タイトル 投稿者 投稿日
『食べアルキ帳』第1回〜浅草「駒形どぜう」と「酉の市」 木村 勝紀 2008.12.2
カフェでひととき 秋山 智子 2008.11.2
横浜のベトナム・レストラン 木村 勝紀 2008.8.27
元禄二八そば・玉屋 木村 勝紀 2008.8.19
塩は食肴【しょくこう】の将 木村 勝紀 2008.5.31
鹿児島銘菓 軽羹【かるかん】 木村 勝紀 2007.12.14
江戸の味を伝える「蓮玉庵」 木村 勝紀 2007.9.5
蕎麦屋の老舗物語 木村 勝紀 2007.7.5
「神谷バー」へ行って 高橋 照夫 2007.6.12
芝崎納豆の由来 芝崎 芳和 2007.6.12
江戸のファストフード 木村 勝紀 2007.6.8
池之端藪蕎麦 木村 勝紀 2007.5.25
谷中の喫茶店「乱歩」と穴子寿司「乃池」 木村 勝紀 2007.5.11
「弘明寺縁起」と「弘明寺銘菓」 木村 勝紀 2007.4.26
伊勢路の赤福餅 木村 勝紀 2007.4.17

2009年以降はこちら

『食べアルキ帳』第1回
 浅草「駒形どぜう」と「酉の市」
木村 勝紀
2008年12月2日

「駒形どぜう」浅草本店
柳川なべ
『食べアルキ帳』第1回
 食文化研究会は、ホームページに記事を載せるだけでは物足りない。そこで皆様と一緒に名店を訪ねて賞味をする、という企画を実施することに致しました。賞味の結果を「食べアルキ帳」として版を重ねて参りたいと思います。第1回目の今回は、「駒形どぜう」浅草本店です。実施日の平成20年11月29日(土)は、丁度「酉の市」の三の酉の日にあたり、食後の散歩に大勢で賑わう「鷲【おおとり】神社」にも参詣してまいりました。
 今回は「jinhoyu-net」で同行を募集したところ9名の参加がありました。

「駒形どぜう」浅草本店
 のれんをくぐれば、江戸の味わい。「駒形どぜう」の創業は享和元年(1801年)ですが、以来二百余年、味ともてなしに江戸情緒を残す東京下町の名店です。浅草雷門から観音様を背にして駒形橋方面にまっすぐ3分ほど行くと駒形橋西詰交差点。交差点を越えればもう右側に「駒形どぜう」の看板が見えます。黒い瓦屋根と美しい格子戸、紺地に白文字で「どぜう」と染め抜いた「のれん」は創業当時の江戸情緒を再現しています。
 この界隈には、そばの「並木薮蕎麦」、うなぎの「駒形前川」、とろろの「浅草むぎとろ」など老舗の名店が目白押しです。

メニューの紹介
 「どじょう」と聞いて参加の皆様、特に女性の方々は敬遠気味でしたが、食してみれば想像したより生臭くもなく、伝統の味を楽しんでいました。メニューの3品をお店のパンフレットから抜粋で紹介いたしましょう。

◎どぜうなべ
 下ごしらえで、生きたどぜうにお酒をかけ、どぜうの臭みをとり、骨をやわらかくします、酔ったどぜうを甘味噌仕立ての味噌汁に入れて煮込みます。ここまでが駒形どぜうならではの調理方法です。このどぜうを鉄なべに並べて、ねぎをたっぷりのせて召し上がるのが昔からの味わい方です。

◎柳川なべ
 柳川は柳川なべに使う土なべのことです。秀吉の時代に福岡柳川の人が焼き方を朝鮮から学びました。柳川なべにささがきごぼうをしいて、ひらいたどぜうを並べ、玉子でとじます。ごぼうはねぎとともに、古くから食用にされた野菜のひとつで、根を深くはることから、家の基盤がしっかりするという言い伝えがあります。

◎どぜう汁
 味噌は江戸甘味噌のちくまを使います。お酒を飲ませたどぜうに、ごぼうをあしらいます。これこそ江戸時代から代々、舌で伝える味です。

どぜうは江戸庶民のスタミナ食
 パンフレットには次のような記述もあります。
 江戸時代から庶民に親しまれているどぜう。実はスタミナ食としても知られています。カルシウムやビタミン、鉄分などが豊富で、中国は明代の薬学書「本草綱目」には「体を暖め、生気を増し、酒をさまし、痔を治し、さらに強精あり」とあります。またコラーゲンもたっぷりで、美容にもいいのです。なかでもどぜう鍋は「一物全体食」、つまり頭から尾まで全部食べることで栄養を丸ごと体に取り入れる、優れた栄養食。ネギと一緒に召し上がると、カルシウムの吸収もよくなります。

【おおとり】神社へ
 さて、「どぜう」を満喫した後は、雷門をくぐって仲見世をとおり、観音様にお参りして鷲神社へ向かいました。ひさご通りを経て言問通りを渡って左に折れれば国際通りにぶつかります。国際通りを右に曲がればやがて右側が鷲神社となります。距離にすればわずかな行程なのですが、三の酉の当日とあって途中からの大行列。鷲神社にたどり着くまでの小一時間は、混雑に揉まれながらのろのろ歩きで日がとっぷりと暮れてしまいました。

酉の市の賑わい
 酉の市は、毎年11月の酉の日を祭日として、鷲神社で行われる祭りです。江戸の昔から各地に分布して行われる江戸の代表的な年中行事の一つなのですが、今では浅草千束の鷲神社の祭礼がもっとも名高いものとなっています。
 初酉の日を「一の酉」といい、順次に「二の酉」、「三の酉」と呼びます。年によって「三の酉」はあったり無かったりします。「三の酉」がある年は火事が多いとする俗信があり、火の用心の戒めにもしたようです。祭神はもと武運を守る神でしたが、今は開運の神として信仰され、酉の市には縁起物の熊手を売る露店が軒を連ねて、それはそれは賑やかなお祭りです。

 境内に入れば無数の提灯と、縁起物を派手に取り付けた大小の熊手が所狭しと飾られ、商談成立となればシャン、シャン、シャンの手拍子が鳴り響きます。めいめいお賽銭を納め、熊手やお土産を買い求め鷲神社を後にしました。帰りの浅草寺までの沿道は各種の露店で埋め尽くされ、さながら町中がお祭りの風情となっていました。下町っていいな!
 門前までの行列と境内の露店の写真も添えておきましょう。

鷲神社 門前までの行列
鷲神社 境内の露店

文責:木村勝紀


 カフェでひととき
秋山 智子
2008年11月2日

 書店に行くと、カフェについての本や雑誌をよく見かけるようになった。
コーヒーのチェーン店がここかしこに現れ始めたということも、影響しているのだろうか。「あ、あの人、ひとりなんだ」という周囲の目が気になって、ひとりでランチすることに抵抗があるという声もあるが、近頃は、ひとりでもはいりやすい店が多くなった。

 しかも携帯電話がある。
キーを無心に打ち込んでいれば、画面の向こうにいる親しいあの人この人の存在を、さりげなく周囲にアピールできるし、注文したものが運ばれてくるまでの、手持ち無沙汰を補うこともできる。

 さて、わたしの目下のお気に入りのカフェは、ふたつある。
 ひとつは、上大岡の『Cafe de Crie』。リストガーデンスクエア(旧三越)3階にある。
 街道に面した窓を大きくとった店内は広々と明るい。隣の席との間がゆったりしているので、落ち着いて座っていることができる。完全分煙なのも有難い。
 パスタ、サンドイッチ、デザートは、それぞれ種類が多く、季節ごとのメニューもある。
 ひとたび気に入ると、そればっかり注文したがる性分のわたしが頼むのは、ピリ辛めんたいこのパスタと、クリームワッフル、それにアイスコーヒー。
 同じフロアに書店があるので、そこで買った本をめくるも良し、ぼおっと妄想にふけるも良し、人間ウォッチングにいそしむも良し。ちなみにこの書店には、放送大学のテキストが置かれているので、入学にあたり、どの科目がおもしろそうかとせっせと立ち読みしたものだ。
 店内の音楽と、書店から流れてくる音楽がちゃんぽんに聞こえてくるのは、玉に瑕だが、音というのは不思議なもの。家にいると、老母のたてる足音が、まるでしこでも踏んでいるのではないかというほど大きく聞こえたり、息子がたてるドアの開け閉めの音に、いちいち反応したりすることもしばしば。ことに勉強中だったりすると、テキストの内容が理解できないのを、すべてこれらの音のせいにしたくなることもあるのだが、外出先での賑わいは、どういうわけか、さほど気にならないのである。
 セルフセービス形式なので、催促するかのように空いた皿を下げに来ないとあれば、ほとんどマイテーブル状態。すっかり自分の世界に浸ることができる。
 こうして居心地の良さに甘え、過ごすこと2時間余り。今度はいつ来ようかと思いつつ、書店をしばし散策して帰途につく。

 もうひとつは、『珈琲館』。ここもチェーン店である。
 バターのじっくりとしみ込んだ厚焼きトーストもおいしいが、お勧めはホットケーキである。希望すれば、生クリームもつけてくれる。
 平日は、ヨーグルトとシリアルの朝食でそそくさと済ますので、休日に敢えてこうしたところでゆっくりとブランチタイムというのも、少し贅沢気分を味わうことができる。
 この店は、注文の取り方がユニークである。
 注文を受けた店員さんが、「炭火アイスちょうだいしました」と厨房に向かって言うと、
 厨房の店員さんが、「炭火アイス、かしこまりました」とやまびこのように応答する。
 2、3品までならまだしも、これが5、6品ともなると、復唱するほうも、口ごもったり、すべったりと、大変なようである。これもきっと、注文の取り間違いを防ぐための、マニュアル化された手順なのだろう。ほかのグループ店でも同じらしい。
 以前、職場の近くにあったモスバーガーに、毎日のように昼食を電話注文していたおかげで、ついには「毎度ありがとうございます」とお礼を言われるようになったことがある。匿名が“売り”のファーストフードの店で、そう言われるのも妙な感じがしたものだ。
 飲食店に限らず、美容院などでも、顔なじみになってくると、わずらわしさが手伝って、なんとなく足が遠のいてしまうことがある。
 しかし、「炭火コーヒーとホットケーキ、生なし(生クリーム抜きのこと)で」などと、常連ぶりながら、この店とのつきあいは、当分続きそうである。

 カフェの使い方も人それぞれである。
 駅前のコーヒーチェーン店では、休日の朝、英会話学校の外国人講師と思しき男性と、生徒らしい若い女性が、テーブルを挟んで会話の練習をしていることがある。
 まさに「駅前留学」。
 周囲の客は彼らに注意を払うこともなく、新聞を読んだり、携帯メールにいそしんだりと、思い思いに過ごしている。レベルにかかわらず、こうした場所で英会話の練習というのは、かなり度胸がいるものだと感心しつつ、「どれくらい聞き取れるかしら」と、しっかり耳を傾けるのも、ちょっとした気分転換のうち。
 「勉強のための長時間のご利用は、お控えください」というプレッシャーを与える札をテーブルに立てた店もあるが、おいしいものを食べながら、時間を気にせずに、くつろいで過ごせる空間を探すのが、目下の楽しみでもある。


 横浜のベトナム・レストラン
木村 勝紀
2008年8月27日

フェスタ・ヨコハマのお手伝い
 平成20年8月23日(土)〜24日(日)の二日間にわたって神奈川学習センターの第22回フェスタ・ヨコハマ学園祭が催されました。放送大学教授・工藤庸子先生の「ベトナム・フランス・ヨコハマ」をテーマとする講演に際し、多文化共生の現場取材のお手伝いをしました。その一場面としてのベトナム食文化の一端を紹介します。

ベトナムの基礎情報
 ベトナム社会主義共和国、通称ベトナムは、東アジア・東南アジアのインドシナ半島東岸にある南北に長い国。北を中国と、西をラオス、カンボジアと国境を接しています。東は南シナ海に面し、フィリピンに対しています。ベトナムは、中国の千年にわたる支配に耐えて独立した後に、再び近代になってフランスの植民地となりますが、1954年独立戦争でフランスを撤退させ独立。同時に南北ベトナムに分断、引き続きアメリカの介入によるベトナム戦争に突入。1975年ベトナム戦争終結、1976年南北統一。ベトナム民主共和国をベトナム社会主義共和国に改名、こんにちに至っています。

ベトナムの経済
 1986年社会主義に市場経済システムを取り入れるというドイモイ政策を採択、中国と同様に改革・開放路線へ転換しました。アジア通貨危機で一時失速した国内総生産(GDP)の成長率も、2001年には6.8%、03年7.2%、04年7.7%と安定成長を続けています。2007年1月、WTOに加盟し名実ともに国際プレイヤーとなりました。労働人口の66%が第一次産業に従事していますが、近年は第二、第三次産業が急成長し、観光業などの伸びが著しく、重要な外貨獲得源になっているそうです。ベトナムは米の輸出国です。コーヒーは、ブラジルに次いで世界第2の生産量に達しており、インスタントコーヒー、また缶やペットボトル入りの清涼飲料などに使われています。

ベトナムと日本との関係
 西暦734年遣唐使・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂着し抑留。753年には同じく遣唐使・藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、漂着しています。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から761年まで安南節度使としてハノイの安南都護府に在任したといいます。14世紀から15世紀にかけては琉球王国と通商し、17世紀になると朱印船がベトナムに進出し、江戸幕府も外交文書を交換したといいます。会安【ホイアン】には日本人町が形成されたこともあり、「日本橋」という橋が現存しています。日本の銅貨・寛永通宝はその材質の良さから、東アジアの基礎通貨の一つとして流通し、国際取引の決済に使われたそうです。1940年の日本軍の北部仏印進駐以降の現代史は、皆様ご承知の通りです。

ベトナム料理の特長
 ベトナム料理の特長は辛くなく、野菜いっぱいのヘルシーで、アジア料理の中でもとりわけ日本人の口に合い、近年では特に女性に人気の料理の一つになっているそうです。中華料理に似てはいるものの、さほど脂っこくなく日本人には馴染みやすいといいます。これは隣接する中国食文化の影響を色濃く受けつつも、かつてはフランス植民地であったことから、現在のようなマイルドで洗練された味付けとしてのベトナム料理が生まれたといいます。

「ホイ・アン・カフェ」横浜ルミネ店
 さて、ベトナム料理試食のために訪れたのが、横浜駅東口、ルミネ6階にあるベトナム・レストランの「ホイ・アン・カフェ」横浜ルミネ店でした。レストラン街の一角にあるこの店は、清潔感あふれる店構えで、なるほど若い女性好みの雰囲気を醸し出していました。店内に入ると昼時を過ぎていたのでお客さんはちらほらでしたが、日本人ともベトナム人とも見える若くスレンダーなウェイトレスが優しく笑顔で迎えてくれました。テーブル席とは別にバーカウンター式の席もあり、夜には会社帰りのビジネスマンやオフィスウーマンが出入りするのだろうと推測されました。

注文した料理
 フォーをメインとしたランチ定食を注文しました。フォーとは米の粉で作ったライスヌードルの麺です。副菜にはライスペーパーで野菜を巻いた生春巻きと小さな揚げ物が出ました。テーブルにはニュクマムといわれるベトナム料理には欠かせない調味料がセットされています。フォーの味付けは淡白、ライスヌードルは春雨のごとく、生春巻きはサラダのごとく、実に健康食そのものでした。フォーには香菜【シャンツアイ】を如何しますか?と問われました。香菜は独特の香りの野菜ですが、これがまさにベトナムをはじめインドシナ諸国の香り、もちろんお願いしました。皆様一食の価値があります。一度是非お出かけ下さい。

文責:木村 勝紀


 元禄二八そば・玉屋
木村 勝紀
2008年8月19日

元禄二八そば・玉屋
 東京は両国にあって「元禄二八そば」を名乗る、そば屋の老舗「玉屋」を訪問しました。そば談義がてら食べある記をお届けいたします。

日本人の「そば」好き
 近ごろ、肉食の蔓延でとかく日本人は乾燥して人間が粗雑になったという声を聞きますが、それでも日本人の心の底には、自然を愛し、自然に親しむ情が宿っているのではないでしょうか。日本人に「そば」好きが多いのも、その心の現われではないかと思います。農耕文化の遺伝子を引き継ぐ日本では、畳と障子がなくならない限り、「そば」は生き残っていくでしょう。

「そば」の歴史
 「そば」の原料となる植物としての蕎麦は、紀元前から存在していたといいます。中国南部が原産地で、紀元前4000年〜2000年ごろ生まれたといわれます。日本には縄文・弥生時代に伝来し、栽培されるようになっていたといいます。奈良・室町時代には「ぞうすい」「そばがき」などの形で食べられました。しかし、一般庶民に「そば」が食べられるようになるにはやはり江戸時代に待たねばならないようです。江戸時代の初めに、練ったそば粉を細長く切って作る所謂「そば切り」が信州本山宿で発明されました。「そば」が玉売りという形で江戸で市販され始めたのが寛文4年(1664年)ですが、元禄の末期頃(1703年)には「そば屋」が出現したといわれます。食材としての「そば」はその後、連綿として発展を遂げ今日に至っているというわけです。

「二八そば」とは?
 「二八そば」とは、「そば」の作り方であるとの説があります。「そば」は一般に、そばの実の粉末(そば粉)だけで作る「そば」(十割そば)と、そば粉に小麦粉や芋などのつなぎを加えた混合粉による「そば」があります。そば粉だけでは粘着性に欠けぼそぼそ感が残ります。そこで、そば粉が8、小麦粉2の割合で打った「そば」が作られ、その総称を「二八そば」と呼び、つるつると喉ごし感もよいことから、現在ではほとんどがこのタイプになっています。「二八そば」の語源としては他方で、江戸時代に「そば」一杯の値段が16文という時代が長く続いたため「二八・十六」の語呂で「二八そば」だという代価説も有力で、どちらが正しいかは結論に至っていないようです。

赤穂浪士とそば屋の一件
 余談になりますが、討ち入りの前夜、赤穂浪士の集合場所がそば屋であったという話があります。そこで元禄ごろには「そば屋」が出現していたという論証になっていますが、「そば屋」が集合場所であったということは実証されていないといいます。当時の江戸の街の夜は、場末ともなれば殊に物淋しく、そば屋、うどん屋も早仕舞いだったそうです。それに夜間そば屋の二階に多勢集合するということは、雨戸のすきから光が洩れたりして、不審がられるたねにもなる。人目を避ける上から、そのようなことは到底考えられない、という人もいるようです。それはそれとして、今でも各地で「討入りそば」と称する「そば」を提供し人気を博している「そば屋」があります。

「十割そば」と「討入りそば」
 そこで訪れたのが名物「十割そば」と「討入りそば」を出す両国の「玉屋」。看板によると正式名称は「元禄二八そば・両ごく玉屋」とありました。本所松坂町は吉良邸近くというのが売りなのです。JR両国駅をはさんで両国国技館の反対側、横綱通りを通って京葉道路にぶつかり、左に曲がってすぐの左側にあります。創業は大正8年といいますから必ずしも元禄時代からの老舗というわけではなさそうですが、TV・雑誌で取材のある有名店です。店構えはいかにも下町両国の老舗らしく、力士の錦絵をあしらった暖簾と下町特有の植木や花の数々が並べてありました。「討入りそば」は次の機会に譲るとして先ずは「細打十割そば」を注文しました。当店独自の工夫と技術で、湯ごね、つなぎ無しで作るという自慢のものです。冷たいそば麺は、そうめんほどに細く、つけ汁はもちろん江戸風の濃い目、どっぷり付けずにするするすると啜れば、「十割そば」ながら喉越しもよく風味あふれるまことに結構な「そば」でした。帰りには相撲博物館と江戸東京博物館を見学して、しばしの江戸情緒を満喫して帰路についたものです。皆様も両国にお出かけの節には是非お試しのほど。

文責:木村勝紀


 塩は食肴【しょくこう】の将
木村 勝紀
2008年5月31日

「塩は食肴の将」
「酒は百薬の長」と「塩は食肴の将」
 久しぶりに話題を提供いたしましょう。「酒は百薬の長」とは、人口に膾炙されて皆様ご存知のことですね。左利きの者にとっては有難い御託儀です。ですがあくまで適量をわきまえることが前提のようですから、ご注意、ご注意。
 さて、この「酒は百薬の長」の出典は、「漢書」の「食貨誌」で、王莽【おうもう】がくだした詔【みことのり】の冒頭の一句、「夫【そ】れ塩は食肴の将、酒は百薬の長、嘉会【かかい】の好、鉄は田農【でんのう】の本【もと】」からでているそうです。ここに「塩は食肴の将」が「酒は百薬の長」と対になって出ている訳ですね。塩は料理に欠かせないものであり、酒は適量で薬以上の効き目があり、めでたい集まりには必要なもので、鉄は農業器具の基本となるものだ、といったところでしょうか。

「王莽」の故事
 王莽という人は、前漢と後漢の間に14年間(紀元8年〜22年)だけ続いた「新」という王朝の皇帝でした。秦の始皇帝で有名な「秦」の次が「前漢」ですから随分古い時代のことですね。この詔には王莽の経済政策にまつわる故事があります。前漢の哀帝【あいてい】が死ぬと、朝廷を追われていた王莽がふたたび返り咲いて幼い平帝【へいてい】)をたてます。社会は窮乏していました。
 王莽は自分の娘を平帝の后にしましたが、不老長生の薬酒に毒を入れて平帝を毒殺します。別の幼君を立てて自ら仮皇帝と称し、ついに野望を遂げて皇帝となります。王莽は貨幣を鋳造し、塩・酒・鉄を政府事業にし、融資をどんどん行いました。しかし役人達の不正で民は苦しみます。そこで、王莽は民の苦しみを知って、前期の詔をくだして民の所得の公平を期します。しかし世の中は乱れに乱れ、王莽は自暴自棄となり酒ばかり飲み、ついには全身を切り刻まれて死んでしまいます。因果応報を地でいったようなものでした。

「酒は百毒の長」とも
 わが国でも狂言「餅酒【もちざけ】」に「そもそも酒は百薬の長として、寿命を延ぶ」とあるように古くから用いられていました。ただし、吉田兼好の徒然草百七十五段では、「百薬の頂とはいへども、よろづの病は酒よりこそ起これ」といって、酒は百毒の長ということばができました。

文責:木村勝紀


 鹿児島銘菓 軽羹【かるかん】
木村 勝紀
2007年12月14日

 九州一周旅行の際に鹿児島を訪れました。鹿児島といえば西郷隆盛です。鹿児島空港から程近くに西郷隆盛の銅像で有名な西郷公園があります(写真1)
 この銅像は、高さ10.5m、重さ30tで、人物像としては日本一の大きさを誇り辺りを睥睨しています。
 公園には庭園や噴水を配した石畳の広場があり、その周辺には西南戦争を描いた53枚の錦絵をはじめ、西郷隆盛や明治維新に関する資料が展示されています。お土産店には鹿児島県内の特産品などを集めた展示即売場があります。

 そこで買い求めたのが鹿児島銘菓の「軽羹【かるかん】」でした(写真2)
 軽羹といえば、鹿児島の銘菓として知られ、自然薯【じねんじょう】と呼ばれる天然の山芋と米の粉だけで作られます。その素朴な味は郷土菓子として長く人々に親しまれ、こんにちに至っているといいます。
 軽羹という名はどこからきたのでしょうか。「割烹余禄」という江戸時代の料理書があり、その中の夜飯点心の項に羹とあって「カルカン」とルビがふってあるそうです。
 島津藩主斉彬公は安政元年、江戸で製菓を業としていた播州明石の人、八島六兵衛翁を国元の鹿児島に連れてきました。翁はここで薩摩の山芋の良質なことに着目し、これに薩摩の良米を配して研究を続け、「軽羹」を創製したといいます。独特の風味と白く凛とした姿に、清廉潔白な薩摩の心が宿るとして、郷土の自慢の銘菓になっているそうです。

<写真1> 西郷隆盛銅像
<写真3> 城山から桜島を望む
<写真2> 鹿児島銘菓かるかん

 「軽羹」をリュックに収めて、次に向かったのが西郷隆盛ゆかりの城山でした。城山は標高107mで山頂は鹿児島市街と桜島を一望できる絶好の展望台です。城山周辺は西南戦争で最後の激戦地であったところであり、近くに西郷隆盛が最後の5日間を過ごしたといわれる西郷洞窟があります。

 山頂から桜島に向かって写真を撮りましたが、なぜか櫻島はぼんやりと霞んでおぼろげな輪郭をとどめるのみでした(写真3)。西郷どんの無念の胸中を偲ばせる風景だったのでしょうか。鹿児島へ来るとやはり西郷隆盛に触れない訳にはいかないのでした。


 江戸の味を伝える「蓮玉庵」
木村 勝紀
2007年9月6日

 江戸時代創業で今に残る食べ物の老舗は、まだまだあちこちに健在です。今回は、東京上野で時代の変遷を見続けてきた蕎麦屋の「蓮玉庵」を紹介しましょう。

 江戸人の外食の二本柱といえば、料理茶屋とファストフードです。ファストフードについては前回触れました。料理茶屋についても少し述べてみましょう。江戸は全国三百諸侯といわれる各地の大名が上屋敷、中屋敷、下屋敷を保有しました。各藩の抱える藩士の合計は約55万人におよぶといわれ、各藩の江戸留守居役は、お互いに天下の情報交換をすることが大事なお役目でした。あるいはまた幕府の要人とも連絡をゆめゆめ怠ることはできませんでした。一方、将軍のお膝元の消費生活を円滑に推し進めてきた商人たちは、元禄以降はその経済力も増大し、これまた同業者同士の打合せや、役人やお得意先への接待などが大切な日常となっていました。

 江戸は度重なる大火で罹災し、武家屋敷も調度や食器などは罹災を考慮して、あまり高級なものを持たないという状況でした。また、当時の町家は人口が全体の50%であるのに対して、居住用面積が20%程度でしたから豪商といえども自邸に人を接待するような部屋を設ける余裕はありませんせした。そこで、然るべき会合のための広間を持ち、酒肴の提供も手際よくできる料理茶屋の出現が不可欠となったというわけです。これらの必要性は現代に引き継がれています。

 さて、「蓮玉庵」の話題に移らねばなりませんが、もう一度、少しばかり江戸のファストフードについて触れさせてもらいます。江戸は、単身赴任の男性社会だったのです。江戸勤番の武士、出稼ぎの職人や商人などです。手間ひまかけず、手っ取り早く食べ物が口に入ればこれにこしたことはない、というわけでファストフードが喜ばれ、その代表例が「そば」だったのです。江戸時代後期、人口350人に一軒の割合で蕎麦屋があったそうです。

池之端「蓮玉庵」
 「蓮玉庵」は上野池之端に、安政6年(1859年)にはすでに営業していたことが確認されている蕎麦屋です。江戸時代から不忍池には蓮見や桜見物の人々が集まり、池之端には料理茶屋などが並んでいたそうです。その中で、蕎麦屋は一軒、それが「蓮玉庵」だったのです。

 当時は注文が入ってからそばを打ち始め、お客さんは飲みながらゆっくり待って食べる、というのんびりしたものだったそうです。酒の肴は、今も出している板わさや、ヌキといわれる、そばのメニューからそばを抜いたもの(例えば天ぷらそばのヌキなら天ぷらをつゆにつけた品)だったといいます。

 上野の山から落ちのびてきた彰義隊をかくまったこともあり、この界隈の歴史の証人といった存在なのです。現在のメニューは、せいろそば、天せいろ、天ぷらそば、おかめそば、玉子とじ、など、オーソドックスなものですが、天ぷらは朝のうちに衣をたっぷりとつけて揚げておき、つゆにつけて味を含ませて出すのが本来の形だといいます。

 現在の店舗は、JR上野駅からでもJR御徒町駅からでも近いです。上野松坂屋に面した中央通りを挟んだ向かいにある「鈴本演芸場」横の仲町通りに店を構えています。湯島天神や不忍池や横山大観記念館から近いですから散策とセットでお出かけになるとよろしいと思います。写真は、過日「蓮玉庵」にお邪魔したときの店構えを写したものです。


 蕎麦屋の老舗物語
木村 勝紀
2007年7月5日

 蕎麦屋の老舗といえば「藪」「砂場」と並んで「更科」の三系列を掲げるのが通例です。それぞれに歴史と伝統と格式を誇りますが、今回は麻布十番の「永坂更科 布屋太兵衛」への訪問記をお届けいたします。
 蕎麦屋の老舗の話題となれば、とりあえず三系列の簡単な歴史のご紹介から始めるのが常套でしょう。

「藪」系
 藪そばの発祥地は、東京千駄木の「団子坂蔦屋【つたや】」です。初代はもと山口伝次郎といい、伊勢安濃津藩主藤堂和泉守の藩士。千駄木町にあった下屋敷に勤番していましが、そば打ちが好きで武士が性に合わず家筋を婿養子に譲り、自らは団子坂に土地を求め蕎麦屋を開業しました。これが発祥です。その後「蔦屋【つたや】」がなぜ「藪」になったのか? 周りに竹藪が多かったからということのようです。今日では、浅草の「並木藪蕎麦」、神田の「かんだ藪蕎麦」、上野の「池之端藪蕎麦」が藪御三家として人気を博しています。

「砂場」系
 名称の由来は、大阪城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされます。「和泉屋」「津国屋」の2軒について、場所名で呼ぶことが定着し、「砂場」の屋号が生まれたといいます。このように、もともと関西の発祥ですが、江戸への進出は1781年〜1789年ころに「浅草黒舟町角砂場蕎麦」があったという記録があるそうです。江戸時代に存在していた「砂場」のうち、三ノ輪の「南千住砂場」、虎ノ門の「巴町砂場」の2軒が現存しています。最近では地の利を得て日本橋室町の「室町砂場」が人気を博しています。

写真1
写真2
写真3
「更科」系
 創業は1790年と伝えられています。信州の織物の行商人をしていた清右衛門という人が、江戸での逗留先としていた麻布・保科家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋を始めたとされます。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時は「布屋 信州更科蕎麦所布屋太兵衛」との看板を掲げていたといいます。更科は、1880年代まで、のれん分けなどを一切せず、一軒のみでの営業を続けました。

「更科」の暖簾分け
 時代は変わり、時は移り「更科」の本家争いが起こります。太平洋戦争直前の戦時体制による統制や七代目松の助の放蕩などで昭和16年廃業に追い込まれます。戦後その名跡を惜しんで復活させますが、店名の使用について裁判沙汰などがあって紆余曲折の末、「麻布永坂 更科本店」、「株式会社永坂更科 布屋太兵衛」、「総本家更科堀井(信州更科布屋総本家)」の3店が存在することになりました。いずれも近隣にあり、麻布十番は更科系老舗の密集地帯になっています。

「株式会社永坂更科 布屋太兵衛」へ
 その日、6月23日(日)の昼下がり、行事の行程を終えて麻布十番駅から帰途につくことになりました。梅雨の合間にしては快晴で、気温もぐんぐん上がり歩き疲れと喉の渇きでビールの一杯も飲みたくなりました。思わず思い出したのが蕎麦屋の「更科」。麻布十番にきて「更科」の素通りはなかろうと店を探したところ、最初に目に入った看板が「永坂更科 布屋太兵衛」(写真1)。4階建ての大きなビルで、入り口の木板に「信州更科蕎麦処」と太い字で書いてありました。

 店内に入ると広々として調度も新しく清潔な印象でした。由緒を知らなければ200年続いた老舗であることに気が付かないかも知れません。
 とに角、生ビール! と注文してからおもむろに注文する蕎麦の品定め。即座に名物「御前そば」に決める(写真2)

 ビールを一気に飲んでほっとしていると、まずはそばつゆの入れ物が2種類出てきました(写真3)。「甘汁」と「辛汁」と書いてあります。要は自分の好きなほうを楽しめばいいのですが、混ぜて使ってもいいとのことでした。「御前そば」は、白くて細い上品なしろもの。「辛汁」を少しばかり付けてつるつると口に入れると、蕎麦の香りに加えて絶妙の口当たりと歯ごたえに思わずウーンと納得。老舗のネームバリューが加わって満足の逸品でした。

 生ビール一杯のほろ酔い加減と「御前そば」の一枚を腹に収めて、意気揚々と地下鉄「麻布十番駅」に向かったのでした。


「神谷バー」へ行って
高橋 照夫
2007年6月12日

浅草の老舗
 一度行ってみたかった神谷バーに行ってきました。6月10日の歩こう会の反省会がここにセットされていたのです。
 神谷バーは浅草雷門のそばにあり、創業は1880年(明治13年)ですが、1912年(明治45年)に西洋風バーに改造し、わが国で始めてのバーとなりました。現在、1階神谷バー、2階レストランカミヤ、3階割烹神谷と複合店舗になっておりますが、今回は団体だったためレストランでした。
 神谷バーは東京浅草ということもあって、多数の文学作品に登場しています。ということは、神谷バーを愛する数多くの文士、作家がいたことの証左でしょうか。
 さて、お目当ての電気ブラン、これはブランデーをベースに、ジン、ワイン、キュラソー、薬草をブレンドしたしたもので、琥珀色の、ほんのりとした甘みのアルコール度は30度(オールドは40度)です。ユニークで上品なショットグラスに注がれて登場です。
 口に含むと独特の風味がじんわりと広がってゆきます。ブランデーの香りと甘さのせいで、アルコールの強さはあまり感じません。
 そして2杯目。ここで「生ビールをチェイサーにするのもいいですよ」とのアドバイスがありましたが、乾杯の大ジョッキは、時すでに遅く空っぽ。次回にチャレンジしてみましょう。締めはオールド。このタイプは熟成度が高いのでしょうか、私の味覚はマイルドな味わいに負けて、アルコールの10度違いは感じませんでした。
 店を出るとき、「これぞ神谷バー」の雰囲気を知りたくて1階を見学しました。20時前だったので、店内は満席、お客はそれぞれ、みな楽しげにグラスを傾けていました。清潔感のある洋風居酒屋ですが、そのなかにほのかな昔ながらの下町情緒を醸し出していて、ふと、かつて1度だけ行ったことのあるロンドンのパブを思い出させてくれました。
 お店で配布しているリーフレットに三浦哲郎の「忍ぶ川」にも神谷バーが登場していると紹介されています。この作品は彼の文壇デビュー作で、1960 年に芥川賞を受賞した純愛を描いた私小説です。神谷バーに思いを馳せて30数年ぶりに読み返してみます。


 芝崎納豆の由来
芝崎 芳和
2007年6月12日

 ちょっと古い話ですが、木村さん、岡本さん達が東京下町散策の折、神田明神に立ち寄られた際に、『芝崎納豆』なる看板を見付け、小生に関係ありや?、との質問があったので、このように答えた。
「私が本郷の大学の「農芸科学科・醗酵学研究室」にご厄介になっていた時、お使いでよく神田明神脇の『天野麹【こうじ】屋』に行きました。その売店に、私と同じ名前の『芝崎納豆』があったので、由来を尋ねたことがある。直接には関係がないが、興味は深かった。それより、お使いに行く度にご馳走してくれた、赤い毛氈の長椅子での「甘酒」の味は忘れられない。」
「無線屋」の小生が何故「醗酵学研究室」にいたかの話はさておき、「芝崎納豆の由来」をご紹介する。

「芝崎納豆」の包装より要約
 
神田明神は大已貴命【おおなむしのみこと】を祭り、千二百年前、天正二年に武蔵国豊島郡芝崎村に創建されたが、その後、遊行上人が将門の霊を合わせて二座とし、社のかたわらに一字の草庵を建てて、芝崎道場(今の浅草芝崎町日輪寺)といった。この社と道場は慶長八年駿河台に、また元和二年には現在の所に移されたが、道場の寒暑堪忍の修法に供した五行珍味の中に金含豆【こんがんず】といって富貴延寿を祝福する穀種があった。
 これが芝崎納豆の前身で、吾が祖両部膳所に関係ありし故を以て、その製法の直伝を受けた当店が、代々神社の表参道にあって、芝崎納豆の名のもとにこれを製造し、世に知られるに至ったものであります。
製造元 株式会社 天野屋『天野屋』は神田明神(正式には「神田神社」)の鳥井の右脇にある麹屋の老舗【しにせ】です。地下には広大な「室」があって,麹製造をはじめ,各種醗酵菌の保管をしていました。
 納豆のお土産もよいですが、自家製の麹で作る「あま酒」は、江戸時代からの名物と聞いています。

 「神田明神」に詣での節は一度召し上がってみてはどうですか。

神田明神(正式には「神田神社」)の鳥居 麹屋の老舗『天野屋』
甘酒の看板も出ている 『天野屋』の甘酒


 江戸のファストフード
木村 勝紀
2007年6月8日

 現代は街を歩けばフライドチキンやハンバーガーなどのファストフード店に当たる時代ですね。江戸時代にファストフード店があった、と言えば怪訝に思われるでしょうが本当にあったのです。以下は聞きかじりの受け売りの知識をお披露目することですから予めお断りしておきます。もっとも如何に偉い学者の説でも、最初は受け売りの知識から始まっているのですから、お許しいただきましょう。

「手軽に、早く、旨い物を」
 「手軽に、早く、旨い物を」がファストフードのコンセプトなら、さしずめ「屋台」などはそれに相当しますね。今や日本全国のどこでも食べられる<握り鮨>、代表的和食の一つといわれる<天麩羅>、寒い季節に欠かせない<おでん>。これらの料理を生み出したのが、江戸の「屋台」だったのです。つまり、江戸のファストフード店とは「屋台」のことなのです。

<握り鮨>
 今やニューヨークをはじめ世界の都市で人気の<握り鮨>の登場は江戸時代の後期です。この<握り>を生み出したのは、「江戸っ子気質」であったといいます。短気な江戸っ子は<熟れ鮨>のような熟成・発酵させる代わりに米に酢を混ぜてしまい、<押し鮨>のように箱に詰めて蓋で押す代わりにネタを上に乗せて握ってしまったのが始まりです。これなら酢飯と食材さえあれば、あっという間に食べられます。こうして屋台で売り出された<握り鮨>は、たちまち庶民の支持を得たのです。
ところが時代の変遷とともに高級食品の代名詞となってしまいました。ひところまでは「寿司屋」は値段があってないようで、カウンターに座るには余程ふところにゆとりがないと敬遠したものです。かつて若い後輩たちを連れて「寿司屋」に入り<トロ>だ<いくら>だ<あわび>だと遠慮会釈なく高価なネタばかり注文するのでひやひやした経験を思い出します。味を分かってくれているならまだいいのですがね。私など逆の立場の場合には、遠慮して程々にしたものです。しかし、今や回転寿司の出現で改めて庶民の「食」に戻ってきた感があり、喜ばしい限りです。

<天麩羅>
 <天麩羅>もやはり最初は屋台で売られていたようです。さまざまな食材を串に刺し、衣をつけて油で揚げていたといいますから、現在の天麩羅よりも<串揚げ>に近いものだったようです。天麩羅の命名は戯作者・山東京伝によるものとされていますが、諸説があって真偽のほどは定かではないとのことです。天麩羅もカウンター付の一流店舗などでカウンターに座ると目が飛び出るほどお高いですね。庶民には、やはり家庭の手料理として手軽に食するのがふさわしいようですね。

<おでん>
 江戸時代も末ごろになって、新たな屋台料理として<おでん>が登場しました。これも短気な「江戸っ子気質」が生み出した料理だといいます。おでんの元は<豆腐田楽>ですが、豆腐を串に刺して味噌をつけて炙る手間を省き、鍋に豆腐を入れて煮込んでしまったことから始まったといいます。味付けに味噌ではなく醤油を使うようになったのは、上方の下り醤油に代わって関東の濃口醤油【こいくちしょうゆ】が流行ってからだといいます。
 私は東京の出身ですが、名古屋に転勤したてのころ、おでんを注文して関西風味噌おでんが出てきてビックリした経験があります。おでんに<からし>をつけるようになったのも、屋台の衛生状態を考えてのことなのだそうです。

江戸っ子の欲求から
 江戸という街は、参勤交代のお供で全国津々浦々からお殿様に随伴してくる若い家臣や火事のたびに公共工事に携わる出稼ぎ労働者、商店の番頭や丁稚などなど単身赴任者や独身男性が多かったのです。そのため「屋台」などのファストフード店に限らず、蕎麦や、茶漬や、居酒屋など外食産業が盛んであったのです。こうした庶民の食事に共通しているのは「安価で早い」ことであり、<握り鮨>も<天麩羅>も<おでん>も「手軽に、早く、旨い物を」という江戸っ子の欲求が生み出したのだと言えますね。


 池之端薮蕎麦
木村 勝紀
2007年7月25日

写真1 池之端藪蕎麦
写真2 ざるそば
 江戸時代、上野といえば「東叡山・寛永寺」。
 上野が江戸城の鬼門にあたるところから京都の「比叡山・延暦寺」にならって山号を東叡山にしたといいます。比叡山・延暦寺には琵琶湖がつきもの、そして琵琶湖には「竹生島」があります。上野「不忍池」を琵琶湖に似せるため、竹生島を模して「弁天島」を築いたという通説があり、そこにかの有名な「弁天様」が鎮座しているという訳です。

 池之端の地名は、この不忍池に由来していますが、近くに池之端を冠した屋号を使う蕎麦屋があります。上野広小路の鈴本演芸場から湯島に向かう路地「仲町通り」の中にある「池之端藪蕎麦」(写真1)がそれです。
 東京には藪蕎麦の「藪御三家」がありますが、浅草の「並木藪蕎麦」、神田の「神田藪蕎麦」と並んで堂々の御三家入りの店が「池之端藪蕎麦」なのです。

 空いていると思われる日曜日の午後4時ごろ、暖簾をくぐって引き戸をそろりと開けてビックリ、ほぼ満席の盛況でした。さすがの老舗を思わせました。
 何とか相席に座って、「ざる一枚にお銚子一本」お願いします。
 店のおばさんは、心憎い気配りでお銚子に「蕎麦味噌」を添えて先に出してくれました。隣席のおじさんがざるをお代わりなどとやっています。
蕎麦味噌をつまみに樽酒の辛口菊正をチビリとやりながら店内を見回すと、都内有数の同業老舗蕎麦店連合会の札がかかっていました。あの店もあるこの店もある、などと頷いていると程好いタイミングで、
 「はい、おまちどうさま」
ざるを伏せた上にこんもり盛った「蕎麦」と「さらしねぎ」と「わさび」、盆にはもちろん「つゆ」と「蕎麦猪口」ものっている(写真2)。「つゆ」は濃い目の逸品。香り豊かな細切りの麺を三分の一ほどつゆに漬けて口の運べば口中に幸せが広がります。本物の蕎麦は高級食材。高価な麺は瞬く間に腹におさまります。蕎麦は、お腹を満たすのではなく粋な風情を満たすもの。江戸っ子は、「お代わり」などとはあまり云わないもの。お客が立て込んでいるときは、さっさと席を立つのも客のマナー。
 「ごちそうさん」
お代を払ってほろ酔い加減で外に出れば、再び上野の喧騒の中にもぐりこむのでした。


 谷中の喫茶店「乱歩」と穴子寿司「乃池」
木村 勝紀
2007年5月11日

写真1 谷中喫茶店「乱歩」外観
写真2 谷中喫茶店「乱歩」店内
写真3 谷中の穴子すし「乃池」
 その日の目的は、東京千駄木の団子坂方面でしたが、地下鉄千代田線の千駄木駅を降りたついでに行きたいところがありました。

 この近辺は推理小説で有名な江戸川乱歩の生誕地なのです。江戸川乱歩の作品に「D坂の殺人事件」があります。このD坂とは団子坂のことですが、この小説の中に「白梅軒」という喫茶店が出てきます。今では場所を変えて不忍通りを渡った反対側の三崎坂【さんさきざか】の右側に「乱歩」という店の名前で現存しています。

 マスターは江戸川乱歩の大ファンという店です。店の外観はいかにも古風で出がらしのお茶葉を乾かしたような佇まい(写真1)。中に入ると店の名前のとおり物がところ構わず乱雑に置いてありますが、煤けたインテリアに妙になじんで不快な感じにはさせません(写真2)。埋もれたスピーカーから眠たくなるようなレトロなジャズが流れています。マスターは70歳がらみのシャイで気さくなおじいちゃん。
 「写真撮ってもいいですか?」
 「いいよ!だけどね、私を撮っちゃあいけないよ!」
こんな具合です。

 途中でアルバイトらしき若い女子学生風が出勤してきてカウンターの中に入りました。別の客が「D坂がどうのこうの」と問いかけると的確に答えている。さすが「乱歩」の店員なのです。コーヒーは、まことによろしい芳香を醸し出し、乱雑ながらもゆったりした空間とスローなジャズにマッチして心地よい一服でした。これが心の贅沢というものでしょうか。

 この「乱歩」とは道を挟んで反対側に穴子寿司で有名な老舗「乃池」があります。11時半開店を見計らって暖簾を潜ると、
 「いらっしゃいし!」
 「お二階へどうぞ!」
と声がかかる。

 江戸の寿司屋はこうでなくてちゃいけませんね。5〜6人用のカウンターと若干の椅子席の一階はもう満席で、さすがの人気寿司店を感じさせました。二階は十畳ばかりのお座敷で客はまだ居ませんでした。

 「穴子」をお願いします。

 程なく出てきた「穴子寿司」(写真3)は、脂がのって、口の中でトロリと溶けそうなほどやわらかい穴子と、甘すぎず辛すぎずのタレが絶妙なバランスで、つい口元がほころんでしまうほどの結構なものでした。やはり老舗らしい風格の満足すべき味でした。

 芳醇な香りのコーヒーと穴子寿司をお腹にいれて、それから目的の団子坂方面への文学散歩に出かけたものでした。
 皆様、千駄木、根津、谷中方面にお出かけの節にはぜひ「乱歩」と「乃池」にお立ち寄り下さい。


「弘明寺縁起」と「弘明寺銘菓」
木村 勝紀
2007年4月26日

写真1 瑞應山蓮華院弘明寺
 放送大学神奈川学習センターは、横浜市南区弘明寺の町近くにあります。

 弘明寺という町は、弘明寺観音で知られた「弘明寺」の門前町なのです。
「弘明寺」は、瑞應山蓮華院弘明寺(写真1)と号し、今から千二百年ほど前、聖武天皇御世の天平9年(738年)、和泉の国の僧「行基菩薩」の開基といわれます。ご本尊の「十一面観音像」は、行基菩薩が当所において彫刻し安置されて以来、幾多の天災を免れ、今日に伝わる国の重要文化財なのです。

 弘明寺観音の名で親しまれたこの寺は、古くは鎌倉幕府の源家、戦国時代の後北条家、江戸幕府の徳川家などの武家の信仰が厚かったといいます。鎌倉時代の「吾妻鏡」には、源頼朝公が源家累代の祈願寺として保護したと明記されています。

 歴史のある門前町だけに参道は、参詣客や地元住民目当ての商店街になっており、お土産を売る店もあります。その中の銘菓を二つご紹介しましょう。

写真2 (左)観音最中 (右)かまくら路
◇ 神奈川県指定の銘菓「観音最中」(写真2左側)
 治承5年(1181年)源頼朝は源家再興の悲願を弘明寺観音に祈願しました。その折いずこともなく現れた一人の乙女が、柚子で作られたお菓子を頼朝公に献上したところ、公がこれを召され「観世音の慈悲にも似たる美味かな」と賞で勇気百倍、遂に源家再興の悲願を達成されたと伝えられます。「観音最中」はこの献上菓子に由来するもので、柚子餡と小倉餡の二色からなり、全国菓子博覧会でたびたび最高の栄誉を博している銘菓です。

◇ 銘菓「かまくら路」(写真2右側)
 鎌倉武士が鎌倉より三里の路を遠乗りして弘明寺観音にお参りしたといわれますが、この路を俗に「かまくら路」と呼びました。銘菓「かまくら路」は、この由来に因んで命名されました。大判で三片に等分できるようになっており、各片の最中は、黒ごま入餡、手亡餡【てぼあん】(白いんげんの意)、大納言つぶし餡からなり、ひとつで3種類の味を楽しめるという嬉しいものです。

 これらの銘菓を販売する盛光堂総本舗は、神奈川学習センターから鎌倉街道に出て、最初の信号を渡って左に折れ、弘明寺商店街入り口を越えて2軒目右側にあります。一度お試し下さい。


 伊勢路の赤福餅
木村 勝紀
2007年4月17日

写真1 赤福本店
写真2 おかげ横丁
 平成19年3月6日(火)から8日(木)までの2泊3日の旅程で熊野、伊勢、志摩に行きました。
 熊野といえば熊野古道、志摩といえば真珠となりますが、さて伊勢となるとどうなりますか? もちろん伊勢神宮ですね。しかし、「食」の話題となれば「赤福餅」を外せませんね。伊勢の本店を中心に主として関西地方で売っています。関東の人でも旅行や出張の帰りには、皆さんお土産にするのでお馴染みですね。
 お土産用の「赤福餅」は、薄い小豆色の地にくっきり鮮やかな赤い文字で「赤福」と染め抜いた包装紙に包まれています。四角い折に収まった白い柔らかいお餅の上に、ほどよく甘さを抑えた餡子がのって、淡白ながらも甘い物好きの味覚を満足させてくれます。
 発売元の「赤福」は、江戸時代中期、宝永4年(1707年)に初代治兵衛が伊勢神宮内宮の五十鈴川のほとりで餅屋を始めたのが始まりという老舗です。江戸以来お伊勢参りのお客様に親しまれてきた「赤福」は、2007年の今年が奇しくも創業以来300年という節目にあたります。
 現在の「赤福」本店は、伊勢神宮内宮近くの「おかげ横丁」という郷土料理屋や伝統工芸品、種々のみやげ物店や飲食店などが立ち並ぶ商店街の中ほどにありました。「おかげ横丁」は、電柱をことごとく撤去し、石畳の道路を挟んで両側に木造建築を主体とした店が並び、すっきりした参宮街道のたたずまいをみせる気持ちの良い商店街でした。「赤福」本店は、その中にあって堂々たる老舗の風格を漂わせ、辺りを睥睨するかのごとくのたたずまいのお店でした(写真1)。店内で気軽に「赤福餅」を食することもできました。

 「おかげ横丁」(写真2)では、国宝級の器も店頭に並べるという酒器の店で見つけた「ぐい飲み」のお土産もまた旅の思い出を彩る逸品で、しばしば手にとっては愛でつつ「般若湯」を頂戴しているのであります。