2012年

2012年12月 第105回句会 作品 弘明寺抄(33) New
2012年11月 第104回句会 作品 弘明寺抄(32)
2012年10月 第13回吟行句会 作品
2012年10月 第103回句会 作品 弘明寺抄(31)
2012年9月 第102回句会 作品 弘明寺抄(30)
2012年8月 第101回句会 作品 弘明寺抄(29)
2012年7月 第100回句会 作品 弘明寺抄(28)
2012年6月 追悼 吉田昭二さんを偲ぶ
2012年6月 第99回句会 作品 弘明寺抄(27)
2012年5月 第12回吟行句会 作品
2012年5月 第98回句会 作品 弘明寺抄(26)
2012年4月 第97回句会 作品 弘明寺抄(25)
2012年3月 第96回句会 作品 弘明寺抄(24)
2012年2月 第95回句会 作品 弘明寺抄(23) 
2012年1月 第94回句会 作品 弘明寺抄(22) 

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 第105回 句会  (2012年12月)
■ 作 品
 
   
室生寺を下りて葛湯の甘さかな 境木権太
←最高得点
見上げては庭師一服冬構 木村桃風
←最高得点
篆刻の細き筋彫る霜夜かな 舞岡柏葉
←最高得点
潮引けば道あらはるる神の旅 ひらとつつじ
湯豆腐は絹ごしがいいつるるんと

東酔水

賑わいや昔を今に酉の市

奥隅茅廣

素直だけが取得と言われ帰り花

千草雨音

厄除けの南天箸や栗の飯

松本道宏

木枯や東京砂漠吹きぬけて

飯塚武岳

秋深し初恋告げる同窓会

野路風露

こもれさす朝日に輝く落葉かな

志摩光月


■ 弘明寺抄(33)
平成24年12月7日
松本 道宏 
 

 角川学芸出版の『俳句』12月号に「俳句はここで差がつく」の大特集が組まれておりました。所謂「省略の極意」で、俳句が上手くなるポイントが幾つか ありましたので纏めてみました。
(1)俳句の容量を考える
   俳句は何を言うかも大切だが、眼前の景から何を切り取るか、何を削るかが一層大事である。   
  例句 「秋の雲歳月はやくながれけり  蛇笏」
(2)季語を使いこなす
    有季定型で俳句を作る場合は季語を使いこなすことが省略に繋がる。
  例句 「しぐるるや駅に西口東口  敦」
(3)ものを直視する
    17音で何かを言おうとするならば多くのことを言外に置き読者の想像力に託す必要がある。
  例句 「瓦礫みな人間のもの犬ふぐり  ムツオ」
(4)本質を掴む
    表現の本質を掴むために不必要なものは削るのが原則である。
   例句 「冬菊のまとふはおのがひかりのみ  秋桜子」
                                                    (次号へ続く)

 

素直だけが取得と言われ帰り花

千草雨音

 「帰り花」の季語が良く効いている句です。上記省略の(2)に該当します。「もの俳句」でなく「こと俳句」ですので季語の大切さが一層重要になってきます。

見上げては庭師一服冬構  木村桃風

 冬に向かって松の手入れなど庭師は常に樹形全体を美しくするために選定する木の全体の姿を気にします。その様子が良く描かれています。

むさし野の夜はひろびろと冬の星

ひらとつつじ

 一寸観念的なところがありますが、「冬の星」が効いています。

顔見世の文字で見得切る勘亭流

千草雨音

 12月は顔見興行が多く行われますが、中七の「文字で見得切る」に「勘亭流」の文字の素晴らしさが表現されています。

丹沢の雲ひとつなき冬田打ち

ひらとつつじ

  冬田を打っている秦野盆地の風景が描かれています。「丹沢の雲ひとつなき」は省略が効いていて見事です。


 第104回 句会  (2012年11月)
■ 作 品
 
   
忍び寄る闇の速さやそぞろ寒 舞岡柏葉
←最高得点
燕帰る新しき墓ひとつ立ち ひらとつつじ
吊革のラインダンスや秋うらら 松本道宏 
冬近し獣のさばる過疎の村 境木権太
蔦紅葉廃屋扉閉ざしおり

野路風露

満月をスカイツリーが串刺しに

飯塚武岳

雨止みて小鳥群れ来る刈田かな

志摩光月

ささやかに月見の宴盃二つ

奥隅茅廣

白萩の散るや冬への早飛脚

菊地智

閑かさやひらり枯葉の露天風呂

木村桃風

川端の信号待ちや十三夜

千草雨音


■ 弘明寺抄(32)
平成24年11月7日
松本 道宏 
 

 俳句には「俳句もの説」と「俳句こと説」があります。「もの」とは物象のことです。俳句とはそもそも「もの」に執着する詩であり、「もの」にこだわらない限り、その本質は崩れてしまう説です。
対立的に使われている「こと」は事象です。俳句のような短い詩型では「こと」を述べるのには不適で、「もの」に即し、「もの」を浮彫りにしたところにその本質が最も発揮される、という論です。
昭和27年から28年にかけて中村草田男と山本健吉、西東三鬼と平畑静塔等の「俳句根源論争」がありました。
 事実をことこまかに述べ、ことを語りつくせるのは散文の世界であり、俳句という短詩ではものの象徴性を生かすべきである、と言うのが「もの」説です。

 

 蛇穴に入りて井戸蓋半開き

ひらとつつじ

 作者は井戸の蓋が半開きになっている状態を見て、蛇が巣穴を見つけ冬眠に入ったのではないかと想像したのでしょうか。「蛇穴に入りて」と「井戸蓋半開き」とは直接的には何の関係も有りませんが、面白いところに目をつけて詠んでいますし、この感性が素晴らしいと思いました。

冬近し獣のさばる過疎の村  境木権太

 最近熊や猪が村や町に入り込んで新聞やテレビを賑わしています。越冬のために獣たちも必死になっているのでしょうが、それを「獣のさばる」と表現したところが面白いと思いました。 

満月をスカイツリーが串刺しに 飯塚武岳

 平成24年5月22日に開業したスカイツリーが今年9月30日の満月を 串刺しにしていると見た作者の驚きが伺える句で、面白い情景を詠んでいま す。

忍びよる闇の速さやそぞろ寒

舞岡柏葉

 「そぞろ寒」は冷ややかよりも冷たさを含んだ寒さで、晩秋に肌に感じる寒さのなかに、ぞっとするような感じも込められています。釣瓶落としの秋に迫り来る闇の速さが「そぞろ寒」とぴったりしています。

閑かさや ひらり枯葉の露天風呂 

木村桃風

 初冬、露天風呂に身体を癒している静かな佇まいのひとときが伺えます。 枯葉がひらりと露天風呂に落ちてくる様子はまさに閑かさそのものでありま
す。


 第13回 吟行句会  (2012年10月11日 横浜三渓園 参加者:10名)
■ 作 品

   
敗荷の完膚無きまで大破せり 松本道宏
←最高得点
茅葺きの屋根の厚みや秋麗千草雨音
←最高得点
踏み石のどしりと置かれ秋麗 大野たかし
←最高得点
枯れそむる蓮に日差しのやはらかく ひらとつつじ
←最高得点
古民家の振子時計や秋深し

舞岡柏葉

秋の日に映えて佇む三重塔

飯塚武岳 

秋の空水面に映り尚高し

野路風露

道案内するがごとくに彼岸花

木村桃風

白芙蓉明治の小窓通し見る

東酔水

ひだまりにおばな輝く三渓園

志摩光月

photo by A.C


 第103回 句会  (2012年10月)
■ 作 品
 
   
白萩や古筆展示に人の波 千草雨音
←最高得点
露けしや今もくぼめる手術痕 ひらとつつじ
いかにせん居る所なき残暑かな 奥隅茅廣 
罠仕掛け王手飛車取り月蒼し 松本道宏
花見せず香りで誘う金木犀

境木権太

今からが青春時代敬老日

飯塚武岳

苦瓜の裂けて扇風機終いごろ

菊地智

大正の切れ買う市や夢二の忌

舞岡柏葉

松茸の幟の見える山の里

浅木純生

門前の猫のかまけし牛膝

たま四不像

授与式を終えて名残の九月かな

木村桃風


■ 弘明寺抄(31)
平成24年10月7日
松本 道宏 
 

(前号より続く) 正岡子規にも「寒月や人去るあとの能舞台」の句があります。宴の跡の寂寥感がしみじみ伝わってくる句です。能の雰囲気を詠んだ子規の句は沢山ありますが、これらの句から見えてくることは能を特別なものとして扱っていません。松山(藩)は能を大切に育て守ってきた土地柄がその理由であったかも知れません。子規には「敦盛」「鉢の木」「薪能」「殺生石」「熊坂」などを見た能の句が沢山あります。
 松本たかしには前記『能』に関係した句の他に「水仙や古鏡の如く花をかゝぐ」「ひく波の跡美しや桜貝」「日の障子太鼓の如し福寿草」「海中に都ありとぞ鯖火もゆ」「我去れば鶏頭も去りゆきにけり」などの名句があります。
 私も平成13年7月、山形県東田川郡櫛引黒川で「黒川能」を鑑賞してきました。「水面より暮れて涼しき黒川能」「一笛に始まる能や風涼し」「黒川能果てて水面の月涼し」の句を作りましたが、能の世界は詠めませんでした。                                                   (完)

 

 ねこじゃらし摘めばいたずら心湧く 千草雨音

  猫じゃらしの中国名は狗尾草、日本の古い名は狗の子草(エヌノコグサ)で、いずれも犬と関係のある名ですが、私達は「猫じゃらし」の名で親しみを感じています。この猫じゃらしを手にしたとき、何かいたずらをしてやろうと言う気持ちが湧いて来ます。そんな心理を句にした面白さに感心しました。

名を問えば美男葛と僧答ふ  千草雨音

 草の名前がわからないため、お坊さんに尋ねたら「美男葛」と応えてくれた僧侶との押し問答に笑いを誘いました。

べいごまや夕日に影を躍らせて ひらとつつじ

 子供の頃の思い出でしょうか。現実に子供達がべいごまで遊んでいるところを見て詠んだ句でしょうか。いずれにしても「影を躍らせて」に子供たちの活き活きと遊んでいる姿が見えてきます。

松茸の幟の見える山の里

浅木純生

 秋の味覚「松茸」。何処でも取れる訳ではなく、秋季アカマツ林の地上に 自生。「松茸あります」の幟を見た時の作者の喜びが伝わってきます。

露けしや今もくぼめる手術痕

ひらとつつじ

 盲腸にしろ、骨折したところの手術にしろ、手術痕は何時までも窪んだような形跡を残してしまいます。その窪んだ手術痕を見ますといやな想い出が蘇ってきますが、配合の「露けしや」がよく効いています。

 


 第102回 句会  (2012年9月)
■ 作 品
 
   
遠花火木の間隠れに万華鏡 奥隅茅廣
←最高得点
西日差す下宿の壁のヘプバーン ひらとつつじ
新米に無言の笑みや病みし妻 菊地智 
時計屋に溢るる時間黄落期 松本道宏
法師蝉鳴き初めし日の碧き空

千草雨音

瑠璃色の冴えて仔蜥蜴二三寸

舞岡柏葉

パチパチと火の粉はじけて百日紅

境木権太

堰堤に白鷺の居る夏休み

木村桃風

参道に三つ四つ五つ萩の花

野路風露

処暑いずこ日本列島釜のなか

飯塚武岳

花器に盛るドライフラワー麦香る

東酔水

来ぬ人や入日に染まるいわし雲

志摩光月


■ 弘明寺抄(30)
平成24年9月7日
松本 道宏 
 

 今月は「俳句と能」について考えてみました。というのも、6月19日、放送大学神奈川学習センター同窓会で、能楽堂に於いて狂言「柿山伏」と能「葵上」を見学してきましたので、「俳句と能」について考えてみた訳です。
 まづ、「俳句と能」というと俳人松本たかしの「夢に舞ふ能美しや冬扇」の有名な句を思い出します。松本たかしは宝生流の能役者の家に生まれ、たかし自身も幼少より稽古を始めましたが病弱のため能舞台を断念しています。そして、療養中に高浜虚子に師事し「ホトトギス」の主要同人として活躍しました。「冬扇」の句のほかに、「仕る手に笛もなし古雛」の句があります。句風は繊細で格調高い句ばかりです。
 また、「おもしろうてやがて悲しき鵜飼哉」の芭蕉の句も謡曲「鵜飼」の主旨を取り入れた句です。芭蕉はこの句から能の持つ人間の情念の世界を描き出すことに成功しています。             (次号へ続く)

 

唖蝉の命尽くして転げ落つ 奥隅茅廣

  蝉が鳴くのは雄のみで、雌は「唖蝉」と呼ばれていますが、唖蝉であっても転げ落ちて命を全うします。「命尽くして」に唖蝉の生態をよく見ている作者の気持ちが見受けられ、その心が伝わって来る。

西日差す下宿の壁のヘプバーン  ひらとつつじ

 青春時代の情景でしょうか。西日に照らされているヘプバーンのポスターが今でも鮮やかに目に焼きついています。

打ち揃ひ喃語交じりの墓参かな  千草雨音

 一家打ち揃ってお墓参りに来ている家族の情況がわかる句で、「喃語交じり」が良く効いています。

船の名のアラビア文字に大西日 

ひらとつつじ

 大西日は盛夏から晩夏にかけて耐え難いほどの暑さとともに、いらいらするほど激しく厳しい西日をいいますが、アラビア文字の船名に苛々するほどの大西日が当っていて、心理的な暑さまで感じられる句です。

花器に盛るドライフラワー麦香る

東酔水

 

 ドライフラワーの中に黄ばんだ麦が盛られていたのでしょうか。それにしてもドライフラワーの中に麦秋の麦が香っているという発見が良いと思いました。

 


 第101回 句会  (2012年8月)
■ 作 品
 
   
振子時計刻む昭和の夏座敷 松本道宏
←最高得点
炎昼や街みな歪み揺れて立つ 飯塚武岳
竹林の薄闇ひらく夏の蝶 ひらとつつじ 
片仮名のキの字揺らぎて守宮行く 千草雨音
五つ六つ青梅落し雨あがる

菊地智

廃線に乱れるままに夏の草

境木権太

祇園会やゆらりゆらりと鉾の列

舞岡柏葉

物の怪の影とも見えて芭蕉かな    

奥隅茅廣

朝顔のしぼんだ数の暑さかな

木村桃風

気合い入れ炎暑の中にペタル漕ぐ

野路風露

炎熱の道走り抜け海を見ゆ

浅木純生

夕暮れに鳴るは風鈴耳澄ます

長部新平

蘭盆会ジャズのごとく読経きく

志摩光月

 


■ 弘明寺抄(29)
平成24年8月7日
松本 道宏 
 

 (前号より続く)その他、古池の句には池に飛び込んだ蛙は何匹だったかなど、面白い話題があります。日本人は一匹と答えるのに対して西洋人や中国人は数匹と答えますし、「枯れ枝に烏の止まりたるや秋の暮」あるいは「枯れ枝に烏の止まりけり秋の暮」でも、日本人は烏は一羽と答えるのに対して、西洋人や中国人は数羽と言う感覚を持っています。不思議です。

 俳句において「切れ」は非常に大切です。「古池や蛙跳びこむ水の音」の「や」、「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」の「けり」、「みちのくの伊達の郡の春田かな」の「かな」のように「や、かな、けり」などが切字の基本とされています。切字の他に連用形止め、助詞止め、名詞止めなどさまざまの小休止もあります。これらは全て「間」を持たせる効果を示しています。そして、この切字や間の問題はさらにリズムとも関連しています。日本語のリズムです。

 このように考えてきますと、俳句と言う短詩型の特色ではやはり、切字の効用は大きいと言えますので、切字は大切にしたいものです。                                            (完)
 

炎昼や街みな歪み揺れて立つ 飯塚武岳

 今年も猛暑の季節がやってきましたが、「炎昼」と言うとすべての物が影を失い、白く燃えるような感覚です。正に街が歪んで揺れて立っているような感覚を覚える炎昼が上手に詠まれています。

せせらぎに線画を描き蛍かな  奥隅茅廣

 古今東西「蛍」の句は数多く詠まれていますが、この句は蛍の飛び交う様を的確に捉えています。特に 「せせらぎ」が効いています。

山肌に白際立ちて百合二輪  境木権太

 百合の花は洋の東西を問わず神話の中にも出てくる人類と最も親しい花の一つであり、写生の良く効いた句で、「百合二輪」が見事です。

物の怪の影とも見えて芭蕉かな  

奥隅茅廣

 「芭蕉」は秋の季語ですが、初夏に若葉を伸ばし、夏の間青く茂ります。しかし、その葉は雨に濡れたり秋風によって葉脈にそって裂け始めます。「物の怪の影」とは破れ芭蕉を面白く詠んでいます。

竹林の薄闇ひらく夏の蝶  ひらとつつじ

 

 夏の蝶が薄暗く生い茂った竹林を開くように飛んでいった様子が的確に詠まれています。写生眼の利いている句です。

 


 第100回 句会  (2012年7月)
■ 作 品
 
   
雲水の黒き衣に夏の蝶 野路風露
←最高得点
羽たたむ暇なき給餌親つばめ 舞岡柏葉
無人駅青田の中に浮かびおり 浅木純生 
くちなしに地蔵も細目少し開け境木権太
青嵐八十路の歩み日々新

奥隅茅廣

蛍火や緑のにおい手に残し

志摩光月

ふるさとの入日かがよふにごり鮒

ひらとつつじ

やはらかき赤子の笑みや棉の花

千草雨音

ペン胼胝は死語となりたり田草取る

松本道宏

根岸きてこごめ大福初浴衣

木村桃風

青梅雨や傘とりどりの通学路

飯塚武岳

歩いても歩いてもなお初夏の風

長部新平


■ 弘明寺抄(28)
平成24年7月
松本 道宏 
 

 (前号より続く)高浜虚子の「去年今年貫く棒のごときもの」の「去年今年」と体言止めにして「間」を作っていますし、石田波郷の「初蝶やわが三十の裾袂(すそたもと)」「花ちるや瑞瑞しきは出羽の国」の句は、「や」の他に最後が体言止めの切れになっていて、切れが二つあります。「切れ」は「間」ですから読んだ時に「あ、ここ、切れているな」と感じたのが切れです。
 中村草田男の句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」がありますが、この句は「や」と「けり」が入っていて例外です。
 切字は一箇所で使えば十分ですから、季語が二つ入っている俳句があまりよくないように切字が二つあるのも良くありません。バランスを失うからです。「や」「かな」「けり」のうちでは「かな」が一番強い切字です。
 有季(季語)定型(切れ)と言う場合、定型の中に「切れ」の問題が入ってくると 考えたほうがよいと思いま す。それは「切れ」によって季語が生きるからです。要するに季語と切れは一体だと思います。(次号へ続く)

 

無人駅青田の中に浮かびおり  浅木純生

 早苗を植えてから一カ月ぐらいの田園風景でしょうか。なんでもない風景ながら景色の捉え方が良いです。清々しい青田の中に浮かぶ無人駅の景が見えてくる句です。

高く上げ白き日傘のすれ違う 野路風露
 日傘をさした状態で、相手に迷惑をかけずに狭い舗道をすれ違うことはなかなか難しいです。お互いに接触しないように心掛けてすれ違いますが、 その一瞬の様子が「高く上げ」に表現されています。

青梅雨や傘とりどりの通学路 

飯塚武岳

 通学の様子を見ていますと、傘の色が華やかなのに驚きます。青梅雨の中だけに通学路における子供たちの多彩な傘が目立ちます。

雲水の黒き衣に夏の蝶

野路風露

 一幅の絵を見ているような光景です。遍歴修行する禅僧の黒衣に付き纏う夏蝶が鮮やかに見えます。

軽鳧(かる)の子を水田に放つ園児かな

千草雨音

  軽鳧は五月頃に湖沼の水辺で産卵し二十四日程で孵化します。その軽鳧の子を園児が一斉に水田に放したのでしょう。よちよち歩く軽鳧のほほえ ましい姿と園児の賑やかな声が聞えてきます。


 

                      吉田昭二さんを偲ぶ
                                                  松本 道宏
 

『徳譽昭応眉山居士』
 平成24年5月5日、85歳で亡くなられた吉田昭二さんの戒名です。戒名をつけるに当って僧侶から何か趣味はありませんかと聞かれ、「俳句」と応えると、俳名はと聞かれ、戒名の中に「眉山」が入ったと聞いております。
 吉田さんは、平成16年3月放送大学放友会でインターネット句会を始めた草創期からの会員で、途中俳号を決めて戴いたときに『眉山』と名付けられました。吉田さんは小学生時代に四国徳島の風光明媚な眉山で育ったようです。 思い出の地が『眉山』であった訳です。
 第1回句会(含吟行句会作品・やさしい俳句の会作品)から第90回まで句会で発表された佳句(紙面の関係で割愛の句多数あり)をご披露致します。

氷川丸凍つる夜空に浮くごとし 
風もなく水面の動く五月晴れ  
盛られたる籠の松茸紙細工   
門松の早々と立ち風荒ぶ    
隣席の扇子の風を貰ひけり   
小鴨浮き満ち干見守る照天姫[てるてひめ]  
炎天に我が影消えて南中す  
雲払ひ木星連れて盆の月   
天を突く神木の秀[ほ]に初明かり  
雨脚の機銃掃射や大夕立   
高札に禅の誘ひや松の蕊[ずい]    
ペーロンの太鼓の響く港町   
絵手紙の枇杷と見較べ枇杷を食ふ
縞馬の母子[おやこ]ルックや秋日和   

(平成16年3月)
(平成17年5月) (吟行句会)
(平成17年9月)
(平成18年1月)
(平成19年8月)
(平成19年11月)(吟行句会)
(平成20年8月)
(平成20年9月)
(平成21年1月)
(平成21年8月)
(平成22年5月)
(平成22年6月)
(平成22年7月)
(平成23年10月) (やさしい俳句会)

 

 「放友会の皆様に支えられ、励まして頂いて晩年は楽しく勉学をしていた様でございます。」と奥様からお便りを戴きました。
 吉田昭二さんのご冥福をお祈りし、作品のご紹介と致します。合掌。

 

     
 

 第99回 句会  (2012年6月)
■ 作 品
 

   
極楽に眉山聳えて五月尽 飯塚武岳
←最高得点
夏めくや日を吸ひよせて花時計 ひらとつつじ
日食や小紋の浮かぶ木下闇 奥隅茅廣 
蛍飛ぶ言い争いを忘れ去り野路風露
夏はじめ天の営む指輪かな

木村桃風

巣の落ちて番いつばめの思案顔

舞岡柏葉

騒がしくツバメ集まる無人駅

境木権太

雷鳴や親子五人に傘二本

たま四不像

ダービーの騎手勝馬に頬ずりす

千草雨音

観覧車ゆっくり廻る薄暑かな

松本道宏

五月晴れ山青々と吾を呼ぶ

浅木純生

植樹祭陛下にほほ笑む小学生

長部新平


■ 弘明寺抄(27)
平成24年6月
松本 道宏 
 

(前号より続く)芭蕉の弟子の各務支考(かがみしこう)がこの句を詠んだときのことを書き残しています。芭蕉庵に何人かで居たとき、蛙が水に飛びこむ音が聞こえてきて、それで「蛙飛びこむ水の音」が先に出来て、さて、上五を何にするかと考えあぐんでいたとき、其角(きかく)が「山吹や」がいいんじゃないかと言いましたが、芭蕉は「古池や」と置きました。この経緯を辿りますと「蛙飛びこむ」は実際に聞こえてくる音で、芭蕉は「古池」を思い浮かべていたわけです。「古池や」の「や」と言う切れが必要なのは「間」がいると言うことです。間によって空間を広々と取り込むことが必要であり、この「間」が切字だと思うのです。古池以後に詠まれた芭蕉の名句はみな「現実+心の世界」で詠まれています。古池がまずあってそこに蛙が飛び込んだのではなくて、蛙が飛び込んだ音に心の世界と結びついたと思います。    (次号へ続く)

極楽に眉山聳えて五月尽 飯塚武岳

 5月5日に亡くなられた吉田眉山さんを讃えた句と読みました。極楽浄土に立つ眉山さんを心に仰ぎ、5月も今日で終わりという感慨が深く詠まれています。 

ダービーの騎手勝馬に頬ずりす 千草雨音

 明け4歳馬を集めたサラブレット特別レースは英国でダービー伯爵が最初に始めました。日本の競馬界では1932年から5月の最終日曜日に府中競馬場で行われており、勝馬に頬ずりする騎手の姿が詠まれています。

日食や小紋の浮かぶ木下闇 

奥隅茅廣

 5月21日の朝、運よく雲間から金環日蝕を観察することが出来ました。
 しかも、観葉植物の木漏れ日が床にいくつもリングの影を落として幻想的に揺れていました。その様子を「小紋の浮かぶ」と表現しているところが素晴らしいです。「木下闇」と言う感じではありませんでしたが・・。

騒がしくツバメ集まる無人駅

境木権太

 無人駅に巣作りした親燕が餌を採ってきては子燕に与えるたびに  子燕が騒がしく、沢山の燕が集まっている様に感じられたのでしょう。

薬の日先輩偲ぶ日となりぬ 

千草雨音

 「薬の日」は、「薬狩」ともいわれ、5月5日山野に出て薬草を採る中国の風習から来ています。この日に採った薬は特に効き目があると言われています。亡くなられ先輩を偲ぶ日が薬の日であった訳です。


 

 第12回 吟行句会  (2012年5月10日 江ノ島  参加者 11名)
■ 作 品

   
夏めくや百のマストに百の風 ひらとつつじ
←最高得点
竜宮の門つきぬけり夏つばめ舞岡柏葉
←最高得点
水琴の音色か細き夏初め 境木権太
江ノ島に黒きポストや風みどり松本道宏
夏の海眼下の屋根に鳶の影

大野たかし

卯浪くる弁天岩に句碑たちて

飯塚武岳 

岩壁に夏草繁り海静か

野路風露

売れ残る日除けの陰の貝細工

浅木純生

江ノ島の波のごとくに小判草 

たま四不像

雲の峰静かな海に鳴りひびく

東酔水

巾着の賽銭箱あり五月晴れ 

木村桃風


 第98回 句会  (2012年5月)
■ 作 品
 

   
寄席はねて佳き人ばかり春の宵 境木権太
←最高得点
生きるとは老いることなり花吹雪飯塚武岳
←最高得点
母の日や母の繰り言懐かしき 野路風露
←最高得点
モンローの紅き唇花ぐもりひらとつつじ
鳴き砂の消ゆる便りや啄木忌

舞岡柏葉

ライト付き拡大鏡や黄砂降る

松本道宏

路地裏に古井戸のある四月かな

木村桃風

からし味噌独活の白さを引き立てり 

千草雨音

春うらら眠りを誘うモーツアルト 

浅木純生


■ 弘明寺抄(26)
平成24年5月
松本 道宏 
 

 今回は松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の句を例に「切れと俳句空間」について考えて見ました。
 古池の句は江戸時代から有名な句ですがその解釈は極めて多様です。 最初に「蛙飛びこむ水の音」が出来て、その後「古池や」が座ったと言うことや、「古池や」でなく「山吹や」にしたらどうだろうかと言う案があったことは昔から知られています。この句は蕉風開眼の句と言われていますが、意味を考えますとあまりにも単純で、どこが面白いのかよく判りません。
 そこで考えたのですが、「古池や」で切るのですから上五と「蛙飛びこむ水の音」は別物だと思います。それには三つの根拠が考えられます。
 一つ目は、切れ字の「や」
 二つ目は、「古池」は芭蕉の心の中に浮かんだ幻であるということ
 三つ目の理由は、一物仕立ての句でなく、取り合わせの句だということです。
                                                        (次号へ続く)

鳴き砂の消ゆる便りや啄木忌  舞岡柏葉

 日本国内には、十八鳴浜(宮城県)・琴ヶ浜(石川県)・琴引浜(京都府)・琴ヶ浜(島根県)をはじめとして多数の鳴き砂海岸が存在します。友達から鳴き砂が消えて行く便りを戴いたのでしょう。季語の「啄木忌」が効いています。

路地裏に古井戸のある四月かな  木村桃風

 昔は路地裏へ入ると必ずと言って良いほど井戸がありました。有名なところでは樋口一葉ゆかりの路地裏に掘抜井戸が残っています。昭和の匂いの古井戸に四月の明るくいきいきした月を配合にしたところが良いと思います。

 生きるとは老いることなり花吹雪 

飯塚武岳

 普通「生きるとは働くこと」と言われていますが、この作者は「老いること」と言っています。これも一理あります。長生きをすることは生きている証拠ですから。「花吹雪」の季語がよく効いています。

雨あがりまだら模様の山桜

境木権太

 「しきしまのやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」有名な本居宣長の歌ですが、古代は遠くから山の桜を眺めてその年の稲の豊作の豊凶を占っていました。雨上がりの山桜の姿が的確に詠まれています。

寄宿舎の窓みな開き花の昼

ひらとつつじ

 普段は締め切られている寄宿舎の窓が桜の咲き誇る昼に一斉に開け放たれたのでしょう。単純な句ですが、大変明るい句です。


 第97回 句会  (2012年4月)
■ 作 品
 
   
観覧車花より出でて花に入る 松本道宏
←最高得点
春の宵江戸切絵図の道のなかたま四不像
さざ波にひかりの乱舞春の磯 舞岡柏葉
木蓮の弾けるばかり青き空野路風露
日が落ちて俄に香る梅林

境木権太

春炬燵けむりのやうに父が居る

ひらとつつじ

いかなごの釘煮届くや国訛り 

千草雨音

やわらかに光を受けるつくしんぼ 

浅木純生

三鬼忌や西洋館のカフェテラス 長部新平
手渡せず文にぎりしめ卒業す

飯塚武岳

春の蝶どこにいたやら浮かれ飛ぶ 

奥隅茅廣

花の雲ならぬ蕾の固さかな

木村桃風

草花や吹く風にのり山遊び

東酔水


■ 弘明寺抄(25)
平成24年4月
松本 道宏 
 

 3月15日の「やさしい俳句の会」で「三月尽」と「三月来」の季語についての質問がありましたので、
「○○尽」と「○○来」の詳細を調べました。
 まず「○○尽」ですが、二月尽・三月尽・四月尽・八月尽・九月尽が通常に使われています。これらの「尽」には季節の変わり目の期待と感動があるのではないでしょうか。一年で一番厳しい季節の二月、一年で最も生命の息吹を感じる四月。そして、秋の収穫が終わったという九月尽。それぞれの「尽」にはその季節にあった感慨があります。一番多く使われているのが「九月尽」です。
  「雨降れば暮るる速さよ九月尽    杉田久女」
  「命綱すぐ手のとどく九月尽     角川源義」  など。
  「二月尽」の句「いま割れしばかりの岩ぞ二月尽     飯田龍太」
  「よべの雨に家々ぬれて二月尽      内田百閨v
  「三月尽」の句「臈たけて紅の菓子あり弥生尽      水原秋桜子」
  「街川に水輪増やして三月尽       下山宏子」
  「四月尽」の句「ペンはなたずぬるき茶を飲み四月尽   青池秀二」
  「四月尽風塵の中牛ゆきて        加畑吉男」
  「八月尽」の句「八月尽手足つめたく起き出づる     能村登四郎」
  「とめどなき八月尽の滝の音       百合山羽公」     
 「尽」に対して「来」は「来る」の意で、上五が上六にならないように「来」を使っているようです。例句はそれほど多くありません。
  「三月来」の句「髪拡げ寝て撮る写真三月来      加藤明虫」
  「六月来」の句「六月来躍り出したる水の精      宇咲冬男」
  「八月来」の句「八月来口に拡がる鉄の味       福島志津雄」
  「九月来る」の句「がらがらの電車にゆられ九月来る  橋場千舟」
  「十月来」の句「煙突の空やわらかき十月来      田中まり」  
などです。このように「○○来」も使われていることをご理解下さい。

 

網に散り海に星座や蛍烏賊  舞岡柏葉

 本州中部以北の沿岸に分布する蛍烏賊。なかでも富山湾が有名ある。普段は深海に棲む蛍烏賊も春先の産卵期には郡をなして浅海に近づく。その蛍烏賊を捉えようと網を張り、その網に散った蛍烏賊が星座の様に海の中で光を発する。「海に星座や」の中七の捉え方が素晴らしい。

さざ波にひかりの乱舞春の磯 舞岡柏葉

  春の海にはさざ波が麗かな春の日差しをとらえて輝きを空に返している。そんな春の磯の風景を旨く捉えて詠んでいる。「光の乱舞」に焦点をあてて詠んでいるところが良い。

春炬燵けむりのやうに父が居る 

ひらとつつじ

 春になってもまだかたずけずに出してある炬燵は、冬の炬燵にはない情趣がある。その春炬燵に父親が潜り込んでいたのであろう。「けむりのように」の表現になんともいえない趣きがある。

木蓮の弾けるばかり青き空 

野路風露

 木蓮は多くの方によって詠まれてきているので類句が心配だが、青空に咲く木蓮の姿を「弾けるばかり」と詠んだ作者の気持ちが読者によく響いてくる句である。

風さそう白木蓮の大合唱

野路風露

 この句ははっきりと白木蓮を詠んでいる。木蓮の場合には紫木蓮、更紗木蓮、烏木蓮などがある。この句は風を誘って閃く白木蓮を「大合唱」と捉えたところが良い。「白木蓮」が見えるようである。


 第96回 句会  (2012年3月)
■ 作 品
 
   
夕暮れをそろり伸ばして二月尽   舞岡柏葉
←最高得点
春どなり靴屋に靴のあふれたるひらとつつじ
受験子の唇かたく門を出る    木村桃風
揺れる枝かくれんぼする椿かな奥隅茅廣
歩み初む子に手を打って日脚伸ぶ  

境木権太

不揃いの母の味する雛あられ

野路風露

鰭酒の滋味沁みわたる熱さかな

浅木純生

春満月宇宙の闇の出口めく

松本道宏

パラボラにお日さま集め福寿草菊地智
僧二人佇む駅に春の雨

千草雨音

早春やシュガーポットの煌めきぬ

長部新平

春の宵ガス灯のもと淡き影

東酔水

風花や西方浄土茜さす 

飯塚武岳


■ 弘明寺抄(24)
平成24年3月
松本 道宏 
 

 2月16日の「やさしい俳句の会」で「季語」と「季題」の違いについての質問が在り、簡単にお答えをしましたが、次のように整理しました。

  1. 季語は句の季節を示すために定められた言葉である。
  2. 「季語」「季題」は意外と新しい造語で、戦前は、季題という呼称の使用率は8割、季語は2割くらいで、共に明治末期に使われ始め一般化した。
  3. 季語という呼称は、大須賀乙字が季題を中心に詠む「ホトトギス」的諷詠を批判し、一句における「季感」「嘱目」を重視するという立場から提唱された。ただ、具体的にどう違うかははっきりしていない。
  4. 季節を表すだけの働きをするものを「季語」、一句の主題になっているものを「季題」とする考え方もある。
  5. 芭蕉時代には中世の連歌論書の「詞寄(ことばよせ)」という影響から、「季」「季詞」「季の詞」「四季の詞」「季の題」「四季の題」などと言われていた。
  6. 現在、季語については「季語は絶対入れる」「季語よりも季感が大事」「季語はなくてもいい」と大きく三つに分けられる。
  7. 季語に関する名言を紹介すると、萩原井泉水は「俳句における季語はチョンマゲである。チョンマゲをきっても日本人は日本人たるに変わりはないではないか。」高浜虚子は「俳句は季題が生命である。尠なくとも生命のなかばは季題である。」山本健吉は「俳句は対象のエスキスとして、引きしぼられるだけ引き絞った究極の形式であり、季語はその対象にあてた焦点のようなもの。」宇多喜代子は「季語は句の思想であり、その季語を集めた歳時記はこの国のミニ百科事典なのである。」といっている。
 なお、さらに「季語・季題・季感」の詳細について知りたい方は、俳人「石寒太」著の『現代俳句の基礎用語』の巻頭の「季語・季題・季感」を紹介しますのでお読み下さい。

 

春の宵ガス灯のもと淡き影 東酔水

  映画の一シーンを詠んだような句で、正にガス灯の郷愁に照らしだされた淡き面影が目に見えるようである。春の宵は心浮き立つものがあり、蘇東坡の「春宵一刻値千金」の中での俳趣の季語が効いている。

春どなり靴屋に靴のあふれいる ひらとつつじ

 ウインドに並べられた色とりどりの靴から春が間近くなったことへの感慨が詠われている。「春隣」は春がすぐ近くまで来ているの意で、いくつかの歳時記が「春どなり」と濁音で表記しているが、賛成できない。

受験子の唇かたく門を出る 

木村桃風

 勇んで受験に挑戦したものの、あまりにも難しい問題になすすべもなく受験子の門を出てきた様子がよく表現されている。

梅園に一輪を見る和みかな 

奥隅茅廣

 今年は例年より寒く、梅の花の開花も大分遅れている。たまたま一輪が開花し始め、作者の心がなんとなく和み始めたのであろう。そんな心理が伺われる句である。

風花や西方浄土茜さす

飯塚武岳

 晴天にちらつき始めた雪の中で、西の方を見ると茜色に染まっていたのであろう。西方浄土即ち極楽浄土に茜がさしていると感じた作者は信仰心の深い方であろう。夢のように美しい「風花」の季語がよく効いている。


 第95回 句会  (2012年2月)
■ 作 品
 
   
どんど焼き昇竜のごと炎立つ    飯塚武岳
←最高得点
餅を焼く明日は明日と裏返し野路風露
←最高得点
風花や夕暮れ時の異空間    長部新平
特段のことはなけれど初日記ひらとつつじ
家族増え願いも増えた初詣    

境木権太

新成人はじけて揺れる髪飾り

舞岡柏葉

初春や茶筅の先のうすみどり

村木風花

初富士や点滴の落ち緩やかに

吉田眉山

初夢はセピア色した友の顔千草雨音
下萌や復興の地に逞しく

奥隅茅廣

蒼天に膨らみかけた猫柳

浅木純生

車いす段差も険し冬木道

木村桃風

蝋梅の葉もなき枝に香るなり 

東酔水
福寿草緑は色の王者なり

松本道宏


■ 弘明寺抄(23)
平成24年2月
松本 道宏 
 

 大正2年3月、「私を『旧派』と呼ぶ者があります。私は新派に見残された旧派でなくて、自ら俳句の為に旧を守らんとする『守旧派』であります」と述べ 、

  霜降れば霜を楯(たて)とす法(のり)の城 虚子     春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子

と決意を句に詠みました。
 その後、虚子は厳然と俳壇に復活し、「ホトトギス」誌上に新たに雑詠欄を開設し、雑詠という俳句の新しい発表形式を作り出しました。そして投句してくる全国の俳句の選に熱心に当りました。旧派といわれ、その旧派を自ら守るといいきった虚子の意志にはなみなみならぬ決意が伺われます。
 独自の道を歩み始めた碧梧桐の新傾向俳句に対して「春風や闘志いだきて丘に立つ」と詠んだ自信が、その後の「ホトトギス」王国の新しい時代を象徴しています。                        (完)

 

スカイツリー残照映えて日脚伸ぶ 飯塚武岳

 東京スカイツリーは昨年12月に竣工し、いよいよ今年5月22日に開業となる。毎日スカイツリーを眺めていると、日毎に日脚の伸びていく様子を見ることが出来る。多少「残照映えて」「日脚伸ぶ」が重複しているが。

家族増え願いも増えた初詣 境木権太

 受験生は天神様、商売繁盛にはお稲荷さんといった具合に、最近はご利益によって社寺を選ぶ人も多くなったが、家族が一人増えると当然の事ながら願い事も増える訳で、的を射た表現である。

風花や夕暮れ時の異空間

長部新平

 晴天にちらつく雪を「風花」と言うが、夢のように美しい季語である。しかも風花のちらつく夕暮れ時に「異空間」を感じた作者は詩人である。

下萌や復興の地に逞しく 

奥隅茅廣

  東日本大震災では、地震、津波に加え、放射能物質による甚大な被害を受けたが、自然はその季節になれば何事もなかったように日常の営みを始める。復興の地に逞しく営み始めた下萌えを目敏く詠っている。

餅を焼く明日は明日と裏返し

野路風露

 餅を切る昨日と今日を切り離す」という句があるが、お正月の餅を焼く 際に「明日は明日と裏返す」と人生を割り切ったような気持ちで餅を裏返す日常の生活に共感を覚えた。


 第94回 句会  (2012年1月)
■ 作 品
 
   
千年の活断層や冬すみれ    ひらとつつじ
←最高得点
北風に影も縮まる家路かな   奥隅茅廣
柚子湯して香り床まで連れて行きし     菊地智
クリスマス仏頂面の占い師飯塚武岳
包丁の音途切れなく大晦日       

村木風花

のら猫の並んで端坐ひなたぼこ

たま四不像

枯園に立ちて俯く裸体像

木村桃風

東北へ言葉選びて賀状書く

舞岡柏葉

田を守る友の嘆きや暴れ猪境木権太
一とせの未来明けそむ初暦

千草雨音

スキー列車鈍行ぶるんと揺らし過ぐ

松本道宏

10年は元気でいるぞ日記買う 野路風露 

今年また飾売りする街の角   

浅木純生
枯れ草を分け出でて咲く水仙よ東酔水


■ 弘明寺抄(22)
平成24年1月
松本 道宏 
 

  今月は「守旧派宣言」について学びましょう
  明治35年正岡子規没後、高浜虚子と河東碧梧桐の対立が際立ちました。その対立が表面化したのは、明治36年9月「ホトギス」に碧梧桐が「温泉百句」を発表してからでした。虚子は翌年10月の「ホトトギス」誌上にその内の一句「温泉の宿に馬の子飼へり蝉の声」を取り上げ、碧梧桐は新しい句材や気の利いた句法を好むが、その結果がこの句のように「蝉の声」が「馬の子」と調和しない不調和を招いていると烈しく追求しました。
  専ら小説の修業に専念していた虚子は、大正2年に再び俳句に復活し、季題趣味などを旧習と批判していた碧梧桐に対抗し、定型や季語のもたらす俳句らしい格調を重視して自らを「守旧派」と宣言しました。
                                                      (次号へ続く)

 

千年の活断層や冬すみれ ひらとつつじ

 過去に繰り返し活動し地震を引き起こしてきた断層で、今後も活動する可能性の高い活断層は、通常約千年から数万年に一回の割合で発生すると言われている。活断層と冬すみれを対比させ、清楚な「冬すみれ」に想いを馳せている。

 極月や病みゆく妻の肩細る  菊地智
 何時病まれても困るが、特に師走に妻に病まれると悲劇である。その妻の病が日ごとに重くなり、「肩細る」思いを間の当りにしての作者の気持ちを察するにあまりある句である。

クリスマス仏頂面の占い師

飯塚武岳

 皆が浮かれているクリスマスの日に仏頂面した占い師に直面したのであろうか。自分を占えない、なんとなくユーモラスな句で、年の瀬を感じさせる。

10年は元気でいるぞ日記買う 

野路風露

  近年は「10年日記」なるものが販売されていて大変人気商品となっている。10年前の自分がタイムマシンのように蘇り、自分や家族の10年史になるからである。10年先の元気を見越して日記を買う作者の意気込みが感じられる。

幼子と唄口ずさみ初湯かな

千草雨音

 一寸甘い句であるが、至福のひと時が詠まれている。