中略)なお玄白の原文は、わたしの校註で、岩波文庫におさめられている。(杉田玄白著・緒方富雄校註『蘭学事始』)。>
 杉田玄白がこの蘭学発達の回想録を書いたのは、文化十二年(1815)四月のことで、玄白の八十三歳のときである。玄白がこれをおもいたったのは、その前年のことであったが、途中でおもい病気にかかり、その完成もどうかとあやぶまれたが、病気もよくなり、ようやくまとめあげたのである。しかし、これをもう一度見直して、訂正したり清書したりする気力もなくなったので、この仕事を門人の大槻玄沢にまかせた。そこで玄沢は、玄白にききただしたり、はなしあったりして、とうとう完成し、『蘭東事始』という題をつけて、玄白にささげた。それが文化十二年(1815)の四月であった。なぜこのような題をつけたかというと、「蘭学が東の国にやってきた起原」が書いてあるからであるという。
 このように、この回想録は、はじめ『蘭東事始』と名づけられたことはたしかであるが、別に『和蘭事始』という題の写本もあり、また『蘭学事始』という名も見つかる。

  ところで、今日これが『蘭学事始』として知られるようになったのは、明治二年(1869)福沢諭吉の世話で、この題名ではじめて出版されたときからである。その定本は、明治の直前神田孝平が湯島で見つけた写本で、その題は、『和蘭事始』となっていた。それを出版のまぎわに『蘭学事始』とあらためたのである。 
 その後たびたび活版で刊行されて、ようやく多くの人にしたしまれるようになった。
 このようなわけで、明治よりまえには、ただわずかの、かぎられた人々が写本によって読んでいたくらいのことで、蘭学者のなかまでも、多くの人が読んだという形跡がない。したがって、その影響はよくつかめない。
 しかし、明治になってからの刊本のおかげで、この『蘭学事始』は、多くの人々を感動させずにはおかぬ不滅の古典となった。私見をのべさせていただくならば、この特異な随筆が若い中学生諸君にまで鑑賞されるようになったのには、わたしの、この現代語訳が大きな役をつとめたとおもう。
 『蘭学事始』の大きな特色は、玄白ののべていることに、いちいち資料のうらづけがあるばかりでなく、その多くが現存していることである。『蘭学事始』をただ回想録としてあじわうのもいいが、このいちいちの資料についてさぐっていくならば、一層の興味を感ぜられることであろう。好学社版に百個にちかい挿図をいれたのは、そのきっかけを提供するためである。
 『蘭学事始』の現代語訳が、この全集にとりいれられたことによって、さらに多くの人に読んでもらえるようになったことを、この名作のために、心からうれしくおもう。以上

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<上記の解説につき木村注>

 この口語訳および解説が収められている種本は『世界教養全集・17』1963年初版 平凡社発行(写真添付)。緒方富雄氏の略歴は次の通りです。明治34年生まれ、平成元年没。昭和初期の血清学・歴史学者。緒方洪庵の曾孫。大阪生まれ、東京大学卒。1936年東大血清学講座助教授、1949年教授、東大医学図書館開設に尽力し、館長をつとめる。1946年創刊の『医学のあゆみ』編集顧問の長として最新の外国医学情報を紹介。退官後は緒方医学化学研究所を創設し理事長。著書に『科学とともに』(1945)、『現代語訳蘭学事始』(1984)がある。 

<木村の結び解説>

 このシリーズの執筆を始めたのは、ちょうど一年前の2009年10月6日のことでした。12回の連載になりましたので、月一回のペースでした。放友会のホームページを活性化する一助にでもなれば、と拙いシリーズを始めましたが、「枯れ木も花の賑わい」になれたのでしょうか。根気よく愛読していただいた方々には感謝申し上げます。
 さて、この木村流講読シリーズを通して、もっとも印象的で感動的な場面は、偶然と必然が織り成す運命の出会いです。当局から小塚ケ原刑場の腑分け見学を許された玄白が、前野良沢を誘います。刑場に赴く二人の懐には、偶然にもオランダ訳の解剖書『ターヘル・アナトミア』が潜んでいたのです。この高価な書物は、別々の入手ルートを経てそれぞれが携えていたのですが、同じ書物を持っていることを、そのとき偶然に知るのです。その日、女の刑死体が解剖に付されました。二人は解剖書の図と目の前に確かめるものとが、あまりによく合っていることに驚きます。その帰り道、つきあげる衝動に、二人はこのオランダの解剖書をみずからの手で、日本語に訳すことを誓い合ったのでした。二人がこの状況下で、衝動を感じたのは必然だったのでしょう。『解体新書』はこうして始まり、五十年後の『蘭学事始』の回想録はこうして生まれたのです。
 もう一つ、印象的な文章が原本にあります。

「誠ニ、艫舵【ともかじ】ナキ船ノ大海ニ乗リ出セシガ如ク、茫洋トシテ寄ルベキカタナク、タダアキレニアキレテイタルマデナリ・・・」翻訳に取り掛かった直後の二人の心境をこう記しています。玄白が『蘭学事始』で「一滴の油は、これを広い池の水に落とすと、云々」と述べたくだりは、このときの心境を思い出したためではないでしょうか。
 わたしは、ちょうど修士論文を手がけ始めて、このシリーズと並行する格好で執筆の準備を進めていました。江戸期の『寛保沽券図』の解読を志した背景には、『蘭学事始』の「タダアキレニアキレテ・・・」の文章に触発されたような気がします。毛筆で擦り切れのある古文書の解読は困難を極めましたが、最後までやり通せたのはこのシリーズ執筆のお蔭だったかもしれません。論文の本文には含めませんが、174ページに及ぶ解読データは、わたしのオリジナルとして終生の思い出になることでしょう。最後に種本の写真を添付して、このシリーズの締めにさせていただきます。末筆ながら、ご愛読の放友会の皆様へのお礼と共に、文芸研究会の責任者として校正の労をとって頂いた後藤雄二さん、ホームページの更新にご尽力頂いた関根邦彦さん、今泉みゆきさんにも、この場をお借りして深甚なる感謝を申し上げます。 以上

平成22年10月吉日
文責:木村勝紀 

『蘭学事始』種本


 木村流 『蘭学事始』 読後感想
<投稿者> 永井 藤樹
2010年11月16日

 私は、ここで東京をあえて江戸と呼びたい。木村さんは、江戸は神田の生まれ、江戸をこよなく愛し、江戸文化に深い造詣と愛着を持っておられます。その木村さんが、自分の名を冠した『蘭学事始』を著述されたことは、杉田玄白の『蘭学事始』とは異なる木村さんオリジナルの『蘭学事始』を著したものと理解します。玄白が執筆した『蘭学事始』の現代語訳を詳細に読み込まれ、丁寧で克明な多くの注釈を加えられた上、関係資料を多数添えられて、木村さんご自身の見解を時代背景をも踏まえて的確に解説されており、『蘭学事始』を現代の我々に身近なものにしてくれています。これは木村さんが心血を注がれて著された論文で、出版され世に問うても少しも遜色のない著述と考えます。

 私がこの書で最も感動を覚えるところは、第19回の明和八年三月五日、良沢の宅へ集まり『ターヘル・アナトミア』を前にして述べられている場面です。彼らはオランダの書物を日本語に翻訳しようと意欲を燃やしたのですが、当時とすればそれは無謀という外ないことでした。日本が唯一西洋に向かって開いていた「窓」である長崎出島でのオランダ貿易には、当然オランダ通詞が関わっていたわけですが、日常的にオランダ人に接する彼らですらオランダ語を耳で聞き、発音をカタカナで書き取って口まねで会話を会得するだけで、オランダ文字を読んだり、書いたりすることは出来なかったのですから、オランダ語に接する機会がごく稀で、適切な辞書を持たない良沢らが翻訳しようとするのは無謀の極みと言わざるを得ません。しかも長崎でなく、江戸で行なおうというのです。年齢的にも良沢49歳、玄白39歳と、若い中川淳庵(木村流『蘭学事始』第13回、14回注6、20回三人会合図、23回)ですら33歳の時でした。この感動の場面は、この書の価値を発見した福沢諭吉の言葉を借りて語るのが最もふさわしく思いますので、そのまま引用します。

 「・・・書中の記事は字々皆辛苦。就中明和八年(1771)三月五日蘭化(前野良沢)先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向ひ、艪舵なき船の大海に乗出せした如く茫洋として寄る可なく唯あきれにあきれて居たるまでなり云々の一段に至りては、我々は之を読む毎に先人の苦心を察し、其の剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極りて泣かざるはなり」と述べています。この感動が福沢をして、この書を発刊させる動機になりました。

 また、この書の発見の経緯に私は大いに感興を覚えます。『事始』の原稿が玄白の子孫の家に秘蔵されていたものの、安政二年(1855)に江戸を襲った大震火災によって消滅してしまいます。ところが幕末に開成所頭取神田孝平が本郷の聖堂裏を散策中、露店にひどく古びた写本を見つけ調べたところ、これは玄白が門人の大槻玄沢(磐水)に贈った自筆の写本であることが分かりました。この古写本が福沢の手に渡り、その価値が見出されて、明治二年(1869)に出版され、『蘭学事始』が広く世に知られるようになりました。
 更に私には、玄白の手になる『蘭学事始』の発見と、これを現代語に訳されたのが緒方富雄先生であった事に「偶然と必然の巡り合わせ」を感じました。それというのも前野良沢は豊前国中津藩の藩医であり、福沢諭吉も同じ中津藩の藩士であって、しかも緒方洪庵の門人でした。玄白の『事始』を現代語に訳されたのが、緒方洪庵を曾祖父とする緒方富雄先生であったことに、何か運命的なものを感じます。

 『蘭学事始』は、ドイツはダンチッヒ医科大学教授であったヨハン・アダム・クルムスが著した解剖医書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』がオランダ東インド会社の商船によって、はるばる日本へ舶載され、それを日本語に翻訳して『解体新書』と名付け、その訳業の経緯について杉田玄白が、いかにこの翻訳が苦難に満ちた難業であったかを書きとめた回想録です。『解体新書』は、日本で最初の本格的な洋書の翻訳でした。西洋の学術書を訳したという文化史的な見地から、高い評価をもつ書物と言えます。玄白は、オランダ医書の翻訳こそ西洋医学を理解する基本であり、医学界の革命的壮挙になると思ったのです。

 昨年亡くなられた作家吉村昭氏の数多くの長編小説の中に『冬の鷹』があります。前野良沢(木村流『蘭学事始』第6、8,11,14回注1、16,19、20回三人会合図、23回)を主人公にした小説です。この小説は勿論フィクションではありますが、私はこの作家ほど史料の収集・発掘に情熱を注ぎ、精緻な考証をされる作家を知りません。あくまでも史料の記述に忠実に、そして史実と史実の隙間を埋める記述にも、実証的に物語る姿勢を崩さない作家であり「吉村作品は史実そのままではないのか」と言われるほどです。作者は『冬の鷹』の執筆にあたって、数多くの文献を参照され、オランダ通詞の研究で知られた片桐一男教授の著された『杉田玄白』(吉川弘文館)を重要な参考文献にされています。この書の中には文語文による『蘭学事始』の記述が散りばめられていて、木村流『解体新書』の読後感を補足する意味で『冬の鷹』の内容を要約して述べたいと思います。

 『冬の鷹』は、良沢が玄白を誘って、オランダ商館長一行と共に江戸に出てきた長崎の大通詞西善三郎(木村流『蘭学事始』第4回注2、8回)を尋ね、西からオランダ語の習得がいかに困難で労多く、無謀な試みであるか諌められる場面から始まります。玄白は大通詞にまで上り詰めた西の言葉に真実を見、蘭語理解をあっさりとあきらめています。玄白は江戸に居てオランダ語習得は無理であることを、いち早く理解する合理的精神の持ち主でした。一方良沢は西の言葉に納得せず、「国異【こと】に言殊【こと】なるといへども、同じく人のなすところにしてなすべからざるところのものあらんや」と覚悟を決め、オランダ語研究に邁進します。良沢は語学に特別な才能の持ち主でした。私は玄白のオランダ語研究は良沢の翻訳を手助けする際、関わっただけで本格的な研究をしなかったと考えます。ですから『解体新書』発刊後は、オランダ語研究は門人大槻玄沢(木村流『蘭学事始』第28回、36回注1と肖像画、38回)に任せ、良沢の教えをうけることを勧めます。大槻玄沢も良沢と同じく語学に特別な才能の持ち主でした。玄白は人の才能や気質を的確に見抜く眼力を持っていた人物でした。それは『解体新書』の翻訳仲間に、平賀源内(木村流『蘭学事始』第12回、14回注7)を加えることを玄白が断固拒否している場面にも表れています。源内は才気煥発で特異な奇人ですが、軽佻浮薄な性格で学究の徒とは程遠い器用な男であるに過ぎず、翻訳という地道な事業に最も不向きの人物であり、必ずや仲間の結束を乱すに違いないと玄白は見抜いたのでした。

 『解体新書』と言えば、ただちに杉田玄白の名前があげられます。それはこの本に訳者として玄白の名前が書かれているからです。しかし、『ターヘル・アナトミア』の真の訳者は、前野良沢であり、玄白は脇役的存在でした。良沢は乏しいながらもオランダ語の知識を長崎で習得していましたが、玄白はアルファベット(アベセ)すら知らなかったほどです。ですから玄白はこの翻訳事業の盟主とも師とも仰いだ良沢に最高の礼をもって『解体新書』の序文の執筆を懇願するのですが、良沢は訳者として自分の名前を記すことも、序文を書くことも堅く辞退しました。そのため玄白はやむなく、訳著の責任を表明する欄から良沢の名を省かざるを得ませんでした。玄白は良沢を通して、長崎の大通詞吉雄幸左衛門(木村流『蘭学事始』第4回注3、10,11回)に序文執筆を依頼します。こうして吉雄が書いた「解体新書を刻するの序」の中に、翻訳の中心人物は前野良沢であることが明記されることになります。吉雄と良沢とは、吉雄が良沢の長崎留学中の心中を忖度して『ターヘル・アナトミア』を斡旋した親密な間柄でした。

 杉田玄白はこの翻訳を果たす上での、優れた統率者でした。『解体新書』は前野良沢なくしては完成しませんでしたが、それと同時に良沢のみでは、その訳業もなりませんでした。玄白は良沢が翻訳に打ち込む環境を整備し、挫けそうになる良沢を励まし、彼と心を一にして悩み苦しみました。玄白は明るい性格で、座持ちが上手であり、緊張の連続である訳業に疲れ、重苦しさに押し潰されそうな雰囲気を、軽口を振り撒きながら巧みな話術でたちまち解きほぐします。彼は人を統率する非凡な才能に恵まれていました。現代流に言えば優れたプロジェクトマネージャーと言えます。

 良沢と玄白では、この訳書に対する考え方がまったく違っていました。良沢は、医学よりも「オランダ語学」を目指していました。だから誤訳の多いこの本を出版することを潔しとしませんでした。学者として、この『解体新書』が医家の眼を開かせる大業だというなら、なお一層努力して完訳を世に問うべきで、このような稚拙な翻訳書を出版することを恥じとしたのです。一方玄白は、たとえ誤訳が多くても、この書が医学の進歩に役立ち、人々を病から救う上で有益であるのだから、少しでも早く出版すべきと考えました。
 良沢と玄白とは考え方だけでなく、生き方もまったく違っていました。良沢は完璧主義者であり、玄白は誤りは誤りだと分かった時点で直せばよいという柔軟な考えの人でした。

 『解体新書』を出版する上で玄白がどれほど心をくだいたかはかりしれません。西洋の書物を翻訳・出版し、幕府から咎めを受けた『紅毛話』(木村流『蘭学事始』第7回)の例から、周到な措置を採ります。まず御奥に献上して幕府の意向を探り、次に有力な公卿たちに進献し、更に老中に進呈して嘉納されたことを確認し、発禁処分にならないことを確かめた上で世に出しています。同時にこの措置は、当時強い勢力を持っていた漢方医家たちとの確執を事前に回避することも目的にしていたのですが、はたせるかな賛同者は少なく、大方の漢方医の非難は激烈を極めました。玄白は虚弱な細躯をもって頑迷固陋な漢方医師の述べる空理・空論を論破して『新書』で得た知識と実物で確認した理論と実見の上に『解体新書』の正当性を浸透させていきます。私はここに玄白の用意周到な性格、洞察力や決断力、そして自分だけが責任を負い他に類を及ばさないよう配慮する責任感溢れる人格を見ます。

 『解体新書』は、世間的には杉田玄白個人の訳業と見做され、玄白は富と名声を得、豊かで幸福な日々を送りました。将軍に拝謁する栄をうけ、遠方からも多くの医学生(漢方医)が彼の興こした天真楼塾に入門し、優れた蘭方医に育って行きます。玄白の関心事は蘭方医家としての成功と門人の育成でした。玄白は優れた教育者でもありました。

 良沢は『解体新書』の翻訳が完成した後、仲間との交友も避け、門人を取ることもせず、ひたすらオランダ語研究に没頭します。しかも彼の完璧主義から訳書の出版も固く拒み、冨はもちろん名声を得ることもなく赤貧洗うが如き日々を過ごさざるを得ませんでした。その上家庭的にも不幸で、最愛の長女、妻、将来を嘱望されていた長男を相次いで亡くしています。ただ一人心を許した友、高山彦九郎の自刃は彼に深い悲しみを与えたに違いありません。晩年は借家を転々として、自炊しながらの生活でした。見るに見かねて、今はただ一人残った次女が嫁ぎ先に引き取り、そこで孤高のうちに亡くなっています。良沢の不幸は彼自身がもたらしたもので、彼はそれを"良し"としていたのだと思います。人として決して賢明な生き方ではありません。必要以上に世俗的なものから遠ざかり、自己を律することに厳しく、他者に対しても峻烈で、自分の殻に閉じこもって生きてきました。それ以外の生き方を望みもしなかったし、出来もしなかったと思います。しかし、そこに私は彼の強靭な精神を感じます。

 名声や冨と無縁で、一老書生として学の進むことをひたすら願った良沢とは対照的に、玄白の人生は華やかで家庭人としても恵まれ、江戸一番の蘭方医として莫大な年収を日記に書きとめています。これは彼の優れた医院経営の才能の結果がもたらしたものです。如才ない彼は社交にもたけ多くの友人・門人・家族に囲まれ、なに不自由のない晩年を過ごしました。これは彼の豊かな才能や人柄の結果であり、当然享受してよい冨と栄誉でした。

 私は良沢が50に近い年齢に達していながら長崎留学を決意して、次のように述べたことに感銘を受けました。「学業は年齢に関係なく勤めるべきもので、死の迫った年齢であるからこそ、学業に励まなければならない。一介の藩医として生涯を終わるよりは心を奮い立たせて、余生をオランダ語研究に捧げる方が人間としてこの世に生れ出た甲斐がある」と述べています。生涯学習につながる言葉だと思います。
 また良沢は息子から、平賀源内の獄死の感想を尋ねられた時、「人の死は、その人間がどのように生きたかを示す結果だ。どのように死を迎えたかを見れば、その人間の生き方もわかる」と答えています。名利を排してきた良沢から見れば、官に取り入り栄達を求め続けた源内の生き方は、人間本来の生き方の本道を外れた当然の末路であるというものでした。

 良沢は享和三年(1803)十月十七日に81歳で没しました。玄白のその日の日記にはただ「前野良沢死」という文字だけが記されているそうです。玄白と良沢の家とは1キロも離れていませんでした。風の便りに両者それぞれの噂は聞き及んでいたと思います。玄白は通夜にも葬儀にも出向いていません。玄白にとっては良沢がすでに遠い過去の存在になっていており、再び交際を持つ気はまったくなくしていたに違いありません。それは良沢の心許すわずかな人しか受け入れない偏狭な人間嫌いによる結果です。そうであっても私には、二人の『解体新書』への関わりを考えた時、そして他の人々に見せる玄白の如才ない好意を考える時、また玄白の男児出産を祝って、安産を祈る木を良沢が贈っている行為、彼の現在の満ち足りた境遇の原点を考えた時、良沢に対して何がしかの心配りがあっても良かったのではないかと感じます。

 病弱・ひ弱な身躯であった玄白は文化十四年(1817)四月十七日、子弟・知友に見守られつつ85歳で不帰の客になりました。病弱なために40歳近くなるまで結婚をためらった玄白にとってこれほどの長寿は自身、予想もしていなかったに違いありません。通夜につぐ葬儀には多くの門下生が詰めかけ、藩の重臣が参列し、大蘭方医家であった玄白の死に相応しい葬儀が執り行われ、芝の天徳寺栄閑院に葬られました。

 木村さんが修士論文を江戸期の『寛保沽券図』の解読・研究を志した背景には『蘭学事始』の「タダアキレニアキレテ・・・」の文章に触発されたと述懐されていることに、精神において木村さんは、前野良沢、杉田玄白をはじめ、彼らに続いた多くの蘭学者たちの一大山脈に連なっていると思いました。