タイトル
投稿日
「舞の能楽解説」第五話 能の作り物について 2008.1.30
「舞の能楽解説」第四話 能の種類について 2007.11.27
「舞の文楽・歌舞伎解説」松羽目物【まつばめもの】 2007.7.14
「舞の能楽解説」第三話 能面について 2007.7.14
「舞の能楽解説」第二話 能楽を演じる人々 2007.6.22
「舞の能楽解説」第一話 私って誰 2007.6.22
能楽堂の舞台と座席について 2007.4


「舞の能楽解説」第五話
 能の作り物について

 今回は、能舞台に登場する簡単なセット(「作り物」と呼びます。)についてお話したいと思います。能の舞台では文楽・歌舞伎やその他の演劇のように大道具というのがありません。大掛かりな舞台装置がない代わりに演じるほうも観客もちょっとしたものをそれに見立てて演じたり鑑賞したりするお約束になっているのです。例えば《船弁慶》で使用する船、《隅田川》で子方(梅若)が入っている塚や《井筒》で使う井戸などが代表例でしょう。
 「作り物」で大掛かりなものといえば、やはり《道成寺》に使う鐘でしょうか、前場の最後に前シテが鐘に飛び込み中入りとなります、その鐘の中で装束【しょうぞく】・面【おもて】を一人で替え後シテ(蛇体の女)として登場するのです。
 「作り物」というのは演能の都度作るもので、すでに出来上がっている「小道具」とは区別されています。「小道具」の代表的なものとして「扇」があります「扇」はほとんどの演目に使用されます。その他「太刀」「長刀」「数珠」などはよく目にするでしょう。ちょっと特殊な「小道具」として「葛桶【かずらおけ】」があります、床机のように役者が座ったり、酒樽や蓋を大杯に見立てたりいろいろな使い方がされます。

 写真1の「船」は骨格だけを竹で作り白布(ボウジという木綿の布)を巻いただけの最もシンプルな「作り物」といって良いでしょう《船弁慶》や《竹生島【ちくぶじま】》に使われます。その他の作り物も同様ですが写真のような「船」の基本形のみでなく、演目によってバリエーションを付けます、例えば《俊寛》では纜【ともづな】をつけ、《江口》や《住吉詣》などでは上に屋形をつけた「御所船」にする。

写真1 船

 写真2の「車」は《熊野【ゆや】》などの「物見車」です、牛車(牛車ですがもちろん牛は出ません。)を簡素化したもので、竹で骨格だけを作り色入りの布を巻いてあります。これに花を付け「花見車」として使用することもあります。そのほか「土車」・「汐汲車」・「椅子車」などがあります。

写真2 車

 写真3の「立木台」は樹木を舞台に出すときに支える台で、角台と丸台があります。(流儀によって使用するものが違う、観世流と宝生流は角台が多い。)写真は《羽衣》で使用する松です。立木が曲によってかわってきます例えば《胡蝶》の梅・《綾鼓【あやのつづみ】》の桂などがあります。
 《羽衣》では立木に羽衣(長絹や舞衣)を掛けるのですが、立木台を使わず一の松あたりの勾欄(橋掛りの欄干)に掛ける演出もあります。

写真3 立木台

 写真4は、《邯鄲【かんたん】》などに使われる「一畳台」です。(写真は舞台上で一畳台の上に四本の柱と屋根を組み立てる「引立大宮」(「大屋台」とも)です。)
 「一畳台」は文字通り一畳の大きさの木組みの台です。《石橋【しゃっきょう】》では紅白の牡丹の立木を挿して唐の清涼山【しょうりょうせん】の石橋にしたり、《小鍛冶【こかじ】》では注連縄を張り鍛冶場として使用したりします。

写真4 一畳台

 写真5は、《半蔀【はじとみ】》専用の作り物で、「藁屋」という質素な住まいを表す作り物の一種です。夕顔の花と蔦がからまり、瓢箪もつきます。

写真5 半蔀

 これらの「作り物」は、昔は「作り物師」という専門の役でしたが、現在は第二話でもご紹介したとおり「シテ方」の能楽師よって作られています。
 今回は「作り物」のほんの一例を紹介しました。いかがでしょうか、今後の能の鑑賞にあたって参考になれば幸いです。

 (今回紹介させて頂いた「作り物」の写真は、社団法人能楽協会のホームページに掲載されている写真の転載許諾を頂き掲載しております。) 

 では、またお会いしましょう。


「舞の能楽解説」第四話
 能の種類について

 皆さんお元気ですか?大変ご無沙汰しておりました、「神奈川放友会」の公羽【こうう】【まい】で〜す。
 能の演じ方で「《翁》付き五番立て」という形態がありますが、ご存知ですか?
 ごく稀に行われる正式な演能会(能楽協会の式能など)で催され、演じられる順に「初番目物」から「五番目物」まであります。(<神・男・女・狂・鬼>などと省略して呼ばれることもあります。)
 江戸時代の幕府や大名家で行われていた能会において一日の番組構成を考慮したバランスの良い配置と考えられ行われていました。(能楽は徳川幕府の式楽でした。)

「初番目物」
「脇能物」「神能」とも呼ばれ、《高砂》・《老松》・《養老》・《竹生島【ちくぶしま】》・《白楽天》などの曲があり、神が主人公で「国家安寧」「五穀豊穣」を祝福したり、寺社の縁起が主題となっています。

「二番目物」
「修羅物」とも呼ばれ、《屋(八)島》・《田村》・《敦盛》・《頼政》・《巴》など武将が主人公で修羅道へ落ちた苦しみを描いた作品が多い、大半の曲が「夢幻能」です。
 世阿弥は「修羅能」(世阿弥は「軍体の能」と呼んでいました。)を作る時の心構えとして、源平の武将を主人公として作曲する場合は平家物語のとおり作るのが好ましいと、書いています。(以下、引用)

 軍体の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のまゝに書くべし。(世阿弥『三道』)

「三番目物」
「鬘物【かずらもの】」とも呼ばれ、《井筒》・《松風》・《野宮【ののみや】》・《熊野【ゆや】》・《姨捨【おばすて】》など優美な女性は主人公となる曲です。《羽衣》のように天女が主人公の有名な曲もありますね。称名寺にゆかりのある曲《六浦【むつら】》も「鬘物」です、この《六浦》や《遊行柳》・《芭蕉【ばしょう】》・《杜若【かきつばた】》のように植物の精がシテとなる作品も多いですね。

「四番目物」
「雑物【ぞうもの】」とも呼ばれ、平成19年6月の「旅に行こう会」で皆さんが行かれた「木母寺【もくぼじ】」に由来する《隅田川》や《道成寺》・《葵上【あおいのうえ】》・《砧【きぬた】》・《邯鄲【かんたん】》・《安宅【あたか】》など狂乱物・現在物・遊舞物・幽霊物など種々の曲を含んでいて、劇的要素に富んだ曲がたくさんあります。

「五番目物」
「切能物」とも呼ばれ最後に演じられる曲です。《鞍馬天狗》・《紅葉狩》・《春日龍神》・《船弁慶》・《海人【あま】》・《石橋【しゃっきょう】》・《猩々【しょうじょう】》など速いテンポの曲が多く、天狗・鬼・竜神・幽霊・畜類などが主人公です。また、《石橋》や《猩々》などは「祝言物」と呼ばれています。

 能の間に狂言が入りますので、「《翁》付き五番立て」を現在のスピードで演じたら10時間から12時間もかかってしまい、一日で観るのは大変ですよね。
 戦国武将は能好きな人が多いのですが、豊臣秀吉も能が大好きで、《明智討》・《吉野詣》などという自らの業績を能に作らせ自分でシテを演じました。(秀吉は一日に三・四番演じていたようです。)横浜能楽堂の企画公演で「秀吉の見た能」というプロジェクトが平成14年11月に行われて、その模様は放送大学の特別講義で放映されていました。当時の能は演じられた時間が短かった(現行演じられている時間の6〜7割程度だった)ようです、そうでないと「《翁》付き五番立て」を日常的に催すことなんて出来ないですよね。

 では、またお会いしましょう。  (*δ。δ)


「舞の文楽・歌舞伎解説」
 松羽目物【まつばめもの】

 こんにちは、「神奈川放友会」の公羽【こうう】【まい】で〜す。
 平成19年9月の歌舞伎座公演(秀山祭九月大歌舞伎)の「夜の部」で演じられる《身替座禅【みがわりざぜん】》は、狂言の《花子【はなご】》を下敷きにして「岡村柿紅【おかむらしこう】」が作詞・作曲し明治43年に東京市村座で初演された劇です。
 この《身替座禅》の舞台の正面奥には、能舞台の「鏡板」を模した松の描かれた板を大道具として使用します。下手(舞台の向かって左側)には「五色の揚幕」、上手(同右側)には「臆病口【おくびょうぐち】」という小さな引き戸が作られます。このような能舞台をまねた舞台を「松羽目【まつばめ】」といいます、演目としては、《勧進帳》(能の《安宅》が原作)、《船弁慶》(同《船弁慶》)、《釣女》(同狂言《釣針》)、《茶壷》(同狂言《茶壷》)、などがありこの演目のことを「松羽目物【まつばめもの】」といいます。

 《勧進帳》はまだ能楽(当時は猿楽と呼ばれていました。)が幕府の式楽であった時代に作られましたが、そのほかは明治時代以降にたくさん作られました。それに貢献したのが狂言の「鷺流」です。『能楽解説』の「第二話」で紹介したとおり現行の狂言方の流儀は「大蔵流」と「和泉流」の二流ですが、大正時代までは「鷺流」という流儀がありました。能楽界は明治初期、武家の保護がなくなり大変に困窮しました、「鷺流」はその対策として歌舞伎界との一体化(吾妻能狂言:能と歌舞伎の折衷演劇)を画策しました、しかしそれに失敗すると今度は復興した能楽界から排除されることとなり、大正年間に廃絶していました。現在は山口や佐渡で流儀を継承する人々により演じられ続けています。

 前記の「岡村柿紅」も「鷺流」に通じていました。「松羽目物」が数多く作られ、またその演出に影響を与えたことは、歌舞伎界の繁栄に「鷺流」が貢献したことのあかしではないかと思います。

 私は「文楽・歌舞伎」も大好きなので、こちらの解説もしていきたいと思っています。よろしくお願いします。
 では、またお会いしましょう。  (*δ。δ)


「舞の能楽解説」第三話
 能面について

 こんにちは、「神奈川放友会」の公羽【こうう】【まい】で〜す。(私のことを知らない人は、第一話から読んでくださいね。)
 前回もお話したように、私は能役者の家に生まれましたから、物心がついた時には舞台にあがっていました。でもたった一つ演じられないし、楽屋にすら入れない演目があるんです。それは《翁》なの、《翁》を演じる役者は別火をする(皆がそれを実行しているかはわからないのですが…)別火というのは家族の中においても、女性の食べるものと同じ火で作ったものを食べない…ということです。つまり女性の作ったものは口にしない、世話にならない、まったく女っ気を排除するということなんです。神事芸能時代の名残りでしょうか?
 京都の「祇園祭」でも同様のことが行われているのです。
 祇園祭のハイライト「山鉾巡行」で必ず先頭を進む、「長刀鉾【なぎなたぼこ】」は唯一稚児が乗りますが、この稚児も神の使いとなる「社参」から「山鉾巡行」までの5日間は女性の作った食べ物は口にしないのです。(ちなみに他の山鉾は稚児の人形が飾られていますし、巡行順はくじ引で決められます。(くじ取り式:「長刀鉾」他7つの山鉾(初めから順番の決められているこれら8つの鉾を「くじ取らず」といいます。)以外はでこれで決められた順番です。)
 祇園祭と能の関連性については大変興味深いので、いつかあらためて詳しく取り上げてお話したいと思っています。

 「公羽家」には平安時代の作と伝えられる「翁面」(白式尉)があります、「弥勒」という名人の作です。舞台ではつけられませんが、親にも内緒で稽古場においてつけてみるとあっと驚くことが起きたのです。その話はおいおい別な場所でお話したいと思います。(放友会月例会の後で「玄や」あたりが良いかな?)
 「翁面」は舞台の上で観客が観ているところでつけますが、その演出自体大変珍しいことですよね、一般的には面は「鏡の間」でつけます。「鏡の間」で面をつけることによって自分がこれから演じる役に成りきる。能役者にとっては異次元の役柄に変身するための道具といっても過言ではないでしょう。

 「面【おもて】」の素材は稀に桐や楠を用いることがありますが、加工がし易いこともあって現在では檜が多く使われています。面を製作することを「面を打つ」といい、決して彫るとはいいません。面を「かぶる」とはいわず、「つける」あるいは「かける」というのと何処か通じるものがあります。そのくらい能楽師にとっては大切な道具といえるでしょう。
 世阿弥が能を大成させた頃には、既に名工がいて数多くの面が作られていました。『申楽談義』には、「日光」や「弥勒」は「翁面」の名工、近江の「赤鶴【しゃくつる】」は「鬼の面の上手なり」同じく近江の「愛知【えち】」は「女の面の上手なり」などの記述があります。

<写真1> 般若
 「面」を分類する方法はいろいろあると思いますが、能楽協会HPの分類では、「老体」・「女体」・「男体」、異相の三体(「老体」・「女体」・「男体」)、畜類、仏体、翁面、狂言面の10分類に分けて解説しています。
 異相の面の代表は、皆さんもよくご存知の「般若【はんにゃ】<写真1>でしょう、激しい怒りと強い悲しみが混在する面です。
 狂言面の中には「猿」や「狐」といった動物の面などがあり、能面より自由な発想で狂言面が作られていたこと感じられます。
 面の種類は数え方によって250ほど種類があるといわれています。その中でも、能面の美を最大に誇るのが「女体」(老若さまざまな「女面」。)です。先の「般若」とともに最も有名で完成された面の一つです。
 「小面【こおもて】<写真2,3>、から「増女【ぞうおんな】<写真4>」、「深井」、「老女」などと、女性の年齢ごとに変化する美を描写・表現しているのが女面です。
 男性の面としては、貴族的な表情をたたえた「中将」<写真5>、禅宗における半僧半俗の「喝食【かっしき】<写真6>、精悍な表情の「平太【へいた】」などがあります。
 老体の面は、男性の老人(「尉【じょう】<写真7>といいます)の面で《高砂》や《老松》など神の化身として現れる役柄などに使用されます。
<写真2> 小面-1
<写真3> 小面-2
<写真4> 増女
<写真5> 中将
<写真6> 喝食
<写真7> 尉

 「翁面」については、「翁」がつける「白式尉【はくしきじょう】」や「三番叟」が「鈴の段」でつける「黒式尉【こくしきじょう】」(狂言面に分類される)などがあり、舞台上でつけるという特徴とともに形状の特徴として、顔と顎のパーツが別々で頬と顎が紐で結ばれている「切顎式」と呼ばれるとなっています。他の能面より古い様式を伝えるものといわれています。「翁面」をご神体とする神社も少なくありません。

 いかがだったでしょうか「能面」について理解できたでしょうか? 
 次回は「曲の種類」のことについてお話しましょうか・・・などと思っていますが。単位認定試験も近いことですし…いつになることやら?
 では、またお会いしましょう。  (*δ。δ)

(今回は能面の写真を、京都市在住の能面師 中村光江氏のホームページから転載させていただきました。中村さんには、我々神奈川放友会のHPに快く写真の掲載を承諾していただき大変感謝しております。)


「舞の能楽解説」第二話
 能楽を演じる人々

 m(*^_^*)m  こんにちは、「神奈川放友会」の公羽【こうう】【まい】で〜す。(私のことを知らない人は 第一話を読んでくださいね。)
 私は能役者の家に生まれましたから、物心がついた時には舞台にあがっていました。子供が能を演じる場合、その役および演じる役者のことを「子方」と呼びます。私の場合は、《鞍馬天狗》の花見の稚児という役(があるのですが、この役は本当に小さな子方が大勢橋掛りに手をつないで出てくるだけで、時間も短いことから初舞台として出演するケースが多い役柄)で三歳の時に初舞台を踏みました。「子方」(《船弁慶》の義経、《鞍馬天狗》の牛若丸、《隅田川》の梅若丸、《烏帽子折》の牛若丸など。:《烏帽子折》の牛若丸は子方の卒業式といわれています。)を何回か演じ、十三歳の時に《猩々【しょうじょう】》で初シテを演じました。その後、《石橋【しゃっきょう】》、《猩々乱》、《道成寺》を披き(修行の成果を披露し、一定の技量を持つことを周囲に認めてもらうために初めての演じる舞台のことを「披き【ひらき】」と呼びます。)現在に至っています。
 能では主役のことを「シテ」と呼びますが、「シテ」を務める家系ですから「公羽家」は『シテ方』です。
 それでは、ここで『シテ方』を始めとする、能の各役の説明をしましょう。

 主役を「シテ」と呼ぶことは既にお話しましたよね、『シテ方』はそれ以外に「ツレ」、「後見」(舞台の進行管理役)、「地謡」(謡曲のコーラス隊)、作り物の製作、揚幕(鏡の間と橋掛かりの間にかかる五色の幕)の操作、装束の着付けなどを担当します。能役者の中で一番人数も多く、能公演のオールラウンドプレーヤーと言ってもいいでしょう。先の「子方」もシテ方の役者です。現在『シテ方』としてはシテ五流といわれる次の流儀があります。<観世流・金春流・宝生流・金剛流・喜多流>
 次に『ワキ方』です。「ワキ」は能の冒頭で登場し、旅の僧や勅使などの役柄で「シテ」の呼び出し役や場面や情景を語る役を担当します。必ず現実の男という設定で能面はつけません。<高安流・福王流・宝生流>
 次の役は『囃子方【はやしかた】』です。『囃子方』は能の楽団です、笛・小鼓・大鼓・太鼓の四種の楽器で構成されます。太鼓は曲によっては用いられないこともある(これを「大小物」といい、太鼓が入る場合を「太鼓物」と呼びます)。
 楽器ごとの専門職で「笛方」・「小鼓方」・「大鼓方」・「太鼓方」と呼ばれてそれぞれに流儀があります。<流儀名省略>
 最後に『狂言方』です。『狂言方』は能と能の間に演じられる狂言の単独舞台はもちろん、能の曲目においても重要な役割があります。「夢幻能」の前場と後場とをつなぐ役で所の者とか寺男などとして登場し、関連する物語や情景を語り解説する(間狂言【あいきょうげん】という)役目です(《八島》の、「奈須与市語」などが有名ですよね)。また《翁》では「三番叟」(大蔵流では「三番三」)という神の役を務めます(狂言でも「三番叟」や《釣狐》《花子》などを初めて演じることを「披く」といいます、《釣狐》を披くのに関しては一定の修業が終ったという証であり、初舞台を《うつぼ猿》で踏みますから(修業の始まり)、修業の過程を「猿に始まり狐に終る」と言い表します<和泉流のみ>。:大昔インスタントコーヒーのCM(違いがわかる男のネ○カフェ・ゴール○ブ○○ド)に野村万作師が出演された時に使われたフレーズらしいですね・・・私が生まれる2年前のことらしいです。)。ちなみに、『狂言方』では主役の「シテ」に対して相手役のことを「アド」と呼びます。<和泉流・大蔵流>

 『ワキ方』の解説のところで、面【おもて】をつけないで演じることをお話しましたが、能の世界では面をつけないで演じることを直面【ひためん】といいます。「子方」はほとんど直面で演じます(「世阿弥」のいうところの「時分の花」を効果的に表現するための演出でしょうか?)、「シテ」でも役柄によっては直面で演じられることがあります。直面といえば、めずらしい曲がありますので紹介しておきましょう。私も好きな曲なのですが《鷺》という曲のシテは少年(しかも能の家の嫡男に限られているらしい)か、還暦を過ぎた老年の人が直面で演じることが常で、何かの都合で壮年の人が務めることとなった場合には面をつけて演じます。<ちょっと次回の予告編となりました。>

 いかがだったでしょうか能を演じる人々のことが多少なりとも理解できましたぁ?
 次回は「能面」のことについてお話しましょうか・・・
 では、またお会いしましょう。  (*^_^*)/ ̄


「舞の能楽解説」第一話
 私って誰

m(*^_^*)m  はじめまして、私の名は公羽【こうう】【まい】
28歳(昭和54(1979)年3月23日生まれ)の乙女…?
 放送大学教養学部全科履修生(「人間の探究」専攻)、神奈川学習センターに所属していて「神奈川放友会」っていうとっても素晴らしいサークルに入っています。
 私は代々続く能役者の家「公羽家」の一人娘、「公羽家」は二十七代遡ると「世阿弥」にたどり着きます。(「世阿弥」の子孫ってことですか?……ちょっと無理のある設定かもね。)
 「世阿弥」って誰 ?  ですってぇ!   それでは解説しましょう。

 「世阿弥」(「観世三郎元清」)は時の将軍「足利義満(室町幕府3代将軍)」に賞玩された能役者(藤若と呼ばれた稚児時代は、教養に溢れ男も惚れるアイドル的な存在)で、室町時代のとっても有名な人。お父さんは「観阿弥」(「観世清次」この人もとっても有名な人です)(「世阿弥」と「足利義満」が初めて会ったのは「世阿弥」が12歳の時、「足利義満」が17歳くらい、そして「観阿弥」は42歳の働き盛りでした、「観阿弥」・「世阿弥」親子二人の演じた能に義満が魅了されたのでした。)。今演じられている能の原形(当時は「猿楽」・「猿楽の能」などと呼ばれていました、「世阿弥」は「申楽」という字も用いました。)といっても良い芸能を大成させた役者であり、それらの劇の脚本・作詞・作曲を一手に担った人で、舞台監督でもあり、劇団の経営者でもあったスーパーマンです。
 しかし晩年は、後の将軍(「足利義教(室町幕府6代将軍)」)から弾圧をうけ、子供(長男の十郎元雅:作品紹介の能「隅田川」参照)に先立たれ、佐渡島に島流しにあったりして波乱に富んだ人生でした。
 また、『風姿花伝』、『花鏡』、『至花道』、『二曲三体人形図』、『三道』、等々伝書をたくさん記し、「初心忘るべからず」「秘すれば花」「離見の見」など有名な言葉を残したことでも知られています。(参考までに『申楽談義』(正式には『世子六十以後申楽談義』)は次男の元能が世阿弥の芸談を筆録したものです。)
 数多くの能作品を残していますが、『平家物語』から題材を得た《八島》《鵺【ぬえ】》《頼政》《忠度》、『伊勢物語』《井筒》、『源氏物語』《葵上》その他《高砂》《融》《砧》《西行桜》《恋重荷》などが代表作でしょうか。現代でも数多く演じられている幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を確立させたといわれています。
 「夢幻能」はワキが見る夢や幻という設定(「複式夢幻能」では前場【まえば】では土地の老人や老婆などの仮の姿で登場し、後場【のちば】で亡霊・神・精霊などの本体を表す。)がその名の由来です。⇔「現在能」
 前場で演じるシテを「前シテ」、中入り後、後場で演じるシテを「後シテ」といいます。《船弁慶》前シテ:静御前・後シテ:平知盛の霊、《烏帽子折》前シテ:烏帽子屋の主人・後シテ:熊坂長範、のように前後のシテが全く別な役柄、また逆に《鍾馗【しょうき】》のように前後のシテともに鍾馗という設定もあります。

 私の苗字、公羽を縦書きにすると「翁」になります、誰かとぼけた先祖が名付けたのか、高貴な人に授かったのか知りませんが変な名前ですよね。でも本当はとっても由緒正しいのかな?とも思っています、何といっても「観阿弥」・「世阿弥」親子が活躍した当事の能劇団(「座」という:(※)大和猿楽四座)は《翁猿楽》という芸能(半分神事芸能ですが。)をとっても重要だと考えていたし、生活の糧でもあったと伝えられていますから、「翁」・「翁面」に対する信仰・執着は大変強いものがあったのだと思います。

(※)大和猿楽四座:『風姿花伝』にも記述されていますが、「円満井座【えんまいざ】」・「結崎座【ゆうざきざ】」・「坂戸座【さかとざ】」・「外山座【とびざ】」の4つの座で多武峰【とうのみね】・春日興福寺などの寺社に参勤する義務を負い《翁猿楽》を演じていた。後の「金春座」・「観世座」・「宝生座」・「金剛座」の母体であったといわれています。「観阿弥」は「結崎座」に所属する太夫で「観世太夫」を名乗っていました。その後「世阿弥」が「観世太夫」を継ぎます。

 いかがだったでしょうか私のことやご先祖さまの「世阿弥」のことを多少なりとも理解していただけましたぁ?
 次回は「能楽を演じる人々」についてのお話しをします。
 では、またお会いしましょう。 (*^_^*)/ ̄


 能楽堂の舞台と座席について

 能楽堂の観客席のことを見所【けんしょ】といいます、舞台の上には屋根がありますがこれは昔の能舞台が屋外にあった名残です。その頃の絵画資料などを見ると後ろにも観客がいて360度全ての方向から見られていた事が伺えます。

 現在のような能楽堂になったのは明治以降のことで、座席は舞台に対して約90度の角度で配置しています。

 公演情報のチケット代の欄に、正面中正面と書いたように場所により席の名前がつけられています(下図参照)

 全部の席名に全て正面という名称がついていますので紛らわしいのですが、正面:鏡板(舞台奥に老松が描かれた板)に向かって正面、脇正面:舞台から見て右側・地謡と対面、中正面:正面と脇正面の間となります。

能舞台は三間四方の飾り気のない空間ですが、そこで場所を超え・時を超え、生と死・聖と俗・男と女の狭間を表象するのです、それが能役者の卓越した技といえるでしょう。

<左図解説>

 4本の柱をはじめ舞台上の場所には名前が付けられている。例えば中正面側の柱は目付柱【めつけばしら】と呼ばれ、面【おもて】をつけた役者は視界が良くないのでその柱を目印に演技をすることからその名がある。

 そのような用語解説や役柄の解説など定期的に掲載して行こうと思っています。