タイトル 投稿者 投稿日
『食べアルキ帳』第8回〜「浅草麦とろ本店」ほか浅草散策の巻〜 木村 勝紀 2017.1.12
『食べアルキ帳』第7回〜江戸獣肉食事情の研究と両国界隈の歴史散策〜 (1) (2)  木村 勝紀 2016.1.21
『食べアルキ帳』第6回〜築地・月島・佃島物語〜 (1) (2) (3) 木村 勝紀 2016.1.21
『食べアルキ帳』第5回〜根岸グルメ散歩〜 (1) (2) 木村 勝紀 2013.1.12
『食べアルキ帳』第4回〜銀座・日本橋食べ歩き〜 (1) (2) 木村 勝紀 2011.12.17
『姫路の一日 B級グルメ』 永井 藤樹 2011.2.4
『食べアルキ帳』第3回〜年の瀬の墨堤散歩 (0) (1) (2) (3) 木村 勝紀 2011.1.15
‘甲府名物鳥もつ煮’―「縁をとりもつ」のキャッチフレーズに惹かれて 吉原 司郎 2010.11.18
佐原・小堀屋本店の「黒切蕎麦」 木村 勝紀 2010.6.22
『食べアルキ帳』第2回〜「食の文化センター」と「神田まつや」「竹むら」 木村 勝紀 2009.12.8
江戸庶民の朝食 木村 勝紀 2009.10.20
横浜中華街・梅蘭やきそば 木村 勝紀 2009.8.16
あんぱん・ものがたり 木村 勝紀 2009.3.4
2008年以前はこちら

『食べアルキ帳』第8回
〜「浅草麦とろ本店」ほか浅草散策の巻〜

木村勝紀
2017年1月12日

 第8回・食べアルキ帳は、平成28年12月3日(土)参加者14名で挙行しました。好天に恵まれ人数も比較的少数であったため、のんびりした気分で「食」と浅草の歴史探訪を楽しみました。
 「浅草麦とろ本店」での昼食を皮切りに、浅草東本願寺、雷門、仲見世、宝蔵門、観音堂、浅草神社、二天門、弁天山を経て「神谷バー」での打ち上げで幕を閉じました。途中、お好み焼きの「染太郎」、うなぎの「やっ古」、天ぷらの「葵丸進」、ダッチコーヒーの「アンジェラス」、てんぷらの「三定」など浅草の名店の在り場所に案内しました。
 また、浅草のお土産の名店「常盤堂雷おこし本舗」、芋羊羹の「舟和」、人形焼きの「木村屋本店」などにもご案内しました。心残りは、当初食することにしていた天丼の「大黒屋」は昼食後間もないことから、食することを敬遠しお店の在り場所をご案内するだけで、別の機会に譲ることにしたことです。尚、全国各県のアンテナショップの集まる「まるごとにっぽん」にも立ち寄り30分ほど楽しんで頂きました。
 最後の「神谷バー」では、定番のビールとデンキブランで祝杯を上げ、ほろ酔い加減の足取りで駅に向かいました。参加者の皆さまは、それぞれに楽しんで頂いたようです。お疲れ様でした。 以上

(食文化研究会 世話人 木村勝紀)  

 

浅草食べ歩き紀行


平成28年12月12日
永井 藤樹

   

 2016.12.3(土)。木村さんご案内の「食文化研究会食べ歩き」の日。

 京急横浜駅中央改札口集合10時、総勢14名。白い建物が陽光を反射して眩しく、雲一つない上天気。
青砥行き電車10:1Asakusa_MugitoroDokoro4発、先頭車両に乗る。乗換なしで都営地下鉄浅草線浅草駅に10:57着。A4出口を出る。

 右折すれば浅草寺雷門に至るが、左折して並木通りへ出る。Mugitoroさっそく“浅草むぎとろ”で、むぎとろを注文する。

 料理が出るまでの間にビールで乾杯し、咽喉を潤す。

 程無く、お盆に乗った料理が出された。

 蒸篭(せいろ)で蒸した麦ごはんを茶碗に受け、出し汁を加えたとろろをたっぷりと掛けて食す。いい味だ、うまい。赤味噌の味噌汁に厚焼き卵、それに香の物がつく。デザートにかりんとうと軟らかい生かりんとう(とろりんとうと云う)が出て、早速それをお土産に求めた人もいた。komagataDo

 このお店は駒形堂と並んで隅田川を背にして建っている。ここが浅草寺の観音さまが上陸した地である。早目に来たので待ち時間もなくお店に入れ、昼食は12:15に終わった。

 駒形堂の向かいにあるうなぎの“前川”へは、何年か前の「食べ歩き」で来た事を思い出した。

  “むぎとろ”と至近の並木通りにある“駒形どぜう”の、のれんを潜って覗くと満席。畳敷きの床に座って、きざみネギを山盛りにしたどぜう鍋を食したのはいつだったか。

 並木通りの一本隣の江戸通りに出て浅草通りとSkytree江戸通りの交差点から、青空を背景にスカイツリーが眼の前に表れる。

 浅草通りを上野方面に歩くと、沢山の仏具店が左側に並んでいる。太陽光が直接仏さまに当たらないよう、左側にあるのだそうだ。

 浅草通りのメトロ銀座線田原町駅を過ぎ、右折して東本願寺を参拝する。

 Okonomiyaki_Sometaro東本願寺の裏通りにお好み焼き”染太郎”ののれんが掛かっていて、いかにも老舗と言う感じがする。

 菊水通りに出て、右折して国際通りに戻り、雷門通りとの交差点の田原町交番向かいの“八ツ目うなぎ”と寛政年間創業のうUnagiya_Yakkoなぎ屋“やっ古”。むぎとろで満腹のため、お店を見るだけでやり過ごす。

 雷門通りを進み左折して、すしや通りを進むと、右側に全国各県のアンテナ・ショップの集まる“まるごとにっぽん”が見えてくる。

 浅草六区に、昨年末オープンした商業施設である。買い物を兼ねて、ここで30分ほど見学。

 伝法院通りに出ると天丼で有名な“大黒家”の看板が見えたが、今日は見るだけ。Asakusa_koukaido_Tegata

 浅草公会堂脇の著名芸能人の手形を見ながらKissa_Angerasオレンジ通りを進み、角の“喫茶アンジェラス”で寛ごうとしたが、満席のため断念。梅ダッチコーヒーは次の機会に。

 浅草寺のシンボルである雷門に吊り下げられた大提灯の下をくぐり、門の裏側から平櫛田中の風神・雷神像を見上げる。

 師走のためばかりではないと思うが、仲見世通りはいつも喧噪を極めている。買い物もままならないが、それでも仲見世通り先端右奥にある“木村家本店”で人形焼きを求めた。。帰宅してレンジで10秒ほどチンすると、上品な甘さが口に広がった。

 仲見世通りが尽きると、堂々とした門構えの宝蔵門が見える。この門をくぐると正面が浅草寺本堂(観音堂)。右に弁Bentendou天堂、左に五重塔がそびえる。

 本堂前の群衆に混じってお線香の煙を浴び、浅草神社でも参拝して二天門から右折する。メトロ通りから続く観音通りを歩き、突き当ると雷門通りに出る。左折して”神谷バー“へ到着。Denki_Burasi

 ここは浅草一丁目一番一号という番地を持つ日本最初のバー。ビアホールスタイルの一階は満席のため二階へ。まずビール中ジョッキと電気ブラン。

 フライドポテト、サラダ、ウインナーなどのおつまみ多数。ブランは、アルコール度が高いのでビールと交互に飲むのだそうである。電気ブランを飲み終わり、更に度数の高い電気ブランオールド(40度)を飲み、その上に電気ブランのお代わりをした猛者もいる。酔っぱらって、地下鉄の階段を転げ落ちなければいいが。放友会にはその実績があるのだから。Yabusoba

Namiki_Yabusoba

 酔いも廻り、お腹も満腹、談笑が続いていつの間にか夜の帳が深まった。しかし、お腹はできたが、蕎麦は別腹。江戸前ソバの原点”並木藪蕎麦“でお腹はさらに膨れた。

 今日の「食べ歩き」にみんな満足して、丁寧な木村さんのご案内に感謝しつつ、今朝来た浅草駅から横浜へと帰路に就いた。

         以上      

 

 


『食べアルキ帳』第7回
〜江戸獣肉食事情の研究と両国界隈の歴史散策〜

木村勝紀
2016年1月21日

 食食文化研究会『食べ歩き帳』シリーズ第7回は、平成27年12月19日(土)「江戸獣肉食事情の研究と両国界隈の歴史散策」と銘打って企画し、26名の参加を得て実施しました。享保三年(1718)創業の歴史を誇る両国の山くじら・すき焼き【もゝんじや】で猪鍋のすき焼きと鹿肉の刺身に舌鼓を打ち、江戸の獣肉食の醍醐味を実感しました。
両国界隈には、江戸時代最大の災厄、明暦三年(1657)の大火(振袖火事)に所縁の場所が多くあります。両国橋、回向院、柳橋(橋)、浅草橋(橋)、浅草橋御門跡、柳原土手などです。
散策を終えて銀座に立ち寄り、あんぱんで有名な「木村家」でお土産を、甘党は「資生堂パーラー」で、辛党は「銀座・サッポロ・ライオン」で三々五々打ち上げを行い散会となりました。当日は、寒風が吹く師走らしい日柄でしたが、快晴に恵まれ、参加者のご協力もあって楽しい一日となりました。
それでは、以下に写真付の寄稿文をお寄せいただいた藤井輝さん、吉木靖治さんの寄稿文をご紹介いたします。

(食文化研究会 世話人 木村勝紀)  

 

食文化研究会、「食と両国界隈の探索」 (1)
 
藤井輝   2015.12.19

         

企画・解説:木村勝紀さん

行程:
10:00横浜駅集合 ⇒ 東日本橋
⇒ 両国橋 ⇒ 昼食「ももんじゃ」
⇒ 回向院 ⇒ 両国橋 ⇒ 柳橋
⇒ 浅草橋 ⇒ 東銀座 ⇒ 懇親会
「銀座LION」 ⇒ 横浜

   
             
         
       
両 国 橋
 
老舗  山くじら 「ももんじや」       
   
             
             
         
       


食文化研究会、「食と両国界隈の探索」 (2)

             
             
             
             
           
       

食文化研究会、「食と両国界隈の探索」 (3)

             
               
             
     

吉良邸跡

       
           
     

柳 橋

柳橋・屋形船(神田川)

     
 

食べ歩き帳(2015,12,19) イノシシ鍋と鹿肉刺身 

吉木靖治
 

放友会有志26人の食べ歩き帳。
ここは両国橋西側、この橋を渡り
イノシシ鍋を食べに行く。

 
       
  両国橋より隅田川下流を望む。晴天だが北風が吹き少し寒い日である。  
       
  創業400年のもゝんじや。猪肉、鹿肉、熊肉の料理を食べさせる。左側にまわるとショウケースに真っ黒なイノシシの剥製(皮?)が吊るされていた。少し不気味。  
       
  二階の広間に案内される。すでに四人に一つずつの鍋の用意が出来ている。  
       
  一人一皿。ヴォリウムたっぷりだが白い脂身が多いのに驚く。メタボの人間と違って野外で生きる猪は脂肪を蓄えておく必要があるのだろう。  
       
  野菜一人分(パンフレットの写真を拝借した)。実際には大皿に二人分が盛られていた。  
       
    猪肉はしっかりとした味でとても美味しかった。あえて言えば合鴨の味に似ている  
       
    鹿刺し。動物の刺身は経験がなく食べる勇気がなかったので鍋に入れて煮て食べた。口当たりは柔らかい。味は淡白な感じ。  
       
    もゝんじやでの食事の後、回向院へ廻った。回向院は明暦の大火(1657年)の犠牲者を弔うために創建され、その後、無縁仏の供養を行う寺として信仰を集めた。ここに、鼠小僧次郎吉の墓がある(左写真)。この墓石の欠片を財布に入れておくと金回りが良くなり病気が快癒すると伝えられており、今でも墓石を削る人が後を絶たない。  
       
    回向院から吉良邸跡へ廻った。旧吉良邸の一角が公園となって、みしるし洗い井戸、吉良上野介像(左写真)などが置かれている。吉良上野介は忠臣蔵では悪役だが、地元三河では様々な善政を敷いて名君として領民に慕われていたとのこと。  
       
    再び両国橋を西側に戻り神田川に掛かる柳橋を渡った。川縁を浅草橋方面へ歩くと浅草見附跡(左写真)がある。柳原土手もこのあたりだがビルが立ち並び当時の面影はなかった。浅草橋を渡ると橋たもとに郡代屋敷跡がある。
ここまでで今日の食べ歩きの行程は終了。この後は銀座の木村屋でお土産のあんぱんを買い銀座ライオンの二次会で全日程を終了した。事前の詳しい説明と当日の案内をしてくれた木村さん有難うございました。(吉木靖治)
 

 

『食べアルキ帳』第6回
―築地・月島・佃島物語―

木村勝紀
2016年1月21日
 

 食文化研究会『食べ歩き帳』シリーズ第6回は、平成25年12月21日(土)「築地・月島・佃島物語」と称して実施しました。22名の参加を得て無事に終了しました。
築地本願寺お詣り、築地場外市場見学・昼食、勝鬨橋、月島仲通りのもんじゃ焼き、佃島の江戸時代以来の老舗佃煮、室町時代創業の和菓子の老舗「塩瀬まんじゅう」などをお土産に年の瀬にふさわしい下町散歩を楽しみました。
それでは、以下に原稿をお寄せいただいた永井藤樹さん、吉木靖治さん、土屋周三さんの寄稿文をご紹介いたします。

(食文化研究会 世話人 木村勝紀)  

 


『食べ歩き帳』 第6回 
築地・月島・佃島散策 

永井 藤樹
2013.12.25


前日とはうって変わった好天の12月21日。冬の寒さがキリリとして、身の引き締まる心地よい晴天の日であった。東銀座駅を地上に出ると、そこは木挽町、昭和通りと晴海通りの交差点。晴海通りを進むと、唐破風の入口、赤い欄干が白壁に映える桃山様式の豪壮な「歌舞伎座」。朝早くから大勢の人で賑わっている。年の瀬の出し物は、『仮名手本忠臣蔵』。歌舞伎座近くの公園は、オリンピックに際して築地川を埋め立てて出来た公園。その公園の母犬・子犬の像が微笑ましい。

築地四丁目の交差点角を曲がり、「築地本願寺」へ向かう。ここは西本願寺系の関東第一の念仏道場だという。古代インド仏教様式の異様な外観は、人目を引かずにはおかない。ここで阿弥陀様を拝む。

 時刻も11時を過て、あきれるほどの混雑ぶり。お鮨屋の前は長蛇の列。それぞれ分散して、お店を探し、私達4人は雑踏を離れた二階の野天に席を取ることができた。冬の暖かく眩しい日差しを浴びながら「遊膳にぎり」を食した。新鮮なネタであることは勿論、空腹を感じ始めていたころだけに、とても美味しかった。築地一円の氏神様として崇められている「波除稲荷神社」への集合時間が迫り、雑踏の中をようようの思いで「波除け通り」に出た。

晴海通りに戻って、勝鬨橋に向かう。橋の袂にある「かちどきのわたし」の碑に渡船場の昔を偲び、「橋の資料館」でビデオの説明を受け、発電設備、動く橋模型などを見学。隅田川の最下流に架かる「勝鬨橋」を渡りながら、この幅広の橋が持ち上がったなら、どんなに壮観であったことか、往時の開門の有様に思いをはせる。橋の欄干から川の上・下流を望むと、雲ひとつない青空に林立する高層ビル群。横浜とはまた違った首都の景観である。橋を渡り切ると隅田川の中州、月島・佃島。西仲町通りの「もんじゃストリート」を四番街から入り、両側に並ぶ「もんじゃ焼き」のお店を眺めながら道を進め、隅田川沿いに建つ佃煮の老舗三軒に立ち寄る。

どのお店も、こじんまりとした店構え。我々15人はとても入り切れない。それぞれ分散して買い物を楽しんだ。私は、あみ・貝ひも・昆布の「三品詰め合わせ」と、仕事仲間へのお土産に「あみ」 を求めた。住吉神社にご利益をお願いして、一つ上流に架かる「佃大橋」を渡り明石町に入る。

目的の和菓子屋「塩瀬総本店」は、高層の「聖路加国際病院」の麓にあった。お店の中には様々なお饅頭が並べられ、目移りして決めかねたが、代表の「塩瀬まんじゅう」を求めた。白い皮に、うっすらと「志ほせ」の焼印が押された小ぶりで、コシ餡のあっさりした風味に江戸の粋が感じられる。
冬至の日の光が弱まった3時ごろになり、それでもまだ明るく、仲町通りの「もんじゃストリート」に戻り、数多い「もんじゃ焼」の一軒のお店を選び、先ずはビールで咽喉を潤し、私にとっては初めての「もんじゃ」を焼いて、「熱い、熱い」を連発しながら頬張った。お好み焼きとは違った食感。サイコロ状の餅と明太子の取り合わせが、とても美味しい。

 

横浜に戻っての二次会は、お腹の余裕がなくなり、打ち切りとなりましたが、日もとっぷりと暮れ、誰もが満足して家路につきました。
平成20年に浅草の「駒形どぜう」から始まって、前回の根岸「笹の雪・豆腐料理」・「羽二重団子」と続いたこの「食べ歩き帳」もすでに6回目。「食の文化」を楽しむ綿密な解説資料と、骨身を惜しまぬ懇切・丁寧なご案内に感謝の言葉もありません。木村さん有難う御座いました。

 


 

 


食文化研究会 『食べ歩き帳』 第6回 感想文     

2013.12.21 (土)
吉木靖治
 
; Hikobei

場外市場「彦兵衛」

築地場外市場は12月下旬の土曜日とあってものすごい人出で商店の間の狭い通路を歩くのはまさに一寸刻みだった。
放友会15人の一行は市場に入るとたちまち散り散りになってしまい
私たちは4人のグループで歩くことになった。

歩きにくいのとあれこれ目移りしてどこに入るか決めかねていて市場のはずれ近くに来たなと思う頃、突如、客引きのばあさんが現れて路地裏に引っ張り込まれた。薄暗くて細い路地を進むと程なくちいさなすし屋(彦兵衛)が暖簾を出していた。なるほど、ここは全く人通りのない路地なので客引きをしないかぎり客はひとりも来ないだろうと納得したことであった。しかし、客引きの腕がいいのか店の外には椅子に座って待っている人たちが結構いた。

外で待っている間に注文をとりに来たのでまぐろ丼1050円を注文した。店員は熱心に2500円あたりの寿司などを進めてきたが、我々は毅然としてまぐろ丼を変えず、追加であなご寿司一人前を4分割して一人500円で分けて食べることで商談成立。

順番がきて入ってみると狭い場所に19〜20人の席が作られている。
食べ終わって席を立つときには座っている人が立って通路を作らなければならず、この狭い場所によくもこんなに席をつくったものだと神業のようなレイアウトに感銘をうけた。

壁に有名人のものと思われる色紙がずらりと貼ってあって結構はやっている店なのかもしれない。築地の隠れ家と書いてある色紙もあった。たしかにここは隠れ家である。
店員によるとここは外人がよく来るところで、24日のイブには店の前に外人が集まるのでテレビで放送されるといっていた。

出てきたまぐろ丼はまぐろが新しく切り身もぶあつくてまずまず。シャリもそれなりに良く出来ていたので値段からすればまあ合格点だと思った。
ただ、あなごの寿司はぐずぐずにやわらかくて好き好きだとは思うが私の口には合わなかった。

もんじゃ焼き「大江戸坂井」


moojayaki
月島でもんじゃ焼きをはじめて食べた。
入門コースというのを注文した。
鉄板を囲んで4人が座っていると具材を入れた丼が運ばれてきた。

具材は刻みキャベツが中心でえび(微量)が入っている丼、いか、豚肉、餅(いずれも微量)が入っている丼などがある。

monjayaki最初の丼は店員の女性が焼いてくれてそのやり方をまねて二つ目からは自分たちで作る。
初めに刻みキャベツ中心の具材を油を引いた鉄板に広げて炒める。
ほどよく炒めたところで具材の山の中央に鉄板が見えるように穴を作る。いうなれば具材を外輪山の形状にする。そして火口に丼の底に残っていた
水に溶かした小麦粉を流し込む。
小麦粉のスープが流出しないように外輪山を維持しながら
すこしづつ全体を混ぜ合わせつつ焼いていくともんじゃ焼きが出来上がる。
これを、小皿に各人が取り分けて食べる。
初めから程よく味がつけてあり特にソースなどをかける必要はない。

あつあつの出来立てのもんじゃ焼きはどろどろぐちゃぐちゃで肉やえびなども微量で大半はキャベツと小麦粉であり決して高級な料理とは言えないが結構うまいものである。
B級グルメでも上位にはいる料理ではないか。

いままで、もんじゃ焼きはお好み焼きと同類だと思っていたが鉄板で焼くことと水で溶いた小麦粉を使うということ以外は全く別物であると思った。どちらかというと、フェスタヨコハマで放友会がお家芸にしている焼きそばの類型に入るのではないか。

もんじゃ焼きは形状がどろどろで見た目が悪く嫌いだという人がいると聞いたことがある。 確かに、自分たちが目の前で鉄板に広げて焼いていくので旨いと思って抵抗なく食べているが、これを見えないところで料理をしてもってきてさあ食えといわれるとすこし気持ちわるいと思うかもしれない。

そういう意味ではこのような見た目に悪い料理がどうして生まれたのか不思議な感じはある。
もんじゃ焼きの発祥は、駄菓子屋の文字焼きで子どものおやつだったらしい。
水に溶かした小麦粉を鉄板で焼いて醤油をかけて食べたらしい。
小麦粉を垂らすときに文字を書いて焼いたことから文字焼きとなったらしい。
その時の文字焼きはどろどろではなく、かりっと焼いていたのではないかと想像する。
その後、醤油でなくソースをかけたり、いかやたこを入れたり少しずつ進歩していったのだろう。その過程でどろどろでも食えるとなったのかもしれない。
あるいは、今でもかりっと焼く方式のもんじゃ焼きもあるのかもしれない。

ところで、鉄板の上で具材を広げたり返したりするしゃもじとスコップの合いの子のような鉄の道具を「はがし」というらしい。
鉄板にこびりついたものをはがすところから来たらしい。
各人の取り皿にもこれの小型のものが付いていてその小型の「はがし」で焼けたものをとるわけだがこれが絶妙のサイズとなっている。
つまり、非常に小さくてあまりたくさんとれないのである。
何人かで食べるときに誰か一人がとり過ぎないように長年の歴史のなかでこのサイズに落ち着いたのではないかと思った。

以上 完

 


食文化研究会 『食べ歩き帳』 第6回 感想文
−築地・月島・佃島物語−
 

2013.12.21
土屋 周三
 


◇ 照明下の地下道から 眩い太陽光の街角へ
地下鉄は東銀座で降車、地下道を通って上り出た先は 昭和通りと晴海通り の交差点際、温かい日差しを全身に浴び乍ら 暫し信号待ち、 そこで先ず目に映ったものは交差点向こう側に聳え立つ 出光興産旧本社ビル 過日メールで目にした「海賊と呼ばれた男」の記事が頭を掠めた。

青信号に招かれ 交差点を渡り少し歩くと 左手に古式豊かな殿堂が太陽に照らされ真っ白に輝いていた。新装なった歌舞伎座である。正面には若草色のこも冠りの樽が幅広く、高く築かれており豪華さに花を添えていた。観客を迎えるその姿は 古くからの伝統の力強さと素晴らしさが滲み出ていました。

◇ 外観様式が珍しい寺院参り
海へ向かう晴海通りを新大橋通りで左折し、築地本願寺を参観した。当院は京都の西本願寺の分院として建立されたにも拘わらず 外観は古代インド 風であり異様に感じた。本堂内はどうかと気になりましたが、豪華な日本風作りであった。 本尊は阿弥陀如来、道場の広さは関東一との事で見応えを感じました。

◇ 想像を超えた盛況振り 
築地本願寺から引き返し さきの晴海通りを渡ると そこは中央卸売市場の場外市場の一角です。 人に引き込まれるように場内を覗くと そこは商売天国場内は人の渦、地方の商店街が寂れるなか 別天地でした。 店の間口は約一間(6尺)位、何百軒かの店が方形区域にぎっしり詰まっています。 区画内の何条かの歩道は人で埋まり歩けないほど、始めのうちは 我々食べ歩き隊は全員隊列を組んでいたが、何時しか三々五々に分裂、彷徨いの状態、それでも熟練リーダーによる予め打ち合わせの集合地点に全員集まり、整然 と次の地点に向かった。

◇ 重要文化財(建造物)の資料館見学
著名な橋梁構造物のエキス見学です。昭和15年に隅田川に架けられた勝鬨橋資料館(橋の袂に所在)に立ち寄りました。この橋は 橋の中央部がハの字型に開き大きな船が通れるようにした橋です。橋が開く時は中央部の左右其々が片持式で上に開きます。巨大な重量物が片持ち支点で開閉する機構はどの様な物であるか、ものづくり系の人はそこに大きな興味を抱きます。館内にある模型、モニター説明によりその機構を知ることが出来 収穫でした。

◇ 観光客を引き寄せる 食系有名店へ

・ 資料館を後にし、勝鬨橋を渡りました。途中、橋の中心点の開閉の切れ目で立ち止り 自動車通過時の微振動を足の裏で感じ取る体感もしました。橋を渡りきり少し先の交差点を左折し、歩を進めると通称「もんじゃ焼き街」に差し掛かり
ます。 ここは長い直線の商店街で、同じ様な景色の為 今どの辺を歩いているのかが判り難い所です。その為かどうか、道路に沿って丁目の数字が書かれた「短ノレン」が道路の両側に切れ目なく吊り下がっています。(1〜4等)”もんじゃ焼き屋”が75軒もあるそうです。何丁目の〜〜店と云えば判り易いかも!  お客への お・も・て・な・し か!

・ もんじゃ焼き街の出口を左折し、佃島へ向います。昼下がりの日を受けて暫く歩くと 何やら良い香りが匂ってきます。突きあたりの堤防を右に曲がるとすぐに佃煮屋の看板が目に入ります。ここは先程の商店街と違い 民家街の閑散とした所です。3軒の名店が民家を隔てて点在し先程とは対照的でした。 なのにお客が絶え間なく訪れるのは 江戸幕府時代からの伝統の美味しい味を支え続けている為でしようか。 私達も思い思いの店に吸い込まれお土産物を手にしました。

・ そこを後にして、近くの石川島灯台(記念塔)と、旧石川島重工業(造船、航空エンジン等製作)の跡地に建ち並ぶ高層ビル群を眺めながら 佃大橋を渡って老舗「塩瀬総本家」に向かいます。

・ 当家は、古き時代、京都での開業中、豊臣秀吉 ・徳川家康に愛好され、又明治に入っては 宮内庁ご用達を勤め、今では各地のデパートを通じ 全国から愛顧を得ていて 長い歴史を誇る和菓子の老舗です。店は老舗に似合わず 今風の綺麗な店でした。ここでも有名和菓子を土産にと皆が買い求めました。

・ 最後は 佃大橋を逆戻りして 月島で「もんじゃ焼き」を食べ乍ら談笑し、一日の疲れを癒して、メトロ月島駅から帰路に着きました。


当日は、好天にも恵まれ 「歴史散策と食べ歩き」、 楽しく、素晴らしい一日で した。 
お骨折り多大の世話役様始め、一行の 皆様に感謝申しあげます。

                                            以上

 


 

『食べアルキ帳』第5回
根岸グルメ散歩

木村 勝紀
2013年1月12日

 第5回『食べアルキ帳』は、平成24年12月22日(土)「根岸グルメ散歩」と称して、江戸の町並みと江戸の味の痕跡を求めて歩きました。午前中雨、午後曇りという天候でしたが、師走の慌ただしい日取りにもかかわらず19名の方々に参加して頂きました。

 コースの概略は、次の通りです。

JR鶯谷駅⇒小野照崎神社⇒「竹隆庵岡埜・和菓子」⇒お行の松⇒「笹の雪・豆腐料理」⇒子規庵⇒書道博物館・中村不折記念館⇒「羽二重団子・団子」⇒天王寺⇒「桃林堂・和菓子」⇒上野寛永寺・大慈院⇒旧因州池田屋敷表門⇒旧寛永寺本坊表門・両大師堂⇒JR上野駅⇒JR横浜駅⇒「アリババ・反省会」。

 本格的な雨降りで始まった散歩でしたが、「笹の雪」での昼食後には薄日のさすほどに回復しました。横浜駅で中締め解散の後、恒例の「アリババ」での反省会で盛り上がったところでお開きとなりました。参加のみなさまには満足して頂いたようでした。

 それではまず参加者の一人、吉木靖治さんの感想文をお読み下さい。

(食文化研究会 世話人 木村勝紀)  


 

「根岸グルメ散歩」紀行記(吉木靖治)

 ◆「笹乃雪」豆富料理◆


 
  笹乃雪コース料理  
 
笹乃雪コース料理
 
豆腐は紀元前2世紀前漢の時代に作られたという説と唐代中期に作られたという説があるようです。いずれにしても発祥地は中国ですね。
 わが国には奈良時代遣唐使の僧侶によって伝えられ、当初は寺院の僧侶の間で、ついで貴族社会や武家社会に伝わり本格的に庶民の食べ物として広まったのは江戸時代でした。

 中国の伝統的な豆腐は油で料理することが多いせいで固めのものになっていますが、わが国ではさまざまな豆腐のバリエーションが発展し、特に湯豆腐や冷奴など豆腐を素のまま食べることに特色があるようです。

 大豆蛋白は健康食品として評価が高く、今では、豆腐のさまざまな食べ方は世界中に広まっています。「笹乃雪」も上野寛永寺の住職となる宮様のお供で京都から江戸に出てきたそうで、はじめは上流社会の人々を顧客にしていたのでしょうね。

 我々が食したコース料理「朝顔御膳」であんかけ豆腐が各人二椀ずつ出てきたので、何かの間違いかと思いましたが、由来を聞くと上野の宮様がご来店になり、あんかけ豆腐を大変おいしいと仰せになり今後二椀づつ持ってくるようにとの言葉を賜り、この店のしきたりになったとのことです。

  笹乃雪にて  
 
笹乃雪にて
 

 付きだしの後に出てきた冷奴は、薬味の葱を入れた醤油を付けて食べるとやわらかくて甘く上品な味で、たぶんこれが京風笹乃雪の味の真髄ではないかと思いました。ところで、冷奴の「奴」というのは、大きめの立方体のことで小さめの立方体は「賽の目」、さらに小さいのは「霰」というそうですね。

 次々に豆腐づくしの料理が出てきてご飯も豆腐茶漬けで最後のデザートも豆腐アイスクリームでした。味も量も申し分なく十分に満足しましたが、その上に身体にいいものを食べたという幸福感のようなものがプラスアルファでありました。コースにもよるのでしょうが値段も手ごろなので一度は経験する価値がありますね。

 

 

 

◆根岸芋坂「羽二重団子」◆

  羽二重団子  
 
羽二重団子
 

 昼食の後、子規庵と書道博物館をめぐり、少し腹ごなしをしたあと羽二重団子を食しました。

 醤油たれの香ばしい焼団子と上品な味の餡団子の2本セットを食べましたが、長年人々に親しまれ評価されてきた老舗の伝統の味にはずれはないなと思った次第です。

 

  羽二重団子にて  
 
羽二重団子にて
 

 

◆その他◆

  小野照崎富士塚  
 
小野照崎神社富士塚
 

 根岸の里と上野寛永寺跡の遺跡などを木村さんに案内してもらいましたが一番印象に残ったのは、小野照崎神社の富士塚でした。江戸時代に富士山に行けない人々が富士塚に詣でて信仰を深めたのですが、富士塚は高さが3−4Mで、山の形の全面に不正形の石が突き出ておりいかにも険阻な恐ろしげな山のミニチュアになっていました。江戸時代の人々の富士山に対する認識がその形になったものと思われますが、造形者の意図が見事に現れていて人を引き付ける力を感じた次第です。
  慶喜公霊廟前  
 
慶喜公霊廟前
 

 羽二重団子を食べて外にでたらそれまでの雨が嘘のように青空が広がっていました。心が広がるような気持ちになりその後の行程を楽しく辿りました。

                                   以上   吉木 靖治 


根岸食べ歩き帳(訪問先紹介編)

木村 勝紀 

 次に折角ですので、順に訪問先の紹介がてら簡単な解説を致します。


1 小野照崎神社(おのてるさきじんしゃ)

  小野照崎神社  
 
小野照崎神社
 

 
 祭神の小野篁(おののたかむら)は、平安時代のエリート貴族。歌人として名を成し、小野小町の父親といった伝説もあります。祭神には同じく平安貴族の菅原道真を合祀しています。二人とも時代を代表した歌人で、勉学に秀でた人物です。そのため、神社のご利益も学問と芸術の上達といわれるようになりました。境内には慶応二年(1866)造営の社殿や、文政十一年(1825)に築かれた富士塚など、江戸時代の遺構が残っています。


2 竹隆庵岡埜・御行の松


 小野照崎神社を後にして金杉通りを横切り、根岸柳通りの洋食屋さんでは都内有数の有名店「香味屋」の前を通って、和菓子の老舗で有名な「竹隆庵岡埜」に立ち寄りました。「こごめ大福」が名物です。史跡「御行の松」を見学後、「笹の雪」に向かいました。


竹隆庵・岡埜/本店


 「御行の松」の手前に和菓子の老舗「竹隆庵・岡埜/本店」があります。竹隆庵の宣伝文句には次のようにあります。

−江戸の昔、根岸の里は音無川の清流に恵みを受け、呉竹の里とも呼ばれる閑静な地でした。江戸百景にも描かれた、御行の松の雄大な枝ぶりとともに、俳人正岡子規、書家中村不折、新婚時代の夏目漱石などの文人墨客、大商人の別荘が点在する風流な里でした。竹隆庵岡埜は、古きよき時代の根岸をいまに語りつぎたく、伝統の技法に季節限定の数々の和菓子を、小豆は北海道、餅米は新潟こがね餅など、最高級の原材料でお届けします。おすすめのお菓子は、「根岸の里・こごめ大福」。江戸庶民の間で喜ばれたお菓子に「こごめ餅」があり、ある時、根岸の里の茶屋がこの餅に餡を包み入れ、上野輪王寺宮公弁法親王に献上したところ、お褒めの言葉を頂き、これを「こごめ大福」と名付けられました。−


御行の松(おぎょうのまつ)

   
 
御行の松
 

 「竹隆庵・岡埜の隣に「御行の松」の史跡があります。『江戸名所絵図』によりますと、

−時雨の岡 同所、庚申塚といへる三、四丁艮(うしとら・北東)の方、小川に傍(そ)ふてあり。一株の古松のもとに、不動尊の草堂あり。土人(土地の住人の意)、この松を御行の松と号(なず)く。由来はしばらくここに省略す。−

 現在でも貧弱ではありますが、何代目かの小さな松の木とともに草堂が残っています。

 

 

 

3 『笹の雪』 『子規庵』 『書道博物館・村不折記念館』『羽二重団子』


 「御行の松」の草堂を拝観すれば、そろそろお昼時です。根岸の路地裏通りを縫いながら一路昼食のために『笹の雪』に向かいました。


『笹の雪』:創業320年の豆富料理(この店では豆富と書きます)
 

  笹の雪  
 
笹の雪
 

 そもそもの店の起こりは京都。この店の初代玉屋忠兵衛は豆腐屋として京都で宮家に出入りしていました。元禄三年(1690)、輪王寺宮が上野の寛永寺の住職をすることになり、お供をして江戸に出ることになりました。水のきれいな音無川(今はない)のある根岸に店を開いたのが始まりです。ここで作られた豆腐は、江戸では初めての絹ごし豆腐。輪王寺宮は初代が作るこの豆腐をことのほか好まれ、「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ、笹の雪と名付くべし」と称されたといいます。ここから「笹の雪」という雅な屋号が生まれました。正岡子規は『笹の雪』の常連で、笹の雪にちなんだ句を作りました。

あさがおに あさあきないす ささのゆき
(朝顔に朝商ひす笹の雪)
みなづきや ねぎしすずしき ささのゆき
(水無月や根岸涼しき笹の雪)

 

子規庵

  子規庵  
 
子規庵
 

 子規庵は『笹の雪』の裏手にあります。子規庵の建物は、旧前田候の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれます。明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話を続けましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により、昭和元年に解体、旧材による修復工事を行いました。現在の子規庵は、昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、昭和27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っています。小さなしもた屋ですが、俳句を嗜む人にとって一度は訪れたいところです。


 

書道博物館・中村不折記念館


 

  書道博物館  
書道博物館
 

 これらの施設は、子規庵の前にあります。
書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折が、その半生40年あまりにわたって独力で収集した、中国及び日本の書道史上重要な資料を収蔵する専門博物館です。昭和11年に開館以来、約60年にわたり中村家の手で維持・保存されてきましたが、平成7年、台東区に寄贈され、平成12年に再開館したのが現在の台東区立書道博物館です。中村不折記念館は、書道博物館と同じ建物内にあります。殷時代の甲骨文に始まり、重要文化財12点、重要美術品5点を含む16,000点が所蔵されていて「書」に関わりのある人には必見です。


 

 

羽二重団子 創業文政2年(1819)


 

  羽二重団子  
 
羽二重団子
 

 羽二重団子は、「根ぎし 芋坂 羽二重団子」の看板で有名です。「餡」と「焼き」の2種類で190数年、団子一筋ならではの味と歯ごたえが絶品です。
 王子街道沿いに、加賀藩出入りの植木屋が茶屋「藤の木茶屋」を構え、道行く人々に渋茶とだんごを出したのが始まりです。地名から通称「芋坂のだんご」と呼ばれました。きめ細かい舌触りが絹のようで、いつしか羽二重団子という呼び名が付き、それが店名となりました。正岡子規が俳句に詠み、漱石が「吾輩は猫である」のなかで「やわらかくて安い」といわせている芋坂のだんごは、丸めて平たく串に刺し生醤油に付けて香ばしく焼きます。
 創業以来200年近く経った今でも、作っているのはこの「焼きだんご」と甘さを抑えた「餡だんご」の2種類だけというのも見事です。「焼きだんご」「餡だんご」それぞれ一本ずつの一皿525円でした。

 『羽二重団子』を賞味した後、根岸を離れて谷中の天王寺や徳川十五代将軍慶喜の霊廟、その他を見学するなどして上野駅に向かいました。


4 「天王寺」


 『羽二重団子』の店を出て日暮里駅の陸橋を跨いで紅葉坂を上れば天王寺です。もとは日蓮宗の寺で感応寺といい、元禄12年(1699)に天台宗に改宗して寛永寺の末寺となりました。江戸時代には湯島天神、目黒不動と並んで境内で盛んに富くじが行われ「江戸の三富」と呼ばれて賑わいました。境内には日蓮宗の寺だったころに建てられた丈六(約3メートル)の釈迦如来像が鎮座し、天王寺大仏として親しまれています。


5 「天王寺五重塔跡」幸田露伴の『五重塔』のモデル


 谷中天王寺の五重塔は寛永21年(1644)に建立され、火災で焼失したのち、寛 永3年(1791)に再建。谷中の五重塔として親しまれ、明治の小説家幸田露伴の作品 『五重塔』のモデルになりました。しかし、惜しくも昭和32年、若い男女の焼身心中事 件で放火され焼失しました。現在は谷中霊園の中央に塔の礎石だけが残っています。


6 風土菓『桃林堂』 五智菓


 五重塔跡を見て寛永寺に向かいますが、途中に古風な店構えのお菓子屋さんがあります。 大阪府八尾市に本店を持つ『桃林堂』です。小さなお菓子屋さんですが、いずれも雅で上 品そのものの品物ばかりです。店内に入ると数席のテーブルがあって食することもできす。 お土産にするなら「五智菓」がお勧めです。金柑、生姜、レモン、いちじく、あんず、 かりん、牛蒡、蓮根などを乾燥させて砂糖をまぶした形状をしています。


7 寛永寺(現在残存の建物は大慈院のみ)


 寛永寺は寛永2年(1625)、徳川3代将軍家光が、川越喜多院の天海僧正に命じて建立した寺院です。徳川家の庇護を受けて江戸最大の寺になりました。江戸時代の寛永寺は、現在の上野公園の全域に及ぶ広大な寺域を持ち、まさに江戸で最大の寺院でしたが、明治維新の上野戦争の際、堂宇のほとんどを焼失してしまいました。現在の寛永寺は、子院であった大慈院の地に明治12年(1879)に川越喜多院から根本中堂を移築したものです。慶應4年(1868)、鳥羽伏見の戦いから脱出して江戸へ戻った徳川幕府最後の将軍慶喜は、江戸城を出て、2月12日から4月11日までの2か月をこの寛永寺大慈院で過ごしました。このとき、慶喜守護の目的で旧幕臣たちが上野に集結、これが彰義隊となりました。


8 旧因州池田屋敷表門 現存する大名の江戸屋敷門


 寛永寺大慈院から上野国立博物館に向かって旧東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)の角を曲がると、左手に豪壮な武家屋敷門が見えてきます。この門は、左右に出番所を構えていますが、これは10万石以上の大名に限って許されたもので、豪壮で格式の高い門です。柱に付けられた饅頭金物(半球形の金具)や切戸の幅の半分を占める長い八双金物(蝶番から横に伸ばした金具)などが、格式の高さを伝えています。

 

9 旧寛永寺本坊表門 寛永寺本坊をしのばせる唯一の遺構


 最後のコースの上野駅公園口に向かう途中に、寛永寺本坊をしのばせる遺構の門があります。隣接する両大師堂(慈眼大師と慈恵大師を祭る)の山門から入って回り込むとすぐ近くまで行かれます。門柱や扉などに大小の穴が多数見られますが、これは、慶応4年(1868)の上野戦争の際に受けた銃弾や砲弾の痕だそうです。旧寛永寺本坊は上野戦争の戦禍を受けて全焼しましたが、本坊の遺構で唯一残ったのが、この表門です。寛永寺が江戸最大の寺院であったことは前述しましたが、最盛期には寺域30万坪、現在の上野公園と上野動物園、東京芸術大学、谷中墓地のほぼ全域が含まれる広大な境内を持っていました。本坊は現在の国立博物館の位置にあり、本坊の入口に建てられていたのがこの表門だったのです。寛永年間(1624〜1644)の建築で、国の重要文化財に指定され、この場所に移築保存されています。
−両大師堂
 両大師とは、寛永寺を創建した天海僧正こと慈眼大師(じげんたいし)と天海僧正が尊敬した、比叡山中興の祖で元三大師(がんさんたいし)の名でも知られる慈恵大師(じえたいし)(良源)を祭っています。

 以上、訪問先を紹介しましたが、楽しく美味しく歩いているうちに瞬く間に時間が経過して、万歩計の数値は13,000歩を記録していました。お疲れ様でした。
                                    (文責:木村勝紀)

               
    

 


『食べアルキ帳』第4回
銀座・日本橋食べ歩き
木村 勝紀
2011年12月17日

 今回も年末になりましたが、平成23年12月7日(水)、新橋・銀座・京橋・日本橋を貫く中央通りを歩きました。
歴史的史跡訪問と現代の景観を合わせて体験する立体的散策と洒落こみ、界隈の名店を訪ねるという趣向でした。
 JR新橋駅を降りて鉄道唱歌の碑を皮切りに、銀座8丁目から銀座1丁目、京橋、日本橋を経てJR神田駅で終わるというコースを選びました。

先ず、最初は、吉木靖治さんの感想文に永井藤樹さん提供の写真を添えてお届け致しましょう。

(食文化研究会 世話人 木村勝紀)  

銀座、日本橋食べ歩き散策      (吉木靖治)

中華料理の天龍  
中華料理の天龍  
 「天竜」の餃子はとにかく大きい。それが一皿に8個も乗っている。
入り口のプラスチックの見本はそうでもなかったが、実物が来ると
その大きさに驚く。これを全部食べられるのか自信をなくす。
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ジャンボ餃子
天龍の料理一部

まず1個目を口に入れる。もちろん、一口では食えない。4回ぐらいに
分けて1個を食べるのだ。
味は癖がなくなじみやすい。こんなに大きな餃子がまずかったらたちまち
残飯の山になるところだが、さすがにマイルドな食べやすい味だ。

店は満員でテーブルに着くまでしばらく外でならぶ。
近所のサラリーマンや外回りの途中で寄った仕事人などが多いようだ。
年齢も青年、壮年が中心でなんとなく脂ぎった顔つきをしている。
彼らは、巨大餃子を、ライオンが草食獣を食いちぎるように精力的に
食べている。この餃子はこのようなエネルギーに満ち溢れた人達の
食事なのだろう。

翻って、われわれは、年齢的にも、もう戦う時期を過ぎたものばかりで
お公家様のような食べ方である。これではみんな相当余らすだろうなと
見ていると、案の定食べきれない人が大半であった。
私も、4個半を食べたところで箸が動かなくなり、
無理をすると体を壊すかもしれないと 思いやめた。

しかし、我がチームでも8個完食したひとが居たのには感心した。
さらに、余った人の分を食べている人もいて、放友会もまだまだやれるかもしれない
と頼もしく思ったことである。

榮太郎本舗
蕎麦やの老舗「室町砂場」
「にんべん」のDASHI-BAR
御前汁粉

 「榮太郎」でお志るこを食べた。小さな香ばしい焼餅が入っていて
なかなかいける。店員も若い女性がてきぱきとサービスをしてくれて
感じがいい。餃子を食べてからあまり時間が経っていなかったが
甘味は別腹で問題なく腹に入っていく。
肉体的には問題ないのだが、頭のほうではこんなに食べたら
また体重が増えるのではないかと心理的なブレーキがかかる。
しかし、一生は二度ないのだから旨いものが有る時には食べておくべきである。

 「室町砂場」ではざる蕎麦を注文した。
ざるに白い蕎麦がうすく雪のようにのっている。漬け汁は少量だがこくが
あり腰のつよい上品な蕎麦と良く合う。天竜の餃子と大違いで量が少なくもう少し食べたい
という感じもしないではなかったが、今日の散策行程の最後でやや疲れ気味でも
あったので結果的には手ごろで良かったように思う。

 散策の途中、室町コレドの1階に「にんべん」がやっている「だしバー」があった。
100円をだすと紙コップにだし汁をいれてくれる。それに好みの量の塩または
醤油をいれてだしを味わう。あたたかいだし汁で体があたたまる。
これも、仕事途中の勤め人らしい人たちが集まっていた。
日本伝統の鰹節と昆布の合わせだしを飲んだが、なかなかいい味である。
この「だしバー」は、今日の散策の中では珍しさもありとても印象にのこった。
これぞ食文化研究会ならではの企画ではなかろうか。

 帰りの京浜東北線で睡眠不足を解消した。
朝から銀座、京橋、日本橋の史跡、名所の説明を一手に引き受け
道案内もしていただいた木村さんに横浜駅で感謝をしつつ別れて
帰途に着いた。木村さんまたよろしくお願いします。

以上   吉木 靖治  
 

銀座・日本橋食べ歩き帳(新橋史跡編)

木村 勝紀 


 新橋駅から銀座、京橋、日本橋を経て神田駅までの中央道り沿いの史跡を見学順にご紹介しましょう。

 新橋史跡編です。

1 鉄道唱歌の碑

新橋駅鉄道唱歌の碑

 新橋駅の東口、JRから「ゆりかもめ線」へ乗り換える連絡階段へ向かう左手に、蒸気機関車の動輪がモニュメント風に置かれ、その隣に2台の客車を引いた蒸気機関車の模型が乗った石碑があります。これが鉄道唱歌の碑です。
鉄道唱歌は、「♪汽笛一声新橋を〜」で始まるおなじみの唱歌。最初に発表されたのは明治33年(1900)。このときは東海道を新橋から神戸まで延々66番まで歌いました。
 新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通したのは、明治5年(1872)9月12日ですが、現代の暦に換算して10月12日が鉄道記念日とされています。
 このときの新橋停車場は大正3年(1914)まで使われましたが、その後、現在の新橋駅の場所に烏森駅が開業し、始発も新橋から東京駅に変わりました。現在は汐留シオサイト内に、昔日の駅舎や旧ホームなどを再現した「旧新橋停車場」が建てられ、鉄道歴史展示室が併設されています。
因みに、明治5年の横浜駅の遺構は、みなとみらい地区の海上保安庁岸壁近くにあります。

2 銀座の柳の碑銀座柳の碑

  鉄道唱歌の碑から昭和通りを渡り、右へ折れてさらに中央通りを渡ったところにあるのが、「銀座の柳の碑」です。
 銀座といえば柳並木が有名ですが、銀座の並木は初めから柳並木だったわけではありませんでした。明治の初期には、並木には楓と桜、交差点周辺には松が植えられていました。しかしこれらの樹木はレンガ舗装には合わず、次第に枯れてしまます。この柳並木はその後、東京市によってイチョウ並木に変更されたり、関東大震災に遭ったりで銀座から柳並木は姿を消しました。そこへ流行したのが「♪昔懐かし銀座の柳〜」という『東京行進曲』。昭和4年のことです。これによって庶民の間に銀座の柳復活を望む声が高まり、昭和8年、2代目の柳並木が復活しました。銀座柳の碑には、西条八十作詞、中山晋平作曲の「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残のうすみどり 吹けば春風紅傘日傘 けふもくるくる人通り」が刻んであります。

芝口御門跡

3 新橋(旧芝口橋)跡

 銀座の柳の碑の隣が新橋跡。新橋は江戸時代初め、汐留川に架けられた橋ですが、当初は木製でした。宝永七年(1710)、江戸城外郭の芝口御門がこの地に設けられてからは芝口橋と呼ばれました。明治になって新橋を正式の名称にしました。昭和39年、汐留川の埋め立てによって橋は撤去され、現在は中央通り沿いにかつての橋の親柱が残るのみとなりました。

 さて、ここからが銀座八丁目から一丁目のいわゆる銀座八丁です。

4 金春屋敷跡

「金春通り」の銘板跡

 新橋(旧芝口橋)跡から首都高速道路をくぐると左手に博品館ビルがあります。現在は劇場ですが、かつては物品展示場だったそうです。その裏手の細い道が金春通りです。ここに昔、金春屋敷があり、それが通りの名になりました。「金春」とは、室町時代から続く能の流派です。
能は室町時代の初期に、大道芸のような形式で始まりましたが、観阿弥・世阿弥の親子によって武家社会と結びつき、発展しました。金春流はシテ(主役)を演ずる流派で、豊臣秀吉の後援を受けて栄えました。
徳川家康は自らの征夷大将軍就任を記念して、慶長八年(1603)に江戸城で能を催しました。以来、能を幕府の式楽と定め、金春・観世・宝生・金剛の四家を幕府直属の能役者として、宅地や家禄を支給しました。
金春の屋敷は後に麹町に移転しましたが、金春の名称は地名として残りました。幕末から明治にかけてはこのあたりの芸妓さんを「金春芸者」と呼びました。この金春芸者はやがて烏森神社の門前に移って烏森芸者と呼ばれますが、明治の政府高官らとの話題を残した新橋芸者の発祥の地でもあります。道路には「金春通り」の銘板が埋め込まれ、その傍らに「煉瓦遺構の碑」が建っています。

真珠王記念碑

5 真珠王記念碑

 御木本幸吉は、安政五年(1858)三重県鳥羽町に生まれ、行商等をしたのち真珠の養殖に着手しました。明治38年箕作佳吉の指導を受けて真円真珠の養殖に成功し、ただちに「ミキモト・パール」として輸出を始め、その名は世界に知れ渡りました。昭和28年、幸吉翁95歳の時、真珠王の名を馳せた翁の功績に対し、銀座の誇りとしてこの碑が建立されました。ミキモト真珠本店前です。
     (銀座4丁目) 

 

6 銀座発祥の地碑

 銀座通りの有名店のひとつ、銀座二丁目にある文具専門店の伊東屋。銀座役所跡
その前の歩道の一角に「銀座発祥の地碑」があります。銀座に江戸の銀貨鋳造所がありました。碑が建つ場所は、銀座の業務を管掌していた「銀座役所」があった場所です。小判などの金貨は「金座」、一文銭や四文銭などの銅貨は「銭座」で鋳造していましたが、金座は現在の日本銀行のあたり、銭座は浅草や亀戸、深川など各地にありました。
この場所に銀座が設けられたのは、江戸初期の慶長十七年(1612)ですが、現在の京橋から新橋付近にいたる広い一帯が新両替町と呼ばれ、銀貨鋳造のほか、銀の取引や両替が活発に行われました。銀座役所は、享和元年(1801)に業務の縮小にともなって日本橋蠣殻町に移転しました。
文久元年(1861)の切絵図で見ると、現在の銀座通りには新両替町の文字があり、「銀座町とも云」と注釈があり、銀座の名は通称だったことがうかがえます。そして明治五年(1872)、新両替町で火事があり、その復興を兼ねて洋風の煉瓦敷きの道が生まれ、その折に銀座通りの名が正式に決定されたのでした。
     (銀座2丁目)

7 日本最初の電気灯記念碑

 銀座松屋デパートの京橋寄りのはす向かいに、いくつもある街灯の内、他のものに比 べひとつだけデザインが異なり、ひときわ高く目立つものがあります。これが、日本で 最初の、電気によって周囲を照らした街灯であることを示す記念碑になっています。
日本初の電気街灯は、明治十五年(1882)、創業準備中の東京電灯会社(東京電力の 前身)によって点灯されました。宣伝のために、高さ約15mの電柱上に2000ルックスのアーク灯を点灯しました。文明開化のガス灯に比べて桁違いに明るい電灯は、東京市民を驚きの渦に巻き込みました。

8 煉瓦銀座之碑

 明治5年(1872)、和田倉門から出火した火事は、銀座一帯を焼き尽くし、築地ホテル館にまで及ぶ大火になりました。これを機に、時の東京府知事由利公正は不燃性の都市を建設することを主張し、銀座煉瓦街の誕生となりました。彼の功績を讃えて造られたのが「煉瓦銀座之碑」です。   (銀座1丁目)

江戸歌舞伎発祥の碑
 次に、銀座を離れてとはいっても地続きですが、ここからは京橋です。
江戸の昔ここには京橋川が流れ橋の京橋が架かっていました。

9 江戸歌舞伎発祥の地碑

中村座の始祖、猿若勘三郎は歌舞伎の「猿若」で、天下の名優とうたわれ、元和八年(1622)、江戸に下り、「猿若座」の櫓をあげました。この地に太鼓櫓を許されたのは寛永元年(1624)ですが、江戸城に近いという理由で長谷川町へ移転、のちさらに堺町へ転じています。       (京橋3丁目)

10 京橋記念碑

京橋の親柱  京橋は日本橋と同時代の慶長年間に架橋されたものです。東京市が区政をしいたとき、その名を採って区名にしたほど市民に親しまれました。江戸中期にはここの擬宝珠に縄を結んで願うと咳止めに効くといわれました。

 現在はちょうど高速道路の下となっていますが、橋畔南詰の一部を残して、京橋記念碑になっています。交番の真ん前です。    (京橋3丁目)

 

 

11 京橋大根河岸青物市場跡

青物市場跡の碑  江戸の昔、京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場で、江戸の住民たちに新鮮な野菜を提供していました。別名「大根河岸」とも呼ばれ、明治、大正と続き、関東大震災の前まで続いていました。関東大震災以後、区画整理や都市再編成で大根市場は野菜市場となって、神田、築地へと移りました。昔を偲んで京橋大根河岸青物市場跡の記念碑が建てられました。       (京橋3丁目)

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 昔、京橋と日本橋の間に中橋がありました。南伝馬町と呼ばれた土地柄です。現在の東京駅八重洲口からまっすぐ八丁堀に向かって伸びる八重洲通りと中央通りの交差点付近です。現在のブリヂストン本社のある辺りですが、昔を偲ぶ痕跡がまったくありません。

  さて、旧中橋を越えて丸善本社、高島屋辺りからが日本橋地区です。

 
白木屋の井戸跡
 
 
漱石記念碑
 
 
日本橋
 
 
日本橋魚市場跡
 
 
日本橋道標
 
 
三浦按針の屋敷跡
 
 
長崎屋跡
 
 
石町時の鐘・鐘撞堂跡
 

12 名水白木屋の井戸

 日本橋交差点角にあった東急百貨店(現コレド)は、昭和33年まで白木屋という屋号でした。白木屋は、近江商人大村彦太郎の創業、越後屋(現三越)と肩を並べる呉服の大店で、二代目彦太郎が正徳二年(1712)に掘った井戸の水は、付近の住民のみならず、広く「白木名水」とうたわれました。現在、白木名水は消失しましたが、コレドの裏側に東京都指定の旧跡として記念碑があります。この碑の隣に「漱石名作の碑」がありますので、写真でご覧ください。因みに「コレド」とは「Core Edo」をもじった名称でそうです。  (日本橋1丁目)

13 日本橋川に架かる日本橋

慶長八年(1603)に架橋されて以来、日本橋は20回ほど架け替えられています。江戸時代初期の橋は、全長70.1m、幅7.9mで、現在の全長49.1m、幅27.3mに比べると、江戸時代の方が長く、幅は狭いといえます。現在の橋は明治44年(1911)に完成したアーチ型の石の橋で、国の重要文化財に指定されています。橋の柱にある「日本橋」の文字は、徳川最後の将軍徳川慶喜の筆によるものです。また、橋を彩る獅子や麒麟の像は、当時の東京美術学校の作といわれます。写真は、やや低い位置から撮った日本橋本来の姿を彷彿とさせるアングルです。

 日本橋の橋の周囲には、いくつかの歴史的な見どころがあります。

−日本橋高札場跡−

 橋の南詰西側は、江戸時代に高札場のあったところです。高札場とは、幕府など施政者が、法律や決まり事を庶民に知らせるために掲示した場所のことです。江戸には大高札場が6か所ありましたが、日本橋は、人通りの多さからもっとも重視された場所でした。高札場跡に建つ日本橋由来の碑は、この高札場の形を模しています。→写真無し

−日本橋さらし場跡−

 高札場跡の向かい、現在の日本橋交番のあたりが、日本橋のさらし場跡です。「晒(さらし)」とは、江戸時代の刑罰のひとつで、小屋掛けをして囚人を縛り付け、さらし者にしました。いわば見せしめの刑です。晒刑に処せられたのは、主として女犯の僧、心中未遂者などでした。現在、その場所に交番が建っているのが皮肉ですね。→写真無し

−日本橋魚市場跡−

 橋の北詰東側には椅子に座った女神のような像が 橋の北詰西側には「日本国道路元標」があります。ここが日本の道路の起点ということになるのですが、実際の起点は橋のたもとのこの場所ではなく、橋の中央、センターライン上に、マンホールのような形で嵌め込まれています。

14 三浦按針屋敷跡

 オランダ東印度会社東洋派遣隊の航海士だった英人ウィリアム・アダムスは、慶長五年(1600)暴風のため大分県の佐志生に漂着しました。のち、家康の通商顧問になり、日英貿易の発展に貢献しました。現在、室町1丁目地内にある按針居住の地は、昭和5年6月、東京府史跡の指定を受け、同7月、地元有志の手で記念碑が建てられましたが、戦災で破壊され、昭和26年5月に現在の記念碑が改めて建てられました。因みに神奈川県三浦半島や長崎県平戸にも三浦按針の屋敷跡に碑があるそうです。

15 十軒店跡【じっけんだなあと】

 三月の桃の節句には内裏雛を、五月の端午の節句には甲人形や鯉幟を売る屋台店が十軒あったことから、十軒店の名があります。十軒店の出店は、寛政年間(1789〜1801)には41軒を数えるようになったといわれ、その賑やかさや雑踏ぶりが偲ばれます。この十軒店の名は、町名として大正時代まで残っていました。  (室町3丁目)→写真無し

16 長崎屋跡

 寛永十八年(1641)の鎖国後、長崎出島でただ一国貿易を許されていたオランダは、そのお礼の意味で年一度、商館長(カピタン)が献上品を携えて江戸に上り、将軍に拝謁することになっていました。その際、一行は、江戸では長崎屋源右衛門の長崎屋を定宿とし、100名以上も泊まったそうです。また、長崎屋にオランダ人が滞在している間に、幕府の天文方、医官、蘭学者などが訪問して学術的な質問をするなど、知識の交流の場としても大きな役割を果たしました。杉田玄白などもこの長崎屋に出入りしたことは、木村流『蘭学事始』講読で紹介しました。    (日本橋室町4丁目)

17 石町時の鐘・鐘撞堂跡

 江戸時代のはじめ、江戸城内の西の丸で時を知らせる鐘が鳴らされました。家康のころは朝晩の二回だけでしたが、二代秀忠の時代になると、昼夜にわたり二時間ごとに鳴らされるようになりました。ところが御座所の近くであったため、太鼓に変えられることになりました。城内で鐘撞役をしていた辻源七が、寛永三年(1626)、日本橋本石町三丁目に二百坪の土地を拝領して鐘撞堂を建て、新たな鐘を鋳造し、「時」を知らせる仕事を開始しました。これが江戸で最初の「時の鐘」とされています。

      以上    これにて『食べアルキ帳』第4回の報告終わり。

文責:木村勝紀   

    


『姫路の一日 B級グルメ』
永井 藤樹
2011年2月3日
 

 姫路の一日は、「アーモンドトースト」で始まりました。  
昨年12月初め、「姫路サテライト」主催の面接授業「城郭の歴史を姫路城に学ぶ」を受講するため、5月に続いて再び姫路市を訪れました。

(写真1)イーグレ姫路
(写真2)改修中の大天守閣
(写真1)イーグレ姫路 (写真2)改修中の大天守閣

 姫路駅から城に向かって幅50mの大手門通りが真直ぐにのび、内堀に達します。内堀に沿って、大手門通り右側に広々とした「大手門公園」があります。公園に隣接して「イーグレ姫路」という名の公共施設、商業施設などの入った再開発ビルが建っています。兵庫学習センターの「姫路サテライト」は、「イーグレ姫路」の中にあります。地上4階地下3階の総ガラス張りの美しい建物です。城に面した側は、城壁と同じ扇の曲線を描いた壁面が長く続き、建物そのものが美術品とも言えます。屋上からは、姫路城が一望のもとに見渡せます。姫路城の中心ともいえる大天守閣は、昨年4月から50年に一度となる平成の大改修に入り、今は巨大な鞘堂に覆われて見ることができません。それだけに普段見落としがちな乾櫓などの小天守の美しさが目立ちます。
3.喫茶店「大陸  私は前日から「イーグレ姫路」に近いホテルに宿を取り、翌朝(12月4日)ロビーで友人の来訪を待っていました。地方の面接で知り合った「姫路サテライト」の友人です。何年ぶりかの再会に旧交を温め「モーニングサービス」を一緒にするため、ホテルにほど近い喫茶店「大陸」に案内されました。
(写真3)喫茶店「大陸」
(写真4)改修中の大天守閣アーモンドトースト
(写真4)アーモンドトースト
(写真5)改修中の大天守閣自家製アーモンドトースト
(写真5)自家製アーモンドトースト

 店内はクラシックな高級感を漂わし、適度な照明が落ち着いた雰囲気を醸し出していました。待つほどに甘く香ばしい薫とともに、狐色に焼き上がった「アーモンドトースト」が運ばれてきました。ゆで卵とバナナ半分、それにコーヒーが付いています。これがこの店の朝の定番だということです。

 口の中にほのかな甘みと、しっとりとした重量感のある軟らかさが広がります。ピーナッツバターとはまるで違う食感のトーストです。忘れられない姫路の味になりました。姫路市周辺でしか味わうことのできないトーストだということです。

 私の朝食はいつもトーストです。姫路の味をもう一度味わいたいと思い、本体価格より高い配送料を払って「アーモンドバター」を取り寄せました。小粒に刻んだアーモンドがグラニュウ糖などと共にマーガリンに練り込んでありました。大豆などの植物油を使ったマーガリンをベースにしてあることに少し違和感を持ちましたが、マーガリンのことを人造バターとも言いますから、「バター」の名を冠したものと思われます。
 冷蔵庫から取り出した「アーモンドバター」をレンジで適度に柔らかくし、パンの上に広げ、あらかじめ余熱しておいたグリルでゆっくりと焼き上げます。グリルの窓から覗くと、表面がぷくぷくと泡立ち、それが焼き上がりの頃合いで、溶けたバターがパンの下面まで浸透します。

 (写真6)やっさバーガー2時限の座学を終え、遅いお昼になりました。大手門通りに面し「イーグレ姫路」近くの「あなご弁当」「肉めし弁当」を商うお店で「やっさバーガー」を注文しました。店に隣接して外に開放された土間には、小さなテーブルと椅子3脚が置かれてあり、先客が居ないのが幸いして、ゆっくりと昼食を取ることが出来ました。
 「やっさバーガー」は、ライスバーガーです。紙袋に包まれていて、それを破ると人参ときんぴらごぼう・レタスを、穴子の煮出し汁で炊き、焼き上げた六穀米(古代米、稗、粟、麦など)で巻き、さらに全体が海苔で包んであります。きんぴらは甘辛く味付けされていて、添えられたレタスがさっぱりとした食感をもたらし、海苔の香りが一段と食欲をそそります。海苔で包んだのは、改修中の大天守閣が鞘堂で隠れているのを模したもので、従って期間限定だそうです。
(写真7)「屋台 やっさ」

 『やっさ』とはお祭りの神輿を乗せた「屋台」のことで「灘のけんか祭」では3基の「屋台」が繰り出され、神輿をぶつけ合い、練り合わせる勇壮で豪華絢爛な「はだか祭」が10月半ばに繰り広げられるということです。その「屋台」が姫路駅構内に飾られていました。

(写真8)赤提灯「停主」

 近畿圏内の面接は9:45に始まり、4時限目が16:35に終わります。冬至半月前とはいえこの時期の4時半は、薄闇に包まれます。大手門通りを挟んで「大手門公園」と対面する位置にある「家老屋敷公園」の近くの路地に入り、提灯に「停主」と書かれた店に案内されました。(写真9)横須賀の人

 姫路に来たら、是非「姫路おでん」を食して欲しいと言う友の薦めを喜んで受け、このお店に案内されました。薄暗い路地にただ一つぽつんと明かりを灯している赤提灯が、遠来の客を寒空の下で暖かく迎えてくれているように思えました。この店は知る人ぞ知る穴場で、常に常連の予約客で満席になってしまう焼鳥やおでんを商っているお店とのことです。私たちは早く行ったので、調理場のカウンターに席を占めることができました。暫くするうちに店は満席になってしまいました。席の近くに、なぜかこの店の娘さんと「横須賀の人」の写真が飾られていました。

(写真10)「姫路おでん」 「生姜醤油」で食べる「おでん」はすべて「姫路おでん」ということになっています。関東煮【かんとうだき】した具に「生姜醤油」をかける、あるいは刺身のようにつけて食べます。姫路を中心に加古川から相生辺りまでの、限られた地域で食べられている独特の料理だと言います。生姜は薬味野菜の最たるもので、古くから薬効が認められていて、身体の内部から温めてくれます。おでんの具は、大根を始め、ちくわ、こんにゃく、ゆで卵、しらたき、ごぼ天、がんも、厚揚げなどの揚げ物など、実に多種多様ですが、このお店では牛すじ肉、焼き豆腐も使われていました。「牛すじ」は姫路おでんのだし汁の一部なので、これを外すわけにはいかないと言っていましたが関東では使われず、また関東で使われるはんぺんは、関西では使わないということです。
このことは、東西の食文化の違いといっていいでしょう。
 受け皿に「生姜醤油」をたらし、具につけて食べましたが、生姜の辛味もにおいも醤油に溶け込んでいるらしく、少し濃い目に味付けしたおでんといった感じでした。先入観と違って意外にあっさりした初めて出会った味でした。

 おでんの後に食べたのは、「にゅうめん」でした。生産高全国一の「揖保の糸」を使った料理です。夏に冷やして食べる(写真12)姫路のにゅうめんのが「ソーメン」、温かく煮込むと「にゅうめん」に名前が変わります。「煮麺」の発音がなまったのだということです。
 播磨地方は良質の小麦が取れ、揖保川の清流、赤穂の塩など原料に恵まれていることから「素麺」作りが盛んになったといわれます。薄味でのど越しの良い温ったか「にゅうめん」でした。

(写真13)えきそば
 2日間の授業を終えて、友人とともにした最後の食事は、姫路駅構内での「えきそば」でした。和風だしに中華麺という一見ミスマッチな面白い取り合わせですが、市民にも遠方に帰る客の、ちょっとした腹ごしらえにも人気の立ち食いそばだと言うことです。うどんより細く、ソーメンより太い麺が使われた昭和24年からの歴史ある珍しい「そば」でした。

 
 「姫路おでん」を家で作ってみました。いつも作るように昆布と鰹節でだしを取り、それに白だしを加えて調味料にしておでんの具を煮、生姜をすり下ろして絞った汁に、醤油と少量のみりんを加えて一晩寝かせておいた「生姜醤油」を具にかけて食べました。素人の作った「姫路おでん」は、生姜汁が多かったためか、かすかに生姜の香りがしましたが、姫路で食べたと同じように、さっぱりとした味に出来上がりました。残した「おでん」は翌日には味が浸み込み、より美味しくなっていました。 (写真14)自家製姫路おでん
(写真14)自家製姫路おでん
 姫路駅まで見送ってくれた友人からお土産に戴いた「揖保の糸」を使った「にゅうめん」も作ってみました。彼はわざわざ「ひね」の麺を探してくれたのでした。でき立てのものより、しばらく寝かした麺の方が味がよいのだそうです。一緒に添えた「ポテトサラダ」も自作です。私の作る「サラダ」はマヨネーズと塩・コショウで味付けするほか、少量の砂糖とフレンチドレッシングを隠し味にします。手前味噌・自我自賛の「サラダ」です。 (写真15)自家製にゅうめん
(写真15)自家製にゅうめん

 今年11月に行われる「B−1グランプリご当地グルメ全国大会」は、姫路市の「大手門公園」が会場になる予定です。姫路市は「姫路おでん」を出品する予定ということです。津山は昨年4位の「ホルモンうどん」で再挑戦するのでしょうか。神奈川は「三崎まぐろラーメン」が5位でした。「甲府鳥もつ煮」で優勝した山梨県は、今年はどうするのでしょうか。いずれにしても美味しいご当地自慢の食べ物が集まり、目が離せません。おいしいものは幸せの根源ですから。

 ー以上ー   永井 藤樹    


『食べアルキ帳』第3回
年の瀬の墨堤散歩
木村 勝紀
2011年1月15日

年の瀬の墨堤散歩!(0)

櫛田政五郎  写真&編集 

 今回初めて「食文化研究会」の「墨堤散歩」に参加させて頂きました。
当日は、散歩するには絶好の日和となり、一日楽しく過ごすことが出来ました。
幹事の皆様と同行して頂いた皆様に感謝です。

櫛田政五郎    


年の瀬の墨堤散歩!(1)

木村 勝紀 


 平成22年の年も押し詰まった12月18日(土)、食文化研究会「食べ歩き帳」第3回として、年の瀬の墨堤散歩を企画実施しました。
時あたかも東京スカイツリーの建設で話題沸騰の隅田川河畔。浅草観音様側から吾妻橋で隅田川を渡って向島。向島は江戸以来の桜の名所で、文人墨客にも親しまれ、小さいながらも由緒に富んだ神社仏閣が散在するところです。食文化研究会の企画らしく、東京スカイツリーを遠近に眺め、神社仏閣を訪ねながら名代の名物「長命寺の桜もち」、「言問団子」そして仕上げには江戸創業のうなぎの老舗「駒形前川」で、うな重に舌鼓をうつという趣向でした。それでは当日の行程に従って順を追ってご案内いたしましょう。

◆ 墨田公園と牛嶋神社

吾妻橋を渡ってアサヒビール・タワーを左に折れると隅田公園です。ここは御三家のひとつ、水戸徳川家の下屋敷跡。元禄6(1693)三代藩主綱條公【つなえだこう】が将軍家から賜ったといいます。小石川の上屋敷の別邸として使用されました。その昔、あたりは小梅村といい、下屋敷にふさわしい閑雅な地であったようですが、今日では公園としてわずかにその名残をとどめているだけになりました。
 この隅田公園の一画に牛嶋神社があります。その昔、このあたりを牛嶋といったころの総鎮守で、平安初期の貞観年間(859〜877)に、慈覚大師によって創建されたと伝えられます。慈覚大師は下野出身、天台宗の開祖伝教大師・最澄の弟子で、生前の名は円仁といいました。天台座主にもなり、比叡山興隆の基礎を確立した人です。
 祭神はスサノウノミコトで、下っては源頼朝の崇敬が厚かったといわれます。頼朝が軍勢をひきいて下総国から武蔵国に行く途中、隅田川の洪水で渡河が困難になったとき、千葉介常胤が同神社に祈願して無事に渡ることができたからだと伝えられます。『江戸名所図会』にはこうした由来などと共にスサノウを「牛午前【うしごぜ】と称す」と記し、神社名も「牛午前王子権現社」としています。牛午前はそれなりに親しまれた名で、近代でも向島の地に生まれ育った堀辰雄の小説『幼年時代』に出てきます。彼はその中で「そこの神社の境内の奥まったところに、赤い涎掛けをかけた石の牛が一ぴき臥ていた。私はそのどこかメランコリックなまなざしをした牛が大変好きだった」と書いています。 この牛は撫牛【なでうし】といい、体のどこかが悪い人は牛の同じ部分を撫でると病気が治るという言い伝えがあります。この撫牛は今も実在しています。牛の鼻は光ってつるつるしていました。私たちは三々五々境内を散策しながら牛の体を撫で、次に三囲神社へ向かったのでした。

◆ 三囲【みめぐり】神社

 元禄六年(1693)夏のことです。江戸近在は日照り続きで、農民は大変困っていました。田園地帯の向島では、農民が神社に集まって雨乞いの祈願をしました。しかし、相変わらず青空が広がるばかりで、雨の気配は一向に現れませんでした。
 そこへ、たまたま芭蕉の高弟・宝井其角が訪れました。事情を知った供の者が、其角に雨乞いの句を詠むようにすすめました。
 夕立や田をみめぐりの神ならば
其角はさらさらと短冊に一句をしたためて神前に奉納しました。効果はてきめん、たちまちその日のうちに大雨が降りました。
 この雨乞いの行われた神社が、三囲神社です。その鳥居は言問橋よりやや北の墨堤通りに面して、「三囲社」の額がかかっています。このあたりの墨堤は昔は「三囲土手」といって、土手に鳥居が顔をのぞかせている風景が向島の点景として絵や舞台の書き割りでおなじみです。『江戸名所図会』には、「三囲稲荷社」として「小梅村田の中にあり。(故に田中稲荷とも云う)・・・慶長のころ迄は今の地より南の方にありしを、後にこの地に移せり」とあります。「三囲」の名は、十四世紀の中ごろ、三井寺の源慶僧都が霊夢に感じて東国に下り、神像を掘り出したところ白狐が現れて像を三周したのに由来する、ということです。
 江戸時代には三井家の信仰が厚く、社殿の造営や修理に力を入れ、今日でも三井家が寄進した新しい記念碑が奉納されています。境内には石碑がたくさんありました。もちろん其角の夕立の句碑もありました。三囲神社を後にして、墨堤をぶらぶら談笑しながら歩くと、最初のお店「山本屋」の看板が見えてきます。独特の香りを放つ桜の葉に包まれた「長命寺さくら餅」を食してから長命寺に行きました。

長命寺桜もち

◆ 長命寺桜もち

長命寺さくら餅本舗の栞によると次のように書いてあります。

「当店の桜もちは「長命寺桜もち」として、古来より皆様のご愛顧をいただいております。桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(1717年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡長命寺の門前にて売り始めました。その頃より桜の名所でありました墨田堤は花見時には多くの人々が集い、桜もちが大いに喜ばれました。これが江戸に於ける桜もちの始まりでございます。(中略)江戸の味を今に伝える、当店の桜もちをどうぞご賞味下さいませ。店主敬白」。

みなさんさすがにご満足の様子でした。山本屋の裏手が長命寺です。

◆ 長命寺

隅田川七福神の一つ、弁財天を祀ります。そのため七福神詣での正月と桜の時期はひときわ賑わいます。創建は不明のようですが、三代将軍徳川家光が鷹狩りの途中急病になり、この寺に立ち寄って井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したといいます。喜んだ家光は、それまでの常泉寺という寺名を長命寺に改名させたのでした。この由来が境内にある長命水石碑に、国学者の屋代弘賢【やしろひろかた】の書で記されています。
 境内はさして広くはないのですが、大きさも形も趣向を凝らした句碑、歌碑、石碑の数々が60基余り、思い思いの向きに立ち並んでいます。石碑が多いのは隅田川が近いので重い石材を船で容易に運べたから、という説があります。有名なのは芭蕉の、
 いざさらば雪見にころぶ所まで
の碑や、高浜虚子の、
 桜餅食ふてぬけけり長命寺
の句碑があります。また、十返舎一九の、
此世【このよ】をばどりやお暇【いとま】にせんこう【線香】の煙と共にはい左様なら
など五人の狂歌師による辞世の句碑や、明治時代、朝野新聞社長として活躍する一方、墨堤の桜の保護に尽力した成島柳北【なるしまりゅうほく】の胸像を彫った碑などがあります。
 例によって『江戸名所図会』を紐解くと、「当寺昔はいささかの虚室なりしが、寛永年間大樹【将軍】御遊猟の砌【みぎり】、少【すこし】く御不予にあらせられしかば、この寺内に休【やすら】はせたまひ、庭前の井の水をもて御薬服し給ひしに、須臾【しゅゆ=しばらく】にして常にならせ給ひしより、この井に長命水の号を賜はり、寺の号をも改むべき旨台命あり。爾来【じらい=しかりしより】長命寺と称す(昔は常泉寺と云ひしなり)」。と、長命寺の由緒を伝えています。長命寺のお隣が弘福寺です。弘福寺の参詣がてら全員写真を撮ってから、本日2軒目の「言問団子」のお店に向かいました。

◆ 弘福寺

正式には牛頭山弘福禅寺といいます。隅田川七福神の布袋様が祀られていることで知られていますが、黄檗宗【おうばくしゅう】の名刹です。門は中央が一段高くなっている中国風の珍しい形で、黄檗宗の大本山萬福寺(京都府宇治市)の山門を模したといわれます。正面の堂々たる本堂も、柱にかかる聯(れん=柱の左右に相対して飾る書画の板)、扉の両脇につけられた円窓【まるまど】、めでたい桃の飾りなど、中国風の独特な雰囲気が漂います。
 黄檗宗は、中国・明末の僧、隠元禅師が承応三年(1754)来日して伝えた禅宗の一派で、代々法嗣に中国僧が続いたこともあり、すべてに明様が強いといわれます。
弘福寺は延宝元年(1673)、黄檗宗第二代木庵【もくあん】禅師の弟子、鉄牛【てつぎゅう】禅師が建立しました。本堂の「大雄寶殿」の額は木庵禅師、「祝国」の額は鉄牛禅師の書といわれます。
 境内右手に通称「咳の爺婆尊」の小堂があります。禅僧の風外和尚が、相模国真鶴の洞窟で修行中に父母の像を彫り、これを拝して孝養を尽くした。風外和尚が諸国を巡遊中、小田原藩主の稲葉美濃守正則の知遇を得て、正則が老中になったとき江戸に同行して、この尊像を同寺に寄進したというものです。風外の名から風邪除けの信仰が生まれ、口中の病には爺に、咳が出る時には婆に祈願すると効果があるといいます。
 幕末には、本所に住んだ勝海舟がたびたび訪れて参禅しました。また、明治の文豪森鴎外もこの寺が気に入り、亡くなったときはその遺志によって弘福寺に葬られたといいます(現在は三鷹市禅林寺に改葬されている)。
 例によって『江戸名所図会』には、「牛午前宮の東に隣る。この辺を須崎といふ。黄檗宗の禅室にして洛陽万福寺を模す」と紹介されています。

言問団子

◆ 言問団子の由来

 言問団子の由来も店の栞で紹介しましょう。次のように書いてあります。

「その昔右近衛中将在原業平朝臣東国を旅行して武蔵に来たり、下総国との境を流れる隅田川で白い水鳥の鴎を見て、渡守にその名を問うて都鳥と聞くや、ひとしお都が恋しくて旅愁をそそられ、
 名にしおはばいざ言問わん都鳥
       我が思ふ人はありやなしやと
有名な和歌を詠んだ古事に感じ、弊店の祖先が現在の地に業平神社を建てて業平朝臣を祀り、この辺りを言問ケ岡と称うるに至った。元禄の頃、此より江戸郊外の向島は四季折々の眺めに富んだので、文人墨客の散策するもの多く、偶々杖を曳く風雅の人の求めに応じて手製の団子や渋茶を呈したのがそもそも弊店特製言問団子の由来で、江戸以来東京名所名物の一つとして、今に受け継ぎ皆様方の御贔屓を忝【かたじけ】のうしている次第であります。言問亭 主人」

店内に入ると緋毛氈を敷いた縁台があり、その縁台に座って小豆餡、白餡、みそ餡の三色の団子を戴きました。静岡産の川根茶を使ったお茶とともに甘さを控えた上品な言問団子を満喫しました。次は桜橋を渡って隅田川対岸の待乳地山聖天です。桜橋上で全員写真を撮りましたが、背後には東京スカイツリーが青空に突出して、それはそれは見事な背景となりました。

◆ 待乳地山聖天【まっちやましょうてん】

広重の浮世絵や各種の名所図会に、隅田川河畔に待乳山と呼ばれた小山がそびえ、その山上に待乳山聖天の堂宇が描かれています。高さ9メートルほどしかないものの、待乳山は低地の続く墨堤では、眺望のよい景勝地として知られていました。
 江戸時代に造られた土塀に沿って、石段を上り詰めると、高台に本堂が建っています。ここに安置されている秘仏の聖天は大聖歓喜天【だいしょうかんきてん】の略称で、仏教の守護神です。象頭人身の男女の神が抱擁している姿をしており、富貴を与え、夫婦和合、子授けにご利益がるといいます。そのため、正式な金龍山本龍院の名よりも待乳山聖天の名で親しまれています。
 待乳山に聖天が祀られるようになったのは、近くの浅草寺の本尊が隅田川から引き上げられる先瑞【せんずい】として一夜で待乳山ができた。その後、推古9年(601)この地が旱魃になった時、聖天の本地仏である十一面観音が出現、雨を降らせたという所縁【ゆかり】によるといいます。
 本堂をはじめ、境内のいたるところに聖天のシンボルである二股大根と巾着の数々が目に入ります。正月の三が日には今戸焼きの巾着型貯金箱が頒布されます。今戸焼きは江戸時代から続く素朴な土人形で、招き猫などでおなじみです。また、1月7日の大根祭りでは、風呂吹き大根が大勢の参拝客に振舞われます。この待乳山聖天のお隣は、昔芝居でおなじみの猿若町です。さて、次はいよいよ鰻蒲焼の名店「駒形前川」に向かいますが、浅草近辺に来て観音様にお参りしないで帰ると罰が当たる、との言い伝えに敬意を表して改装なったばかりの観音堂の境内、仲見世、雷門を通過して駒形橋畔の「前川」を目指しました。

「前川」のうな重

◆ 鰻蒲焼「駒形前川」

ここでも当店の栞から抜粋してご紹介しましょう。

「長い歴史の中で、脈々と受け継がれてきた老舗の味。文政年間より、通人の通い道として名高い「前川」のうなぎは、ひと品ひと品こころを込めて焼き上げた、手づくりの芸術品。お越しいただいたそれぞれのお客様に最高の名に恥じない洗練の妙を堪能していただけるものと存じます。当店みずから包丁をとる伝統のままに、厳選された素材と、細心な調理によって生まれる深い香りと味わい。粋な江戸情緒のあふれる、落ち着いた雰囲気のなかで、「前川」の逸品をこころゆくまでご賞味くださいませ。(後略)」。

小春日和の絶好の好天に恵まれて、総勢15名の参加者は建設中の東京スカイツリーを間近に仰ぎつつ、神社仏閣の見学と向島名物の「さくら餅」「言問団子」を間に挟んで、「前川」のうな重で止めを刺すという食道楽の一端を堪能した次第です。                 以上         

 文責:木村勝紀   


年の瀬の墨堤散歩!(2)

大木陸夫    写真と文  


12月18日、向島の名所から「スカイツリ―」と、「長命寺桜もち」と、「言問団子」と、「前川のうなぎ」を食べに行きました。

10時、京急横浜駅に集合した15名の参加者は、浅草へと向かい、11:05 浅草駅から吾妻橋に来ると、そこにはスカイツリーを写真におさめる大勢の人たちがおりました。

私の左のビルは墨田区役所、右にはアサヒビール本社、アサヒビール吾妻橋ホール(きんとん雲のあるビル)が並んでいます。

10時、京急横浜駅に11:25 枕橋からの私です。東武電車と屋形船と私を映す北十間川です。

11:50 牛島神社を参拝後、三囲【みめぐり】神社からの私です。元禄時代干ばつに雨乞いする者に代わって?角が一句を奉納すると、翌日降雨があったという話や、豪商三井氏が守護神として三越に分霊した話があるのよ。三越のライオンもいたでしょ。

12:25 長命寺桜もちをたべたの。桜葉三枚につつまれた桜もち、店主曰く「葉は食べないで香りを味わって」。
おいしかったでしょう。享保2年から290年ですってよ。

12:35 長命寺境内から隣の弘福寺の本堂越しに見える私です。将軍家光が鷹狩りの折り腹痛を起こしたが、ここの井戸水を飲んでおさまったことから長命水と名づけられ、後に寺名となったそうよ。
12:45 弘福寺。黄檗【おうばく】宗は、禅宗の一つです。明調の本堂や門がいいでしょう。

13:00 言問団子もおいしいでしょ。見たとおり三色のお団子よ。
江戸時代からの老舗ですってよ。

13:25 桜橋からの私よ。背が伸びたでしょう、514mよ。桜橋は台東区と墨田区の姉妹提携事業として1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つもので、形状は平面のX字形をしているのよ。

14:50 前川でおいしい鰻を食べていると窓からお月さまが。
16:10 お月さまが落ちてくるのを待ってるの。上手くいったらご喝采を。

また来てね〜\(^o^)/

  大木陸夫   


年の瀬の墨堤散歩!(3)

吉木靖治 


地下鉄浅草駅を降りて吾妻橋に出た。早速、スカイツリーの
姿が見える。
多くの人が橋の上からカメラを向けている。
冬の日がさんさんと照りとてもいい天気だ。

  大川や朱の欄干に冬日差

橋を渡り向島の墨堤を歩く。程なく、牛嶋神社。撫牛の像があり
体の悪いところと同じ部位を撫でると病が治るらしい。
私は、心臓をはじめ悪いところだらけなので撫でるところが多くなる。

  牛嶋の牛なでて冬深まりぬ

つづけて、三囲神社に参る。小さな銀杏が沢山落ちていた。落葉掻きの女性が
これは小さすぎて手間が掛かるので食用にはならないと言っていた。
雨乞のために奉納した基角の「遊ふた地や田をみめくりの神ならは」の碑がある。

  三囲や寺も畑も冬旱

まず、食べたのは長命寺桜もち。
店主は葉っぱは香りを楽しむもので食べないようにと言っていたが、
かまわず食べると葉っぱの塩味と香りが素朴な餅と餡に混じり
得もいわれぬ味わいであった。

長命寺、弘福寺を回り、次は言問団子。
さわやかな三色の団子が皿に乗って運ばれてくる。
これは、小粒ながら上質の甘さに満ちて、先ほどの桜餅の素朴な
味に比べると、洗練された都の味と言える。

お土産は、家内一人分だけなので、桜餅の6個入りでは多すぎると
思い、小粒な言問団子6個を求めた。

次は、桜橋を浅草側に渡り、待乳山聖天に参る。
お供え用の痩せた大根が1本200円で売っていた。
これは、ちと高いかな。傍の日本庭園を回ったが、
ここも数人の女性がせっせと落葉を掃いていた。

  聖天や落葉を掃きて日もすがら

そこから、浅草寺の羽子板市に回る。
羽子板市の掛小屋がおそろしく少なくなっているのに驚いた。
4〜5年前に比べて5分の1ぐらいになっているのではないか。
いつも思うことだが羽子板の値段は目の玉が飛び出るほど高い。

  簪の揺れて羽子板市暮るる

仲見世通りの混雑を抜けて、いよいよ本命の前川の鰻となる。
大広間に通されると、目の前に大川(隅田川)が広がり、
これが店名の由来とのこと。
上り下りの船を眺めながら暫く待つと、うな重が運ばれてきた。
重箱にご飯が見えないくらいきっちりと鰻が乗っており、
これに山椒をたっぷりかけて食べる。
鰻はすこし厚めだが、柔らかく、重厚な味で、山椒のぴりりとした
辛味が口の中に程よくのこり、次の鰻を口に運びたくなる。
甘み、辛みにくどさがなく、これはさすがに名代の鰻である。

  まなかひに冬の川ある鰻かな

暫くは、夢中で食べていたが、満腹になって、ふと窓の外を
見ると、スカイツリーの先端に触れんばかりに月が出ている。
月までが、われわれを歓迎してくれているようで感激一入の
幕切れであった。

  暮れ残るスカイツリーに冬の月

以上          吉木靖治    

 ‘甲府名物鳥もつ煮’ ―「縁をとりもつ」のキャッチフレーズに惹かれて
吉原 司朗
2010年11月18日
 偶々、甲府に行く機会があったので、B-1グランプリに輝いた噂の‘鳥もつ煮’で一献と目論み、開発に関わったゆかりの店を訪ねた。店は甲府駅前にあるが、あまりの盛況で仕込みが間に合わず午後6時前と云うに暖簾を降ろすところであった。止む無く店主の紹介で近くの‘七賢酒蔵’に向かった。ここの板前の宮川さんは、‘鳥もつ煮’のレシピを完成させた塩見力造さん(蕎麦屋奥藤)の弟子として尽力された方で当時の苦労話を番頭さんから聞くことができた。そもそも終戦間もない食糧難の時代に鶏のもつ部を捨てるのは忍びないとの思いから何とか美味しく食べることができないかと工夫に工夫を重ねた産物で、ガスコンロの無い時代に火力を上げて照り煮に仕上げるのに種々苦労されたようだ。本来‘鳥もつ煮’は醤油ダレで甘く濃厚な照り煮が特徴であるが、ここではお酒に合うようにやや甘さを抑えている。ほどよく噛みごたえがあり噛むほどにコクのある絶品であった。また、串あげも看板メニューだけあって食材を厳選しており鳥もつ煮に負けず劣らずの美味であった。地酒七賢は云うに及ばず銘釀あり至福の一時であった。なお、甲府市役所の若手職員が火付け役となりブームとなったが、実は知る人ぞ知る山梨の食文化である。

 甲府に行かれた折にはどうぞご賞味あれ!

銘釀 地酒七賢で至福の一時 鳥もつ煮 宮川さん
銘釀 地酒七賢で至福の一時 鳥もつ煮 左から二番目が宮川さん
以上     吉原司朗 


 佐原・小堀屋本店の「黒切蕎麦」
木村 勝紀
2010年6月22日
(写真1)佐原小堀屋入り口
(写真2)佐原小堀屋店内口
(写真3)黒切そば

佐原市とは?
 今から6年前、平成16年一泊研修の幹事を仰せ付かったことがありました。事前の下見に、当時愛車としていた大型バイクを駆って千葉県佐原市(現在は香取市佐原)に行き、市内観光の調査をしました。
佐原の歴史は古く、縄文遺跡や、古墳分布の稠密さ等から、往古より一大文化圏が形成されていたことがわかるそうです。鎌倉中期頃から安土桃山時代にかけて、下総式板碑と呼ばれる特殊な石造文化圏が形成されたともいいます。天正18年(1590)徳川家康が関東に入国以来、水運を利して江戸との交流が盛んになり、江戸時代を通じて醸造業や商業が大いに発達したといいます。今でも埼玉県川越と並んで「小江戸」と呼ばれるように、当時の江戸の風情を多く残す関東有数の観光地になっています。香取神宮や地図でおなじみの伊能忠敬記念館などが有名です。「佐原見ずして江戸を語るなかれ」とは地元観光協会の人の言でした。

江戸時代創業の蕎麦屋
 街中で1軒の古風な蕎麦屋を見つけました。土蔵造りで瓦葺の切妻屋根といった江戸時代の町家の建築様式を今に残しています。まことに情緒豊かな店構えです(写真1)。暖簾を分けると、格子の入ったシトミ戸があります。戸を右に開いて店内に入ると土間があり、土間の両側は客席のタタミ敷きになっています。2階にも部屋があるらしい。お店の人にそれとなく聞くと、天明2年(1782)に開業した蕎麦屋ですが、数度にわたる火災のため、現存している建物は明治23年に建築されたものだそうです。店内はほとんど建築当時のままで、床の間や、天井、梁、階段などは黒く光り江戸時代にめぐり合った気分になります。(写真2)

旅に名物の食あり「黒切蕎麦」
 名物はなんですか? と聞くと「黒切蕎麦」だといいます。それではそれをと注文して待つことしばし。せいろにのって出てきたのは真っ黒のそば切りでした。ちょうどイカ墨パスタを芯まで徹底的に黒くしたものといった風情です(写真3)。そば粉に昆布を加えるとこうなるのだといいます。上品なカツオだしのタレに薬味を入れて、細めの蕎麦をタレに漬けてスルスルとすする。名物に美味いものあり、蕎麦と昆布の香りが口中に広がり、のどごしもよく満足すべき味ではありました。

一泊研修本番では
 団体客では狭い店内に入るべくもなく、参加の皆さんに紹介することもなく試食していただくこともできませんでした。幹事として心残りでありました。平成22年、今年の一泊研修では再度佐原に行くとの噂があり、もし実現すれば希望の数人を募って是非再訪問したいものです。写真を3枚ご覧に入れます。店構え、店内、黒切蕎麦です。想像を逞しくして、「黒切蕎麦」との出会いを祈って下さい。

佐原の老舗「小堀屋本店」の紹介
 この蕎麦屋は「小堀屋本店」といいます。隣り合わせに近代建築の「小堀屋別館」がありますが、どうせ行くなら是非本館で「黒切蕎麦」を食したいものです。小堀屋(篠原家)は、もと醤油醸造を家業にしていたそうですが、天明元年(1781)に火事で焼けたのをしおに、同2年(1782)蕎麦屋を開業したといいます。土蔵は、現在でもそのまま倉庫として使われており、中には小堀家に代々伝わる「家宝」がしまわれているとか。たとえば、今なお美しい光沢を放っているウルシ塗りの献上蕎麦の道具や、享和3年(1803)に書かれた日本で一つしかない蕎麦の製法を伝える巻物(盛り蕎麦だけで57種類のメニューがあった)などです。小堀本店は、江戸時代の建築様式を、明治半ばに再現して、今日まで保護・保存し営業も続けていることから、間口2間、奥行3間半の2階建と、入り口の格子戸を含めて、昭和49年3月に、千葉県有形文化財として指定されたといいます。

以上(文責:木村勝紀)


『食べアルキ帳』第2回
「食の文化センター」と「神田まつや」「竹むら」
木村 勝紀
2009年12月8日

『食べアルキ帳』第2回

 文化というものがその社会に共有され、受け継がれてきた様式だとすれば、食もまた立派な文化であります。今回は、食文化とは何か? を探るべく港区高輪の財団法人味の素食の文化センターを訪れ、食に関する古文書、江戸時代の錦絵の原本など貴重な史料などを拝観しました。また、食文化に関する丁寧な説明を受けるなどしてアカデミックな体験をしました。その足で昭和の町並と老舗がそのまま残る神田須田町へ移動。蕎麦処「神田まつや」と甘味処「竹むら」を訪ね舌鼓みを打ちました。食を文化として体験するという食文化研究会の主旨をようやくご理解いただいた食べアルキとなりました。以下にご参加の皆様の中から寄せられた感想文の一部をご紹介いたします。

(世話人 木村勝紀)

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◆ 吉木靖治さんの感想文

 これまで、食文化のことなどあまり考えたことがありませんでしたが、いろんなところに奥深い分野があるものだなと肌で感じ、大変勉強になりました。有難うございました。

 「食の文化センター」で印象に残ったこと。
 江戸時代の幕の内弁当は、今と同じような見かけですが、米のおにぎりが3分の2を占め、おかずは3分の1で現代と逆の比率でした。
 江戸時代の人は肉を食べなかったので身長が低く、平均身長は男が153cm、女が140cmとのことでした。(これはおどろき!)
 戦時中の日本人の平均的な食事(1700kcal)の見本は現代で言えばダイエット食と同じで、見ただけで力が抜けそうな貧弱なものでしたね。我々の親の世代はあれでよく頑張れたものだと思いました。(えらい!)
 戦後の食事において、米によるカロリー摂取量が昭和35年頃は全体の中で60%、昭和60年頃では30%とのことで、日本人の食生活が急激に変化していることが判りました

 「神田まつや」では、天麩羅もりそばを食しました。
 揚げ立ての海老天があつあつで、漬け汁につけて冷やしながら海老のぷっくりした食感を楽しみました。蕎麦も腰があってさっぱりした味でおいしかったです。同席の女性陣がさっさとビールと日本酒を注文し、私もお相伴しましたが、つまみの練り味噌が香ばしくなかなかいける味でした。

 「竹むら」では、粟ぜんざいを食しました。
どんなものか興味しんしんでしたが、器の中に大きな粟団子があり、その上にぜんざいをかけたものでした。粟団子を食べたのは何十年ぶりかでしたがとても懐かしい味でした。

 今回は、おそらくこれから二度と見ないようなものを見、二度と食べないようなものを食べたような気がします。得がたい体験でした。
 また、次回も参加したいと思います。よろしくお願いします。

吉木 靖治

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◆ 永井藤樹さんの感想文

食めぐり12月1日

 正午、京急横浜駅に集合。「まぁ、なんてお洒落な男性陣だこと」。女性陣の讃辞に心浮き立つ男ども。 うちそろって一路品川へ。ここで軽い昼食。
 芝高輪にあるメセナ『食の文化センター』へ。3万冊に及ぶ食に関わる蔵書。「魚つくし ぼら」の大判錦絵、本物だけが持つ迫力に圧倒される。「豆腐百珍」など、貴重な料理和綴本の数々。表千家の茶室「一華庵」。簡素な四畳半の、奥に続く水屋。水屋との出会い。茶道を嗜まない私が初めて見る水屋。茶会の様子を描いた表題「水屋帳」の由来に納得。友人が熱く語る茶人井伊直弼の『東都水屋帳』を思い出す。芝高輪にあるメセナ『食の文化センター』へ。3万冊に及ぶ食に関わる蔵書。「魚つくし ぼら」の大判錦絵、本物だけが持つ迫力に圧倒される。「豆腐百珍」など、貴重な料理和綴本の数々。表千家の茶室「一華庵」。簡素な四畳半の、奥に続く水屋。水屋との出会い。茶道を嗜まない私が初めて見る水屋。茶会の様子を描いた表題「水屋帳」の由来に納得。友人が熱く語る茶人井伊直弼の『東都水屋帳』を思い出す。
 地下鉄3線を乗り継いで「淡路町」の「神田まつや」へ。ここで「大もりそば」に熱燗1本を注文。そば1本をそのまますする、次いでつゆを少し口に含む、おもむろに、そば3分の1をつゆに漬け「ズズ・ズズズズー」と豪快な音を立てて引き摺るのが「通の食べ方」とか。しかし、私はつゆ、たっぷりの方を好む。 熱燗の銘柄は「菊○宗」。これが誠においしかった。自分の舌が確かな味を掴んでいる感触の喜び。普段いかに不味い酒を飲んでいるかの証です。お銚子の中身が上げ底でないのがいい。至極当然と言えば当然だが、このお店「良心」を感ずる。
 次いで「竹むら」へ。「粟ぜんざい」は初めて。ねっとりとした粟餅の塊に、餡がこってりと乗る。 甘党の私の目が踊ります。「ぜんざい」を汁粉と思うは関西風か。しっとりとした上品な甘さ。舌の肥えた江戸っ子相手の甘味に、ごまかしはきかない。
「食」をまさしく「文化」として体感。目が確かめ舌が味わい、目、舌ともに喜び、その上に気心知れた仲間内々の会話が、喜びを倍加させてくれた一日でした。

永井 藤樹

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◆ 岡本興和さんの感想

木村さん
皆さん

 私は横浜線新横浜駅のホームで駅そばをよく食べる。かきあげそば360円が定番だ。注文する人を見ていると8割方うどんよりそばが多い。それにかき揚げを添えるのが売れ筋だ。今では舌もお腹も応えて満足してしまっている。

 今まで木村さんに連れられて下町中の老舗のお蕎麦屋さん巡りであちこち行った。

 今回の神田まつやは店構えからして風格がある。夕方だったので混んでいたが我がグループ男4人の席があった。ざるに大盛それに熱燗4本で蕎麦談義で小さな小さな宴が始まった。見渡すと着物姿の姑娘(ねーさん)も多い。
 ここのお銚子は、本当に1合入ってるんだ。七勺つもりで飲んでいると、なかなかなくならない。おねーさんに聞くと待ってたとばかりに菊正宗の正一合と答えが返ってきた。

 昔昔、先輩に連れられ更科でそばと日本酒の薀蓄を聞いた。酒は飲むのでなく蕎麦に掛けるのが通なのだと。そんなことを思い出してみんなに薦めた。

 新横の駅蕎麦と比べるまでもなく「神田まつや」の蕎麦は確かにうまい。蕎麦味噌もつゆも香りがあり明治17年創業からの味を今日堪能できた。

 木村さん ありがとうございました。

岡本 興和

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◆ 吉原司郎さんの感想文

放友会「食文化研究会」の見学会に参加して

 久しぶりに「食文化研究会」のイベント(12月1日開催)に参加した。 今回のコースは、財団法人「味の素 食の文化センター」 を見学し、蕎麦の「神田まつや」から甘味どころ「竹むら」と、やや欲張ったコースであったが、「味の素食の文化センター」では、食文化研究支援を公益的次元まで高めるべく、また、「食」を学問・文化として普及するべく5万冊に及ぶ 貴重な蔵書ある図書館に案内され懇切な説明を受けた。 蔵書は大部分は一般の図書館のように貸し出しをしているとのことであった。また、蔵書のほかに も多くの資料を所有しており、「味の素」という商品は、もちろん知っていたが、企業の社会的責任について再認識した見学であった。

 品川での見学を終えて、地下鉄を乗り継いて淡路町駅に下車し、明治17年創業の老舗「神田まつや」を訪ねた。
 満員のなか席をどうにか確保して、菊正宗で喉を潤し「大もり」を堪能した。ワサビ無しは伝統を護るためか定かではないが?わたしは、通ぶって、少々、お酒を下して食したが、これはこれで味わい深いものであった。

大正ロマンの香りが残る「竹むら」へ

 本日の最終コース甘味どころの「竹むら」では、思い思いのメニューをオーダーしたが、やはり「おしるこ」かなと思い決め注文したが、何と席に着くと「桜ゆ」が出て舌先を整えてくれる配慮はうれしかった。「竹むら」の味であった。
 さて、今回は13人の参加でありましたが、〈学ぶも佳し、また、食を楽しむも佳し〉誠に、楽しい一日でありました。計画して頂いた木村代表世話人に感謝します。
 ところで、本日小生は素直に帰宅しましたが、菊正宗に惹かれて横浜で一献傾けながら反省会をしたようです。流石「食文化研究会」の皆さん、味わいに広さがありますね!では、次回を楽しみにしております。

2009.12.6  吉原司郎


 江戸庶民の朝食
木村 勝紀
2009年10月20日

江戸の時刻
 江戸時代の時刻は、不定時法といって日の出、日の入りを基準に、昼と夜のそれぞれを六つに割って定める方式です。現在のように一日を24時間で均等に割るのではなく、日が昇れば「明け六つ」、日が暮れれば「暮れ六つ」です。
 したがって、一刻は季節によって長短が生まれます。現在の定時法とほぼ一致するのは、春分と秋分のときだけとなります。

「時の鐘」が知らせる江戸の朝
 江戸の朝は、「明け六つ」の鐘とともに始まります。日本橋界隈では本石町にある「時の鐘」が時を知らせました。最初の三つは捨て鐘といって予告です。そしておもむろに六つの鐘を鳴らします。「明け六つ」も「暮れ六つ」も合計九つの鐘を鳴らすことになっていました。ご存知でしたか?
明け六つ」の鐘が鳴り始めると、江戸の人々はその日の活動を始めます。

朝食は一日の生活のスタート
 夜明け前に起きだした豆腐屋は店を開き、町内でも売り声があがり始めます。長屋住まいの職人たちは、総楊枝【ふさようじ】に、房州砂に香料などを加えた歯磨き粉で歯を磨き、朝の身支度を整え、おかみさんたちは朝食の準備に竃【かまど・へっつい】に向かいます。竃の煙が長屋の路地から空に立ちのぼれば、江戸の朝は最高潮となります。表の通りには、納豆売りや浅蜊【あさり】売り、青物売りの売り声がひびきはじめます。この朝食づくりが江戸庶民の一日の生活のスタートでした。 

喜多川歌麿『台所美人』
喜多川歌麿『台所美人』
朝食の膳
  朝食の膳には、飯と汁、漬物のほかには、めざしか切り干し大根の煮物・昆布と油揚げ・きんぴらごぼう・煮豆など、おかずが一品か二品といったところでまことに質素なものでした。長屋住まいの親しさで、おかずの交換もあったといいます。贅沢はしなくても、心と心を寄せ合い助け合いながら寄り添って生きていたのでしょう。「人情紙風船」の現代よりも幸せだったのではないでしょうか。

喜多川歌麿『台所美人』
  添付した写真は、喜多川歌麿が描くところの『台所美人』の浮世絵です。朝食の準備に忙しい「おかみさん」たちの姿を描いたものです。想像をたくましくして江戸時代の朝を思い浮かべてみて下さい。
標準的な二つの竃に、茶釜の把手【とって】が螺旋状になって熱くならない工夫が見えます。ひとりは丸茄子を剥いていて、服装からみても夏の朝のひとときなのでしょう。

 江戸の文献にどっぷり浸かっていると、江戸時代のことが昨日のことのように思えてしまいます。それではまた、次回をお楽しみに。

文責:木村 勝紀


 横浜中華街・梅蘭やきそば
木村 勝紀
2009年8月16日

横浜中華街・梅蘭やきそば
 お盆の真っ只中、孫たちを連れて横浜中華街に行きました。30度を越す暑さというのに、人びとでごった返し、相変わらずの人気の街でした。上海料理で有名な「梅蘭【ばいらん】」の名物料理「梅蘭やきそば」をご馳走しました。今回は、その「梅蘭やきそば」の紹介です。

横浜中華街の沿革
 1859年に横浜が開港し、漢字を使って筆談できる中国人を通訳に伴って欧米の商人が来日したのが、横浜中華街の始まりとか。その後、港の賑わいととともに中国人の数が増え、中国料理店が軒を並べるようになったのでしょう。日清戦争や関東大震災、日中戦争、第二次世界大戦とさまざまな苦難を乗り越え、1955年には中華街のシンボル的存在の善隣門が完成しました。それまでは南京町と呼ばれていましたが、その門に「中華街」の文字が刻まれたことから、中華街という名が定着したそうです。

「梅蘭」は上海料理のお店
 ひと口に中国料理といっても中国は広大、地方によって味もさまざまです。中国には、北京料理、広東料理、上海料理、四川料理の4大料理がありますが、その他に福建料理、山東料理、湖南料理、揚州料理、台湾料理などバラエティーに富んでいます。「梅蘭」は上海料理のお店です。

上海料理の特徴
 揚子江の河口に位置する上海は、豊富な食材が集まるため、新鮮な食材を生かした料理が多いそうです。川魚や魚介料理もよく食べられており、10〜11月に食される上海ガニは日本でも有名ですね。味は淡白で甘めですが、特産の中国醤油を使った煮込料理には濃厚な味付けのものあるそうです。代表的な料理には、ワタリガニと卵の炒めものや豚の角煮などがあります。人気の点心や小龍包ももとをたどると上海が発祥だそうです。

「梅蘭」のやきそば
 「梅蘭」はれっきとした中国料理店ですから、一通りの上海料理を楽しむことができますが、「梅蘭」のやきそばは、いまや同店の名物で、いつ行ってもお客さんが列を作って並んでいます。一見すると卵に包まれて、丸いオムライスに見えますが、れっきとした焼きそばです。肉まんからヒントをえて生み出されたといいますが、一般の焼きそばと違って、焼き固められた焼きそばを箸で割ると、中からもトロリとしたあんで絡められた焼きそばがでてきます。日本人の好みにもピッタリで、タップリとした量が楽しめます。値段も893円とお手頃ですから、中華街にお出かけの節にはお勧めです。

「梅蘭」の場所
 500m四方の中に200軒以上がひしめく横浜中華街ですからお店を捜すのは至難の業です。二つの方法を紹介しましょう。
(1)JR石川町駅から善隣門へ
 善隣門をくぐって中華街大通りを直進します。右へ入る路地を中山路、香港路とやり過ごして三本目が市場通りです。市場通りに入って両側の中華料理店街を縫って進むと関帝廟通りに出ます。関帝廟通りを渡ってさらに進むこと20mほどの左側に4階建ての「梅蘭」のビルが見えます。
(2)みなとみらい線、元町・中華街駅から天長門へ
 元町・中華街駅を降りて長いエスカレーターで改札口へ。改札口から3番出口の階段を昇りきると本町通りです。左に向って最初の通りが蘇州小路です。左に折れて蘇州小路の突き当りをやや左に進むと天長門。天長門をくぐると関帝廟通りです。右へ入る路地の上海路をやり過ごして二つ目が市場通りです。市場通りの看板を右に見て左折します。そこから20mほどの左側に4階建ての「梅蘭」のビルが見えます。

 尚、中華街には「梅蘭」の支店が2店ありますが、どこでも同じ「梅蘭やきそば」が提供されます。「梅蘭やきそば」は、かつて「jinhoyu-net」で紹介したことがありますが、ホームページに収録するために再度投稿するものです。

文責:木村 勝紀


 あんぱん・ものがたり
木村 勝紀
2009年3月4日

銀座4丁目
銀座・木村屋総本店
銀座四丁目の名物店
 一丁目から八丁目まで、いずれも歴史と伝統を誇る専門店が軒を連ねる大人の町、銀座。近ごろは外国の超有名ブランドの出店も目立ちます。
 その中心である銀座四丁目の交差点。皆様は何を思い浮かべるでしょうか。時計塔でおなじみの「銀座・和光」でしょうか、それとも「銀座・三越店」、筆墨の老舗「鳩居堂」でしょうか。いずれ劣らぬランドマーク店ですね。グルメに関心のある方が忘れてならないのが、あんぱん発祥の老舗「銀座・木村屋総本店」です。

銀座・木村屋総本店
 木村屋総本店は、銀座和光を京橋に向かって隣にあります。今でも幕末に活躍した山岡鉄舟揮毫による「木村家」(なぜか「屋」ではなく「家」)の看板を掲げる威風堂々の店構えを誇っています。日本で初めて「あんぱん」を発明した店として有名であり、人気を維持しています。
 木村屋総本店は、明治2年に東京芝の日陰町に「文英堂」としてパン屋を開業。明治3年に尾張町(現在の銀座付近)に移転し、屋号も「木村屋」と改称し、明治7年に現在地の銀座四丁目に店舗を完成させたという文字通りの老舗です。

桜あんぱん誕生ものがたり
 これは「あんぱん」誕生ではなく「桜あんぱん」誕生の物語です。

 時は明治8年(1875年)4月4日。東京銀座の煉瓦街にある木村屋の店では、創業者・木村安兵衛とその息子・英三郎が酒種(パンの生地)の仕込みにかかっていました。この日、明治天皇が、向島にある水戸藩下屋敷をお花見に訪れることになっており、その時に木村屋の「あんぱん」を献上することになっていたのです。
 木村屋は、以前から英三郎が米と麹で生地を醗酵させた「酒種あんぱん」を作っていました。西洋のパンと日本の餡が組み合わさった「あんぱん」は、東京中で評判となり、店も毎日大賑わいだったのです。

 明治8年、明治天皇の侍従をしていた山岡鉄舟が店を訪ねました。鉄舟と安兵衛は明治維新前からの知り合いです。「水戸の下屋敷のお花見で、陛下にあんぱんを召し上がっていただこう」鉄舟の申し出に、木村親子はびっくり。安兵衛と英三郎は、腕によりをかけて「あんぱん」をつくることになりました。
「何か記念になるあんぱんを作って、それを召し上がって頂きたいなあ」
と安兵衛は言いました。
「パンは舶来物というイメージがるから、何か日本らしいものにしたいですね」
英三郎も頭をひねります。
「桜の塩漬けを入れるというのはどうですか? 季節にもふさわしいし・・・」
「うん、それは良い考えだ。早速作ってみよう」
酒種生地でこし餡を包んだ「あんぱん」に、奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の塩漬けを真ん中に埋め込みました。桜の塩漬けと餡がぴったり合い、風味豊かなパンが焼きあがりました。
「できた! これなら喜んで頂けるだろう」

 こうして、「桜あんぱん」が誕生したのです。
 この「あんぱん」は天皇陛下のお気に召し、ことのほか皇后陛下(昭憲皇太后)のお口にあったと大変喜ばれました。そして、「引続き納めるよに」とのお言葉をいただいたのです。その夜、喜びに包まれた銀座・煉瓦街の木村屋は遅くまで華やぎ、ガス灯の明かりが店の前を照らしていたということです。
 この時に生まれた「あんぱん」は現在「桜あんぱん」という名で販売されており、今も変わらぬ味を伝えています。 −木村屋のホームページより抜粋− 

あんぱんの種類
 木村屋で販売している「あんぱん」には、「酒種・桜」「酒種・小倉」「酒種・けし」「酒種・うぐいす」「酒種・白」「酒種・チーズクリーム」「酒種・栗」「酒種・いちご」「酒種・京みそ」など9種類あります。いずれも形状は小ぶりで、餡の甘味は押さえ気味のアッサリ味。酒種生地と餡の絶妙の調和そして独特の食感は、さすがに一流品の貫禄を匂わせます。

あとがき
 名前が一緒だからといって木村屋の回し者ではありません。純粋に食文化のものがたりとして紹介させていただきました。安兵衛という人は、旧幕臣ですが当時武家の商法で、商売に失敗した武家の多い中で稀な成功者だったということを物の本で読んだ記憶があります。山岡鉄舟との縁もそんなところからと思えば納得できますね。木村屋の「あんぱん」は横浜近辺でも横浜高島屋、横浜そごうの店内に直営店があるそうですから、是非一度お試し下さい。

文責:木村勝紀