タイトル 作 者 投稿日
対人恐怖とハサミ(読み切り) 秋山智子 2011.12.24
風とたわむれて(読み切り) 後藤雄二 2011.12.10
フリーダム(1) (2) (3)最終回 熊倉都美 2011.11.04 〜2011.11.21

<< 作者およびホームページ委員会からのお知らせ>>
この小説「フリーダム」は、『星空文庫』にペンネーム"八木橋麻子"で掲載しております。
 当HPには実名で載せましたが、今後はペンネームに統一させて頂くことにしました。

すでに『星空文庫』にはこの作品以外のものも載せていますので、
もしよろしければ下記のリンクでご覧ください。
なお、今後の新作も『星空文庫』に発表の予定です。

『星空文庫 八木橋麻子』(http://slib.net/a/154)

タイトル 作 者 投稿日
私淑の人 (1)〜(7) 後藤雄二 2009.4.01 〜 2009.10.1
面影の空に (1)〜(7) 後藤雄二 2008.6.15 〜 2008.9.10


 対人恐怖とハサミ
秋山智子
2011年12月24日

 キタ氏は、昨年春、アヤメとともに、管理課に異動してきた男性である。
 彼の第一印象は、とにかく人あたりがいいということであった。
 ここへ配属される前は、本庁勤務だったそうだが、毎日のように帰宅は午前様。これでは家庭が回らないということで、出先機関への異動となったらしい。

 異動後1週間が過ぎたころ、同じ課の女性が、職場に来なくなった。
 役所では、ここ最近、頓に増えてきたパターンである。
 以前は、心の病と言えば、偏見の強い病であったが、芸能人が次々に、ウツであったとカミングアウトし始め、それを売りにするアイドルまで出現するようになり、事情は一変した。
 新薬の効果を是非とも試したいという製薬会社の「後押し」もあってか、我も我もと、ウツを看板に掲げ、免罪符にしようという人が、出回り始めたのである。メンタルヘルスの名のもとに、知識も普及し、診断される前に、自ら名乗る人々も増えた。
 特に、休職制度が完備されている役所となればなおさら。働かずとも、お給料がいただけるとなれば、利用したくなるのは、人情というものである。
 皮肉なことに、制度が完備され、いたわられればいたわられるほど、心の病は増えていくようである。

 そうした嫌味はさておき、彼女があれこれ理由をつけて出勤しなくなったのである。
 正式に診断書類が出たのなら仕方ない、それでは、彼女の仕事をどうしたものか。
 アルバイトを雇うか、それとも、残った人間で分担するか―。
 侃々諤々、話しあいの場がもたれた…と言いたいところだが、格別そうした機会は設けられず、気付いた時には、かのキタ氏の分担として、おさまっていた。どうやら、彼は、頼まれる前に引き受けてしまう性分のようであった。
 これに限らず、彼は、職場でおきることはすべて自分の責任であると思っている。
 ただでさえ、事務所の雑用はすべて管理課に持ち込まれる。
 トイレットペーパーがない、トイレが詰まった、パソコンの調子が悪い、蛍光灯がきれた…あらゆる用事が列をなして彼のところにやってくる。
 そのたびに彼は、何もいちいち走るほどのことはないと思うのだが、椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで、飛び出して行く。
 周囲への感度は抜群で、
 「今日の昼食は何にすっかな〜。中華丼でいいかあ」という上司のつぶやきひとつも聞きもらさず、大きくうなずいて見せる。
 天井から、レントゲンの現像液が漏れるという事故が起きた時には、たまたま不在だった彼が、わざわざ出張先から呼び戻された。日頃からあまりにも彼に頼り過ぎていたために、こうした不測の事態にどう対処していいのか、誰もわからなかったのである。 
 気配りの相手は、上司だけではない。
 廊下を歩けば、掃除のおばちゃんの愚痴の聞き役として捕まり、コピーをとりに行けば、井戸端会議に巻き込まれ、新たな用事を頼まれて戻ってくる。
 慌ただしく走り回る彼に「忙しそうだから後にする…」と引き下がる職員もたまにはいるが、なにぶん彼のキャラクターである。
 一見遠慮勝ちに見えても、結局は皆さん、無遠慮に用事を頼んでいく。職員にとって、彼は都合のいい存在なのだ。
 さらに、予算主任の彼宛てには、今だに、以前の職場から電話がかかってくる。その度に、「死んだと言ってくれえ〜」と、言い放つのだが、大層うれしそうである。(もっとも、このセリフも、1年以上も聞き続けていると、さすがに鼻に、イヤ、耳につく。)
 職員が、彼めがけてやってくるのを見て、大げさに頭を抱えて見せる様は、そこまで頼られる我が身を、自虐的に楽しんでいるのかのようである。
 俺ってこれだけの仕事を押し付けられているんだ、というのをアピールしたいのか、彼の机の上は、書類がいつも散乱している。カップラーメンに湯を注いだ時ぐらい、ゆっくり歩けばいいものを、大きな体を屈め「アヂヂヂ…」と、やはり小走り。さっさと食べて仕事の続きをするのだろう。
 そうした様を見ていると、何だか周囲の人間が、彼にばかり負担を強いる悪者に見えてくる。
 被害者の持つ「悪意」とはこういうことをいうのではないか、とアヤメが思うひとときである。

 こうして、キタ氏の身辺は大げさに、かつ騒々しく彩られながら1年がたった。
 その過剰な適応ぶりがめでたく実を結び、彼は班長に昇格し、新たに某病院から異動してきた職員G氏が、かつてのキタ氏の席に配置された。そうして、再任用職員(前職を定年退職した後も、暇つぶし、または経済的理由から、非常勤職員として役所にしがみつく人のこと)M氏を加えて、管理課の新年度がスタートした。
 1年かけてキタ氏が増やしに増やした仕事は、新しく異動してきたG氏に引き継がれた。
 古株の割には、給料表のランクが下なのが気にはなったが、なにしろ、出先機関の中では多忙を極める病院の出身である。こき使われ慣れているだろう、打たれ強いだろうと、上司はじめ、皆の期待はそれなりに高かったと思う。

 異動からひと月ばかりたったある日のこと。
 そのG氏がぱたりと来なくなった。
 上司からは、はっきりとした説明も何もない。
 毎朝、彼から課長に電話がかかってくる。
「顔を見て話したほうがいいと思うんだ…」
「そこのスタバまで出てこられないかな…」
 押し殺した課長の声。
 ひそやかな雰囲気になればなるほど、アヤメたちの神経は耳に集中する。
 やりとりから推測するに、これまた流行の「病」であることは間違いない。
「は? またかよ」口にしなくとも、アヤメたちの共通認識にずれはない。 
 異動してきたばかりだというのに、再任用職員のフォローまでしていたので、よほど余裕があると思っていたのに、どうやら、違っていたらしい。
 自分の仕事を覚えるのに一杯一杯ならば、他人の手伝いなどしなければいいのに、来た早々とあって、いいところを見せたかったのか、それともキタ氏に張りあうところがあったのか。他人の仕事に首をつっこんでは、
 「これも勉強ですから」などと、余裕をかましていたのも、実のところ、相当無理をしていたのだろう。

 ともかく、これは想定外である。
 むしろ、慣れないパソコン操作とひっきりなしの来客にストレスが高じ、30分に1度は煙草を吸いに外へ出ていた再任用職員M氏の方が、早々にリタイアするのではないかと思われていた。
 もっとも、オタオタしては、周囲から同情と援助を引き出し、自分はできるだけ横着して済まそうとするM氏の方が、実は、しぶとくも、長持ちするのかもしれない。
 さすが年の功、さすが、もと管理職である。

 このように、G氏に一旦引き渡された仕事は、それも束の間、再びキタ氏に戻されることになった。しかも彼には、班長としての仕事もある。
 あたりの良さが売りのキタ氏のこと、面と向かって相手に言えない分、そうとう溜まるらしい。
 ようやく席に落ち着き、パソコンに向かいながら出てくるのはののしりの言葉と、荒々しい物音。
 空気の抜けたような独特のしゃべり方も、相手からの恨みをかわないための処世術だけでなく、彼自身の怒りをなだめるための手段なのではないか。
 水曜日は免許申請事務を担当する、再任用職員M氏の定休日である。
 すると、その来客応対までが、キタ氏にまわってくる。
 最近では、水曜日となると、熱が出ただの、お母さんの具合が悪いだのもっともらしい理由をつけて休むというのも、彼なりの怒りの主張と思えてくる。
 目の前にいる人に応じて、悪口の対象を調子よく変えたりするものだから、すぐ脇で聞いているアヤメとしては、甚だ複雑な思いである。

 いずれにせよ、皆が皆、キタ氏になれるわけではない。
 こうなってくると、対人恐怖とハサミは、使いようである。
 全身黒ずくめ、話しかけづらい雰囲気を醸し出し、自分の仕事以外、我関せず、1分以上残業はせず、休暇も根こそぎ消化するというアヤメのやり方も、長持ちの秘訣、十分適応的なのではないかと、思われてくる。
 少なくとも、「はやり病」を隠れ蓑にして、自分の仕事を丸ごと放り出し、周囲に決定的な迷惑をかけずに済むのである。

( 了 ) 


 風とたわむれて
後藤 雄二
2011年12月10日

 仕事も一段落し、所用のため外出すると、新聞配達のバイクとすれ違った。午後二時半だった。ずいぶん早くに夕刊配達をするものだと思った。貴司はふと自分の中学二年生の頃を思い出した。昭和四十九年。その頃は、中学生もよく新聞配達をしていた。現代の中学生はアルバイト自体が禁止されているらしいが、貴司の中学生当時は、特に厳しい校則もなく、貴司も自由に新聞配達などのアルバイトをしていた。
 いまの中学生は、二年生時に「職業体験」と称して、それを必須とし、労働の大切さを学ぶという。貴司の勤める学習塾の中学二年生も、コンビニや保育園、消防署や商店などへ職業体験にでかけている。
 貴司の家は、大家族で、貴司は八人兄弟の三番目として育ったが、姉や兄が中学生になると、いろいろとアルバイトをしていたので、貴司も当たり前のように中学一年生の冬休みからアルバイトを始めた。初めて働いたのは、蒲鉾屋であった。年末の猫の手も借りたいような忙しい時期の臨時のアルバイトだった。小学校からの馴染みの友達である和喜と一緒に五日間働いて、生まれて初めての給料をもらった。母はその給料を信用金庫に預金することを勧めた。初めて作った自分の預金通帳。母の箪笥の引出しに入っているその通帳を眺め、貴司は少し誇らしい気分になった。何度かそのように眺めていたが、ある日、アルバイトで得たその額が、通帳から消えていた。母が下したことにすぐ気づいた。わが家の家計の大変さを知ることになった。

 貴司は中学生になると、地域のシンフォニックバンドに加入した。二歳年上の兄が参加していたこともあるが、自分も楽器を吹けるようになりたいと思っていた。兄と同じクラリネットを吹くことになったが、楽器は高価なので、すぐに自分の楽器は持てない。バンド所有のクラリネットを借りて、練習が始まった。兄は自分のクラリネットを持っていたが、それは小遣いを貯め、計画的に購入したという。兄の堅実さは子どもの頃からのもので、大人になった今も、弟妹たちからの兄への信頼は絶大なものだ。
 バンド所有の古いクラリネットは、息を吹き込むと、いつも黴臭いにおいがした。代々使われてきた合成樹脂製の楽器で、キイの色がくすんでいる。長年吹き込まれて来たせいか、音は出やすくまろやかだった。しかし、高校生の先輩が、少し高級な本当の木管のクラリネットを持っていたが、それと較べると、借りているクラリネットの音色はとても雑な感じがした。
 貴司は中学校の音楽部にも所属した。当時は吹奏楽部という名称ではなく、音楽に関心がある生徒を集めた部だったが、形式はブラスバンドであった。他の生徒も三人ほどいたが、ほとんどのメンバーが地域のシンフォニックバンドに所属していた。部活自体には、気楽な雰囲気があった。顧問の先生も全然指導に来ないし、メンバーはふだん、ほぼ全員がシンフォニックバンドでしっかり練習をしているから、音楽室に集まっても、ピアノを弾いたり、ギターを弾いたりして、遊んでばかりいた。部活には、来ても来なくてもよかった。ただ、年に一度だけ、熱心に練習する時期があった。十一月の文化祭前の約一カ月間である。そのときだけは、みんなそろって音楽室で猛練習をした。

 貴司は二年生の五月頃、友人数人とで、夕刊の配達を始めた。一カ月を過ぎると、ほとんどの友人が配達の辛さにアルバイトを辞めた。数カ月後には、一緒に始めた仲間は、貴司と和喜だけになった。和喜は中学校を卒業すると、高校へ進学せず就職した。貴司は、その後、朝刊配達に移ったが、高校三年生の五月まで新聞配達を続けた。貴司は働くことを少しも苦に思わなかった。勉強よりも働いているほうが性に合っていた。給料は全部母に渡した。家計の役に立つならそれでいいと思った。
 夕刊を配っていると、さまざまな出来事に遭遇した。配達の途中、突然大雨が降ってきて、ある家の軒下で雨宿りをしていると、その家のおばさんにつばのある帽子を渡されたことがあった。新聞はビニールで包んであるので、それほど濡れないが、びしょ濡れの貴司を見て、不憫に思ったのかもしれない。そのおばさんは、
「傘は持ちづらいわね」
 と言って、ハットを貸してくれたのだった。貴司がそれを頭にかぶると、不思議と雨の強さは感じられなくなった。ハットだから、肩にも雨をそれほど感じなかったし、もうすっかり濡れ放題に濡れていたので、少しでも雨を優しく感じられるだけで、十分な気がした。
 その出来事を販売店主夫婦に話すと、夫婦は、借りた帽子と菓子折りを持って、その家にお礼に行った。二人ともいい人で、アルバイトの中学生や高校生たちは、もうひと組、両親を持っているように感じたりしていた。和喜などは、販売店で仲間と談笑していたとき、何かの拍子で、
「それじゃ、お母さんに訊いてくる。あっ、間違えた。おばさんだった」
 と言って、みんなに笑われ、顔をものすごく真っ赤にしたことがあった。
停めていた自転車の荷台から新聞を盗む中学生たちを追いかけたり、番犬に吠えられたりと、大変なことも多々あったが、夕刊配達は、貴司にとって、とても気に入った仕事であった。
 当時は、アルバイトをする際、特に学校の許可を得る必要はなかった。貴司は自分の通う中学校にも夕刊を配達していたので、すぐに新聞配達をしていることが、学校中に知れ渡った。しばらくすると、毎日、教頭先生が新聞受けの傍に立っていてくれるようになった。
「ご苦労さま」
 そう言って新聞を受け取る教頭先生の顔は、穏やかで優しかった。教頭先生はふだん授業を持たなかったが、その頃、ある先生の代理で社会科を教えていた。教頭先生は貴司のクラスにも教えに来たが、先生は授業中に冗談で貴司の肩を揉むことがあった。
「いつもご苦労さま」
 先生はそう言いながら、床屋の主人のように、貴司の肩を揉んだ。

 文化祭を控えたある日から、音楽部の練習が本格的に開始された。部活に参加しない日は、学校が済むと、すぐに夕刊配達ができたが、その日からふだんより遅く配達をすることになった。配り始める時には、すでにあたりは薄暗く、夜になろうとしていた。当然、家々からいくらか苦情が出ることになる。いくら苦情が出ても、ますますそのような日が続くものだから、貴司は慌てながら、ひたすら、申し訳ありません、と頭を下げて、一軒一軒に夕刊を配った。
 そのようなことが続いていたある日、いつも新聞受けに夕刊を入れるだけで通り過ぎていた喫茶店の前に、体格のいい、その店のマスターが立っていた。髭を生やし、腕力の強そうな人だ。貴司は新聞を差し出しながら、
「遅くなってすみません」
 と言った。
 しかし、それを言ったか言わなかったかの間に、貴司は左の頬をものすごい力で殴られた。貴司の身体は道に吹っ飛び、そのマスターの恐ろしい形相だけが迫ってきた。もっと殴られる。その恐怖が全身に走った。貴司はただ、謝ることしかできなかった。そして何とかそのマスターから逃げ出し、貴司は仕事を続けたが、涙がぽろぽろと流れ出てきた。何が悲しかったのか、何がどうしたのか、それは何も分からなかったが、貴司はその出来事を販売店の夫婦にも、父母にも兄弟にも友達にも、誰にも話さなかった。
 次の日、また文化祭の練習で貴司は遅れて夕刊配達をすることになった。喫茶店に配ることに大きな恐怖心を持ちながら、貴司は、仕事だけはきちんとしなければいけない、という責任感だけで、喫茶店の前に行った。案の定、マスターが腕組みをして立っている。また殴られる、と思った瞬間、貴司はそのマスターに無理やり肩をつかまれて、店の中に入れられてしまった。貴司は、ただ、
「遅れてすみません」
 と謝るしかなかった。
 すると、マスターは、
「カウンターの席につきなさい」
 と言った。
 貴司は言うとおりにした。身体が震えた。
 突然、目の前にすーっとバナナジュースが出てきた。
「飲みなさい」
 マスターはそう言っただけで、仕事を始めた。
 貴司は呆気にとられ、言われるままに、一気に飲み干した。
「……ありがとう、ございました」
 恐る恐る言った。
「行きなさい」
 マスターは貴司のほうを見ずにそう言った。

 所用を終え、貴司は職場の学習塾に戻り、コーヒーを一杯飲んだ。ひょんなことで、懐かしき夕刊配達の思い出にひたることになった。その思い出と共に貴司の耳には、中学二年生当時のクラリネットの音色が聴こえてくる。拙く弱々しい音色がひろがる。自分のクラリネットがほしい、と夢にまで見た日々。あこがれ続けたショーウインドーの向こうのきらきら輝くクラリネット。そして、それを父母に買ってもらった中学三年生の春の日のこと。その夜、貴司はクラリネットをケースごと抱いて寝た。そして毎日毎日練習した。会心の美しい音色をいつも目指していたが、それはいつまで経っても、初心者の音色だった。名クラリネット奏者のレコードを聴くたびに、自分には果てしなく遠い道のりがあると感じた。青い翼をひろげることさえできず、飛び立ち始めることのできない中学生のクラリネットの音色。それはいま、数年を経て、遠い音色となりつつあるが、それでも貴司の耳の中で、その未熟な音色は鳴り響き続けている。
 しかし、あの時、喫茶店のマスターはどのような気持ちで自分にバナナジュースを飲ませたのだろうか。
「行きなさい」
 と言われて、大きな恐怖から解放され、ほっとしたことぐらいしか、今の貴司は憶えていないが、文化祭の練習は毎日続き、次の日も、また次の日も、遅く新聞を配ることになった。しかし、その後、マスターはもう店の前に姿を見せることはなかった。中学生に勢いで殴りかかった悔恨の念が、翌日、マスターの中で蠢いたのかもしれない。今年五十一歳になる貴司は、マスターのしたことは決して立派な大人のすることではないと思うが、バナナジュースが目の前に出てきた、あの経験は、人の中に潜む優しさというものを垣間見る瞬間でもあったのかな、と少しは思ったりもする。極悪人のような恐ろしい形相を、貴司に見せつけたマスターではあったが。

 中学二年生のときから数えて、三十七年を経た今、あの喫茶店はどうなっているのだろうか。貴司はふとそのような気持ちを抱いた。ゴールデン・ウィークで帰省するのにまかせて、貴司はその場所に行ってみることにした。
 故郷の町は、昔と変わらず、にぎわいを見せていた。通っていた中学校の傍を通ると、当時の新設校らしく備わっていた初々しい雰囲気は、いまでは伝統を積み重ねて来た佇まいに変わっている。威風すら感じられる。広いグラウンドは昔のままだ。
 町並みは変わらないが、知らない店がたくさんあった。あの喫茶店はまだあるのだろうか、とその方向へ歩くと、そこは間口の広くなった大きな店構えに変わっていた。喫茶店は、カフェレストランに改築されていた。
 (立派な店になったなあ……)
 店名は以前とは異なり、「ミスターC」という名称に変わっていた。
 入口に近づくと、ギターの音色が聴こえてきた。軽やかな感じのフォークソングだ。誰かが演奏しているようだ。貴司は店内に入ってみた。客は一人もいない。店の片隅で、リハーサル中なのか、すでに開演しているのか、よく分からない様子で、高校生風の女の子二人が演奏していた。

  ミスターC主催・フォークコンサート

 コンサートの実施を知らせるパネルが、彼女らが演奏している場所の上部に吊るしてあった。
「女性デュオ……か」
 音楽を楽しむのもいいな。貴司は少し興味が出てきた。遅い朝食をとっただけで、空腹も感じていた。腕時計を見ると、午後四時半を回っていた。すぐ傍のテーブルに着くと、ウエイトレスが注文を取りに来た。とても庶民的な感じの店だ。店内は明るく、音楽を楽しめる雰囲気が出来つつあった。この時間でもランチは注文できるとウエイトレスが言ったので、「本日のランチ」を注文し、ビールも飲むことにした。カウンターの向こうに年配の男がいた。年齢は七十二、三歳といったところか。貴司はその男が例の喫茶店のマスターであることにすぐに気づいた。この店のオーナーシェフだろうと思われた。見た感じは、白髪ですっかり老人になっていたが、恰幅よく、若々しい風情も持ち合わせていた。髭は生やしていなかった。貴司はマスターに対して、思いがけず、人柄がよさそうで、人間性豊かな人物だという印象を得た。もし会えれば、きっとひどい悪人面に成り果てているのだろう、との予想を貴司は持っていた。それはあっさりと覆させられた。
 相変わらず、客は貴司一人だけだった。
 ウエイトレスがビールを運び、貴司はフォークソングを聴きながらランチを楽しんだ。殊の外、魚料理の旨さを堪能した。マスターが貴司のテーブルの傍を通ったとき、
「美味しいですね」
 と貴司は意識的にマスターに言った。
「ありがとうございます。お口に合いましたでしょうか」
「はい。シェフのお料理ですか?」
「シェフだなんて……。冴えない食堂の主人です。……お客様、もしよろしければ、ここの演奏、最後まで聴いてやってくださいますか。私の知人の娘さんたちなんですよ。二人ともこの春、大学生になったばかりです。素敵なハーモニーを聴かせてくれますので、私が惚れ込んで、来てもらったんです」
「そうですか。ギターがとても上手いですね。では、しばらくゆっくり聴かせていただきます」
「ありがとうございます。そう言ってくださると、嬉しいです。何だか、今日は午後のお客様の入りがよくありませんので……。彼女らは、今日、午後二時から楽しそうに演奏しています。時々、私とおしゃべりしたり、お菓子を食べたりしながらですけどね」
 マスターはニッコリして言った。
 最近新装した店らしく、店内は清潔感に満ちていた。高級感はそれほど感じられなかったが、何事にもきちんと行き届いている雰囲気があった。
 しばらくすると、マスターは、貴司にフォークバンドが今日演奏している曲目のリストを手渡してくれた。貴司はコーヒーを飲み終えると、ビールのおかわりを注文した。

「これもご覧ください」
 またマスターが貴司のテーブルにやって来た。
「私が作成した曲目紹介です。『一言コメント』も添えておりますので、よろしかったら、お読みください」
 マスターは、少し照れたように、しかし嬉しそうに話した。
「ありがとうございます。読ませていただきます」
 貴司は、マスターから、コメントを書いたカードを手渡された。
「こちらこそ、感謝申し上げます」
 マスターは深く頭を下げた。
 貴司はコメントを読み始めた。
 曲は全部で七曲であった。ほとんどが女性デュオによるオリジナル作品であったが、一曲だけ、やけにコメント文の長い曲目があった。「風とたわむれて」という曲だ。そのコメント文には次のようにあった。

 オリジナル曲が主の彼女たちですが、この「風とたわむれて」は、私の敬愛する歌手、ペリー・コモの代表曲の一つです。ベット・ミドラ―の大ヒット曲のカヴァーではありますが、コモの熟練したヴォーカルには、ずいぶん酔いしれたものでした。コモの音楽との出会いは私が五十歳のときでした。ある日、ラジオから映画「追憶」のテーマが流れて来ました。何人かの歌手の聴き較べの番組だったのですが、コモの「追憶」を聴いたとき、とにかく歌のうまさに驚きました。穏やかな歌声に聴き入りました。そして、コモが、フランク・シナトラ、ビング・クロスビーと肩を並べるアメリカを代表する名歌手であることも知りました。
 コモのラストコンサートと称されているアイルランド・ダブリンでのクリスマスコンサートがありましたが、DVDでそれを鑑賞しますと、大観衆に愛されているコモの人柄が大写しになり、歌唱以上に感動的であります。そのコンサートでも「風とたわむれて」は歌われていますが、コモの歌の中で、私が一番好きな楽曲ですので、彼女たちにこの曲を演奏してほしい、と頼んだところ、快く引き受けてくれました。歌詞も彼女たち独自の日本語に訳して、先日、私に聴かせてくれました。感動のあまり、いや、個人的な話になりますが、亡くなった妻のことを思い出し、不覚にも涙が溢れましたが、彼女たちは、よいパフォーマンスを披露してくれますので、皆様、どうぞお聴きください。

 マスターは、この二人の歌を心から愛している。そして、ペリー・コモの歌を大切に思っている。コメントを読みながら、貴司にはそれが強く伝わった。
 貴司はビールを飲みながら、ゆったりとくつろいでいた。
「なかなか、やりますね。彼女たち」
 貴司は、カウンターの向こうから貴司のほうを一瞥したマスターに、大きな声でそう言った。
「分かりますか」
 マスターは貴司のテーブルに来た。
「いや、音楽のことは私は門外漢です。しかし、このデュオは、もしかすると、プロ級じゃないですか?」
「そうなんです。実にいい音楽を作り出しています。また、人間的にも、とてもいい子たちなんですよ」
 マスターは、我が子のことを語るように、穏やかな口調で言った。
「二人の歌は、もっとたくさんの人たちに聴いてもらいたいですね」
 貴司が言った。
「本当に私もそう思っているんです」
 マスターは、賛同者を見つけたと言わんばかりの顔をして言った。
「お客様、お飲み物はどういたしましょう」
「もう一杯、ビールをお願いします」
 貴司は、もう少しこのデュオの演奏を聴いていたかった。

 デュオが訳した「風とたわむれて」は次のような歌詞だった。

 君はいつも僕のことを
 とても大事にしてくれた
 僕の影にばかりいて
 いつも僕を立ててくれた

 表舞台にいるのは僕
 君は大変な役目ばかり
 いつも僕を支えてくれた
 君の愚痴を聞いたことがない

 君は僕のスターなのさ
 君のようになりたい
 自由に僕が飛べるのは
 君という風のおかげさ

 だけど気がつかなかったんだ
 この思いはいつもあるんだよ
 君がいなければだめなんだ

 君は僕のスターなのさ
 君のようになりたい
 自由に僕が飛べるのは
 君という風のおかげさ

 君という風のおかげさ

 貴司は、マスターの人生にも、きっと紆余曲折があったにちがいないと思った。女性デュオに対するマスターの優しさは、いったいどこから来るのだろう。ペリー・コモの歌はよく知らないが、マスターが彼の人柄に心酔するのも、また、風のようにマスターの翼を支えてくれた今は亡き夫人への想いを吐露するのも、マスター自身が人として成長したことのあらわれなのだろう。
 きっと、誰もが経験するように、人間関係の上で、生業の上で、マスターは、酸いも甘いも味わってきたことだろう。そして人の痛みを知り、人の喜怒哀楽を知り、いつしか、円熟味を醸し出す良き老人になったのだろう。この何とも言えぬ店内の居心地のよさ。きっとこの店の雰囲気は、マスターの来し方を象徴しているのだろう。貴司を殴った日のことは、若気の至りというものか。しかし、結果的にマスターは人として、よい心根を育んで、その人生を歩いて来たにちがいない。貴司にとっては、奇しくも、そのようなことを実感する帰省となった。

 腕時計を見ると、午後六時を少し過ぎたところだった。客は少しずつ増えている。間を置きながらも、女性デュオの演奏はまだ続いている。
「お客様、お飲み物はいかがですか。お客様は、とてもいいお方です。今日、私はとてもよい気分です。何かお飲み物をごちそうさせてくださいませんか。何なりとお申し付けください」
 突然、マスターが貴司のテーブルに来て、嬉しそうに言った。
「よろしいんですか?」
「はい」
 貴司は気のよさそうなマスターの顔を見て、にっこりした。そしてふと、悪戯心が湧き上がってきた。
「ソフトドリンクはありますか?」
「はい。ございます」
「バナナジュースが飲みたいですね」
 マスターは一瞬、きょとんとした。
「ありますか?」
「はい。ございます。すぐにお持ちいたします」
「お願いします」
 貴司は心楽しかった。今飲むバナナジュースはいったいどんな味がするのだろう。マスターの人生の片隅に中学二年生の貴司がいる。マスターの記憶のどこにも存在しない貴司がいる。いや、もしかしたら、消せぬ汚点としてマスターの中で、その出来事は、今も揺らめいているのかもしれない。

 いまフォークデュオの音楽を楽しむ貴司には、中学二年生の自分のクラリネットの音色がかすかに聴こえている。あこがれのクラリネットをショーウインドーの向こうに眺め、胸を躍らせた中学生の自分の、支えてくれる風もなく、青い翼すらひろげられないままの未熟な音色が、いつまでも、いつまでも、遠い音色となって響き渡っている。

( 了 ) 


 フリーダム (3)
熊倉 都美(ペンネーム:八木橋麻子)
2011年11月21日

 笑い合っている二人と、ホームレス一人が見えた。その笑い声に安心した私は、ヒッキーの「Etanally」を聴きながらゆっくり寝始めた。その曲はピアノの音から始まり、ドラマの主題歌とマッチしていて、とても感動的だった。歌詞は曲を紡ぐひとつの役割でもあり、主題でもある。ヒッキーはまた、ブログに何か書いてるんだろうな。有名人だから、手が届かないけれど。するとさんまの匂いがし始めた。秋になっていくこの季節は、さんまが大量に釣れるから、安く買える。そういえば、ママとスーパーに行ったっけ。生さんまが一匹80円で、家族の分を全部買っていたのを思い出した。ママは魚をさばくのが上手だった。ママがさんまをさばいている情景が浮かんだ。しかし、料理好きのママは、ここにはもういないんだわ。今もまだ、パパが惣菜を買ってきて、それを食べるのが日課なんだ。冷たいコロッケと、ひじきの和え物。焼きたての、熱々のコロッケを作るママは、ここにはもういない。Etanallyを聴きながら寝ている私の目から、自然と涙が流れていたのが判った。蒸し暑さが充満して、私のシャンプーの匂いがするテントは、訝しげな目でこちらを見ていた。私は上に見えるテントを無視した。Etanallyはゆっくりとその曲の幕を閉じ、私は寝た。私がごろごろしながらテントの毛布にくるまって、もう一週間が過ぎようとしていた。朝と昼になると耕一がやってきて、無理やりにでも何か口にさせようとした。炊き出しのものではなく、さっぱりとしたサラダを私の口に運ぶこともあった。夜中もまた来て、今度は栄養ドリンク。こんなに食べていたら、ただ寝続けるだけなのに、豚になっちゃうわよ。浩二がいつも炊き出しのメニューを考えているようで、だからホームレス達も飽きがこないんだと、そう思った。耕一は私が回復していく頃には、引越しの仕事に行っていた。朝五時からお昼までの時間で、よくこなせるなと思った。しかし正社員なので、まあまあ自由がとれると、耕一は言っていた。浩二はというと、夜の六時半にはここを出て、夜中の二時に帰ってくる。警備員にしては安いお給料。バイトだからかしら。
 「ねえ、ちょっと耕一」
ちょうど夕方になり、テントの隙間から耕一を呼んだ。
 「なんだ、傷はどうだ」
耕一がゆっくりと顎のガーゼをとり去った。
 「おお。綺麗に戻ってるじゃねえか。腹の具合もよくなってきたろ?」
 「お陰様でね……」
私はあの食べ物週間を思い出した。おえっと吐きそうだった。お風呂も入っていないし、ああ。女としてこれはないだろう。くんくんと、左手、右手首の匂いを嗅ぐと、汗ばむ匂いが漂ってきた。うわあ。一日もお風呂に入らなかった日などなかったのに、初の風呂なし日だったわ。ふとテントの隙間から見ると、あれ、ホームレス達がほとんどいない。いるのは消毒をしてくれたおじさんと、その他合わせて六人だけだった。あれから六人もの人がここを抜け出したの? 一体何があったのだろう。一体何があってここを抜け出したというのだろう。
 「どうして、あの人達がいないの?」
耕一が口をゆがめながらこう言った。
 「去った人達は、ここより路上のほうが安全だと判断したみたいなんだ。だけど、一番に協力をしようと言ってくれたのは、あのおっさんなんだぜ」
 「私を消毒してくれたおじさんね。あのさ耕一」
座ろうとゆっくり立ち上がった。耕一は私の背中をかばいつつ、起き上がらせようとした。少し前につんのめろうとしたが、耕一が肩を抑えた。私は正座をして、耕一に話した。
 「なんだよ、らしくもない格好をして」
 「どうしてボランティアを?」
前から聴きたかったことだった。一週間前だか、そこら辺の実のことで薄々感づいてはいたが、肝心なことは何も判らなかった。ただですら判らない性格の耕一なのに、もっと判らなくなるのは勘弁して欲しかった。耕一は少し黙った後、嫌そうに、ゆっくり言った。
 「償いなんだ。俺は族にいたころ、万引きもしたし、サツ……ああ、ごめん。警察の世話にもなった。ただ俺に、今更だろうと思うけど、何か償いたかったんだ」
言ってくれてありがとうと言わんばかりに、私は耕一の頭をくしゃくしゃやった。まるで猫のような耕一は、思わず母性本能をくすぐりたくなるように可愛くて仕方がなかった。無愛想な耕一は時々素直になる。誰にも気づかれないような世話をすることもある。私に教えてくれたこともある。耕一は最初から見返りなんて期待していないんだ。きっと誰にも。きっとこれからも誰にも見返りを求めないで生きていくんだろう。
 「なんだよ、言っとくけどお前の世話をしたかったのは……」
耕一はテントの隙間から何か見た後、瞬時に顔をテントに隠した。言いかけそうになった言葉を、耕一は口をつぐんで押しとどめた。何か見えたのだろう。勘が鋭かった耕一は、すぐにテントから出て皆に呼び立てた。なに、そんな大声で何を……雲が太陽を負い去り、再び雨が降ろうとしていた。

 「みんなやっちまっていいぜ、力有り余って仕方ねえだろ、ただ相手から手を出してきてからだ」
私はテントの隙間から再び砂場の向こうを見た。実だ。男も数人連れて、やってきたのだ。なんて卑怯。
 「おーこういっちゃん。俺は昔柔道をやったことがあるが、若者相手にそりゃきかねえだろ。目潰しがある」
おじさんは催涙スプレーを取り出して、手に持った。浩二はさんまの残骸をコップに入った水でじゅっと蒸気を抑えた後、再びビニールをかけて、テントの横に持っていった。耕一は実にちょっかいを出しながら、ちょうど中間地点のところにいた。みんなそれぞれ、鍋だの棒切れだの持ちながら実に近寄っていった。今度こそ終わりだ。ここも、あいつらも。せっかく楽しくやっていたのに、それをぶち壊すなんてあんまりだわ。実たちは、おじさん達よりも物凄い武器を持っている。ナイフに本物のライフル銃。それに実の手には、マッチ。
 「やめて実! ここをぶち壊さないで、あなただってやり直せるのよ。ここの人達を殺したら、今度は刑務所から一生出られなくなるわよ!」
 「まこっちゃん、いいから隠れてな。俺らは覚悟でここにきたんだ。判るかい。危険じゃない場所なんぞ、どこにもないんだよ。いつだって人は危険の中にいんだ。俺はもう充分に生きたし、楽しんだ。未練はねえ」
それがおじさんの最後の言葉になった。催涙スプレーは手から零れ落ち、ライフル銃の玉が、おじさんの心臓へと打ち抜かれ、まるでスローモーションのようにおじさんは仰向けに倒れた。私はおじさんが倒れていく姿を目に焼き付けた。血がぶしゅっと噴出したかと思うと、私の頬にあたり、伝った。左手で血を触ると、おじさんの血だとすぐに判った。私はしばらくおじさんの顔を見て、ゆっくりと横に頭をもたげるのに気づいた。おじさんの脈をすぐ調べたが、音がなるまでには至らなかった。あんな銃で打たれたら即死だということは判っていた。それでも私は人工呼吸を続けた。まだ生きているかもしれない。生きているかもしれないんだ。おじさんのお陰で、あごの傷は治ったのよ。しかし、必死に人工呼吸をしたけれど、おじさんは目を剥いたまま、赤い空を眺めていた。濃い赤い空が、おじさんの血を物語っているような気がした。上を見ると、赤い空が、泣いていた。赤い空が、何か言っていた。空は神様なんかじゃないわ! 私はふいとおじさんの胸に手をやり、人工呼吸を続けた。どうか、死なないで。死なないで! 赤い空がゆっくりとおじさんの顔を照らし、その赤い光が私を映した。しかしおじさんは、即死だった。目を手で優しく閉じさせると、私はありったけの声で叫んだ。サイレンのようにいつまでも鳴り止まない声は耕一を責めた。耕一、あんたって、あんたってやっぱりあの人達の手先だったのね。信じた私が馬鹿だった! 本当に、馬鹿だった。
 「真琴!」
私は思いっきり耕一の右の頬を平手打ちした。
 「あんたって最低ね! 人が死んでもなんとも思わないの、おじさんが死んだのよ。あのおじさんが」
 「ああ、最低なんだ」
すると耕一の目から光ったものが見えた。幾度も幾度も止まらない涙が、持っている紙に滲んで、私に手渡した。鉛筆で書かれたようなその何枚もある手紙は、まるで遺書のようだった。
 「あのおじさんには家族も何もいなかったんだ」
耕一は嗚咽を出しながらこう言った。
 「末期がんだったんだ」
私は震えた手で耕一からその手紙を貰った。止まらない嵐達は容赦なくこちらを狙ってきて、一人のおじさんは、私の仕返しとでもいうように鍋で実の頭をぶん殴っていた。私はどちらの味方にもつけなかった。今耕一を信用するわけにもいかなかった。ただ泣き崩れて、横にそれていく銃から、身を守ることしかできなかった。耕一はテントに戻れと言ったが、それを無視して、私はおじさんの体に持たれこんだ。さっきまで温かかった体が、生きていた体が、冷たくなっていくのを感じた。男らは、至近距離でライフルをぶっ放すのだけは辞めていた。殴る蹴るのお互いの喧嘩のようなものが、延々と続いていただけだった。私はおじさんから貰ったその遺書を、ぎゅっと握り締めていた。ぎゅっと握り締めた手に汗が滲んで、鉛筆で書かれた文字が消え去りなくなくりそうだった。
 「あの人達は俺の事情を判りながらも、最後までここにいてくれたんだ。だから協力してくれたんだ」
 「あんたは黙ってなさいよ! この裏切り者!」
耕一は立ちすくみ、自分の中で、これが正しかったのか否か考えているようだった。こんなの、正しくもなんともない。私がおじさんの顔を思いっきり引っぱたいても、おじさんは起き上がるどころか瞳孔が開きっぱなしだった。耕一の涙が私の首下に伝った後、次の涙はライフル銃で二つに割れた。
 「おいリーダー。こんなしけたところで、何やってんだよ」
 「俺はもうリーダーじゃない。お前はただの殺し魔になっちまったんだな」
すると至近距離から耕一の右肩を打った。玉は耕一の右肩を貫通し、砂にぼとっと落ちたかと思うと、はねもしなかった。血は胸のほうに流れて、砂を血まみれにした。ぐっと唸る耕一は、右肩を抑えて蹲るように苦しんでいた。あの美しいダイヤモンドの砂は、血とは混ざりたくないと言ったような気がした。頬が血だらけの私を見て、男は笑いながらこう言った。
 「実の次の女なんだろ? 耕一もずいぶんやり手だな」
私は男をきっとにらめ付けた。
 「あんたはただの暴走族なんかじゃない。二人も撃った」
 「それがどうした」
笑いながらその男は言うと、実が駆けつけていた。髪の毛から血を滴りながら。
 「もうやめなさいっつってんだろ、おやじは死んだだろ。あたしの耕一まで撃って、何やってんだよ」
マッチ持っているくせに、何を言っているんだろうこの女。はは。ここを全部燃やし尽くそうと思っていたくせに、今更何を言っているんだろう。やり直せない女って、いるのね。実、あなたはただの犯罪者よ。言い尽くすべきところもないただの犯罪者。耕一がリーダーだからって、惚れてもいないくせに、ただその座を手にしたかったのね。私は耕一を一瞬裏切ろうと思ったが、裏切るわけにはいかなかった。あんなに沢山のことを教えてくれた。見返りも求めずに。私は一瞬耕一を疑っていた。でも、違った。耕一は一切手を出さない。ホームレス達の争いが終わりかけそうになった頃、救急車と警察がやってきた。このことで、耕一の考えていたことがすぐに判った。警察は、鋭い武器を持った連中よりも、弱いこちらの方に、味方をするのだと思い呼んだのだ。しかし警察達が来る前に襲われてしまった男性を、救うことができなかった自分に、腹が立っていたのだ。きっとあの遺書も、捨て去るべきだと男性に促した筈だ。しかし死んでしまったおじさんからの要望で、私に手渡したのだ。私達は何もしていない。鍋や棒切れで、ライフルやナイフに勝てると思うの。私達は、何もしていない。しかし、疑問が残る。ただやっちまえと言えば、警察だってこっちに目を配る。何か一人で策を練っていたのかしら。何にしろ、ギターを弾けなくしたこの男と実に憎しみが舞い上がってきた。炎の中で燃え上がる憎しみが、憎しみを呼び、炎はどんどん大きくなっていった。私は実に、貫通した玉を顔にぶつけると、くすっと笑った。相手を最大限に憎むとき、人はつい笑ってしまうのだ。不気味なおもちゃのように。赤い空から慈しみの念が降ってきそうだった。実は汚そうに顔を拭った。一人の警察官がピストルを持ち、男に銃を捨てろといった。仕方なくという風に、男は銃を下ろした。こいつは前も人を殺してきたんだ。こういう風に。ライフル銃なんて、どこで手にいれたというの。救急隊員が、私達の元に来ると、あなたが殺したのかと、実にそう言った。首を横に振る彼女はマッチをポケットに隠した。それに気づいた隊員は、いぶかしげな顔で実のジャケットの方を見た。こちらも何かあるようです、と。警官を呼んだ救急隊員は、実の体をぽんぽんと触ると、何か四角いものが入っていると気がついた。取り出した隊員は、これで何をしようとしていたのか瞬時に判った。殺したのは女ではなく男であって、火災を起こそうとしたのは女だと。浩二がいきなり襲ってきたんだというと、ここの公園で何をしていたんだと訊かれた。ボランティアだと言うと、二人の警察官が怪しげにこちらを見ながら公園にあるテントひとつひとつを見ていった。許可を取ってあるのかないのか、実は食い物にしようとしていたのではないかと、次々に答えさせられた。浩二の目に涙はなく、ただ淡々と答えていた。警官と刑事が疑っていたテントの中には寝巻きや、趣味の雑具があるだけで、他には何もなかった。重傷の耕一を、救急隊員は急いでタンカに乗せた。私も乗せてと言ったが、親類でもない私を乗せようとする隊員は誰もいなかった。耕一はひとつの紙切れを私に手渡した。どうして、おじさんも耕一も、そんな遺書のようなものを私に手渡すの。私は大雨が降る中で、ぽつんと一人、立ちすくんでいた。浩二が私に呼びかける声が聞こえたような気がしたが、私には何も聞こえなかった。鉛筆で書かれた二つの手紙は、どしゃ降りの雨で、濡れていき、私は大切な宝物のようにエプロンのポケットに入れた。髪の毛から滴る雨は、私の頬を伝い、泥になった砂と共に消えた。ずぶ濡れになった私は、何を思ったのか、泥で顔を洗うように塗り付けていた。彼らの血と、あの美しいダイヤモンドの砂を塗りこむように。ゆっくりと顔をあげると、私はしばらくここから離れることが、できなかった。

 私は起き上がると、そこは私の部屋だった。私は夢か……と思うと飛び上がり、自分の体を触った。あのエプロンだった。そして自分の顔を触ると泥はついていなかった。周りを見渡すと、高校時代の私の写真が張ってあり、ピンクのカーテンは、どう見ても私のもので、部屋だった。思い出しエプロンのポケットから二つの紙を取り出すと、おじさんの言葉にはこう書いてあった。ママの明るい声が聞こえた気がした。
 「真琴ちゃん、俺には身寄りも誰もいなかった。嫁さんはあの世に逝っちまったし、子供達は都心に行って戻ってきやしねえ。介護を呼ぶにも金はかかるし、入院するにも金がかかる。末期のがんだって知ってから、俺はふらふら外を出歩いて、短くてもいいから、生きたかったんだ。こういっちゃんから声を掛けられたときは、俺なんかが……と思ったんだが、入ってみると面白くてね。ここは面白い場所だった。退屈しないしな。真琴ちゃんが入ってから、更に面白くなったよ。あんたにはまだ夢がある。自由もある。責任もな。俺に何かあったとき、これを読んでくれとこういっちゃんに頼んだんだ。今までありがとな、真琴ちゃん」
 大きな文字で書かれた手紙は、震えたような手だったような気がした。この数文を書くだけで、何枚にもなっている。思い出すとあのおじさんは、いくつだったのだろう。多分七十手前か、その辺だった。今はいつで、何時なんだろう。私はケータイを取り出してみた。あの事件が起こったのは、確か八月十三日で、今は九月二十四日。時間は朝の十一時で、曜日は土曜日だった。あれから一ヶ月も経ったんだ。私はもうひとつの、耕一の手紙を読んだ。短く雑に破ったノートの破片だった。
「090-○○○ー1158 you」
 と書いてあるだけだった。Youの次? それとも前? 雨に濡れて、鉛筆で書かれた文字はかろうじて見えそうな気がしたけれど、私はわざと見ないようにした。私に愛しい悲しみだけを残して、去っていったあなた達は本当に馬鹿よ。大ばか者。私はあの思い出達を心の中に少しだけ、少しだけ封印した。心から楽しいと思える日もあった。しかしそれと共に痛みをも知ったからだった。ニュースをつけると、あの中村さんが富士山を上りきったとアナウンサーが言っていた。危険を伴いながら頂上で水を飲む中村さんはとても粋で、思わず拍手をしそうになった。中村さんも、みんなも、どこかで生きている。
 「ちょっと真琴!母さん心配したのよ。パパなんか大慌てで仕事にも行けなかったのよ」
どんどんと、叩くドアの向こうに、本物のママがいた。
 「ママ」
 「ママよ。デイケアに行くことにしたのよ。一ヶ月間ボランティアなんてして、事件に巻き込まれて……どうしちゃったのよ。顔をはたいても起きなかったのよ」
 「ママ!」
私は思いっきりママに抱きついた。ママは苦しそうに、ぶら下がる娘をよしよしと頭を撫でた。本物のママだ。夢じゃない。私はママから手を離すと、中村さんの映像を見せた。ママは何これ、といわんばかりに頭を傾げた。私は一人ではしゃいでいた。しかしふと、耕一のことが頭から離れなくなった。
 「ねえママ、耕一は、生きてるの?」
 「耕一……?ああ、鈴木くんのことね。あんたケータイ置きっぱなしであそこから逃げたんでしょ」
私はママの顔をじっと見つめていた。
 「生きてるわよ。まだ病院みたいだけど、午前中からあんたのケータイが鳴りっぱなしでうるさかったわよ」
私は一瞬、耕一の元に電話を掛けようと思ったが、辞めた。耕一も病院から退院したら、使えなくなった右手ではなく、きっと左手で弾く。狐目のあの男なら、きっとそうする。アコースティックのメロディーが頭に流れてきた。耕一はまだ、私と関わるべきじゃない。耕一もまた、生きている。自由に、そして責任を持って。優雅に北欧の踊りなんかしながら。つららはぱきっと折れて、私の頭を突き刺した。ママに就職活動のつてがあるかどうか聞いてみると、任せなさいと言わんばかりにウィンクをした。あれから半年の三月、雪が解けて春になる頃、私は小さな企業のOLとして働くことになった。地味で、パソコンにばかり面と向かう私は、なんだかあの頃とはちょっと違うみたい。昼になるとおばさん達に連れられながら、昼食を取っていた。あの定食屋で。マスターは耕一の心配をちょくちょく私に聞いてきた。しかし私は何も知らない。マスターは、ロコモコをテーブルに置くと、金は要らないよとでもいうように、人差し指と親指で丸を作り、それからばってんをした。あの頃と同じように、目玉焼きとデミグラスハンバーグ、レタスにパイナップル。思い出しそうになりながら、黙々と食べていた。おばさん達も同じものだ。『真琴なら好きそうな味だ』、ふと振り返ると、ガラス窓には誰もいなくて、私は目を虚ろにしながら最後の一口を食べた。とても美味しかった。うん、美味しい。それと共に涙が溢れ出してきた。思い出をすべて消し去ろうとした。消してしまおう。どうしたのとおばさんは声を掛けるけれど、私はなんとでもないよと発して、そこで昼休みは終わった。夕方になる頃、私の定時は十七時で、黒いスーツを身にまといながら、まだ寒い冬の中をハイヒールで歩いていた。あの時ニュースで見たけれど、実は23歳だったらしい。実は一年三ヶ月の懲役。男も、懲役20年を受けて、すべてが終わろうとしていた。私は慣れないハイヒールを履いて、後ろを振り返った。死んだおじさんの言葉が、聞こえたような気がした。思い出達が雪の降るこの頃に、夏の照りつける日差しを思い出していた。ああ、あの恋しい夏。氷水をくれた耕一。必死に守ろうとしてくれた浩二。私は明日の仕事の片づけを今日中に仕上げなければと、走って家路にたどり着こうとしたが、ハイヒールが雪で邪魔をして、私は10cmもある雪の中へ放りこまれた。ああ。冷たい。雪できんきんする顎を抑えると、噴水が舞い降りてくる丸い円のレンガ作りの椅子のようなものに、誰かが座っていた。
 「ちょっとあんた」
背の高い男性が私に触れようとした。私はその男性を見上げると、思わず雪をも蹴飛ばすような勢いで後ずさりした。耕一だ。ああ。連絡もしなかった私を殺そうとしてるの? 私はあの事件からまだ抜け出せずにいた。怯えながら耕一を見る私は、耕一にとっては不愉快だったような気がした。右手には義手の手をつけて、耕一は私を見ると、だいじょうぶかと言うように手を差し伸べた。冷たい手。あの頃とはまったく違う。しかし差し伸べられた耕一の左手を握った私は、じんわりと温かい感触が私に伝わってきたのが判った。
 「義手になっちまったけど、左手でギターをマスターしたんだ。俺はどの企業にも入れるけど、今は入りたくないんだ。少し休みたい。自由にな」
 「耕一」
私はぐいっと手を捕まれてレンガの椅子に座らせられると、
 「生きてたの」
 「何回もお前に電話掛けたんだぜ、今頃になっちゃもう遅い」
耕一は真剣にそう言うと、違う違うと首を横に振った。
 「今はどうしてるの」
 「浩二のところにいる。しばらく経てば、また働ける。それに」
私は雪を蹴っ飛ばすと、
 「お前とも一緒に暮らせる」
と言った。
 「はああ?」
 「はは、お前あの手紙読んだだろ、伝わらなかったのか」
耕一はそう言うと、自分で作ったという曲を、アコースティックのギターで聴かせてくれた。雪が舞い散る古い駅にも、人がどんどん集まってくる。コインを入れる人もいれば、一万円を放り投げるおじさんもいた。耕一の声は透き通っていて、どんな駅にも響き渡るような気がした。最後に愛の言葉を言って、終わった。大勢の拍手たちが私達二人を見つめていた。なんだっていうの? 英語の歌詞じゃさっぱり判らない。
 「自由っていうのはな」
耕一が義手で私の肩を抱いた。
 「こういうことを言うんだ」
私は耕一の言いたいことがやっと判った。ホームレス達に、『やっちまえ』と言った言葉の意味も判ったような気がした。私達はみぞれ混じりの雪が降る中、静かに、寄せ合うように、していた。自由、だった。

〜 了 〜 

 フリーダム (2)
熊倉 都美
2011年11月11日

 「どこへ行くの」
 「いいところに連れて行ってやるから、待ってろ」
あぜ道を駆け抜ける耕一の足は速くて、私はこけそうになった。しかし耕一は私に合わせることもあった。浩二は一人で大丈夫だろうか。二十人ものホームレス達を、一人でかばうことができるのだろうか。息を切らせいきなり止まった耕一に、引き裂かれそうになった手は、ゆっくりと止まった。耕一は手をぱっと離し、私に向かって言った。
 「ここなんだ」
そこは古い定食屋だった。新しいパスタの店や、ハンバーガー店に埋もれそうになりながらある、本当に小さな定食屋だった。看板には『なんでも屋』と書いてあり、食べ物を作るところなのかリサイクルをするところなのか一瞬判りにくかった。メニューにはロコモコやしょうが焼き、オムレスなどがあり、本当になんでも屋のようだった。中に入るとテーブルが二席あるだけで、後はカウンターだけだった。木で作られたテーブルや椅子は、今にも脚が崩れ落ちそうだったが、人は満杯であった。
 「ここの飯は最高なんだぜ」
と、耕一は言うが、私は飯を食べる為にここに来たというの? やっぱり耕一の考えていることは判らない。仕方なくカウンター席に座る私達は、おじいちゃんとも言える歳の人から、
 「おお、耕一じゃないか。彼女連れて、今日は鮭定食じゃないのか?」
と言われた。私、彼女でもなんでもないんですが、おじいちゃん。おんぼろなこの店に一人で賄っているようなおじいちゃんは、洒落た感じの話し言葉で耕一に言った。耕一はいつもここで食べているんだ。
 「まあ、オーナー、今日は俺、ロコモコ食いたいんだ。こいつにもよろしく」
 「オーケー」
おじいちゃんは手際がいいようで、すぐに目玉焼きを焼き始めた。むんむんとするこの店で、目玉焼きを焼く音がじゅわじゅわ言っていて、その横でパイナップルをも焼いている。まさにハワイアンだった。冷たい氷水を飲む耕一は、引越し屋で疲れた体を癒すかのように伸びをした。
 「俺がガキの頃、よく親父に連れられてここにきたんだ。氷水もただの水じゃないんだぜ。これは井戸水なんだ。俺の家の近くに井戸水が流れてる。そこからタダで頂いてんだ」
 「なんだって、私をここに連れてきたの?」
耕一は怪訝そうな目つきで私を見た。
 「俺と飯じゃ、気色悪くて食いたくもないのか?」
私はうんうん、と冗談のように首を縦に振った。
 「これは貸しだぜ。もう出来上がってる。マスターは作るのがめちゃくちゃ早いんだ。食えよ」
 「貸しですって?」
私は出されたロコモコを見た瞬間、驚いて言葉にしようがなかった。白いどんぶりの底にご飯があって、レタスがこんもりと乗っかっている。その上に目玉焼きと、デミグラスハンバーグが乗っていて、パイナップルが五つくらい添えてあった。甘い果汁とデミグラスソースが混じって、不思議な気持ちになった。
 「まあ食ってみろよ。真琴なら好きそうな味だ」
 「……私の為におごってくれるなら、要らないわよ」
 「金もろくろくないだろ。それにお前は自由ってもんを知らない。自由っていうもんはな」
耕一はロコモコをスプーンでぐちゃぐちゃにし始めた。パイナップルもざく切りにして。それをやった後、大きいどんぶりに沿って、かき混ぜるように綺麗にすくって食べた。マスターは頷くように、耕一の食べ方を見ていた。もごもご食べながら美味しそうに食べる耕一の姿は、そこら辺の汚い食べ方をするおっさんのようではなかった。スプーンの大きさに合わせて、ご飯を盛り付け食べていた。
 「こういうことを言うんだ」
私はロコモコを綺麗な状態でしか食べたことがなかった。ぐちゃぐちゃにするなんて、思いもよらなかった。私がまだ手をつけずに耕一の食べる姿を見ると、どんどん吸い込まれるように耕一の姿が目に入った。耕一がご飯一粒も残さずに食べた姿を見た後、私は耕一から目を逸らして、同じように綺麗な姿のロコモコをぐちゃぐちゃにし始めた。そして、スプーンですくった半熟の卵とハンバーグは、本当に絶妙な味だった。パイナップルが甘みと酸味を利かせていて、ハンバーグはその盛り立て役。最高だった。綺麗に食べ終わった後、私はその氷水をぐいぐい飲んだ。少し飛び散った氷は、私を壮大な森に存在する、鳥のようにした。
 「俺は金を払って、マスターはその分、飛びっきり旨いごちそうをくれる。それを自分の思いたいように食うんだ。責任っつーもんを持って」
 「耕一」
 「なんだ?」
 「ありがと」
すると耕一は、照れくさそうに頭を掻いた。つい頭を掻くのが、耕一なんだ。
 「礼くらい言えるんなら、最初から素直になれよ」
 「あなたのほうが、素直じゃないと思うけど」
マスターは飛びっきり美味しいロコモコを食べた私達を見て、微笑ましそうにこう言った。
 「お前達は、素直になれば、もっと自由に羽ばたけるんだぞ、未来がある」
私と耕一は、お互いに見つめた後、笑い合った。すると耕一の作業ポケットから、携帯が鳴った。黒い小さな携帯は、初期設定のままの音だった。耕一がいきなり渋い顔をして、左手から小銭を取り、マスターに遣った。マスターは『自分は関係ないよ』と言いそうな顔だったが、いつも耕一の心配をしているらしい。背中を向けたマスターが、物悲しそうに見えた。何があったっていうの、耕一。
 「マスターサンキュー。おい真琴。浩二から電話があった。俺の前の……」
 「え?」
 「いやなんでもない。真琴はあそこから離れて浩二から守ってもらえ。これは俺の責任なんだ」
言いかけた耕一を見遣る私は、耕一に何かあったのだろうと、勘で判った。マスターは耕一を心配そうに見遣っただけで、何も言わなかった。
                               ☆
 「浩二、何があったの」
息を切らせながらテントの方に戻ると、浩二は料理を作るのを辞めて、ホームレス達に隠れるよう促した。
 「まこっちゃんは俺についてなよ。あれは耕一の前の彼女なんだ」
その彼女は、砂場の隅のほうで、私から隠れるように見つめていた。いや睨み付けるようだと言っても過言ではなかった。彼女は黒いジャケットを着て、黒いパンツを履いていた。まるでSPのようだった。私は青いテントに向かっていって、ホームレスの一人に声を掛けた。
 「ねえ、おじさん、何があったの」
するとホームレスのおじさんは、少しの沈黙の後、こう言った。
 「あいつはやべえ姉ちゃんなんだよ。俺らも前にこういうことがあった。ムショに入る前に、こういっちゃんの姉ちゃんがああやってストーカーみてえにして来てたんだ」
 「ムショ……刑務所ですって?」
 「ああ……あいつは血も涙もねえ姉ちゃんなんだ。この間は俺らテントんとこに、ねずみ花火を撒き散らしやがったんだよ」
私はあの子をテントの隙間から覗いた。遠くからで判らないけれど、二重のぱっちりとした、可愛らしい女の子だった。あの子が刑務所に入って、いつ出所したの? 見た目からは想像もつかないほど、可愛かった。
 「俺らは心配ねえ。なんたってここで暮らすのになれてっからな。狙われてんのは真琴ちゃん、あんただ」
 「まこっちゃん、心配することない。俺がついてるから、ここの人達も安全だよ」
私を狙う必要などどこにあるんだろう。耕一の彼女がなぜ刑務所に入ったのだろう。疑問が疑問を呼んで、頭が混乱しそうになった。さっきまで晴れだった天気は、少しずつ雲を揺らしながら太陽を消し去った。雨が降りそうな予感がした。私と浩二は、バーベキュー用のコンロたちをとにかく守るようにビニールで覆い被せた。耕一と彼女は、雲と太陽が交じり合った中で、何か話していた。私はとにかくこのホームレス達を守らなければ。意地でも守ろうと、そんな気持ちが沸いてきたのは初めてだった。胸の中から怒りと興奮が舞い起こってきていた。私は強くもないし心だって強くない。しかし何かを守ろうと思ったのは、これが初めてのことだったのだ。すると小さなビー玉粒くらいのものが、こちらを狙って打ってきた。あまりにも卑怯だ。本物の銃ではないにしろ、まるで射的のような銃で、至近距離から狙ってきたら、大の男の人だって、一発食らう。ぱんぱんとなる音に怖気づいたのか、浩二は頭を手で抱えた。
 「女って、怖いよ」
 「怖気づくんじゃねえ、浩二。それでも男か、単なる射的だ。死にゃしねえ」
私はあまりの怒りにあの女に向かって行った。射的の銃は私には当たらず、横にそれていった。
 「まこっちゃん! あれはあいつらの問題なんだ。行ったら駄目なんだよ!」
 「浩二は黙ってて」
私の言葉に浩二は驚いたのか目に涙を浮かべながら見ていた。私は射的を恐れずに立ち向かっていった。たまに私の二の腕に当たることもあったが、痛かった。ぱんと一粒当たるほど、じいんと痛みが走った。痛みが取れるまでに二秒はかかった。痛みを知らない女が、こういうことをするのは判っていた。女は口で黙らせた方がよっぽどいい。あんな凶器を持って、また刑務所に入りたいのかしら。夕方に張り詰めるこの緊張感は、ホームレス住人にも与えさせた。だけど、彼女には一切口を出させない。私は全力で走って耕一の前にどん、と立った。まるで射的から耕一を守るように。私は確かに何者でもない。勇敢でも、ない。
 「なによあんた」
寄生虫でも見るかのように、彼女は私を見下した。可愛らしい彼女には、奥底に何かを持っているようだった。耕一は私を追い出そうとした。手が当たり、彼女は射的を構えて私を見据える。
 「ここの住人よ、打つなら私を打ちなさいよ」
 「何あんた、耕一の女なの? 打ちたいけど、あたし耕一にだけは恨まれたくないのよ」
彼女が耕一をどれだけ想う気持ちは判るような気がした。
 「充分、実を恨んでるけどな」
すると彼女は思いっきり私を平手打ちした。吹っ飛ばされた私は、目が虚ろになり、しばらく前が見えなかった。景色が二重に見える。頭をぶんぶん振ると、立ち上がろうとする私を脚で蹴飛ばした。ハイヒールで殴られた顎から流れる血は温かく、冷酷な、そして残酷さを見たような気がした。左手で触ると、紫色のような赤い血が、私の指に触れた。うっと唸り、口から血を吐いた私は、咳が止まらなく、公園に血をばら撒いた。テントから見守るホームレス達が私達を見ていた。うなり声をあげたホームレスもいた気がした。しかし私は血を吐くばかりで、目が虚ろになり、それどころではなかったのだった。それを見た耕一は、同情でもなく実という女やらに目を向いた。感情を剥き出しにした耕一は恐ろしい。顎を押さえたまま蹲るだけ、私はそうだった。ふと胸が痛んだ。心臓の音が早鐘のように鳴る。吐き出した血は収まらず、きっと彼女を見つめた。
 「あたしに血を吐くんじゃねえよ、このクソアマ」
そう言ったかと思うと、ちょうど胃のあたりを蹴っ飛ばした。私は血を吐くだけではなく、りんごジュースのような胃液までをも噴出してしまった。そしてぶしゅっと噴いた血と胃液はその色を強調するように砂の上に紛れ込んだ。とてつもなく気持ちが悪かった。ああ、人間って殴られるとこんな痛みを持つのね。この女に、この痛みが判るかしら。ジュースは再び私の口から零れ落ち、繰り返した。紛れ込んだ色は実の黒いハイヒールに当たり、それを避けるように私をもう一度見下した。なんて女なのよ、こいつ。
 「真琴に罪はねえんだよ、実。俺を殴れ」
 「気に食わないのよこの女」
 「窃盗でまた捕まったんだろ、俺はもうお前に未練はないんだ。残念ながらな」
怒りと憎しみで、もう一度私蹴飛ばそうとした私を、耕一がかばった。私の背中に覆い被さった耕一の胸は、高鳴るように訴えていた。『もうここから逃げてくれ。浩二のところに戻ってくれ』と。
 「耕一、あなたの為にあのギターを奪ったのよ。そのあたしから、今更になって見放すの?」
実は涙を流した。彼女の目から流す涙はとても綺麗だった。この砂のように。胃液と混じって流された涙は、その上に被さって、消えた。彼女は、人間であってもう人間じゃないような気がした。混じらない愛と怒りは、当然すり抜けていってしまうのだ。まるで通わない血のように。
 「涙なんか流しても無駄だ。お前のお得意だっただろ。俺は暴力は辞めたんだ。ギターは返す。つるんでた頃、俺が一度きりだってお前に窃盗をしろと頼んだか? 懇願して」
 「あたしはあんたの為に、あんたの為にやったのよ! もう一度やり直してよ、耕一……」
耕一は私に覆い被さったまま、ちらっと実に目を遣り、首を横に振った。実は泣きじゃくりながら射的を振り回して耕一の頭を殴った。まるで虐待のように、まるで小さな子供とでもいえるように。その振動は私にも伝わって、耕一の痛みを知った。浩二やホームレス達も、痛々しそうにこちらを見遣る。
 「もういい。あんたには見損なったわ。いつしっぺ返しがくるか、わかんないんだかんね!」
そう言って耕一と私の目の前を走り去った実は、怒りと悲しみを背中に抱えたまま射的を川に投げ遣った。ぼちゃんという音と共に、彼女の奇声は耳を劈くように響き渡ってきた。耕一は立ち上がって、私の頬をやわらかく叩いた。夢と現実に混乱しながら、私は少しずつ目を覚ました。しかし胃からぐいっと持ち上げられたものは吐き続けられた。ダイヤモンドの砂は、りんごジュースだらけになった。
 「浩二」
ここぞと言わんばかりに大声を出した耕一は、浩二を呼んだ。すると浩二が駆け寄ってくる足音がした。
 「応急処置をしてやれ、こいつ、顎がやられた。それに腹も。ガーゼあっただろ。後嫌がってもいいから、冷たい水をやってくれ」
浩二は私の顎の切り裂いたような傷に怖気づいたのか、
 「判った。あの実ちゃんだろ? 時々来る女って、怖いよな……」
と言った。
 「んなこと言っている場合じゃないだろ、早く処置しないと、こいつに、真琴に一生の痣が残るんだぞ」
 「判ってるよ、後耕一、暴走族とは縁を切ったよな?」
 「切った。付き纏ってるのはあの女だけだ。それが何なんだ」
浩二が後ろめたそうに言おうとしているのが判った。
 「バックにつく男らが来るかもしれないってだろ? 心配すんな。俺はリーダーだったんだからな。あの人達に危害を加えることは一切しない」
ホームレス達が一斉に駆け出して私のところに駆け寄った。まだ目が虚ろだ。誰が誰だか判らない。ぼんやりとした中で一番に声を掛けたのは、さっきのおじさんだった。
 「痛かったろ、真琴ちゃん。ああ、この傷はアルコールでやった方が治りが早い。待ってろな」
痛さはなかった。さっきのあの凄まじさが頭に焼き付いて離れなかった。実……あなたも、やり直しが利くんだからね。ふと目を閉じた私を、大勢の人が見守り、処置をした。耕一…あなたって、やり直したのね。人間として。私はどうだったのかしら。まだあの水商売から抜け出せないでいるのかしら。人間って……私は夢の中にいた。ママやパパが私のバスデーパーティをしてるみたいで、ホールのケーキにろうそくが19個。19歳の誕生日を祝ってくれるのね、パパ、ママ。真っ白なケーキに氷菓子で作ったお人形さんが二つ。私はそれが嫌いで、避けて食べていた。この上もなく甘く、甘く口の中が塩を欲しがっているみたいだった。ママは微笑んで『真琴、就職活動、頑張るのよ』、そんな声がした。ママ、寝たきりじゃなかったの?三人で囲い込むケーキはすべてなくなり、ご飯も何も必要としなかった。そしてテーブルとケーキの箱が台風で飛んだみたいに、ママもパパも消えた。声がするだけで、部屋には誰もいなくなった。私は一人になって、ママとパパを探した。深い迷路の中に入って、足にまとわりつく雑草を足で追いやった。狭い迷路の両手にあるのは枯れた雑草のようなものが生い茂っていた。遠い向こうを見ると、あそこには何もなくて、ただ白い景色が見えただけだった。こちらをすっと照らし出す白い光は、天国にも狂気にも思えた。恐ろしく、私は走っていた。息を切らせながら、ママとパパを探していた。ママ? パパ? どこにいるの。私を一人にしないで。頑張るから、一人にしないで。お願いだから、私を孤独の底に突き落とさないで。私は雑草によって足をくじけた。ふと、目を開けると、真っ青なテントが見えた。パパとママはこんなところにいるの? 
 「真琴、真琴」
ああ、パパ。パパ、私が欲しかったのは、たった一粒の愛でよかったの。パパ。
 「パパ!」
抱きついたと思ったのは、ママでもなくパパでもなく、耕一だった。
 「こ、耕一」
 「何だよ、人の首にまとわりついて。うなされてたぞ、二日間。寝っぱなしだ」
 「まこっちゃん、二日間も眠り続けてて、俺らまで寝られなかったんだよ、死んだかと思った」
耕一が浩二の頭を殴ったかと思うと、死人呼ばわりするなと説教をした。いってえといわんばかりに浩二は自分の頭を抱えた。耕一は付きっきりで私のテントにいたそうだ。昨日? 一昨日の作業着をきたまま、頭も洗わず、ずっとここにいたのだった。
 「とりあえずこれ飲め」
 「何よこれ」
 「氷水」
私は喉が渇いて仕方がなかったので、申し分なく氷水を飲んだ。浩二が耳元で、耕一が買ってきたのだというと、それを見遣った耕一は、また浩二の頭を右手で殴った。それを言うなといわんばかりに、さっきより酷く叩かれた浩二の頭は、凄く痛そうだった。氷水は神様としか思えなかった。ああ、生きていたんだ。
 「とにかくお前は休んでろ、また実が来るかわからないからな。それに俺は暴力は振るえない。例えそれが男だったとしてもな。いつここが駄目になるか判らないようにならない為には、ここの全ての人間の協力が必要なんだ、ここにいるすべての人間の力が」
ぐっと手を握るホームレスもいれば、ため息をついた人もいたような気がした。それぞれ騒がしく意見が分かれている。テントから数人の人達が荷物を持ってでていく人もいた。私のせいだと思った。私がこんなところに紛れ込んだから、こうなったのだ。解けていく氷を眺める暇もなく、私はじっと見つめた。氷は解けて水になり、絆は解けて仲間割れとなった。ぞろぞろ出て行くホームレス達に声を掛けたのは、耕一だった。
 「どうして出て行くんです、皆で協力しようという考えはないんですか」
一人のホームレスは、大きいカートに汚い荷物をいれながら言った。
 「ないね。昔は耕一がやられただけで済んだが、女がやられちゃ話は違う」
 「いや違う中村、こうなることは、ここに入る前から予想してたことだろう? それに俺達だって被害を受けた。それはホームレスの俺達にとっては当然のことだと思わないのか」
確かにホームレスにとって、路上で暮らすにも、テントで暮らすにも、いつでも危険がまとう。
 「とりあえず中村は放って置こう。俺達はここに残ろうぜ。浩二は夜、警備員の仕事をして、こういっちゃんは、引越しの仕事をしながら、俺らを守ってくれてんだ。あんなに親身になってくれる人は世の中にいねえんだよ。せいぜい路上で寝て、飯も困りながら生活するんだな」
ふん、とでも言うかのように、荷物を詰め終えた中村さんは、とぼとぼと川の方に向かい、くるっと左を去って行った。次々に中村さんについていくホームレス達は、まるで私を獣のように見つめているような感じがした。「お前が問題を起こしたせいで」、と。怖気がした。鳥肌が立った。私はあごの様子を見ようと、横になり、持ってきた鏡を見た。ガーゼでしっかりと張ってある。お腹の具合はどうやら収まりつつあるようだった。病院に連れて行けなかったのは、保険証がなかったからだった。家に帰りたくはないということを、充分知っている耕一は、わざと連れて行かなかったのだ。私は何も食べる気は起こらなかったが、それでも処置をしてくれた人達には感謝の念を言いたいくらいだった。ホームレスは転々と居場所を変える。しかし食べ物に困る必要は、ここにはない。風呂には苦労するが、近くには今時珍しい150円の銭湯だってある。去って行くホームレス達は、パパとママのように思えた。去っていったのは私なのに、去って行く人達を見る私の考えていることは、判らなかったが。ホームレスには居場所というものに未練がない。人間味を失った人もいる。居場所という空間を忘れた人間は、教えてくれる人がいない限り、ずっと判らないまま死んでいくのだ。中村さんには、家族はいたのだろうか。そう思った途端、頭から消し去った。少し同情をしかけた私が馬鹿だった。ホームレス達は、これで13人に減った。不吉な数字だわ。13日の金曜日。ああ、なんておぞましい。
 「仕方ない。一年前もこういうことがあった。少し贅沢を覚えた奴ってのは、それに慣れちまうんだ。でもちゃんと知識を得ている人間には、そういうことはない。お前はもう少し寝て、起きたら水分補給しろ。そうしたらまた寝るんだ。そして食え。その傷は一週間は治らない。腹の具合はどうなんだ」
 「そろそろ大丈夫、と思う」
私は、うっと唸り、まだお腹の調子が戻っていないのだと確信した。
 「じゃあ寝てるんだ。俺は今日適当な理由つけて引越し休んだから、浩二の金でまかなう」
 「えー?」
素っ頓狂な声を出した浩二は、指折り数えていた。多分、昨日一昨日やらの日給なんだろう。
 「俺そんな金ないよ。耕一だって知ってるだろ? 警備員の日給なんてたかが二万知れてる。五万も六万も稼いでいる耕一には適わないんだよ」
 「……お前には十万の貸しがある、知ってるよな?」
うーんと蹲っている浩二は頭をくしゃくしゃ掻いた。
 「な?」
浩二は少し考えて耕一の目を見た後、昼ごろになっているかどうか、右手の時計を見た。何これ、ブランド物じゃない。実は大金持ちのお坊ちゃんなんじゃないの?浩二はビニールを取り去って、ホームレス達と供にいつもの定位置に置いた。目をぽかんとさせている私を悟ったのか、耳元でこう呟いた。
 「あれ、浩二への貸しなんだぜ」
私は浩二を二、三度見遣った後、耕一を見た。
 「なんですって?」
 「あいつとは昔からのダチなんだ。最初はボランティアをしたくなかった浩二に、買ってやったんだ」
耕一が浩二の方を向くと、冷たい氷水の入ったボトルを投げた。ボトルは綺麗に円を描いて、浩二はそれをぽん、と受け取った。空を描く弧は青と白のコントラスに目立って、とても美しかった。
 「買ってやったって……そんなにお金があるの」
 「引越しは四年前からやってたから、もう五百万になる」
無愛想に言う耕一は、何事でもないように言う。
 「あなたが食べさせたあれも、私の貸しにさせる気?」
 「まさか」
再び耕一はくしゃっと笑った。こういう顔を見せればいいのに、いつもおっかない顔でいるから、近寄りがたいのよ。ホームレス達にはまだまともな顔を見せるのに。私に見せないのは何かを隠したいから?耕一は何か感づいたのか私を見た。
 「何だよ、何かついてるのかよ」
 「ついてる。狐目が」
 「これは元の顔なんだ。仕方ないだろ、この野郎、寝てろ」
後ろ向きになって、照れ隠しのように髪をくしゃくしゃした。ぱん、と作業着を両手ではたいた後、浩二に呼びかけた。
 「俺も混ぜてくれ。あの野郎俺を狐目と言いやがった」
 「はは、まこっちゃんも言うようになったねえ」

次回(3)に続く〜 

 フリーダム (1)
熊倉 都美
2011年11月4日

 私は家出をした。黒いショルダーバッグに、化粧品やら風呂道具、数枚の服に寝巻き。流行だったプチ家出とも言えないし、つてがあって家を出て行くわけでもない。十九歳の私は少し前まで高校に通いながら水商売をしていたし、そんな世界に入って今更就職ということもない。アパートには引きこもりの叔父とパパとママがいる。パパは建設会社の下っ端で、ママはというと鬱病だ。叔父もママも私にとっては害でしかなかった。しかし私もお水で稼いだお金を貯めるわけでもなく消費していた。私はこの家にも自分にも、嫌気がさしていたんだ。しかしどこに行くつもりなのか、これからどうやって生活するとか、考えて出てくる筈もない。ということで、つまりは何のあてもないってことだった。私は夏の暑い照り付ける光を浴びながら、ショルダーバッグを背負い、一人川沿いを歩いていた。左手にはすぐ小さな、もう廃れたような公園があるけれど、誰がそんなところに居座るかってんだ。まるでホームレスじゃない。ホームレスなんて生きる価値もない軍団がただ勢ぞろいしているだけじゃ……
 「あら?」
 錆びれた水のみ場のすぐ横で、赤いしましま模様のエプロンをきた男性二人が炊き出しをしていた。一人は二十代前半ってところで、もう一人は少し小太りのお兄さんだった。長テーブルがあって、いかにもって感じのおじさんたちが群がり、カレーを食べている。このクソ暑い中でカレー? ああ。ホームレスって何でも食べるんだもんね。きっとそこら辺の雑草も食べて生きてるんだわ。毒入りの雑草なんか食べても知らないし。関係ないし。あーいやいや、私はあんな生活したくない。ぜーったいにしたくない!
 「ちょっと、あんた」
 突っ立ってまじまじと炊き出し団欒を見ている私に、一重のきつい眼をした男性が声を掛けてきた。痩せてるけど、いけ好かない感じで、私はこういう男は一番嫌い。  
 「じっと見てられるとはっきり言って迷惑だから、よそに行ってください」
 顔と違って低いトーンの声できつく言う男性は、私の目をきっとにらみ付けた。三十秒ぐらいにらめっこをした私は、本当にこの威圧感に耐えられなかった。でも……こんな男がボランティアですって?
 「はーいはいはいはい。行くわよ。行けばいーんでしょ」
 重いショルダーバッグを肩に提げて、私は走るようにその男性から逃げ去ろうとした。暑くて、額から雨のように滴り落ちる汗は、今まで暮らしてきた中で一番しんどかった。何よりも一番しんどいのはあの男性だったけれど。せいぜい二十人もボランティアしてなさいよ、ってね。
 「ちょっとあんた」
 私は振り返らなかった。
 「そんなでかいバッグ持ってどこに行くつもりなんだ?」
 「タメ口使わないで」
 「……家出だろ。早く家に帰れよ」
 どうして、どうしてこいつはそんな簡単に家に帰れと促せるんだろう。私はこいつに言いがかりをつけられるために歩いているわけじゃない。ただ川の水の音が、しんと静まり返った間の中に入って、まるで私を包み込むようだった。朝のモーニングフラッシュを見てきたけれど、昼の温度は31度だとお天気お姉さんが可愛い声で言っていた。熱中症に気をつけろとも言っていたけれど、水は持ってこなかったから、私は喉がからからだった。唾液を飲み込みながら、一時間近く、途方もない小さな運動をしていただけだったんだ。肺からすっと息を吸って、吐いた。それと同時に咳が出た。マスカラが下まつげについて、惨めだった。しかめっ面でいる私を見て、男がため息をついて頭を掻いた。
 「あの人達はおまえみたいに自分の自由に生きてるわけじゃないんだ。働きたい人だっている。なのにおまえは働かずにあてもなく、ただ途方もない旅に明け暮れる気か?」
 そんなことは私だって判っていた。いや、判っているつもりで、実はなんの理解もしていないのかもしれない。
 「水もないのに」
 すると男はポケットからヤクルトを出した。私に投げると、
 「まずは水分補給だ。どうしても家に帰りたくないってんだったら、とりあえず休んでここで働いとけ」
  ぬるいヤクルトを手にした私は、あんまりだといわんばかりにこう言った。
 「私がここでボランティアをしろっていうの? そんなのまっぴらだわ」
 「じゃあ家に帰るか」
 家には帰りたくはなかった。しかし就職活動すらままならないし、かと言ってボランティアなんてしたくもなかった。これは私の我侭であった。ママは、どうしているんだろう。また寝てるんだろうな。私がママを鬱病に、寝たきりにさせてしまったのだろうか。私が商売をしている間、ママは何を思って私を見ていたのだろう。濃い化粧に変身した私を、化け物を見るような目つきで見ていたのだろうか。そう思うと、ますます家に帰りたくなくなった。叔父はパソコンに向かってゲームをしているだけだったし、家に帰る必要すらない気がした。
 「判った。やるわよ」
 「化粧は落とせよ」
 そう言って走り去った後姿は何も考えずがむしゃらにやろうとする姿ではなかった。きっと何か目的があってここにいるのだろうと思った。私には何もない。一瞬、またお水で働こうかと考えたが、その思考はすぐに消し去った。あそこで働いたら、またすぐにあの世界に染まってしまう。黒い闇の中に、染まりこんで、抜け出せなくなる。あの深い海の底から、抜け出せなくなる。
 「何からすればいいの」
 「化粧」
 「え?」
 「落とせよ、すぐそこに水のみ場がある。全部落とせ」
 人生で生きてきた中で、化粧なんて落としたこともないのに、すっぴんでこの仕事をするの?なんてことを言うんだろうこいつ。しかも水のみ場って、携帯用化粧落としも持ってこなかったしぬるま湯でクレンジングするのが当たり前なのになんなんだこいつ。
 私は黒いショルダーバッグからクレンジングを出した。洗顔は二回が基本よ。ひんやりどころか酷く冷たい水で、私はクレンジングを手にとり化粧をすべて落とした。次に6000円もした洗顔フォームを手に二cmほど取り、あわ立てた。化粧水に乳液、すべてが終わるまで約15分かかった。タオル、タオルっと……
 「おいあんた、何分かかってんだ、たかが化粧落とすくらいで」
 大声でもなく小声でもない声で私に駆け寄ってきたのは、やっぱりあいつだった。
 「私はあんたでもないし、こいつでもない。真琴なの。名前があるの」
 「真琴、タオルで顔拭いたらすぐ炊き出しにきてくれよ」
 ぐつぐつ煮込んでいるカレーの匂いがこっちにまできて、とてつもなく変な気分だった。夏の日にカレーというのは、よくCMでやっているけれど、私はあんな爽やかに食べられない。私が食すわけではないけれど、匂いが充満して気持ちが悪かった。うんこ色の熱いカレーを食べるくらいなら、何も食べないほうがいい。タオルで顔を拭いた後、すぐにあいつのところに行った。
 「焼きつかないように、これでゆっくりまわしてくれ」
 手渡されたステンレスのお椀の形をしたようなもので、私はゆっくり回すが、ホームレス達が群がっていて蒸し暑くて仕方がない。そしてカレーの匂いが鍋の底から舞い上がってきて、思わず吐きそうになってしまった。吐きそうになった私を見て、すかさずあの男がやってきた。
 「おまえにやったそれ飲んで、少し休憩してこい。後でおまえをみんなに紹介する」
 「はああ?」
 「紹介しないと、まったくの部外者だと思われて、敬遠されるぞ」
 私は仕方なく、公園の隅っこに座りながら砂いじりをしていた。砂は手のひらから零れ落ちて、元の姿に戻った。水のみ場の水は、少し滴りながら、ゆっくりと止まった。ホームレス達と背を向けてヤクルトを飲む私は、ただガードレールの向こうの川を見ているだけで、特に何もしなかった。まるでホームレスよりホームレスだった。私はお水で働いただけで、料理も掃除もしてはこなかった。だからやり方も根性もないんだと、そう思ったのだった。空が青すぎて、私には眩し過ぎて、見下しているような気がした。ただ肌に陽が当たると、じんわりと暑さを感じて、心地がよい気がした。昔は日焼けを気にしていたけれど、今はそんなことを考えている余裕すらなかった。私はまだ、ここの部外者であって、ホームレスとなんの変わりもないただの配当に群がる大勢の中の、住民と同じなんだ。住民なのか、家出人なのか、家出人かもしれない。あいつから渡されたぬるいヤクルトは、冷たくもないけれど、すぐ飲み干してしまった。私は水のみ場に行って、水をぐいぐい飲んだ。唇を開けた途端、少しばかりの水が飛び散った。そして空を見上げると、まだ神様は私を見捨ててはいないんだと、そう思えた気がした。気のせいかも知れないけれど。
 「おい」
 ずっと上の上を見ている私を見て、あいつが話し掛けてきた。
 「紹介するぞ」
 「そんな気持ちになれない」
 「どうしたんだ」
 「名前なんていうの」
 目をぱっとやっただけで、すぐ逸らした。一重でつりあがってる目の男は苦手なんだ。男はそれを見遣ったのかあえて私の目を見ずに話していた。
 「鈴木耕一だ。もう25になるけど、まだバイトしてんのさ。引越しだけどな」
 耕一は一分くらい砂場を見て、私を見た。
 「路上でやりたかったんだ。ギターってのを」
 「作曲するわけ?」
 「まさか」
 くしゃっと笑う耕一を見て、少しは男の子らしさがあるのだろうと思った。夢があって、ボランティアをするなんて、ボランティアで何が育つと言うのだろう。優しさ? それとも慈しみ? 耕一の考えはまったく判らなかった。昔聞いたことがある。夢は見るものではなく、掴み取り、もぎ取るものだと。私には夢がないからこそ、言えるのだろうけれど。家から出るときだって、誰も何も言わなかった。ママも叔父も、パパだって何も言わなかった。夢も希望もない現実的な味方をしている私には、何の未練もない。厄介者扱いされているのは、私だと、今気がついた。私は、私が必要ない。
 「俺のことは置いといて、一体何があって家出したんだ」
 耕一は私の目をじっと見つめて問いかけるように訊いた。しかし私は答える義務も何もない。
 「つまらなくなったからよ」
 砂を指でいじりながら言う私を見て、耕一はそうではないと確信したのだろう。いつだって人は、他人の行動を見て判断する。私はすべてが嫌だった。
 「何か商売でもしていたんだろう」
 「は?」
 「水商売か何か」
 眉を剃って、綺麗に産毛も剃っているからこそ、耕一にも判るんだろう。友人にも言われたことがある。『あなたってお水でもしてそうな顔よね』、なんて。
 「ただのキャバクラよ」
 「そんな訳ないだろ……」
 小太りのお兄さんが声を掛けた。そこで耕一と私との会話は途切れた。カレーがなくなりそうだから足してくれと呼び声をあげていた。あの人もきっと、二十代前半なんだわ。
 「私がやるわ。具を足してルーを入れればいいんでしょう?」
 「やり方わかってんじゃん。お姉ちゃん」
 小太りのお兄さんは耕一の元に行って、少し雑談をした後、またホームレスの人に駆け寄った。ええと、じゃがいもと、にんじんと、豚肉? 豚肉じゃなくて牛肉じゃないの? 費用が足りないのかしら。
 「おーい姉ちゃん。まだかい、カレー。腹が減って死にそうだよ」
 「俺もだよ」
 今作ってるのよ、ちょっとくらい待てないのかしら。日差しが照りつける中、私は具を大量に切って鍋に放り込み、水を少し加えた。具が柔らかくなるまで15分くらい待って、火を止めてルーを入れた。かきまぜながらプラスチックの入れ物に、ご飯とカレーを入れた。匂いは持ってきたマスクで防止していた。
 「どおぞ」
 整列しながら次々と待つホームレス達を迎え入れるように私は長テーブルにどんどん置いていった。お水も一緒に渡しながらやっていたが、料理をあまりしたことがない私にとっては過酷な労働作業だった。夕暮れとともに、私達の仕事は終わり、ホームレス達は自分の食べものを貪るように食していた。
 「終わりだぞ。俺は朝仕事だからいないけど、できるよな」
 「できるわよ」
 「真琴」
 耕一が目を見据えて私をじっと見つめた。夕方になり夕日がゆっくりと落ちてくる。潤ったオレンジ色の日の色はまるで今にもかぶりつけそうなフルーツだった。夕方になると湿度が増し、暑さはそれ程でもなくなる。私はその陽を見つめながら耕一と話した。
 「風俗は二度とやるな」
 言い残したまま去った耕一は、若干怒ったような風貌だった。楽に簡単に稼げる風俗業は、一日最低でも一万円は稼げる。私にその他の職業ができるというのだろうか。できるとは思えなかった。私がそう思う分、夕日が怒っているような気がして、目を逸らし、小太りの男性に目を遣った。
 「真琴ちゃん、気にすることないよ、あいつはああいう性格なんだ」
 「あのう……」
 「なに?」
 小太りの男性は目をぎょろっと出しながら言った。
 「真琴って誰から?」
 「ああ、耕一からだよ。俺は三田浩二っていうんだ。まこっちゃん今日はお疲れさま。今日どこで寝る?空いてるテントあるからそこで寝たら?」
 まこっちゃんって……バーベキューじゃないんだからテントはないだろう。青いシートを引いて寝るしかないのね。もし冬になったらどうするんだろう。カイロもないし、ありったけの毛布を集めてうずくまって寝る羽目になるだろう。三枚くらい重ねないと寒すぎて死にそうになりそう。  
 「ありがとね、浩二くん」

  朝六時になって、私は早速起きる羽目になった。耕一は朝五時に出勤したらしい。朝は冷房もなくてもちょうどいい温度だった。湿度は少しばかり高いが、昨日よりマシだった。昨日の夜食はさんまの缶詰だった。秋ごろになりそうなこの時期には、さんまはいいのかもしれない。今までさんまの缶詰をまともに食べたことがなかった私には、口に合わなかった。しかし食べたのだった。ご飯は一番安いものを使っているらしい。お酒を飲むホームレスもいた。将棋をしながら、楽しむホームレスもいたが、私は一人で音楽プレイヤーを聴きながら、自分の世界に浸っていたのだった。
 「まこっちゃん、今日もがんばろうね」
 「はーい……」
 今日のメニューはとん汁であった。しかし、こんなに毎日ホームレスに食事を与えて県に許可を取っているのだろうか?不思議で仕方がない。とん汁はママがよく作ってくれた。どうして鬱病なんかになってしまったの?
 「あーまこっちゃん違う違う、さといもはちゃんと煮込まないと」
 浩二はよく教えてくれて手伝ってくれるよき知り合いになった。さといもって、意外と固いし、意外と剥けない。
 「おー今日はとん汁か。ありがたやありがたや。姉ちゃんも大変やろ? 彼氏もいるだろうにねえ」
 彼氏だって? 私には彼氏など必要ないよ、おじちゃん。とにかく食べなさいよ、って感じだわ。それより、私自身のことだけが心配で仕方がない。身寄りは? 親戚は? いるかっていうと、頼りになる人はいない。いとこ達も親の看病で精一杯で私達家族のことを心配している暇はない。
 「まこっちゃんには彼氏いませんよ、僕のことで夢中だからね」
 浩二が威張って言うように、ホームレスの方達もその気になっている。浩二も浩二で、あまり誇大な表現も何もしないで欲しい。私は彼氏を作る暇などないんだってば……と。朝と昼しか料理は作らないし、夜はたまに作るだけの日々らしいのに、自分の身の安全を心配しなさいってば。だけど、私の身の安全はどうなんだろう? 耕一も浩二もいるし、いるだけマシか……誰かが乗り込んできたり襲ってきたりだの、過去にあったはずよ。こんな無防備にテントが張られているのだから。ニュースで見てきただけだけれど、ホームレスの多くは五十代から六十代が多い。それを格好の餌としてみた二十代たちの男が力で勝っている分、鈍器や力ずくでホームレスを襲う。多分何の目的もなく、弱い男性陣をこれ見よがしに殺しているだけなんだわ。私はそう思うと、本当にここにいていいのかという思惑と恐怖が背中の温度を一気に下げさせた。まるで背中に針でもあるかのように、突き刺すような冷たさは、夏の湿気をも取り去った。しかし今はそんなことをいちいち考えている余裕などなかった。ホームレス達が好奇の目で私を見ているからだ。私の何がおかしいのだろうか。さっきの浩二の言葉? それとも?
 「姉ちゃん、浩二くんと幸せになあ」
 とん汁とご飯を貪り食っているホームレスのおじさんがそう言った。私はそれを無視して、水のみ場へ行き、髪の毛を洗った。シャンプーとリンス、洗顔フォームに歯ブラシと歯磨き粉。早朝の温度は低くて、水は極寒にいるような寒さを私に与えた。顔を洗うたんびに、きいんと突き刺さる水の温度に、私は少々うろたえた。歯磨きをしているところで、浩二くんが私に声を掛けた。
 「まこっちゃんって、すっぴんになると一気に幼くなっちゃうね」
 私は思わず歯ブラシを水のみ場へ落としてしまった。
 「私そんなに子供に見える」
 「見える」
 怪訝そうな顔をした私を見て、浩二くんは違う違うと言わんばかりに否定した。
 「子供は化粧なんてしないわ」
 私はそう言うと、うがいをして再び砂場の隅っこのほうに行った。浩二くんが虚ろな顔をしているのは、背中の声でも聞こえたけれど、私にとっては何の罪悪感もない。私には、関係ない。手のひらから零れ落ちる砂は、私にほんの少しの絶望感を与えた。しかし、小さな粒粒を見て、砂も生きているのだろうなと思った。まるでダイヤモンドのように砂は美しいように見える。いつもと同じリズムで流れる川も、きっと生きている。生きていないのは私のほうだ。浩二くんに言われた一言で、もうすぐ二十歳になってしまう私はまだ生まれるばかりの赤ちゃんであって、はいはいもできない。ただ泣き叫んでママを呼ぶだけの、赤子なのだ。大人というものばかりを見てきたというのに、私は親の背中も見てこなかったのか。大人って、一体なんなんだろう。私は泣きそうになったが、目をぐっと瞑って、自身を励ますように上を見た。今日も晴れだ。きっと、大丈夫。私は少しやる気をだそうと両手をぐっと広げて万歳をした。伸びって、すごく気持ちがいい。
 「どけよ」
 目の前に突っ立って、座っている私を見ていたのは、耕一だった。汚れている作業着を着た耕一は、なんだか凄く大人びて見えた。しかし動かないのはそっちの方で、私はただ座っているだけ。何の迷惑もかけてない。
 「そっち通ればいいじゃない」
 「聞こえた」
 「何を。ホームレス軍団の大歓声でも聞こえたわけ?」
 「お前、浩二と仲がいいんだな」
 そういい残して立ち去った耕一は、右手の中指を思いっきり突き上げて不気味な笑い声をあげた。耕一は浩二と違って何を考えているのかさっぱり判らない。おまけにファックとでも言いそうな突き上げた中指は、まるで私を侮辱しているように見えた。あなたって、一体何を考えているの。私は思いっきり砂場の砂を舞い上げた。空には届かず、私は神様に『今日はもういいよ』と言われているような気がして、肩を下ろした。よくあんな無愛想でこんなところに居れるのだろうと思った。ふと、私は砂場の向こうを見た。花火をしている子供達が見えた。そんな、花火って……あんな川沿いのところで、自動車も通るのに危ないったりゃありゃしない。それより何より、一番迷惑なのはこちらの方だ。もし火災にでもなったりしたら、と思うと寒気がする。ぱちぱち鳴る音に近づいていった私に気づいたのか、子供たちは私に花火を向けた。花火は時々小さな火が飛び散って、こちらに向かって挨拶をする。
 「あんたらうちのアパートの子でしょ」
 すると子供達は私のすっぴん顔にたじろいたのか、こう言い放った。
 「お前も化粧落とすとこわあい顔になるんだなあ!このクソばばあ!」
 「ここで花火すると皆に迷惑かかるのよ。アパートの近くに公園あるでしょ。そこでしなさい」  
 「やーだね! ばばあになんか言われたくねえんだよ、ばばあ!」
 夏休みの小学生達は、ここぞとばかりに調子づくから本当はというと相手はしたくない。花火は持っているし、重々な武器になる。危険というものを知らなかった私の時代をも思い出した。しかし腰を痛めた老人も通ると言うのに、それも判らないこのクソガキ共はただの陰険な野獣にしか思えなかった。背中のほうから肉を焼いた匂いが近づいてきたが、それは耕一だとすぐに気がついた。薄汚れた作業着の独特な匂いと、肉の匂いが交じり合って、まるで原始時代の男と変わりなかった。私がそう思っている間に、隣にずんと立った耕一は、小学生を相手にこう言った。180cmくらいあるその身長は、それだけで武器になってしまう気がした。
 「お前ら、こうされたいのか?」
 そうすると耕一は、熱々の鉄板焼きを子供達に向けた。じゅうじゅうと言っている鉄板焼きから蒸気が沸いているのがすぐ判る。ひえ。耕一って本当に何をするのか判らない人間だわ。しかし耕一は子供相手に喧嘩を売るつもりはさらさらないようで、作業着についた火花を素手で落としながらこう言った。
 「俺は大人だからお前らを肉にして食ってやろうなんて思わない。だがお前らは違うだろ。早く行け」
  子供達は流石に怯えたのか、耕一に言い放って逃げ去ろうとした。
 「け、警察に訴えてやるぞ! うちのパパは警備員なんだ。逮捕されても知らないからな!」
 花火を撒き散らしながら去っていった子供達は、懲りずに遠くから野次を放っていた。遠く見据えて見えなくなった頃に、耕一は話した。
 「あいつらは自分の都合のいいことしか親に話さない。こっちはそれなりの対応をすればいいのさ」
 鉄板焼きを下ろした耕一は、疲れたように息を吐いた。
 「市でも県でも許可を取ってないホームレスを養っている俺らは、何をされるかわからねえけど、さっきの問題は大人が対処すれば問題ない」
 「……許可を取っていないですって?」
 やっぱりというように、私は耕一をにらみつけた。
 「好きでやっているんだ。ここの公園はもう、子供らは使わない。公園に関しては県ではないことになってる。ああいう遊び道具なんかも、県では無視同然だ」
 「そう言ったって、ホームレスは別でしょ。どうして許可を取らないの」
 「確かに行政に許可を取らないと、襲われる危険性だの、まあなんとも、許可を取っていても襲われる危険はあるけど、年金なんかも貰えない場合はあるさ。だけど俺は、それによってあの人達の自由を奪いたくないんだ。自由っていう意味が判るか、お前に」
 自由って、自由でしょう。自分の気の向くままに行動をするのが自由っていうんじゃないのかしら。
 「真琴にはまだ、自由の三つの表現が判らないみたいだな。あの人達のほうがよっぽど判ってる」
 ……三つの表現ですって? 自由というものに三つの言葉があるなんて、判るわけない。それに耕一は今まで何をしてきたのか、何が目的でここにいるのか、本当にさっぱり判らないし、理解できない。
 「ちょっと抜け出すか」
 耕一が右手でカモンとでもいうように遣った。
 「肉焼いてんでしょ、抜け出すも何も……」
 「おーい浩二、あの人達にくばっとけよ」
 耕一が大声を出して浩二に促すと、浩二は仕方なくと言ったように、顎で見逃した。私は真夏の暑い中を、耕一に手を繋がれながら駆け抜けた。右手に川が見える。タオルで拭いていなかった顔から水が少しずつ滴り落ち、生ぬるい感触が私に伝わってきた。暑い。耕一は長袖の作業着を右手で振りながら七部袖くらいにしようとしていた。左手には耕一に繋がれた手のひらから汗が滲み出て、水っぽい感触までをもこちらに伝わらせてきた。耕一の手は温かかった。私のように冷たい手ではなく、とにかく温かかった。


次回(2)に続く 〜