タイトル
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作 者
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投稿日 |
木村流『蘭学事始』(1) | 木村 勝紀 | 2009.10.6 |
木村流『蘭学事始』(2) | 木村 勝紀 | 2009.10.26 |
木村流『蘭学事始』(3) | 木村 勝紀 | 2009.11.10 |
木村流『蘭学事始』(4) | 木村 勝紀 | 2009.11.25 |
木村流『蘭学事始』(5) | 木村 勝紀 | 2009.12.11 |
木村流『蘭学事始』(6)〜(14) | 木村 勝紀 | 2010.1.29 |
木村流『蘭学事始』(15)〜(20) | 木村 勝紀 | 2010.4.1 |
木村流『蘭学事始』(21)〜(24) | 木村 勝紀 | 2010.5.19 |
木村流『蘭学事始』(25)〜(27) | 木村 勝紀 | 2010.8.27 |
木村流『蘭学事始』(28)〜(36) | 木村 勝紀 | 2010.9.18 |
木村流『蘭学事始』(37)〜(41) | 木村 勝紀 | 2010.10.14 |
木村流『蘭学事始』(42) 最終回 | 木村 勝紀 | 2010.10.19 |
木村流『蘭学事始』 読後感想 | (投稿者)永井 藤樹 | 2010.11.16 |
木村流 『蘭学事始』(1) | |
木村 勝紀 2009年10月6日 |
●序 『蘭学事始』という書名を聞いて知らない人はいないでしょう。しかし、読んだことのある人となれば限られているのではないでしょうか。このシリーズは、杉田玄白(注1)の著した『蘭学事始』の原文の口語訳(緒方富雄(注2)訳)を参考に紹介するものです。適宜、解説を加えながら書き進めますので、蘭学の先達の回想録に親しむ一助となれば望外のよろこびです。 ----- ●第1回 このごろ世間で「蘭学」ということがしきりにはやっていて、志のある人々は熱心に学び、知識のない人たちはむやみと偉いことのように思っている。 (第1回完)
----- <解説> 文中の「このごろ世間では」とか「もう50年に近くなる」の言葉を読むとき、頭の切り替えが必要です。杉田玄白がこの回想録を書いているのは、文化12年(1815)で83歳のときなのです。「もう50年に近くなる」と書いているのは、安永3年(1774)に出版した『解体新書』のことを思い浮かべているのでしょう。 <注> (注1)杉田玄白 (注2)緒方富雄 |
木村流 『蘭学事始』(2) | |
木村 勝紀 2009年10月26日 |
●第2回 さて、むかしから今日までの移り変わりをよく考えてみよう。天正・慶長のころに、西洋人がだんだんとわが国の西のはずれへ船をよこすようになったのは、おもてむきは貿易のためということにしているが、うらでは、下心があってのことであろう。その結果、いろいろの災いが起こったので、徳川の御治世以来それらの国との通商が厳禁された。これは世によく知られていることである。その原因となった邪教?キリシタンのことは、わたしの知らぬ「よそごと」であるからいうことはない。ただし、そのころの貿易船に乗ってやってきた医者から伝えてもらった外科の流儀のうちには、世に残っているものもある。これが「南蛮流外科」といわれるものである。 (第2回完) ----- <解説> 『蘭学事始』の執筆中は依然としてキリスト教はご禁制ですので、「キリシタンのことは、わたしの知らぬ(よそごと)であるからいうこともない」と杉田玄白も慎重です。なんばん人、オランダ人、平戸、出島の話題が中心ですので、解説に代えて、江戸時代の長崎について簡単に紹介しましょう。出島で知られる長崎は、西欧に対して開かれた唯一の窓口でした。16世紀後半にポルトガル船が来航するようになってから、貿易港として、またイエズス会の一拠点として、急速に発展しました。 出島は、面積わずか3969坪(東京ドーム約0.3個分)の扇形の地形です。ここに日本側の管理のための建物が17棟、カピタン(商館長)などの居住施設が15棟、大小の倉庫が16棟並んでいました。長崎の町とは一本の橋でつながるのみで、出入りは厳しく管理されました。滞在するオランダ人は10人前後で、彼らは「国立の牢獄」と評したほど、窮屈な生活を強いられたといいます。写真は1830年ごろの様子を描いたもので、右上の大きな建物が商館長のカピタンの部屋で、高くはためくのがオランダ国旗です。 <参考文献> 『大江戸見聞録』小学館 2006年刊 |
木村流 『蘭学事始』(3) | |
木村 勝紀 2009年11月10日 |
今回はやや長めになりますが、外科の流派のいくつかを紹介しているところです。蘭医の名前が多数紹介されますので、解説の中でプロフィールをお伝えします。 ●第3回 そのころ「西流【にしりゅう】」という外科の一家ができた。その家の祖先は、なんばん通詞の西吉兵衛という人で、なんばんの医術を受け伝えて、人にほどこしていたが、なんばん船の入港が禁じられてから後は、オランダ通詞となり、オランダの医術も伝えた。 このように、なんばん流とオランダ流とをかねて、「南蛮和蘭両流」と唱えていたのを、世間では「西流」と呼んだそうである。そのころはこういうことはいたって珍しいことであったから、非常にはやって、その名も高かったからであろう。後には幕府におかかえの医者(官医)として召し出され、名を改めて「玄甫先生【げんぽせんせい】」(木村注1)といわれたそうである。その子の宗春【そうしゅん】といわれた人は、病気がちで、早くなくなったので、家が絶えてしまったそうである。これがわたしの先祖の甫仙【ほせん】というかたの先生にあたる家である。いまの玄哲【げんてつ】君のおじいさんの玄哲先生(木村注2)も後に召し出されて、やはり官医となられたが、この人は玄甫先生のめい(姪)の続きあいになるということである。そもそも、この玄甫先生が、初めて西洋流の医学を唱えられたからこそ、幕府にも採用されるようになったのであって、これが、オランダ医学が御用にたった最初である。 また「栗崎流【くりさきりゅう】」というのがある。これを唱えた栗崎氏は、なんばん人とのあいだのこだという。なんばんのキリシタン邪宗が厳禁となり、なんばん船の来ることも禁じられたが、それ以前は平戸や長崎の地であちらの人たちが日本人といりまじって住み、日本人の妻を持ち、子のあるものもあったので、後にはこれらのこどももよく調べて、なんばん人の血のまじっているものは、残らず日本から追い出してしまった。その中に栗崎というみょうじで、名を「ドウ」という人があった。この人はあちらで大きくなってもキリシタン宗にはいらず、ただその国の医学を学んだだけで、邪宗にはいらないという理由で日本に帰ることが許され、呼び帰されて長崎に住んだ。この人の外科は非常にじょうずで、おおいにはやったので、人々はこれを「栗崎流」と称したそうである。この人の名の「ドウ」というのはオランダ語で「露」ということだそうだ。後に文字をあてて、「道有【どうう】」(木村注3)と書いたのだという。いま官医になっていられる栗崎君の祖先なのか、また別の家の 栗崎氏なのか、くわしいことは知らない。 このほかに「吉田流」「楢林流【ならばやしりゅう】」などという外科の家は、いずれも、もとオランダ通詞で、オランダの流儀を学んで開業したのである。 「桂川家」は、いまの代から五代まえに甫筑【ほちく】先生(木村注4)というかたがあって、六代将軍家宣公がまだ藩邸にいて、甲府候といわれたときに召し出された外科の家である。その先生(木村注:甫筑先生の師匠と思われる)は平戸候の医者で、嵐山甫安【あらしやまほあん】(木村注5)といわれたそうである。この甫安という人は、殿様のいいつけで、出島の蘭館につとめていたオランダの外科医に預けられて、その術を親しく学ばれたということである。 むかしから、「カスパル流」という外科がある。寛永二十年(1643年)に南部の山田浦へ漂流したオランダ船があったが、その船員のうちで江戸へ呼び出されたもののなかに、カスパルという外科医があった。幕府では彼を江戸に三〜四年とめておいて、その治療法を伝えさせたので、これを学んだものがあった。そういう人たちもだんだん長崎へ送られたということである。正保【しょうほう】のころ、江戸と長崎とにこのカスパルから伝えた療法があったそうである。事情はよくわからないが、後に「カスパル流」と唱えているのがそれであろうか。また別にカスパルという名の外科医がやって来たことがあったか.もしれない。 そのほか、長崎に「吉雄流【よしおりゅう】」というのがある。その後渡来したオランダ人から受け伝えている治療法もあるので、「吉雄流」といった。 これらの家々には「伝書」といった、それぞれの家に伝わる治療法を書いたものがある。それを見ると、みな、こう薬・あぶら薬を使う法ばかりで、くわしいことは書いていない。こんなふうに、不完全なものばかりなのであるが、それでもその治療法はシナの外科よりは大いにまさっていたし、また、わが国にむかしから伝わっている外科よりもずっとすぐれていたということはできよう。これらの書きもののなかで、わたしの見たものに、楢林家の『金創の書』というものがある。そのなかに、人のからだのなかには「セイヌン」というものがあって、生命に関係のあるたいせつなものであると書いてある。いまからみれば、これは「セーニュー」(zenuw)であって、わたしたちが「神経」と意訳したものに当たると思われる。わずかではあるが、これだけでもオランダ医学のことを聞いて書いたものは、この書きものが初めてであろう。 (第3回完) ----- <解説> 蘭学は江戸中期以降、オランダ語によって西洋の学術を研究しようとした学問です。蘭学を志した人びとは皆、進取の精神に富んだ逸材ばかりだったのでしょう。杉田玄白は享保十八年(1733年)生まれですが、ここに出てくる外科医の先達はいずれも各流派の始祖だけに杉田玄白より前時代のかたがたばかりです。それでは以下にプロフィールを紹介しましょう。 (木村注1)西 玄甫【にしげんぽ】 ?〜1684 (木村注2)西 玄哲【にしげんてつ】 1681〜1760 (木村注3)栗崎道有【くりさきどうう】 1664〜1726 (木村注4)桂川甫筑【かつらがわほちく】 1661〜1747 (木村注5)嵐山甫安【あらしやまほあん】 1632〜1693 (木村注6)桂川君 (木村注7)桂川甫三【かつらがわほさん】 1728〜1783 <参考文献> 『コンサイス日本人名事典』三省堂 1990年 |
木村流 『蘭学事始』(4) | |
木村 勝紀 2009年11月25日 |
八代将軍徳川吉宗は「享保の改革」で数々の政治改革を実行したことで皆様ご存知の通りです。後世への目立たぬ功績として禁書の緩和がありました。従来からの鎖国政策の中で、洋書の禁書政策を緩和しオランダの科学・技術といった実用的な洋書の輸入を認めたのです。今回は、その辺のことに触れた記述になります。 ----- ●第4回 徳川ご治世の初めのころ、いろいろの事件(木村注1)があって,西洋のことはすべてきびしく禁じられることになり、渡来が許されていたオランダでさえも、その国で使っている横文字をわが国で読み書きすることは禁じられていたので、通詞の連中も、ただオランダ語をかたかなで書きとめるという程度であり、口で覚えていて通弁の用を足していたのである。こんなありさまで年月がたってしまったが、事情が事情であったので、その間には、横文字の読み書きを習いたいという人も無かったのである。 (第4回完) ----- <解説> 江戸時代の日本はいわゆる「鎖国」政策をとり、西洋からの学術・文化・技術などは交易国であるオランダから長崎経由で伝えられました。「蘭学」です。しかし、西洋の学問は「鎖国」以前にもポルトガルやスペインから入っていましたので、オランダからの「蘭学」に対してそれらを「南蛮学(蛮学)」と呼びました。幕末の開港以降は、イギリス・フランス・ドイツなど諸外国の学問を習得する必要が生じ、これを「洋学」と呼びました。「蘭学」の本格的な興隆は、玄白のいうとおり享保から元文期(1716〜1740)の八代将軍徳川吉宗の政策に始まりました。
添付した肖像画は八代将軍、徳川吉宗公(1684〜1751)です。以下は文献の転載になります。紀州徳川家二代光貞の四男に生まれる。1697年に越前国丹生郡三万石を与えられる。1705年、兄たちの相次ぐ死の結果、紀州藩主となり、改革を励行する。家継(七代将軍)の死去とともに、老中たちの推挙により将軍に。就任早々、間部詮房・新井白石を罷免して人心を一新し、 以後目安箱や御庭番を設置して情報収集に勤め、高品位の通貨を発行し、財政改革に邁進し、一連の改革によって幕威を回復した。将軍職を退いた後は、大御所となった。 『徳川将軍家展』NHK・プロモーション編より <注> (木村注1)いろいろの事件 (木村注2) 西善三郎【にしぜんざぶろう】 1717〜1768 (木村注3) 吉雄幸左衛門【よしおこうぎゅう】 1724〜1800 (木村注4)もう一人名は忘れたが、上記、西善三郎の項に出ている本木良永【もときよしなが】と思われる。 <参考文献> 『コンサイス日本人名事典』三省堂 1990年 |
木村流 『蘭学事始』(5) | |
木村 勝紀 2009年12月11日 |
前回は将軍吉宗の洋書の禁書政策緩和の話題でしたが、今回は具体的に自ら洋書を手にとって、その図の詳細におどろき、オランダ語を学者に学ばせるというくだりを紹介している記述になります。本文に出てくるオランダ語のいくつかの単語ですが、英語と独語を少しかじった程度でも理解できるのが楽しいですね。 ----- ●第5回 こういうことなどが、自然と将軍にも聞えたとみえて、オランダの本というものをいままでごらんになったことがないから、なんでも一冊さし出すようにという御希望があったので、何の本であったか、図のはいった本を提出したところ、将軍がごらんになって、これは図だけでも非常に精巧なものである、そのなかに書いてあることが読めたら、きっと役に立つことであろう、江戸でもだれか学び覚えるがよい、ということになり、初めて御医師の野呂元丈(木村注1)青木文蔵(木村注2)の二人にこれを命じられたということである。 これ以来お二人はこのオランダ語の学習を心がけられたのである。しかし毎春一度ずつ将軍に拝礼に来るオランダ人に付き添って来る通詞たち(木村注3)から、短い滞在の間に聞かれることでもあり、お二人ともおいそがしくて、なかなかひまのないことであるから、ゆっくりと学ばれるわけにはいかない。それで数年かかって、やっと (第5回完) ----- <解説> 将軍吉宗は従来の禁書制度を緩め、オランダや中国の科学・技術といった実用的な漢訳洋書の輸入を認めました。蘭学の実学重視の傾向は、この時期の農業生産の高まりや商品経済の進展を背景に、甘藷・サトウキビ・朝鮮人参などの栽培を奨励する殖産興業政策とともに発達していきました。本文に出てくる青木文蔵とは青木昆陽のことです。放送大学本部の近く、大学本部と京成幕張駅の中間点に昆陽神社があり、その地で青木昆陽は甘藷の栽培法を教えたといいます。オランダ語の習得を命じられた医師の野呂元丈と青木昆陽の二人は、江戸参府のオランダ人が滞在する本石町三丁目の長崎屋へしばしば訪れ、文字・文章の読解や翻訳などを学んだのでした。次回からはいよいよ前野良沢の話題に移ります。 <写真解説> 今年6月27日に長崎屋跡の碑文を見に行き、その時に現場で撮ったものです。長崎屋はいろいろな機会にご紹介してきましたが、長崎出島のオランダ商館長が江戸参府のたびに定宿にした旅館です。杉田玄白をはじめ当時の蘭学を志した多くの日本人が訪れたといいます。写真は地下鉄・新日本橋駅の出入口に貼り出された長崎屋の碑文銘版です。いつか日本橋界隈をご案内したいものです。 <注> (木村注1)野呂元丈【のろげんじょう】 1693〜1761 (木村注2)青木文蔵【あおきぶんぞう】 1698〜1769 (木村注3)通詞たち (木村注4)オランダ文字二十五字 <参考文献> 『コンサイス日本人名事典』三省堂 1990年 |
木村流 『蘭学事始』(6)〜(14) | |
木村 勝紀 2010年1月29日 |
今回は、第5回以降少し間が空きましたので、第6回から第14回まで続けて一挙に紹介します。前野良沢、平賀源内、中川淳庵などの名前が出てきます。『解体新書』は前野良沢、杉田玄白、中川淳庵の三人が共同で翻訳したのですが、この三人の出会いが綴られます。また同時代人の平賀源内のエピソードが紹介されます。 ----- ●第6回 さて、わたしの友に、豊前の中津候の医官で、前野良沢(木村注1)という人がある。この人はおさないときに父母を失い、淀候の医師で伯父に当たる宮田全沢【みやたぜんたく】という人に養われて成人した。この全沢は博学の人であったが、なかなか変わった人で、好むところがすべて普通の人とは異なっていた。良沢を教育するのにも、やはり、ずいぶん変わっていたそうである。この全沢が良沢に教えていうには、人というものは、世の中からすたれてしまいそうな芸能を学んでおいて、末々までも絶えないようにし、いまは人が捨ててかえりみなくなったようなことをして、世のために、あとあとまで残るようにしなければならぬと。 ----- ●第7回 しかしそのころは、とりわけ普通の人がみだりに横文字をとりあつかうことは遠慮していた。たとえば、そのころ本草家【ほんぞうか】(木村注4)と呼ばれていた後藤梨春【ごとうりしゅん】(木村注5)という人は、オランダのことについて見聞きしたことを書きあつめて、『紅毛談【こうもうだん】』というかな書きの小さな本を著して出版したところ、そのなかにオランダ文字二十五字がほり入れてあったので、どちらからかとがめをうけて、絶版になったこともある。 ----- ●第8回 わたしは、良沢がかねがねオランダのことに関心を持っていたことを知らなかった。ところが明和三年(1766)のことであった。その年の春、いつものようにオランダ人が江戸へ拝礼にやって来たとき、ある日、良沢がわたしの宅へおとずれてきた。これからどちらへ、とたずねるときょうはオランダ人の宿へ行って、通詞に会ってオランダのことを聞き、つごうによってはオランダ語などもたずねようと思っているとのことである。わたしはそのころまだ年も若くて、血気にはやりやすく、何でもやってみたくなるころであったから、どうかわたしも連れて行っていただきたい、わたしもいっしょにたずねてみたいというと、良沢は、それはやすいことだといって、いっしょに、オランダ人の泊まっている宿へ行った。 ----- ●第9回 そのころから、世の人はオランダの国から渡って来たものをなんとなく珍重し、すべて舶来のめずらしい器などを好み、少し好事家といわれるような人は、多少とも集めて愛好しないものはなかった。 ----- ●第10回 何年のことかわすれたが、明和四年(1767)か五年(1768)のころであろう。カピタンとしてヤン・カランス(Jan Crans)、外科医としてパブル(George Rudolf Bauer)が江戸へ来たことがあった。このカランスは博学な人であり、パブルは外科がうまかったそうである。大通詞の吉雄幸左衛門(のちに幸作、号を耕牛といった)はもっぱらこのパブルを先生にしたという。幸左衛門は外科がうまいというので名が高く、西国・中国あたりの人が長崎へ行って、その門に入るものがいたって多かった。このカランスとパブルとが江戸へ来た年にも、幸左衛門が付き添ってきていた。わたしは彼についてこのようなことを伝え聞いたから、すぐ幸左衛門の門人になり、その術を学んだ。こういうわけで、わたしは毎日かれの宿へ通った。 ----- ●第11回 また、年をわすれたが、こんなこともあった。ある春、かの幸左衛門がやはりオランダ人に付き添って江戸へ来たときのことである。 ----- ●第12回 オランダが、医術やいろいろの技芸も発達している国であるということがようやく世に知れわたり、世の人もその影響を受けてきた。このころから、オランダ人が江戸へ来るたびに、もっぱら官医の志ある人々は、毎年対話ということを願い出てその宿に行き、治療法・処方のことなどをたずね、また天文家の人も、同じくそれぞれ自分の専門のことを問いただした。当時はその人々の門人なら、いっしょに連れて行くことも自由であった。それで、なかにはその人たちの門人だといって出入した人もあった。長崎では規則があって、みだりに彼らの宿へ出入はできないのであるが、江戸のほうは、しばらくの間のことであるから、自然にかまいもしないというありさまであった。 ----- ●第13回 世のなかは、こんなふうで、西洋のことによく通じているという人もなかったが、そうかといって、ただ何となく西洋のことを遠慮することもないようになった。オランダの本などを持つことが許されているというわけでもないのだが、ときどきは持っている人もあるというふうに移り変わってきた。 ----- ●第14回 かねて、わたしは平賀源内などに会うたびに、よく話し合ったことであったが、だんだんと見聞きすればするほど、オランダの実地研究については感心することばかりである。もしもオランダの本を直接に日本語に翻訳したら、ずいぶん利益をうるにちがいない。ところがこれまでにそれをやろうと思い立った人のないのは口おしいことだ。なんとかこの道をひらく方法はないものだろうか。江戸などではとてもできぬことだから、長崎の通詞にでも頼んで読みわけさせたいものだ。一冊でもできあがったら、国のためのおおきな益になるだろうにと、それのできないのを、がっかりしてためいきをつくのは毎度のことであった。しかし何ともしかたがないので、むなしくなげくばかりであった。 (第6回〜第14回完) ----- <解説> 今回の内容は『解体新書』出版の端緒となる「腑分け」の実見をする以前のことで、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を手に入れるところまでです。前野良沢という人は、『解体新書』を杉田玄白、中川淳庵とともに翻訳した人でした。オランダ語の素養は他の二人よりも格段にすぐれ、むしろ主役を演じた人なのです。にもかかわらず『解体新書』の翻訳者として名を連ねていません。杉田玄白ばかりが著名になりました。これは「なぞ?」なのです。杉田玄白は、第6回の文中、「良沢という人は生まれつき変わった人で・・・」と書きました。この辺に「なぞ」を解く鍵があるのかも知れませんね。前野良沢は完全主義者で未完成な『解体新書』を出版したくなかった。一方、杉田玄白は不完全であっても早く『解体新書』を世に問いたかった。次回はいよいよ『ターヘル・アナトミア』を手に二人は腑分けを見に行きます。 ご期待下さい。 <写真解説> 前野良沢の著した『和蘭訳筌』の本文および山本才助の自筆写本の一部です。写真では判読不能と思われますので、ご参考までに木村流の解釈で転載いたしましょう。 第1図:右側の山村才助の自筆写本 第2図:左側の本文 文章は以上の通りですが、左側に表があり、アルファベットの小文字と大文字が上下に表記されています。 <注> (木村注1)前野良沢【まえの りょうたく】 1723〜1803 (木村注2)吉益東洞【よします とうどう】 1702〜1773 (木村注3)一節截【ひとよぎり】・一節切・一簡切とも (木村注4)本草家【ほんぞうか】 (木村注5)後藤梨春【ごとう りしゅん】 1696〜1771 (木村注6)中川淳庵【なかがわ じゅんあん】 1739〜1786 (木村注7)平賀源内【ひらが げんない】 1728〜1779 (木村注8)田村藍水【たむら らんすい】 1718〜1776 <参考文献> 『コンサイス日本人名辞典』三省堂 1190年 |
木村流 『蘭学事始』(15)〜(20) | |
木村 勝紀 2010年4月1日 |
前回は、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を入手する経緯までを紹介しました。今回はいよいよ『ターヘル・アナトミア』を手に実際の腑分けを実見する場面です。杉田玄白と前野良沢は、お互いに『ターヘル・アナトミア』を所持していることを初めて知って、その奇遇におどろき感激しあうという劇的なエピソードが語られます。 ----- ●第15回 そういうやさきに、ふしぎにもオランダの解剖の本が手に入ったのであるから、わたしは、なによりもまずその図を実物と照らし合わせてみたいものだと思っていた。ところが、この春この本が手にはいったということは、ふしぎといおうか、妙といおうか、実にこの学のひらける時期がやってきたのであろう。三月三日の夜のことである。当時の町奉行、曲淵甲斐守【まがりぶちかいのかみ】殿の家来の得能万兵衛【とくのまんぺえ】という人から手紙がとどいて、明日手医師のなにがしというものが、千住の骨が原(木村注1)で腑分けするということですら、お望みならば、そちらへおいでになるようにというしらせである。 ----- ●第16回 あくる朝、はやく支度を整えて、約束の茶屋へ行くと、良沢も来あわせているし、そのほかの友だちもみな集まっていて、わたしを出迎えた。 ----- ●第17回 これから、みなうち連れて、骨が原のふわけを見る予定の場所へ着いた。この日のお仕置きの死体は、五十歳ばかりの女で、大罪を犯したものだそうである。京都の生まれで、あだ名を青茶婆【あおちゃばば】と呼ばれたという。さてふわけの仕事は虎松【とらまつ】というのが巧みだというので、かねて約束しておいて、この日もこの男にさせることに決めてあったところ、急に病気で、その祖父だという老人で、年は九十歳だという男が代わりに出た。丈夫な老人であった。かれは若いときからふわけはたびたび手がけていて、数人はしたことがあると語った。それまでのふわけというのは、こういう人たちまかせで、その連中がこれは肺臓ですと教え、これは肝臓、これは腎臓ですと、切り開いて見せるのであって、それを見に行った人々は、ただ見ただけで帰り、われわれは直接に内臓を見きわめたといっていたまでのことであったようである。もとより内臓にその名が書きしるしてあるわけでないから、彼らがさし示すものを見て「ああそうか」とがてんするというのが、そのころまでのならわしであったそうである。 ----- ●第18回 帰り道は、良沢と淳庵とわたしがいっしょであった。われわれは途中でたがいに語り合った。さてさてきょうの実地検分は、いちいちおどろきいった。それをこれまで気づかなかったことがはずかしい。いやしくも医術でたがいに殿様に仕える身でありながら、そのもとになるわれわれのからだのほんとうの構造も知らずに、いままで一日一日とこの業をつとめてきたのは、面目ないしだいである。なんとかして、きょうの体験に基いて、おおよそでもからだのほんとうのことをわきまえて医を行えば、この業で身を立てていることのもうしわけにもなろう。こういって、ともどもにためいきをついた。良沢も実にもっとも千万同感であるといった。 ----- ●第19回明和八年三月五日 良沢の宅に集まる ─『ターヘル・アナトミア』にむかう そのあくる日、みな良沢の宅に集まった。そしてきのうのことを語り合いながら、まず、かの『ターヘル・アナトミア』の本にむかった。 ----- ●第20回翻訳にとりかかる ─ 苦心 さて、この『ターヘル・アナトミア』を、どんな方法で読んで、原稿を書いていこうか、われわれはこれを相談した。からだの中の構造のことは、初めからは、とてもわからないであろう。この本の最初に全身の前向き、後向きの図があるが、これはからだの表面のことであり、その名はみなわかっているのであるから、この図と説明のしるしとを照らし合わせて考えるのが、とりつきやすいであろう。これが図の初めでもあるから、これからまず始めようということに決めた。こうしてできたのが、『解体新書』の「形体名目篇」なのである。 (第15回〜第20回完) ----- <解説> 今回は、腑分けの実地検分そして持参の『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに驚き、その翻訳を決意するところまでが前半でした。翻訳への情熱を語り合って意気投合するところなどは読む者の心まで熱くさせますね。そして、後半では、その翻訳の苦心談を綴った場面でした。真実を追究しようとする科学者魂を彷彿とさせます。時に良沢49歳、玄白39歳、淳庵33歳でありました。翻訳作業については、ここでも前野良沢がリーダーであったことがわかります。口語訳ではない原本の<誠に、艫舵なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれていたるまでなり>の記述は、のち、福沢諭吉をして『蘭学事始』の発刊に奮い立たせた有名なくだりだったといいます。次回は『解体新書』の完成までの話題になります。ご期待下さい。 <写真解説> 写真とはいっても想像図です。大正・昭和時代の画家、長谷川路可の手になるものです。想像図であっても画家の想像力を駆使した作品には迫真の情景を浮かび上がらせています。前野良沢を先生とも仰ぐという描写が人物の微妙な距離感に示されています。
<注> (木村注1)千住の骨が原 (木村注2)小杉玄適【こすぎげんてき】 1734〜1791 (木村注3)山脇東洋【やまわきとうよう】 1705〜1762 <参考文献> 『ブリタニカ国際大百科事典』 |
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木村流 『蘭学事始』(21)〜(24) | |
木村 勝紀 2010年5月19日 |
前回は、腑分けを実地検分し、持参の『ターヘル・アナトミア』の図の正確さに感動して、翻訳を志し、その苦心談が語られました。今回は、『解体新書』のできるまでの経緯と、翻訳にたずさわった人々との交流が語られます。 ----- ●第21回 この会合をおこたらずにつとめているうちに、だんだん同志の人もふえて、集まってきた。しかし、めいめいの志すところがあって、同じではなかった。
----- ●第22回 過去をかえりみると、まだ『解体新書』ができあがらない前のことである。このようにはげんで、二〜三年もたち、ようやくわけがわかるようになるにつれ、しだいにサトウキビをかみしめるように、そのあまみが出てきて、これで、長い間の誤りもわかり、そのすじみちがたしかに通るようになることが楽しくて、会合の日は、前の日から夜の明けるのを待ちかねて、まるで女や子供が祭を見に行くようなここちがしたものである。
----- ●第23回 なかまの人々が毎日集まったことは、前に述べたとおりであるが、おのおの、その志すところがちがっていた。これは人情である。
----- ●第24回 『解体新書』がまだ出版されない前のことであった。奥州の一ノ関の医官の建部清庵【たてべせいあん】(由正)という人が、はるかにわたしの名を聞き伝えて、自分が日常しるしておいた疑問を、わたしに書いてよこしたことがあった。書いてあることは、わが医業について感服することが多かった。それまでは、たがいに知らぬ人なのに、わたしとすっかり志の同じ人である。そのなかに、こういうことが書いてあった。これまでのオランダ流の外科というのが、かたかな書きの伝受書だけにたよってこの術の基本としているのは、まことに残念なことである。わが国にも教養のある人が出て、むかしシナで仏教の経典を翻訳したように、オランダの本も日本語に翻訳したならば、本格的なオランダの医術が完成するであろうと。これは清庵が、その時より二十年余りも前から絶えず心にかけていたことであったという。
(第21回〜第24回完) ----- <解説> 翻訳開始から1年10ヶ月たった安永2年(1773)、玄白は『解体約図』という『解体新書』の予告編を世に出しました。評判は上々で、訳本刊行への玄白の心ははやるのでした。玄白は少々の間違いがあっても、全体として西洋医学というものは、こういうものであるということが日本人に知られればいいという主義でした。一方の前野良沢という人は、完全主義者で、学研肌の人ですから、完璧な訳書を出したいと思っていたようです。
<写真解説> 1 『杉田玄白像』 石川大浪筆 早稲田大学図書館蔵
2 『解体新書』 国立国会図書館蔵
<注> (木村注1)嶺春泰【みねしゅんたい】 1746〜1793
(木村注2)康熙字典【こうきじてん】
(木村注3)膈症【かくしょう】
<参考文献> 『コンサイス日本人名辞典』三省堂 1990年
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木村流 『蘭学事始』(25)〜(27) | |
木村 勝紀 2010年8月27日 |
前回までで悪戦苦闘の末、ついに『解体新書』の完成、出版にこぎつけ将軍家ほかに献上するまでが回想されました。今回の第25回から27回では、玄白の翻訳についての考え方を中心に謙遜気味に述べられます。 ----- ●第25回 わたしはもともと大ざっぱで、学問も浅いから、オランダの学説をかなり翻訳しても、人に早く理解してもらえて、益になるようにする力がない。そうかといって、人にまかせては、自分の本意も通じにくいので、しかたなく、つたないのをかえりみずに、自分で書きつづったのである。なかには、ここは細かな意味があるにちがいないと思われるところでも、わからないところは、大ざっぱでいけないと知りながら、無理に訳すことをしないで、ただ意味の通じたところだけを書いておいた。たとえば、江戸から京都へ上がろうと思えば、まず東街道と東山道との二つの道のあることを知った上で、西へ西へと行けば、しまいには京都に着くのだというところが、いちばんたいせつである。そのつもりで、そのすじみちを教えればいいのだと思ったので、そのあらましだけを唱えだしたのである。そしてこれをてはじめにし、一般の医者のために翻訳の仕事を始めたのである。もとよりわたしは、仏教僧の梵語の経典の翻訳の法は知らない。ことにオランダの本の翻訳ということは、これまでになかったことなのであるから、最初から細かいことがわかるはずがない。ただ、医者たるものは、第一に臓器の構造、その本来の働きを知らないではすまされない。どうか医者がみなその真実をわきまえて、たがいに治療の助けになるようにしたいというのが、その本意であったのである。 ----- ●第26回 さて、このように、『解体新書』の翻訳はひととおりはできたけれども、そのころはオランダの説というものを、少しでも聞いたり、聞いて知っているものは、まったくなかったので、世に公にしたあとで、シナの説ばかりを主張する人が、そのよしあしもわからずに、これを異端の説であるとおどろきあやしみ、かえりみる人もないであろうと思ったので、まず、『解体約図』というものを出版して世に示した。これはいわば「ひきふだ」(宣伝ビラ)と同じようなものであった。 ----- ●第27回 『解体約図』がすでにできあがり、「本編」である『解体新書』も出版になったが、前にいったように、『紅毛話』さえ絶版になったほどの時代であるから、西洋のことはかりそめにも唱えてならぬのか、それともオランダはその中でも特別なのか、はっきりしない。これなら、きっとよいであろうと決め込んでしまうわけにもいかず、もしひそかに公にすれば、万一禁令を犯した罪を受けるかもしれない。こればかりは、ずいぶん心配した。しかし、横文字をそのままに出すわけではなく、読んでみればそのようすはわかることであって、わが医術の道をひらくためであるから、さしつかえないと自分で決め、ともかくも、翻訳を公にするということのさきがけをしようと、ひそかに覚悟して決断したことであった。それにしても、これは最初のことであるから、どうか一部を、恐れ多いが冥加のためお上へ献じたいと考えた。ところが幸い同人に桂川甫周君の父君の甫三氏は、前にいったとおり、わたしの古くからの友であったから、この人(法眼であった)にそうだんしたところ、同氏の世話と推挙によって、御奥から非公式に献じた。このようにさしさわりなくすんだのは、ありがたいことであった。
----- <解説> 今回の第25回から第27回目では、翻訳についての考え方と若干のエピソードを交えて淡々と語っています。しかし、文中で「ものを初めてやりだすときには、あとのそしりを恐れるようなつまらない心がけでは、くわだてごとはできないものである」とか、禁令を犯すことになるかもしれない翻訳書の出版について「わが医術の道をひらくためであるから、さしつかえないと自分で決め、ともかくも、翻訳を公にするということのさきがけをしようと、ひそかに覚悟して決断したことであった」のくだりを読む限り、杉田玄白という人は並みの人物でないことを物語っています。知力だけでなく日本の医学発展への熱い思い、そして胆力も備わっていたとうことでしょうか。さて、次回以降は大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、宇田川玄真など蘭学や解体新書を通して親交のあった当時の蘭学者・医学者の話題に移り終章に向かって行きます。ご期待ください。 <注> (木村注1)『一切経』 <写真> 佐桑さんから寄贈を受けた『資料が語る津山の洋学』の関連記事を抜粋して使わせていただきました。佐桑さん、ありがとうございました。 |
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木村流 『蘭学事始』(28)〜(36) | |
木村 勝紀 2010年9月18日 |
今回からは杉田玄白の人物月旦です。皆さん日本史の勉強でおなじみの人物も出てきます。また、蘭学、医師の縁で一般の私たちでは知るよしもない杉田玄白ならではの人物にも回顧談が及びます。お楽しみ下さい。 ----- ●第28回 わたしの初めの予想では、この蘭学が今のようにさかんになり、こうまでひらけるとは思いもよらぬことであった。これは、わたしが不才で先見の明がとぼしかったためであろう。今になって考えてみると、漢学は文句をかざった文であるから、そのひらけかたがおそく、蘭学は事実をありのままにことばでしるしたものであるので、わかりも早く、そのためにひらけかたが早かったのであろうか。それとも実は、漢学によって人の知識がひらけたあとに蘭学が出たので、こんなにすみやかなのであったのか、それもわからない。 ----- ●第29回 このほかにわたしの門に出入りしたもののうち、この蘭学を勉強し始めたものは、多かったけれども、あるいは久しく江戸にとどまっていることができなかったり、あるいは官職につき、あるいはくらしむきに追われ、あるいは病気、あるいは早死などと、みなはかばかしくことをとげたものはなかった。しかしわたしがこのことを思い立った後、その支派・分派が生じたことは少なくなかった。 ----- ●第30回 津山候の藩医に、宇田川玄随【うだがわげんずい】(木村注3)という人がある。元来漢学が深く、ものしりで、ものおぼえのいい人である。蘭学に志して、玄沢についてオランダ書を習い、玄沢の紹介でわたしと淳庵とも往来し、桂川君、良沢とも交際していた。玄随は後に、もと長崎の通詞で、白河候(木村注4)の家来になった石井恒右衛門という人などにも出入りして、オランダ語のかずかずをも習ったが、元来が秀才で根気のいい人であるから、勉強が大いに進んで一書を訳し、『内科撰要』【ないかせんよう】という十八巻の本を著した。簡単な本ではあるが、わが国の内科書の翻訳の初めである。おしいことに四十三歳でなくなった。この『内科撰要』は、この人がなくなったあとでようやく全部出版になった。 ----- ●第31回 京都に小石元俊【こいしげんしゅん】(木村注5)という学者がある。永富独嘯庵【ながとみどくしょうあん】(木村注6)の門人で、医学のことにいたって熱心な人である。初めから、知り合った人ではなかったが、かれは『解体新書』を読んで古い説とちがっているところに疑いをいだき、自らたびたび解剖して、『新書』が真実であることに感心し、それ以来深く『新書』の出たことを喜んで、わたしに手紙をよこし、まだ自分でわからない疑問をたずねてきた。天明五年(1785年)の秋、わたしは殿様のお供で、お国まで行った帰り道に、京都に滞在した。そのとき元俊は日夜おとずれてきて質問した。その後、江戸へ遊学して、玄沢の宅を中心に一年近くおり、蘭学のことでなかまの人たちとたびたび討論したものである。蘭学としては勉強しなかったが、京都へ帰ってからは、塾において、出入りの生徒に『解体新書』をいつも講じ、その堅実な体系を示したということである。これが関西の人々を啓発したひとつの原因である。 ----- ●第32回 大阪に橋本宗吉【はしもとそうきち】(木村注7)という人がある。傘屋の紋を書く仕事をして、老いた親を養い、くらしをたてていたそうである。学問はないが、生まれつき奇才があるので、土地の金持ちの商人たちがみたてて力をそえ、江戸へ出してやって玄沢の門に入れた。 ----- ●第33回 土浦候の藩士に山村才助という奇人がある。その叔父の市川小左衛門の紹介で、わたしのところへ蘭学の勉強に来た。わたしはそのころはもう年をとっていて、蘭学のことはすべて玄沢にまかせてあったから、玄沢がかれにオランダ文字二十五字から教えてやった。生まれつき学才が備わっていて、ことに地理学を好み、もっぱらその方面の勉強をした。白石先生(木村注8)の『采覧異言』【さいらんいげん】(木村注9)を増訳重訂して、十三巻の書とした。この本は栗山【りつざん】先生の推挙でお上へも献上した。そのほかに翻訳の内命も受けていたが、完成しないうちに早死した。おしいことであった。万国地理の諸説はシナの人もまだ知らないところのものが多い。それというのも、蘭学がこの方面にまで延びたおかげである。 ----- ●第34回 石井恒右衛門は、もと長崎の通詞で馬田清吉【ばだせいきち】という名であったが、その家業を他人にゆずって、江戸へきて、天明のなかごろ白河侯の家来となった。候はそのもとの職業を知られ、ドドネウスの本草を和訳させ、十数巻の訳ができたが、完成しないうちにこの人もなくなった。稲村三泊【いなむらさんぱく】(木村注10)が手をつけた『ハルマ』の辞書は、まったくこの石井氏の力によるものである。この辞書は近ごろの初学者の人々には参考書として益があるということである。この石井氏は、もとの通詞の職業で官職につくつもりで江戸へ来たのではないが、このようにさかんな最中に来たことであるので、もっぱらこの道の助けとなった。 ----- ●第35回 桂川家のことは前にもいったとおりである。甫周君は抜群の俊才であるから、およそオランダのことといえば大体知っていて、その名声も四方に広く、それにこの事業の趣旨はお上でもごぞんじであったので、ときどき西洋のことは和訳の御用も命じられたそうである。その原稿は桂川家にあるであろう。『和蘭薬選』『海上備要方』などという著書もあると聞いたが、完成した本は出ていない。歳は六十にならないでなくなられた。 ----- ●第36回 因州候の医師に稲村三泊という人がある。国にいて『蘭学階梯』を見て発奮し、江戸に来て玄沢の門に入り、蘭学を学んだ。後にハルマという人の著わした辞書を石井恒右衛門について訳をうけ、十三巻という大きなオランダ辞書、いわゆる『江戸ハルマ』を作った。初め玄沢が、かれを石井へ紹介し、原書も貸し与えたという。その初稿は宇田川玄随・岡田甫説【おかだほせつ】が力を添え、ときどき石井のところへ往来して完成したそうである。訂正のときには、ほかに力を添えたものもあったと聞いた。後にわけがあって殿様のもとを辞して、下総の国海上郡のあたりでぶらぶらしており、あとで名を随鴎【ずいおう】と改め、京都にいて、もっぱら蘭学を唱えたという。いまは、この人も故人になったと聞いた。 ----- <解説> 『解体新書』を発行した後の玄白は、ほとんど自分では訳書を作らず、オランダ語を勉強したい人が弟子入りを頼むと、前野良沢や高弟の大槻玄沢のもとへ行かせました。そして彼自身は、医者の仕事が多忙であり、収入も多かったといいます。しかし、その金でオランダ書をたくさん買い込んで、それを若い人たちに惜しみなく貸したり読ませたりしました。蘭学者を育て上げることに、大いに努め、日本の医学の向上を絶えず願っていたのでしょう。 <注> (木村注1)大槻玄沢【おおつきげんたく】1757〜1827 (木村注2)『蘭学階梯』 (木村注3)宇田川玄随【うだがわげんずい】1755〜1797 (木村注4)白河候(松平定信、1592〜1651) (木村注5)小石元俊【こいしげんしゅん】1743〜1808 (木村注6)永富独嘯庵【ながとみどくしょうあん】1732〜176 (木村注7)橋本宗吉【はしもとそうきち】1763〜1836 (木村注8)白石先生(新井白石、1657〜1725) (木村注9)『采覧異言』【さいらんいげん】 (木村注10)稲村三泊【いなむらさんぱく】1758〜1811 <写真解説> 一つは、大槻玄沢の肖像画と著書『蘭学階梯』の写しです。もう一つは、宇田川玄随の肖像画です。そして、翻訳書『西説内科撰要』の写しです。いずれも本文の中で紹介されているものです。出所は「津山洋学資料館」発行の『資料が語る津山の洋学』から拝借しました。 |
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『資料が語る津山の洋学』
編集/発行:津山洋学資料館 |
<参考文献> |
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木村流 『蘭学事始』(37)〜(41) | |
木村 勝紀 2010年10月14日 |
いよいよこのシリーズも今回を含めて二回分のみとなりました。次回の最終回は杉田玄白の「むすび」と口語への翻訳者の緒方富雄氏の解説、そして不肖私の結びの解説で締めようと思います。今回の内容は、今までとは趣が異なります。杉田玄白にも学問とは別に、養子縁組という後継者問題でご苦労があったようです。それも宇田川玄真という人物を巡って、宇田川玄随、大槻玄沢などをも巻き込むという複雑な事情が述べられます。最後にはハッピーエンドで収まるところが救いです。 ----- ●第37回 今の宇田川玄真は、初めは伊勢の安岡という名で、京都生まれの人である。江戸へ出て岡田という名をつぎ、上に述べた宇田川玄随の漢学の弟子であったという。ところが玄随は、玄真の才がしっかりしているのを知って、蘭学に導こうと考え、よく玄沢にもこの人のうわさをしたことがあったそうである。 ----- ●第38回 大槻玄沢はその名声がすでにあがっていたが、近ごろ(文化八年・1811年)幕府から新たに、御所蔵のオランダ書の翻訳の命をこうむるにいたった。むかしわたしたちがかりそめにくわだてた事業であったのに、いまわたしの在世中にこのような名誉ある厳命までこうむるにいたったことは、まことにありがたく、わたしの年来の願いがかなったというものである。
----- ●第39回 このほか玄沢・玄随・玄真の門人で、出藍のほまれある人々もあるそうだが、これはわたしの子の子の孫彦であって、くわしくは知らない。きっと京都・江戸・大阪や、諸侯の国々に散らばっている人が多くあろう。 ----- ●第40回 むかし、長崎で西善三郎は『マーリン』の辞書を全部翻訳しようとくわだてたそうであるが、すこし手をつけただけで完成しなかったと聞いた。明和−安永のころであったか、本木栄之進(木村注1)という人に、1−2の天文暦説の訳書があるということである。そのほかは聞いていない。この人の弟子に志筑忠次郎(木村注2)という通詞があった。生まれつき病気がちで早くその職をやめて他人にゆずり、本姓の中野氏にもどってひきこもり、病だからといって世人との交際を断って、ひとり学んでオランダの本に読みふけり、多くの本に目を通して、文学の書を研究したということである。
----- ●第41回 一滴の油は、これを広い池の水に落とすと、だんだんひろがって池全体におよぶという。ちょうどそのように、そのはじめ、前野良沢、中川淳庵、そしてわたしの三人が申し合わせて、かりそめに思いついたことがもとで、五十年に近い年月のたった今日、この学が全国におよび、ここかしこと四方にひろがり、翻訳の本も毎年出ると聞いている。これは一匹の犬が実を吠えると、万犬が虚をほえるというたぐいで、そのなかに良いものも悪いものもあろうが、それはしばらく問題にすまい。こんなに長生きすればこそ、今のように発展したありさまを聞くことができるのであると、喜びもし、おどろきもしている。
----- <解説> 宇田川玄真が苗字から連想できるように、宇田川玄随の養子であったことは、比較的世に知られていましたが、杉田玄白の養子の時代があったことを知る人は少なかったのではないでしょうか。わたくしも、この『蘭学事始』を読んで初めて知った次第です。玄真が玄白から離縁された理由は、せっかく才能がありながら残念でしたが、若気の至りと思えば許すこともできるように思います。世の中には、若者を誘惑してやまないたくさんの魑魅魍魎の世界がありますからね。玄真が正気にもどって、学問の世界に功績を残したことは、まことに喜ばしいことでした。野口英世が外国渡航の前に、ご祝儀のすべてをお遊びに散財したという話は有名です。
<注> (木村注1)本木栄之進【もときえいのしん】 1735〜1795 (木村注2)志筑忠次郎【しづきちゅうじろう】 1760〜1806 (木村注3)馬場千之助【ばばせんのすけ】 1787〜1822 <写真解説> 今回も『資料が語る津山の洋学』から拝借しました。宇田川玄真の肖像画と玄真の著作『医範提綱』です。『医範提綱』3巻は、ヨーロッパの解剖学者の説を集めたもので、玄真が漢学の出身だけあって、とくに漢文の文章が立派で当時の医学生に良く読まれたといいます。 以上 文責:木村勝紀 |
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<参考文献> |
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木村流 『蘭学事始』(42)最終回 | |
木村 勝紀 2010年10月19日 |
この講読シリーズも最終回です。第一回目から数えてちょうど一年になりました。最後は、杉田玄白の第42回「むすび」と口語訳への執筆者緒方富雄氏の解説、そして不肖木村の結び解説で締めたいと思います。 ----- ●第42回 かえすがえすもわたしはうれしい。この道がひらければ、百年・千年後の医者は本式の医術を覚えて人の命を救うという、大きな益があるだろうと思うと、いてもたってもいられないほどうれしい。
----- <緒方富雄氏(口語訳者)の解説> この本文は、杉田玄白の『蘭学事始』を、わたしが現代の国語に訳したものである。玄白のこの名作がひろく読まれるには、現代語にうつすのが一番いいと考えて、これを出版したのは、昭和十六年であった。(中略)なお玄白の原文は、わたしの校註で、岩波文庫におさめられている。(杉田玄白著・緒方富雄校註『蘭学事始』)。>
ところで、今日これが『蘭学事始』として知られるようになったのは、明治二年(1869)福沢諭吉の世話で、この題名ではじめて出版されたときからである。その定本は、明治の直前神田孝平が湯島で見つけた写本で、その題は、『和蘭事始』となっていた。それを出版のまぎわに『蘭学事始』とあらためたのである。
----- <上記の解説につき木村注> この口語訳および解説が収められている種本は『世界教養全集・17』1963年初版 平凡社発行(写真添付)。緒方富雄氏の略歴は次の通りです。明治34年生まれ、平成元年没。昭和初期の血清学・歴史学者。緒方洪庵の曾孫。大阪生まれ、東京大学卒。1936年東大血清学講座助教授、1949年教授、東大医学図書館開設に尽力し、館長をつとめる。1946年創刊の『医学のあゆみ』編集顧問の長として最新の外国医学情報を紹介。退官後は緒方医学化学研究所を創設し理事長。著書に『科学とともに』(1945)、『現代語訳蘭学事始』(1984)がある。 <木村の結び解説> このシリーズの執筆を始めたのは、ちょうど一年前の2009年10月6日のことでした。12回の連載になりましたので、月一回のペースでした。放友会のホームページを活性化する一助にでもなれば、と拙いシリーズを始めましたが、「枯れ木も花の賑わい」になれたのでしょうか。根気よく愛読していただいた方々には感謝申し上げます。
「誠ニ、艫舵【ともかじ】ナキ船ノ大海ニ乗リ出セシガ如ク、茫洋トシテ寄ルベキカタナク、タダアキレニアキレテイタルマデナリ・・・」翻訳に取り掛かった直後の二人の心境をこう記しています。玄白が『蘭学事始』で「一滴の油は、これを広い池の水に落とすと、云々」と述べたくだりは、このときの心境を思い出したためではないでしょうか。
平成22年10月吉日 |
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木村流 『蘭学事始』 読後感想 | |
<投稿者> 永井 藤樹 2010年11月16日 |
私は、ここで東京をあえて江戸と呼びたい。木村さんは、江戸は神田の生まれ、江戸をこよなく愛し、江戸文化に深い造詣と愛着を持っておられます。その木村さんが、自分の名を冠した『蘭学事始』を著述されたことは、杉田玄白の『蘭学事始』とは異なる木村さんオリジナルの『蘭学事始』を著したものと理解します。玄白が執筆した『蘭学事始』の現代語訳を詳細に読み込まれ、丁寧で克明な多くの注釈を加えられた上、関係資料を多数添えられて、木村さんご自身の見解を時代背景をも踏まえて的確に解説されており、『蘭学事始』を現代の我々に身近なものにしてくれています。これは木村さんが心血を注がれて著された論文で、出版され世に問うても少しも遜色のない著述と考えます。 私がこの書で最も感動を覚えるところは、第19回の明和八年三月五日、良沢の宅へ集まり『ターヘル・アナトミア』を前にして述べられている場面です。彼らはオランダの書物を日本語に翻訳しようと意欲を燃やしたのですが、当時とすればそれは無謀という外ないことでした。日本が唯一西洋に向かって開いていた「窓」である長崎出島でのオランダ貿易には、当然オランダ通詞が関わっていたわけですが、日常的にオランダ人に接する彼らですらオランダ語を耳で聞き、発音をカタカナで書き取って口まねで会話を会得するだけで、オランダ文字を読んだり、書いたりすることは出来なかったのですから、オランダ語に接する機会がごく稀で、適切な辞書を持たない良沢らが翻訳しようとするのは無謀の極みと言わざるを得ません。しかも長崎でなく、江戸で行なおうというのです。年齢的にも良沢49歳、玄白39歳と、若い中川淳庵(木村流『蘭学事始』第13回、14回注6、20回三人会合図、23回)ですら33歳の時でした。この感動の場面は、この書の価値を発見した福沢諭吉の言葉を借りて語るのが最もふさわしく思いますので、そのまま引用します。 「・・・書中の記事は字々皆辛苦。就中明和八年(1771)三月五日蘭化(前野良沢)先生の宅にて始めてターフルアナトミアの書に打向ひ、艪舵なき船の大海に乗出せした如く茫洋として寄る可なく唯あきれにあきれて居たるまでなり云々の一段に至りては、我々は之を読む毎に先人の苦心を察し、其の剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極りて泣かざるはなり」と述べています。この感動が福沢をして、この書を発刊させる動機になりました。 また、この書の発見の経緯に私は大いに感興を覚えます。『事始』の原稿が玄白の子孫の家に秘蔵されていたものの、安政二年(1855)に江戸を襲った大震火災によって消滅してしまいます。ところが幕末に開成所頭取神田孝平が本郷の聖堂裏を散策中、露店にひどく古びた写本を見つけ調べたところ、これは玄白が門人の大槻玄沢(磐水)に贈った自筆の写本であることが分かりました。この古写本が福沢の手に渡り、その価値が見出されて、明治二年(1869)に出版され、『蘭学事始』が広く世に知られるようになりました。
『蘭学事始』は、ドイツはダンチッヒ医科大学教授であったヨハン・アダム・クルムスが著した解剖医書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』がオランダ東インド会社の商船によって、はるばる日本へ舶載され、それを日本語に翻訳して『解体新書』と名付け、その訳業の経緯について杉田玄白が、いかにこの翻訳が苦難に満ちた難業であったかを書きとめた回想録です。『解体新書』は、日本で最初の本格的な洋書の翻訳でした。西洋の学術書を訳したという文化史的な見地から、高い評価をもつ書物と言えます。玄白は、オランダ医書の翻訳こそ西洋医学を理解する基本であり、医学界の革命的壮挙になると思ったのです。 昨年亡くなられた作家吉村昭氏の数多くの長編小説の中に『冬の鷹』があります。前野良沢(木村流『蘭学事始』第6、8,11,14回注1、16,19、20回三人会合図、23回)を主人公にした小説です。この小説は勿論フィクションではありますが、私はこの作家ほど史料の収集・発掘に情熱を注ぎ、精緻な考証をされる作家を知りません。あくまでも史料の記述に忠実に、そして史実と史実の隙間を埋める記述にも、実証的に物語る姿勢を崩さない作家であり「吉村作品は史実そのままではないのか」と言われるほどです。作者は『冬の鷹』の執筆にあたって、数多くの文献を参照され、オランダ通詞の研究で知られた片桐一男教授の著された『杉田玄白』(吉川弘文館)を重要な参考文献にされています。この書の中には文語文による『蘭学事始』の記述が散りばめられていて、木村流『解体新書』の読後感を補足する意味で『冬の鷹』の内容を要約して述べたいと思います。 『冬の鷹』は、良沢が玄白を誘って、オランダ商館長一行と共に江戸に出てきた長崎の大通詞西善三郎(木村流『蘭学事始』第4回注2、8回)を尋ね、西からオランダ語の習得がいかに困難で労多く、無謀な試みであるか諌められる場面から始まります。玄白は大通詞にまで上り詰めた西の言葉に真実を見、蘭語理解をあっさりとあきらめています。玄白は江戸に居てオランダ語習得は無理であることを、いち早く理解する合理的精神の持ち主でした。一方良沢は西の言葉に納得せず、「国異【こと】に言殊【こと】なるといへども、同じく人のなすところにしてなすべからざるところのものあらんや」と覚悟を決め、オランダ語研究に邁進します。良沢は語学に特別な才能の持ち主でした。私は玄白のオランダ語研究は良沢の翻訳を手助けする際、関わっただけで本格的な研究をしなかったと考えます。ですから『解体新書』発刊後は、オランダ語研究は門人大槻玄沢(木村流『蘭学事始』第28回、36回注1と肖像画、38回)に任せ、良沢の教えをうけることを勧めます。大槻玄沢も良沢と同じく語学に特別な才能の持ち主でした。玄白は人の才能や気質を的確に見抜く眼力を持っていた人物でした。それは『解体新書』の翻訳仲間に、平賀源内(木村流『蘭学事始』第12回、14回注7)を加えることを玄白が断固拒否している場面にも表れています。源内は才気煥発で特異な奇人ですが、軽佻浮薄な性格で学究の徒とは程遠い器用な男であるに過ぎず、翻訳という地道な事業に最も不向きの人物であり、必ずや仲間の結束を乱すに違いないと玄白は見抜いたのでした。 『解体新書』と言えば、ただちに杉田玄白の名前があげられます。それはこの本に訳者として玄白の名前が書かれているからです。しかし、『ターヘル・アナトミア』の真の訳者は、前野良沢であり、玄白は脇役的存在でした。良沢は乏しいながらもオランダ語の知識を長崎で習得していましたが、玄白はアルファベット(アベセ)すら知らなかったほどです。ですから玄白はこの翻訳事業の盟主とも師とも仰いだ良沢に最高の礼をもって『解体新書』の序文の執筆を懇願するのですが、良沢は訳者として自分の名前を記すことも、序文を書くことも堅く辞退しました。そのため玄白はやむなく、訳著の責任を表明する欄から良沢の名を省かざるを得ませんでした。玄白は良沢を通して、長崎の大通詞吉雄幸左衛門(木村流『蘭学事始』第4回注3、10,11回)に序文執筆を依頼します。こうして吉雄が書いた「解体新書を刻するの序」の中に、翻訳の中心人物は前野良沢であることが明記されることになります。吉雄と良沢とは、吉雄が良沢の長崎留学中の心中を忖度して『ターヘル・アナトミア』を斡旋した親密な間柄でした。 杉田玄白はこの翻訳を果たす上での、優れた統率者でした。『解体新書』は前野良沢なくしては完成しませんでしたが、それと同時に良沢のみでは、その訳業もなりませんでした。玄白は良沢が翻訳に打ち込む環境を整備し、挫けそうになる良沢を励まし、彼と心を一にして悩み苦しみました。玄白は明るい性格で、座持ちが上手であり、緊張の連続である訳業に疲れ、重苦しさに押し潰されそうな雰囲気を、軽口を振り撒きながら巧みな話術でたちまち解きほぐします。彼は人を統率する非凡な才能に恵まれていました。現代流に言えば優れたプロジェクトマネージャーと言えます。 良沢と玄白では、この訳書に対する考え方がまったく違っていました。良沢は、医学よりも「オランダ語学」を目指していました。だから誤訳の多いこの本を出版することを潔しとしませんでした。学者として、この『解体新書』が医家の眼を開かせる大業だというなら、なお一層努力して完訳を世に問うべきで、このような稚拙な翻訳書を出版することを恥じとしたのです。一方玄白は、たとえ誤訳が多くても、この書が医学の進歩に役立ち、人々を病から救う上で有益であるのだから、少しでも早く出版すべきと考えました。
『解体新書』を出版する上で玄白がどれほど心をくだいたかはかりしれません。西洋の書物を翻訳・出版し、幕府から咎めを受けた『紅毛話』(木村流『蘭学事始』第7回)の例から、周到な措置を採ります。まず御奥に献上して幕府の意向を探り、次に有力な公卿たちに進献し、更に老中に進呈して嘉納されたことを確認し、発禁処分にならないことを確かめた上で世に出しています。同時にこの措置は、当時強い勢力を持っていた漢方医家たちとの確執を事前に回避することも目的にしていたのですが、はたせるかな賛同者は少なく、大方の漢方医の非難は激烈を極めました。玄白は虚弱な細躯をもって頑迷固陋な漢方医師の述べる空理・空論を論破して『新書』で得た知識と実物で確認した理論と実見の上に『解体新書』の正当性を浸透させていきます。私はここに玄白の用意周到な性格、洞察力や決断力、そして自分だけが責任を負い他に類を及ばさないよう配慮する責任感溢れる人格を見ます。 『解体新書』は、世間的には杉田玄白個人の訳業と見做され、玄白は富と名声を得、豊かで幸福な日々を送りました。将軍に拝謁する栄をうけ、遠方からも多くの医学生(漢方医)が彼の興こした天真楼塾に入門し、優れた蘭方医に育って行きます。玄白の関心事は蘭方医家としての成功と門人の育成でした。玄白は優れた教育者でもありました。 良沢は『解体新書』の翻訳が完成した後、仲間との交友も避け、門人を取ることもせず、ひたすらオランダ語研究に没頭します。しかも彼の完璧主義から訳書の出版も固く拒み、冨はもちろん名声を得ることもなく赤貧洗うが如き日々を過ごさざるを得ませんでした。その上家庭的にも不幸で、最愛の長女、妻、将来を嘱望されていた長男を相次いで亡くしています。ただ一人心を許した友、高山彦九郎の自刃は彼に深い悲しみを与えたに違いありません。晩年は借家を転々として、自炊しながらの生活でした。見るに見かねて、今はただ一人残った次女が嫁ぎ先に引き取り、そこで孤高のうちに亡くなっています。良沢の不幸は彼自身がもたらしたもので、彼はそれを"良し"としていたのだと思います。人として決して賢明な生き方ではありません。必要以上に世俗的なものから遠ざかり、自己を律することに厳しく、他者に対しても峻烈で、自分の殻に閉じこもって生きてきました。それ以外の生き方を望みもしなかったし、出来もしなかったと思います。しかし、そこに私は彼の強靭な精神を感じます。 名声や冨と無縁で、一老書生として学の進むことをひたすら願った良沢とは対照的に、玄白の人生は華やかで家庭人としても恵まれ、江戸一番の蘭方医として莫大な年収を日記に書きとめています。これは彼の優れた医院経営の才能の結果がもたらしたものです。如才ない彼は社交にもたけ多くの友人・門人・家族に囲まれ、なに不自由のない晩年を過ごしました。これは彼の豊かな才能や人柄の結果であり、当然享受してよい冨と栄誉でした。 私は良沢が50に近い年齢に達していながら長崎留学を決意して、次のように述べたことに感銘を受けました。「学業は年齢に関係なく勤めるべきもので、死の迫った年齢であるからこそ、学業に励まなければならない。一介の藩医として生涯を終わるよりは心を奮い立たせて、余生をオランダ語研究に捧げる方が人間としてこの世に生れ出た甲斐がある」と述べています。生涯学習につながる言葉だと思います。
良沢は享和三年(1803)十月十七日に81歳で没しました。玄白のその日の日記にはただ「前野良沢死」という文字だけが記されているそうです。玄白と良沢の家とは1キロも離れていませんでした。風の便りに両者それぞれの噂は聞き及んでいたと思います。玄白は通夜にも葬儀にも出向いていません。玄白にとっては良沢がすでに遠い過去の存在になっていており、再び交際を持つ気はまったくなくしていたに違いありません。それは良沢の心許すわずかな人しか受け入れない偏狭な人間嫌いによる結果です。そうであっても私には、二人の『解体新書』への関わりを考えた時、そして他の人々に見せる玄白の如才ない好意を考える時、また玄白の男児出産を祝って、安産を祈る木を良沢が贈っている行為、彼の現在の満ち足りた境遇の原点を考えた時、良沢に対して何がしかの心配りがあっても良かったのではないかと感じます。 病弱・ひ弱な身躯であった玄白は文化十四年(1817)四月十七日、子弟・知友に見守られつつ85歳で不帰の客になりました。病弱なために40歳近くなるまで結婚をためらった玄白にとってこれほどの長寿は自身、予想もしていなかったに違いありません。通夜につぐ葬儀には多くの門下生が詰めかけ、藩の重臣が参列し、大蘭方医家であった玄白の死に相応しい葬儀が執り行われ、芝の天徳寺栄閑院に葬られました。 木村さんが修士論文を江戸期の『寛保沽券図』の解読・研究を志した背景には『蘭学事始』の「タダアキレニアキレテ・・・」の文章に触発されたと述懐されていることに、精神において木村さんは、前野良沢、杉田玄白をはじめ、彼らに続いた多くの蘭学者たちの一大山脈に連なっていると思いました。 |