2015年

2015年12月 第141回句会 作品 弘明寺抄 (69)
2015年11月 第140回句会 作品 弘明寺抄 (68)
2015年10月 第2回一泊吟行句会 作品 
2015年10月 第139回句会 作品 弘明寺抄 (67)
2015年9月 第138回句会 作品 弘明寺抄 (66)
2015年8月 第137回句会 作品 弘明寺抄 (65)
2015年7月 第136回句会 作品 弘明寺抄 (64)
2015年6月 第135回句会 作品 弘明寺抄 (62)(63) 
2015年5月 第18回吟行句会 作品 
2015年5月 第134回句会 作品 
2015年4月 第133回句会 作品 弘明寺抄 (61)
2015年3月 第132回句会 作品 弘明寺抄 (60)
2015年2月 第131回句会 作品 弘明寺抄 (59)
2015年1月 第130回句会 作品 弘明寺抄 (58)

2014年分はこちら 2013年分はこちら 2012年分はこちら 2011年分はこちら
2010年分はこちら 2009年分はこちら 2008年分はこちら 2007年分はこちら


 第141回句会  (2015年12月)                               参加者:15名
 
■ 作 品
 
カラスウリ赤ゐ袈裟かけ地蔵尊 翁山歩存
←最高得点
健やかに古稀迎ふるや三の酉 千草雨音
冬の虹つくり話をひとつする たま四不像
薄ら日に白さ極めて花八手 菊地智
聖堂に聴くレクイエム小夜時雨

川瀬峙埜

あぶらげの匂ふ小路や雪催

比良戸つつじ

招き猫の訳知り顔や冬座敷

舞岡柏葉

炬燵寝という幸せに隙間風

ただの凡庸

『あれ』『それ』で会話成り立つ石蕗 野路風露
人肌の燗が恋しや木偶の坊 松本道宏
牡蠣食べて牡蠣を土産に安芸の旅 境木権太
死化粧の紅あざやかに小夜時雨 飯塚武岳
暮れてなを雨戸を濡らす秋時雨 木村桃風
自転車を飛ばす少年冬紅葉 森かつら
南天や子供たちの笑い声 志摩光月

 


■ 弘明寺抄(69)
平成27年12月7日
松本 道宏 
 

 十二月の名句は 「冬菊のまとうはおのがひかりのみ  水原秋桜子」です。
 水原秋桜子は1892年10月9日(明治25年以下元号は略します)東京市神田区猿楽町(現東京都千代田区神田猿楽町)の代々産婦人科を経営する病院の長男に生まれました。本名水原豊。医師・医学博士。
独逸学協会(現在の獨協中学校・高等学校)の後、第一高等学校を経て1914年に東京帝国大学へ入学しました。血清化学研究室を経て、1918年同医学部を卒業。1,928年に昭和医学専門学校(現昭和大学)の初代婦人科教授となり産科学を担当、1943年まで務めました。また、家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係りとして多くの皇族の子供を取り上げました。
 1918年高濱虚子の『進むべき俳句の道』を読んで俳句に興味を持ち「ホトトギス』を購読。1919年血清化学教室の先輩に誘われ、医学部出身者からなる『木の芽会』に参加。「静華」の俳号で俳句を作り始め、同会に『渋柿』の関係者が多かったことから「渋柿」に投句し、松根東洋城に師事しました。
 当然の事ながら「ホトトギス」にも投句を始めました。1920年短歌を窪田空穂に師事。『朝の光』に短歌を投句。1921年より「ホトトギス」の例会に出席し虚子より直接の指導を受けました。1922年富安風生・山口誓子・山口青邨らと東大俳句界を再興し、佐々木綾華主宰の「破魔弓」の同人になりました。1924年「ホトトギス」課題選者に就任。1928年自身の提案で「破魔弓」を「馬酔木」に改題し、後に主宰となりました。山口誓子、阿波野青畝、高野素十の3人とともに 「ホトトギスの四S(しえす)」 として知られるようになりました。
 「自然の真」と「文芸上の真」は別の機会に申し述べます。
 1955年医業を退き、俳句に専念、1962年俳人協会長に就任。1954年日本芸術院賞受賞。1966年日本芸術院会員。1967年勲三等瑞宝章受賞。1978年11月18日昭和大学創立五十周年記念式典で特別功労賞として表彰され、式典の記念品の一つとして昭和大学五十年を詠んだ秋桜子の句「すすき野に大学舎成りああ五十年」の色紙が配られました。この区の句碑は大学のキャンパスの中庭に建てられています。 1981年7月17日急性心不全のため88歳で死去。墓は東京都豊島区の都営染井霊園にあります。
 2年間に亘り、俳人と季にあわせた句を紹介してきましたが、まだ紹介したい俳人がいます。その際、季節と関係ない句が出てきますが、俳人の紹介を主にしますのでご勘弁下さい。

 
「あれ」「それ」で会話成り立つ石路の花 

野路風露

 人間齢を重ねてくると夫婦間の会話も「あれ」「それ」で通じることが多くあります。夫婦間の機微をうまく捉えています、「石路の花」の配合も実によく決まっています。

カラスウリ赤ゐ袈裟かけ地蔵尊

翁山歩存

  素材が大変良く、まだカラスウリを掛けた地蔵尊を見た事がありませんが面白いところをとらえています。ただ表現を推敲した方がもっと句が良くなるかも知れません。

死化粧の紅あざやかに小夜時雨   

飯塚武岳

  人間死ぬとお化粧をして死に顔を飾りますが、特に女の方の口紅はあざやかに塗られます。この句も  「小夜時雨」の季語がよく効いています。

青空に溶け込みそうな冬の月 

野路風露

 昼間見る月はまさに青空に溶け込むような感を受けます。自分の目でよく 観察されて詠まれています。

斎場に煙ひとすじ冬の虹

飯塚武岳

 斎場と焼き場が一緒になっているところではよくこのような光景を見かけます。一筋の煙が今焼かれているその人の煙と思うといたたまれませんが、この句「冬の虹」で救われています。


 第140回句会  (2015年11月)                               参加者:18名
 
■ 作 品
 
花巻の訛りほつくり零余子飯(むかごめし) たま四不像
←最高得点
手に触れて土のしめりや茸狩 比良戸つつじ
秋晴れや無辺の青に夢多く 奥隅茅廣
朝霧の切れ目に浮かぶ武家屋敷 志摩光月
薄墨の雲と照り合ふ十三夜

夏陽きらら

一人旅ほかほか丹波の栗御飯

境木権太

大山を墨絵で描く稲屑(いなし)の火

舞岡柏葉

風吹かばはらはらはらとこぼれ萩

浅木純生

手を握り河豚の初競り始まりぬ 松本道宏
無念やな蟷螂轢かれ眼は空に 菊地智
いつまでも美味き身探し鯛あら煮 川瀬峙埜
梔子の葉隠れの実や七つ八つ 千草雨音
星月夜足音だけが谺して 飯塚武岳
秋日向あつめて茜し次郎柿 翁山歩存
冬瓜や皮に負けじと入刀 森かつら
風さそう川面に浮かぶ枯葉かな 木村桃風
青空に主役は俺だと柿茂る ただの凡庸
霧笛絶え浜のジャズバー紅葉酒 東酔水

 


■ 弘明寺抄(68)
平成27年11月7日
松本 道宏 
 

 十一月の名句は「しぐるるや駅に西口東口 安住敦」です。
 安住敦は1907年7月1日(明治40年以下元号は略します)東京市芝区 に生まれました。
 1917年福島県平町(現おいわき市)に移り盤城中学に入学、1923年父事業失敗のため東京に戻り、立教中学に編入し1926年卒業。逓信官吏講習所を経て1928年に簡易保険局に入所。1930年同僚に請われて短歌結社「覇王樹」に入会、短歌を橋田東声に師事。同時期に上司の富安風生が主宰する『若紫』に入会し、富安風声に師事。8年もの間短歌と俳句を共に続けました。1935年「旗艦」に参加し日野草城に師事し、新興俳句運動に関わりました。
 1944年に移動演劇連盟に転職。同年に俳誌「多麻」創刊。7月応召しました。1946年逓信省に戻ると共に、久保田万太郎を擁して大町礼と共に『春灯』を創刊しました。『春灯』創刊以後編集人として刊行継続のため赤字解消に孤軍奮闘しました。1947年俳句懇話会を結成。岸風三楼、加倉井秋をらと共に「諷詠派」を創刊。1949年より官業労働研究所に勤務。1961年、俳人協会設立に参加。1963年に万太郎が没し、「春燈」主宰を継承しました。
 1966年『春夏秋冬帖』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1972年句集『午前午後』他で第6回蛇笏賞受賞。同年紫綬褒章受章1982年俳人協会長に就任。1983年より朝日俳壇(1986年まで)選者を担当。1985年勲4等旭日小授賞受賞。1988年7月8日肺炎により逝去。81歳。東京都目黒区祐天寺に埋葬され、七回忌を機に同境内に句碑「てんと虫一兵卒われ死なざりき」が建てられました。

 
縄文の土器の温もりこぼれ秋  

比良戸つつじ

  萩のこぼれているそばで縄文土器を掘り出していたのでしょうか。現われた縄文土器の「温もり」に、作者の心理的なものが詠まれています。

花巻の訛りほつくり零余子飯  

たま四不像

   訥々と花巻の方便で語りながら零余子飯を食べている姿が見えてきます。訛「ほつくり」がよいです。

朝霧の切れ目に浮かぶ武家屋敷 

志摩光月

 朝霧の切れ目から見えた武家屋敷のなんといかついことか。この句には発見があります。

一人旅ほかほか丹波の栗御飯

境木権太

 一人旅をしているときの栗飯の上手さが伝わってきます。しかも丹波の栗御飯に美味しさが倍増してきます。

泣相撲泣くも笑うも笑み誘ふ

千草雨音

 1歳前後の幼児の泣き声を土俵の上で競わせる日本の風習・神事で400年以上の伝統がありますが、開催日は神社によってまちまちで決まっていません。従って季語にはなっていませんが夏から秋に多いようです。無季の句ですが戴きました。季語定着の運動を起こそうではありませんか。秋の句として定着させんか。


                                       
 第2回一泊吟行句会  (2015年10月19日(月)〜20日(火))   伊豆・城ヶ崎海岸  参加者:13名
  
■ 作 品
 
秋の海言いたきことも忘れ去り 野路風露
←最高得点
吊橋の眼下に踊る秋の潮 大野たかし
秋日和磯に立つ松土俵入り 川瀬峙埜
秋果落ち静かに弾む苔の上 土屋百瀬
秋空と海の蒼さや舟二艘

千草雨音

行く秋や破れ蜘蛛の囲風に揺れ

比良戸つつじ

岩に立ち自撮りする背に秋の海

銀の道

石蕗咲いて海へと続く道しるべ

境木権太

野ぼたんやむらさき匂う垣根越し 木村桃風
天高く金目煮付けにほゝゆるむ 志摩光月
つり橋のゆらゆらゆれて秋うらら 飯塚武岳
金目鯛目の無い煮付秋の海  浅木純生
縄文の熔岩深し蚯蚓鳴く たま四不像
   

 
 

                                                          photo by S.Sakuwa

 


 第139回句会  (2015年10月)                               参加者:17名
 
■ 作 品
 
オルガンの古りて音佳き秋日和 比良戸つつじ
←最高得点
シャンパンの泡囁いて夜長なり 東酔水
白亜紀の砂岩にとまる赤蜻蛉 たま四不像
絵葉書の君の癖字や秋の雷 千草雨音
鰯雲待つ人の居ぬ家路かな

志摩光月

うすうすと満ちくる千の鰯雲

夏陽きらら

風鈴の舌を外して夏終わる

菊地智

蟷螂死すのっぺらぼうの日常に

松本道宏

書に過ごすしずかな時間秋湿り ただの凡庸
鬼のごと怒り狂いて秋出水 境木権太
大和路は祈る回廊秋ひより 舞岡柏葉
高速の灯かりの帯や曼珠沙華  森かつら
寛ぐや障子明りに庵の月 奥隅茅廣
台風禍聞き馴らされし想定外 飯塚武岳
秋刀魚焼く晩酌一本後一本 野路風露
古への断層空へ秋蝶が舞ふ 村田一女
涼新た半日かけて模様替え 長部新平

 


■ 弘明寺抄(67)
平成27年10月7日
松本 道宏 
 

 十月の名句は「鶏頭を三尺離れもの思ふ  細見綾子」です。
細見綾子は8月にご紹介した沢木欣一の奥様です。細見綾子は1907年3月31日(明治40年以下元号は略します)に父細見喜市、母とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村(現兵庫県丹波市青田町東芦田)に生まれました。1919年柏原高等女学校に入学、1923年日本女子大学国文科に入学、1927年同大学を卒業。同時に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚。1927年夫を結核で失い、その秋に肋膜炎を発病した為帰郷。佐治町の医師で俳人の田村青斎の勧めで俳句を始め、松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会。1934年吹田市に転地療養、1937年青々が没し、その清書・編集に携わり、1942年、後の夫沢木欣一と知り合い、沢木が出征した際には句集の草稿を預かり出版に協力しました。1946年沢木の「風」創刊に同人として加わり、1947年沢木と結婚。以後『風』編集発行人を務めました。
 1952年第2回茅舎賞(現・現代俳句協会賞)授章。1975年句集『伎芸天』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1979年句集『曼荼羅』他の業績により蛇笏賞受賞。1981年勲四等瑞宝章受賞。1997年9月6日90歳で死去しました。

 
満月や心の襞のあをみゆく 

夏陽きらら

 今年の満月や十六夜の月は実に綺麗で大きく、放友会でもメールで大分賑わっていましたが、こんな綺麗で大きな月は始めて見ました。青味かかった 月を見ていますと心の襞まで青味がかってゆく錯覚があります。巧みな句です。

オルガンの古りて音佳き秋日和 

比良戸つつじ

  昔使っていた古びたオルガンの音色のよさを詠っています。秋日和大変良く効いています。

風鈴の舌を外して夏終わる  

菊地智

  なかなか面白い川柳ぽい句です。確かに風鈴の舌を外せば風鈴は鳴らなくなり夏も終わりになります。

うすうすと満ちくる千の鰯雲 

夏陽きらら

 鰯雲のひろがっていく様子が巧みに詠まれています。

大和路は祈る回廊秋ひより

舞岡柏葉

 着眼は良いのですが、「祈る回廊」が独善的で判るようで判りません。大和路を廻った時の感慨でしょうか。何んとなく引かれてしまいました。


 第138回句会  (2015年9月)                               参加者:15名
 
■ 作 品
 
くつたくをさらりと流す秋の風 たま四不像
←最高得点
石室の壁画の美女や秋気澄む 舞岡柏葉
←最高得点
滴りの音秘めやかに切り通し 境木権太
新涼の湖に全き富士の影 比良戸つつじ
蛍火や昔は何処も子沢山

松本道宏

白球に万の瞳や夏の空

奥隅茅廣

秋雨の屋根打つ音や夢路入る

千草雨音

新涼やビルの彼方に熱気球

長部新平

秋澄むや祇園の杜に灯と舞妓 東酔水
有りの実に少し長生きと妻の笑み 菊地智
砂浜に貸しボート一つ秋の海 柳風凡庸
坪庭に虫集まりて音楽祭 野路風露
朝顔の雨に洗われ色を増し 飯塚武岳
ビール飲む女がホッと息をつく 浅木純生
梨をむき嫁の帰宅をそぞろ待ち 志摩光月

 


■ 弘明寺抄(66)
平成27年9月7日
松本 道宏 
 

 九月の名句は 「芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏」です。
 皆さんご存知のように飯田蛇笏は昨年一月に紹介した飯田龍太の父親です。本名武(たけ)治(はる)。
飯田蛇笏は1885年4月26日山梨県東八代郡五成村(後の境川村、現在の笛吹市境川町小黒坂)の旧家(大地主)、父宇作・母まきじの8人兄弟の長男として生まれました。 
 蛇笏は幼少期から旧月並み俳句に親しみ、この時期に「もつ花に落つる涙や墓まゐり」の句を作っており、1900年東京において正岡子規が「ホトトギス」紙上で俳句革新を開始すると山梨県でも河東碧梧桐に師事した堀内柳南矢や神奈桃村ら新興俳人らが出現しました。1905年早稲田大学に入学。早稲田大学では早稲田吟社の句会に参加し、若山牧水とも親交を深め、後に早稲田吟社の中心となりました。そして『国民俳壇』に投句し、この年高浜虚子の「ホトトギス」に入会。1909年に家から帰郷の命を受け、ホトトギス」の投句も中止し早稲田大学を中退して帰郷しました。その後は家業の農業や養蚕に従事する一方で松根東洋城の「国民俳壇」に投句し、牧水が創刊した「創作」にも投句し、1,913年9月牧水が蛇笏宅を訪問し再度上京を勧めました。1911年に結婚。山梨県の俳壇で萩原井泉水が「層雲」を創刊し、碧梧洞の影響で新傾向俳句へ転向した秋山秋紅蓼らと迎合し新傾向俳句が興隆していました。蛇笏は、伝統俳句の立場から新傾向俳句を批判し、山梨毎日新聞紙上において「俳諧我観」を連載、自然風土に根ざした俳句を提唱しました。1912年7月、「ホトギス」へ投句を再開、1914年巻頭3回、翌年には巻頭5回を獲得し同誌の代表作家となりました。1915年創刊されたばかりの愛知県発行の俳誌「キララ」の選者を頼まれて2号より選者を担当、1917年より誌名を「雲母」と改名し主宰となりました。発行所も1925年に甲府市に移しました。1917年6月には虚子が「国民新聞」の依頼で山梨県の増富温泉を取材しており、蛇笏は虚子を案内しています。小説家の芥川龍之介が「我鬼」の俳号で「ホトトギス」に投句したのを芥川の句と知らずに称揚しました。芥川は1927年7月に自殺しており蛇笏は芥川と直接対面する機会はありませんでしたが、芥川は蛇笏に影響を受けた句を残しています。蛇笏は芥川死去の際の「雲母」9月号、に芥川を追悼する句を発表しています。
 蛇笏の子供達は1944年12月太平洋戦争で長男総一郎戦死・次男は学業を終えた後病死・三男は外蒙古で抑留された後死去しています。1945年4月に休刊していた「雲母」は1946年に再開。「雲母」の編集には石原八束・四男の龍太が助力しました。1951年12月第七句集「雪峡」を刊行。家督は四男の龍太が継ぎ、俳誌「雲母」も継ぎました。蛇笏は1962年5月に死去しました。1967年、蛇笏の業績を称え角川書店が「蛇笏賞」を創設し、毎年優れた句集に授与しています。
 字数の都合で西暦の後の年号を略しましたことをお詫びします。

 
石室の壁画の美女や秋気澄む

舞岡柏葉

  この石室は明日香村の高松塚古墳であろうか。この古墳は1972年に発見され、私たちの家族は発見されて間もなく見学にいった記憶がありますが、西壁の女子群像が実に綺麗でした。季語の『秋気澄む』が壁画を更に美しくしています。

新涼やビルの彼方に熱気球

長部新平

 熱気球と新涼の関係が面白いですね。熱気球がビルの合間から見えたのでしょう。唯、それだけのこときり言っていませんが、新涼がよく効いています。

秋澄むや祇園の杜に火と舞妓 

東酔水

 夏の暑いときに祇園祭を楽しんできましたが、祇園の杜にかがり火と舞妓の姿を映し出すには矢張り秋の澄んだときにぴったりでしょう。

烏帽子岩を一息に呑む盆の波 

舞岡柏葉

 南の海から台風の起こす大きな波が打ち寄せてきますが、その波に烏帽子岩が一息に呑込まれてしまったのでしょう。盆の波のすごさを上手く詠っています。

鳳仙花はじけて月日遙かなり

比良戸つつじ

 大変お上手な句です。鳳仙花の果実は弾力性があり、触れるとすぐに弾けますが、弾けたさまを『月日遥かなり』と感じ取ったところに素晴らしい感性があります。


 第137回句会  (2015年8月)                               参加者:14名
 
■ 作 品
 
   
二次元に生きて音なきあめんぼう 比良戸つつじ
←最高得点
極暑なり仁王立ちする阿吽像 東酔水 
あめ色の籐椅子ひそり主待つ 舞岡柏葉
古池を二つに裂いて飛ぶ翡翠 境木権太
砂日傘寝姿似たる親子かな

千草雨音

スッピンの妻のほつれ毛極暑来る

松本道宏

空蝉や背中のチャック開け放し

野路風露

夕凪て切りえの如き梢かな

奥隅茅廣

荷を負ふて行きつ戻りつ迷い蟻飯塚武岳
涼やかな読経の声や杉木立 志摩光月
寧に梅の並びや土用干し 菊地智
青田から稲の香りが吹いて来る 浅木純生
汗飛ばし雄叫び挙げる荒神輿 柳風凡庸
老いの身に夏風ふはりと蹤いてく 村田一女


■ 弘明寺抄(65)
平成27年8月7日
松本 道宏 
 

  八月の名句は 『炎天に百日筋目付け通し 沢木欣一』です。
  沢木欣一は1919年10月6日富山市に生れました。父が朝鮮で教職にあったため、幼少から中学卒業までを朝鮮で過ごしました。金沢の第四高等学校に入学した1939年より俳句を始め、『馬酔木』『寒雷』などに投句して加藤楸邨、中村草田男に師事しました、1942年、東京帝国大学国文科に入学。1943年に召集を受け旧満州牡丹江の部隊に配属。遺稿になるかも知れないと考え句集の原稿を後に妻となる細見綾子に託しました。1944年、妻の尽力で第一句集『雪白』を出版。9月に東大を卒業しました。1946年、金沢で原子公平らと共に「風」を創刊、同誌には金子兜太氏なども集まり、50代より社会性俳句議論の中心となりました。1947年「鶏頭を三尺はなれもの思ふ」で有名な俳人細木綾子と結婚し、金沢大学で講師の職につきました。1956年、第二句『塩田』を出版。同年東京都武蔵野市に転居して文部省勤務となりました。1966年、東京芸術大学助教授に就任、70年同教授になりました。1987年、大学を定年退職し、俳人協会会長に就任。1993年、勳三等旭日中綬賞の叙勲を受けました。1995年、名誉教授定年退職。句集『眼前』で第10回詩歌文学賞を受賞。『昭和俳句の青春』で第10回俳人協会評論賞を受賞。1996年、句集『眼前』で第30回蛇笏賞を受賞しました。2001年11月5日死去。『風』は翌年3月号の沢木の追悼特集号を持って終刊しました。

 
くちなしの花咲くを待つ捨て小舟

志摩光月

 梔子の花が咲くのを待っているかのように朽ちた小舟があったのでしょう。実は待っていたのは本人なのかも知れません。面白い句です。

涼やかな読経の声や杉木立

志摩光月

  例えば大雄山最乗寺のような杉木立の中の読経の涼しさを感じました。

海月観る水族館は人の波

野路風露

 薄暗い水族館に泳ぐ海月を観る人の波に驚いているのです。

空蝉や背中のチャック開け放ち

野路風露

 空蝉の観察を良くされている句です。感心しました。

あめ色の藤椅子ひそり主待つ 

舞岡柏葉

 古い飴色になった藤椅子が座る主を待っている様子が窺われます

 最近は皆さんの句のレベルが向上し、選句するに苦労しています。今回も5910192026283439、等の他、捨て難い句が多数ありました。


 第136回句会  (2015年7月)                               参加者:16名
 
■ 作 品
 
   
片仮名の帰化人の墓木下闇 千草雨音
←最高得点
坪庭も揚羽の舞いで華やげり 菊地智 
雲の間に惑星直列梅雨の吉 浅木純生
青と白雨粒載せて半夏生 境木権太
電柱の影太りゆく麦の秋

比良戸つつじ

夏空に白球まぶしホームラン

松本道宏

上水の今はか細き桜桃忌

舞岡柏葉

白百合に君を重ねて夢一夜

飯塚武岳

浴衣着て今日は一日江戸気分野路風露
清流の川辺に遠く河鹿かな 奥隅茅廣
蟇無常の世にぞ生を受け 志摩光月
ほろほろとこぼれ落ちたる柿の花 東酔水
空き家の香り立つよな柚子の花 森かつら
雨の野に桃色らせんねじればな いまだ未央
雨乞いの寺の中よりオルゴール たま四不像
立葵緩和病棟日当たりて 村田一女


■ 弘明寺抄(64)
平成27年7月7日
松本 道宏 
 

  七月の名句は「薄や人悲しませる恋をして 鈴木真砂女」です。
 鈴木真砂女は1906年11月24日千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋旅館(現鴨川グランドホテル)の三女として生まれました。日本女子商業学校(現嘉悦大学)卒業後、22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚し、一女を出産しましたが、夫が賭博好きの末蒸発し、実家に戻りました。28歳のとき長姉が急死し、旅館の女将として家を守るために義兄(長姉の夫)と再婚しました。俳句をしていた姉の遺稿を整理するうちに自らも俳句に興味を持つようになり、大場白水郎の「春蘭」を経て、久保田万太郎の「春燈」に入門しました。久保田万太郎の死後は安住敦に師事しました。
 30歳の時に旅館に宿泊した年下で妻帯者の海軍仕官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔するという事件を起こしました。その後家に帰りましたが夫婦関係は冷え切ってしまい、50歳のときに離婚。銀座1丁目に「卯波」という小料理店を開店しました。保証人は作家の丹羽文雄でした。
 その後は「女将俳人」として生涯をすごし2003年98歳で死去致しました。

 
清流の川辺に遠く河鹿かな

奥隅茅廣

 清流に鳴いているかと思いきや、遠くから聞こえてくる河鹿の声が自分の立っている川辺の足下に鳴いているという錯覚の面白さがあります。

波を待つサーフインなべて黒ずくめ

いまだ未央

  一寸あたり前のような感じを受けますが、茅ヶ崎海岸に行きますとこのような波乗りに興じている黒ずくめのサーファーの姿を見受けます。来る波を待っているサーファーの立ち並ぶ黒ずくめの姿は異様な感じを受けます。

煙雨中白鷺歩く植え田かな 

浅木純生

 田植の済んだ緑一面の中に降っている粉糠雨。その中を歩いている白鷺の姿、即ち、緑と白が印象的です。私の住んでいる舞岡には田植の終わった今日この頃このような風景が屡見られます

嘘つかぬといふ人の嘘えごの花

千草雨音

 自分は絶対に嘘をつかないと豪語している人ほど嘘をつきます。「えごの花」の配合も素敵です。えごの花は香りはよいのですが有毒物質が含まれています。

雨乞いの寺の中よりオルゴール 

たま四不像

 今時、雨乞いをするお寺があるのかと不思議に思いましたが、雨乞いをしているお寺の中からオルゴールの音が聴こえてきたという意外性が面白いです。


 第135回句会  (2015年6月)                               参加者:17名
 
■ 作 品
 
   
バリトンもバスも競ひて蛙鳴く 千草雨音
←最高得点
お揃いの下駄を鳴らして夏祭 松本道宏 
夏服の駅のホームに指差呼称 野路風露
山鳩のひとこえ鳴けり青時雨 比良戸つつじ
片蔭に白き襟足先斗町

境木権太

波除けに潜む磯蟹動かざる

舞岡柏葉

たえかねて葉より転びぬ朝の露

飯塚武岳

蛇苺あれば近寄る夏帽子

たま四不像

伏流水豊かに流れ夏の富士奥隅茅廣
悔恨や薊の棘の傷熱く 夏陽きらら
伐採と決まる葉桜そよぎをり いまだ未央
白百合や仏の道を照らしおり 志摩光月
頭上より鶯の声歩みとめ 菊地智
山写す代掻き終わる田圃かな 浅木純生
五月雨や雨宿りにも風情あり 長部新平
学童や飛び魚指しつ歓喜飛ぶ 森かつら
目覚めれば薔薇の香りが咲いて待つ 柳風凡庸


■ 弘明寺抄(63)
平成27年6月7日
松本 道宏 
 

   この度は思いかけず急性肺炎に患り、4月17日より5月2日まで入院しましたので今月は弘明寺抄 (62)と(63)を同時に発表します。
 六月の名句は「愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子」です。
 藤田湘子は1926年(昭和2年)父源太郎、母ミネの長男として神奈川県小田原町(現小田原市)に生まれました。本名良久。1942年中学在学中に水原秋桜子を知り、「馬酔木」に投句し、秋桜子に師事しました。1945年工学院工専、(現工学院大学)を中退し、東部第87部隊を経て鉄道省に勤務しました。1947年『馬酔木』4月号で巻頭となり、1948年馬酔木賞を受賞。翌年より「馬酔木」同人になりました。1951年第1回新樹賞受賞。1955年、第4回新樹賞受賞、同年「馬酔木」編集次長に就任、1957年編集長に就任し、第4回馬酔木賞受賞しました。1958年国鉄本社広報課勤務、以後22年間在籍しました。
 1954年秋桜子の了解を得て、「馬酔木」の衛星誌として同人誌「鷹」を創刊。1967年「馬酔木」編集長を辞任しましたが、 「馬酔木」からその活動を認められなくなったことで「鷹」の発起同人が「鷹」を去りました。湘子は「馬酔木」同人を辞退し「鷹」を自身の主宰誌としました。
 1981年から1983年まで現代俳句協会会長並びに蛇笏賞選考委員。1986年俳句研究賞選考委員。 2000年、句集『神楽』で第15回詩歌文学館賞受賞しました。2005年4月15日胃癌により横浜市の自宅で死去。79歳でした。

 
波除に潜む磯蟹動かざる

舞岡柏葉

 波除にじっと動かない磯蟹をよく観察されている句です。

鯉こくの味噌の香りや南風 

比良戸つつじ

  素材は良いのですが、表現をもっと推敲したいです。 例えば「黒南風や鯉こくの味噌香りをり」のように。

さ緑の透る湯船や磨硝子

いまだ未央

 湯船が新緑のさ緑に映えていたのでしょう。『磨硝子』が良いです。

伏流水豊かに流れ夏の富士 

奥隅茅廣

 柿田川や忍野八海に見る豊かな伏流水が詠まれています。

鳥獣の戯画店見るや五月晴 

奥隅茅廣

  東京国立博物館で6月7日まで開催されていた鳥獣展ですが、この鳥獣戯画を題材にして句を作られた鈴木榮子さんは第18回の角川俳句賞を得て俳壇にデビューしています。


■ 弘明寺抄(62)
平成27年6月7日
松本 道宏 

 

 この度は思いかけず急性肺炎に患り、4月17日より5月2日まで入院しましたので今月は弘明寺抄(62)と(63)を同時に発表します。

 五月の名句は「玖槐や今も沖には未来あり 中村草田男」です。
 中村草田男は1901年(明治34年)7月24日清国(今の中国)福建省廈門にて清国領事・修の長男として生まれました。1904年(明治37年)4歳のとき母と共に中村家の本籍地・愛媛県伊予郡松前町に帰国しました。本名中村清一郎。  
 2年後に松山市に転居していますが、小学時代の大半を東京で過ごし、赤坂区青南尋常小学校(のち港区立青南小学校)に通学しました。中学時代は再び松山に戻り、旧制松山中学・松山高等学校を経て1925年(大正15年)東京帝国大学文学部独文科に入学し中途で国文科に転じました。
俳句は1929年(昭和4年)高濱虚子に師事し学びました。また東大俳句会に入門し、水原秋桜子の勧めで「ホトトギス」に投句。大学時代に久し振りに母校の青南小学校を訪ね、この時の感慨を詠みました『降る雪や明治は遠くなりにけり』の句が句碑として当小学校内に建っています。
1933年(昭和8年)大学を卒業し、成蹊学園に就職。現代俳句の中心的存在として1946年(昭和21年)月刊俳誌「万緑」を主宰しました。1936年と1975年にはそれぞれ同人や会員の作品を収録した『万緑合同句集』『万緑合同句集2』が発行されています。
 1960年(昭和35年)に現代俳句協会幹事長になりました。翌1961年(昭和36年)現代俳句協会賞を巡って教会内で分裂し、俳人協会を設立して初代会長に就任しました。成蹊高校の教諭の後、成蹊大学政経学部教授として通算33年教鞭を執り1976年(昭和42年)に定年で退職しました。1978年(昭和53年)『風船の使者』で芸術選奨文部大臣賞を受賞しました。
 1983年(昭和58年)8月5日急性肺炎のため82歳で死去しました。死の前日洗礼を受け洗礼名をヨハネ・マリア・ヴイアンネ・中村清一郎と名乗りました。墓は東京都あひる野市の五日市霊園にあります。没後の1984年、日本芸術院賞を授賞しています。

 

   

 

第18回吟行句会 (2015年5月29日(金))        世田谷線歴史巡り:松陰神社、豪徳寺ほか 
               
                                                    参加者:13名                                                 

 
■ 作 品 ■     
 
うす紅に楓の種のリボンめく 千草雨音
←最高得点
新緑の松陰神社絵馬ゆれる 野路風露
←最高得点
小雨降る墓石の笠に苔の花 いまだ未央
夏草や都会の中の鉄路の間 大野たかし
をしみなく松下村塾芽吹きどき

たま四不像

車窓から曇り空にも立葵

森かつら

風薫り閧フ木そびゆ豪徳寺

志摩光月

大老の歴史の逸話春曇り

川瀬峙埜

家系図に文の名ありし新樹光 飯塚武岳
ががんぼや直弼の墓不安定 比良戸つつじ
春吟行あっと驚く招き猫 土屋百瀬
夏木立おだやかなる松陰像 銀の道
脳内で白い夏野を思うなり 東酔水


 第134回句会  (2015年4月)                               参加者:14名
 
■ 作 品
 
   
繋がれし山羊が膝折る遅日かな いまだ未央
←最高得点
腹太に身をくねらせて鯉幟 菊地智 
触るるるを拒むがごとき花牡丹 柳風凡庸
春キャベツ地産地消の特売日 千草雨音
背表紙の光る金文字夏近し

比良戸つつじ

つばめつばめ潮のにほひてひるがへり

夏陽きらら

たよりなき新芽寄り添ふ菊根分け

舞岡柏葉

早朝のバスを待つ手に花ひらり

森かつら

振り向けば加賀弁のひと春の風たま四不像
顔寄せて見つめる幼児たんぽぽ絮 川瀬峙埜
チューリップ色とりどりに二万本 飯塚武岳
慈雨優し八十八夜ちかづきて 長部新平
ふっくらと蛤坐る潮汁 奥隅茅廣
原色の服で闊歩す巣立鳥 志摩光月


 第133回句会  (2015年4月)            参加者:15名
 
■ 作 品
 
   
音信の途絶えし人や桜咲く 野路風露
←最高得点
乙女等の脚の長さや春の風 境木権太
←最高得点
春風や貼り紙ひとつ店仕舞 川瀬峙埜
老木を覆い隠して桜満つ 飯塚武岳
種蒔くや十坪の畑に道生まる

松本道宏

菊根分け恙無く日の暮れにけり

奥隅茅廣

待ちわびし花に誘われ花に酔ふ

千草雨音

世を忘れつどいて酔わす桜かな

志摩光月

覗く子のにこと笑みたる春障子比良戸つつじ
風を待ち今羽ばたきぬ花辛夷 夏陽きらら
多喜二忌やコントラバスに鍵かくす たま四不像
筍や朝掘り茹でて香り立つ 長部新平
老桜の吐息開花のとき刻む 舞岡柏葉
山寺や雪解の流れ石を打つ 森かつら
花桜いまだ古酒甕にあり 浅木純生


■ 弘明寺抄(61)
平成27年4月7日
松本 道宏 
 

 四月の名句は 「遠足の列大丸の中とおる 田川飛旅子」 です。
 田川飛旅子は、1914年(大正3年)東京府豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)に生まれました。本名は博。工学博士。
 そして、1933年に日本メソジスト教会中央会堂にて洗礼を受けました。
 府立六中(現東京都立新宿高等学校)、一高を経て1940年に東京帝国大学を卒業し古河電池に入社し電池製作所に配属、戦後に同技師長、役員として勤務し、『電池及蓄電池』(1953年)の本を出版され、東京大学より博士号を受けています。
 一高在学中に短歌に興味を持ち「アララギ」に入会して土屋文明に師事。また、中学の時より画家耳野卯三に油絵を習い、1938「妹の像」で光風会に入選。 1940年同僚に勧められて飛旅子の俳号で俳句を始め、同年10月に加藤楸邨の「寒雷集」の創刊号に投句し巻頭を取りました。この巻頭を生涯の誇りとしていました。1947年、沢木欣一等の「風」創刊二号より同人として参加、1947年「寒雷」同人になりました。1973年「陸」創刊・主宰。1979年「加藤楸邨全集」編集委員を担当。現代俳句協会幹事、同副会長を歴任。第3回青山賞。第10回現代俳句協会大賞を受賞しました。鋭くメカニックな観察と、乾いた叙情を特徴としています。
 四月の秀句は 『牡丹の百の揺れるは湯のように 森澄雄』 
          『紺絣春月重く出しかな 飯田龍太』
          『春昼の指とどまれば琴も止む 野沢節子』 
等です。

 
卒業式胸いつぱいの夢溢れ

野路風露

 一寸常識的かも知れませんが、卒業式を迎えた本人や家族の気持ちが十二分に溢れた句です。

老木を覆い隠して桜満つ

飯塚武岳

  桜が満開になりますと、普段見ている老木の桜の木か若い桜の木かが判らなくなります。満開の桜はすべての老木を覆い隠してしまいます。

入学を待ち焦がれているランドセル

野路風露

 待ち焦がれているのはランドセルだけでなく、親御さんの気持ちまで表現されています

乙女等の脚の長さや春の風 

境木権太

 近年の乙女等はスタイルがよく脚が長くなり、春風の中を歩く姿は大変美しく、目に飛び込んできます。

待ちわびし花に誘われ花に酔ふ 

千草雨音

 桜前線も北上し始めるとたちまち日本全土を桜の花で覆い尽くされてしまいます。花見を待ち焦がれていた方達は花に誘われ花に酔っています。

 

 第132回句会  (2015年3月)            参加者:12名
 
■ 作 品
 
   
鉛筆にのこる歯形や大試験 吉木つつじ
←最高得点
種蒔きて待つとゆふ日の始まりぬ 松本道宏
←最高得点
篆刻の鋭き線や春浅し 千草雨音
病いやや明かるさ見えて春の水 境木権太
蒲公英のほろりと土の匂ひかな

夏陽きらら

春一番心の闇を吹き払い

飯塚武岳

金縷梅を無造作に生け大花瓶

奥隅茅廣

円空の色即是空はるの雪

たま四不像

師の訃報天の中空春の月村田一女
旧正と傘寿を重ね髪真白 菊地智
細々と春ごと続く二月堂 舞岡柏葉
枝垂るる蕾ふくらむ枝垂れ梅 柳風凡庸


■ 弘明寺抄(60)
平成27年3月7日
松本 道宏 
 
 

 三月の名句は「若狭には仏多くて蒸鰈  森 澄雄」です。
 森澄雄は1919年(大正8年)兵庫県姫路市に生まれ、5歳より長崎県長崎市で育ちました。長崎市立朝日尋常小学校、長崎市立瓊浦中学校、長崎高等商業学校(現長崎大経済学部)を卒業し、1942年九州帝国大学法文学部経済学科を卒業と同時に応召、1944年から南方を転戦しボルネオで終戦を迎えました。
 1946年に復員し、1947年佐賀県立鳥栖高等女学校の教員となり、後、都立  豊島高校に移りました。俳句は父・冬比古の影響で始め、高等商業在学中に「馬酔木」の句会に参加して、加藤楸邨の指導を受けました。1940年、楸邨の主宰誌「寒雷」に参加して師事、第一回寒雷暖響賞を受賞、1956年から71年まで同誌の編集に携わりました。1954年第一句集『雪礫』を刊行。70年句誌『杉』を創刊。1997年より日本芸術院会員の他、読売俳壇選者を37年間務めました。
 俳句に登場する固有名詞を観光案内のように細かく説明する独特の選評を行 いました。2010818日肺炎の為91歳で亡くなりました。
 三月の秀句は 『いきいきと三月生まる雲の奥 飯田龍太』
          『バスを待ち大路の春をうたがわず 石田波郷』
          『恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣』
 等です。

 

 
金縷梅を無造作に生け大花瓶

奥隅茅廣

 枝一杯に花が咲く金縷梅は無造作な花であり、 その金縷梅を活けるには大花瓶がよく似合うと思います。良く観察されている句です。

鉛筆に残る歯形や大試験

吉木つつじ

  私にはこのような経験がありませんが、大試験で悔しい思いをしたときの歯形を見るたびに大試験を思い起こす気持ちが詠まれています。

囀りや綺麗な色の服を買ふ

千草雨音

春の装いに綺麗な服を買ったのでしょう。「囀り」の季語が大変良く効いています。

春服や笑めばこぼるる糸切歯

吉木つつじ

 糸切歯即ち犬歯は笑って口を開いた時に見える歯ですが、「笑めばこぼるる」はよく観察された句で、詠むに難しい「春服」が効いています。

篆刻の鋭き線や春浅し

千草雨音

 「篆刻」の線が鋭いことと「春が浅い」こととは何の関係もありませんが、このようにいわれると篆刻の線が更に鋭く感じられます。


 第131回句会  (2015年2月)            参加者:15名
 
■ 作 品
 
   
福笹を捌く乙女や片笑窪 舞岡柏葉
←最高得点
蝋梅や振り子時計のレストラン 千草雨音 
行く年や逝きにし人の住所録 村田一女
愛もなく一汁一菜うるめ焼く 浅木純生
突然に夫の名問われし冬日向

菊地智

火の窯を懐に抱き山眠る

松本道宏

月冴えて明日は良いことありそうな

野路風露

理屈ばかり説きゐし夫の初笑

夏陽きらら

立春や風かわらねどこころ浮き志摩光月
存分に日向ぼこして人恋し 吉木つつじ
正月や床の間にあり一茶の句 奥隅茅廣
初明り希望の色に染められて 飯塚武岳
冬座敷ほこりまみれの観音経 たま四不像
ぬっと出て白き伊吹の初景色 境木権太
堀炬燵お尻を入れて顔を出し 柳風凡庸


■ 弘明寺抄(59)
平成27年2月7日
松本 道宏 
 
 

 二月の名句は「水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼」です。
 西東三鬼は明治33年5月15日岡山県苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)に四男として生まれました。両親の死後、東京の長兄の元へ移住し、青山学院中等部を経て高等部を中退、1921年日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)に進学、1925年卒業、同年秋に結婚し、長兄在勤のシンガポールに渡り歯科医を開業。1928年帰国し東京大森で歯科医を開業。1932年自営を廃業して朝霞総合診療所歯科部長に就任。1933年東京神田の共立病院歯科部長に就任しました。
 1933年歯科医師業のかたわら患者の勧めで俳句をはじめ、翌年「走馬燈」の同人となると共に、「天の川」に投句。 その後いくつもの俳誌に参加しながら、多くの俳人と交友を深め、1935年同人誌「扉」を創刊。また「京大俳句」への参加、第一句集『旗』を上梓後、この年所謂京大俳句事件が起き8月特高警察に検挙されたが、11月、句作活動中止を条件に執行猶予となり、石橋辰之助等が創刊した総合誌「天香」にも参加しました。
 1942年神戸に移住。翌年、後に「三鬼館」と呼ばれる西洋館(生田区山本通)に居を定め、1946年、平畑静塔、橋本多佳子と共に「奈良句会」を発起。1947年現代俳句協会を設立し、1948年、山口誓子を擁して「天狼」を創刊し、俳誌「激浪」も創刊し主宰になっています。またこの年、大阪女子医大付属香里病院歯科部長に就任。1952年「断崖」を創刊して主宰になっています。
 1956年神奈川県三浦市葉山町に居を定め、角川書店の総合誌「俳句」の編集長(翌年辞職)になりました。1961年俳人協会設立に参加。1961年胃癌を発病し1962年永眠しました。
 没後に俳人協会賞が贈られ、1992年に故郷津山市で三鬼の業績を記念し『西東三鬼賞』が創設されました。
 その他の二月の秀句は 「地の果てに倖ありと来しが雪 細谷源二」
                 「まだもののかたちに雪のつもりをり 片山由美子」
               「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
 久保田万太郎」です。

 
福笹を捌く乙女や片笑窪

舞岡柏葉

 福笹は十日戎の副題で、小笹に山、野、海の幸を象徴した宝物を付けます。初詣でに出かけた際、その福笹を捌く娘の顔の片笑窪が可愛くて思わず見とれてしまったのでしょう。お正月の気分が溢れています。

突然に夫の名問われし冬日向

菊地智

  日向ぼこをしていたとき、突然夫の名前を聞かれ、驚いている表情が目に見えるようです。面白いところを句にしています。

冬座敷ほこりまみれの観世音 

たま四不像

 冬座敷に飾ってあった観世音菩薩が埃まみれになっていたのでしょう。普段の掃除が行き届いていないところを見つけてしまった作者の驚きが現われています。

年賀状当たり番号見つけたり

野路風露

 今年戴いた年賀状の当選番号を調べていたら次から次へと当たり番号を見つけた喜びが読まれています。

校庭に凸凹ならぶ雪だるま

飯塚武岳

 校庭に大きな雪だるまや小さな雪だるまが並んでいたのでしょう。雪だるまを作った生徒は同じ学年でないのはすぐに分かります。



 第130回句会  (2015年1月)            参加者:12名
■ 作 品
 
   
何事もないふりをして毛糸編む たま四不像
←最高得点
豆を煮る音かすかなる去年今年 浅木純生 
風花や地面に果つることもなし 舞岡柏葉
水墨の世界に招く冬の霧 野路風露
凍星とすれちがひゆく宇宙船

夏陽きらら

恙無く過ごして今日の柚子湯かな

奥隅茅廣

木枯や落選ポスター笑顔なり

松本道宏

スカイプでの参加もありて去年今年

千草雨音

昼と夜鬩(せめ)ぎ合いつつ冬至かな飯塚武岳
咳ひとつ厠にありて日曜日 吉木つつじ
空き店舗目立つ街にも年の市 境木権太
闇を裂く紅蓮の炎初社 志摩光月


■ 弘明寺抄(58)
平成27年1月7日
松本 道宏 
 
 新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。
 昨年に続き今年も各月の名句と作者を紹介します。
 一月の名句は「去年今年貫く棒のごときもの 高濱虚子」です。
 (前号より続く)高濱虚子は子規の協力を得て柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ホトトギス」を引き継いで東京に移転、俳句だけでなく和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発しました。子規の没した1902年、俳句の創作を辞め、小説の創作に没頭しています。
 1910年一家を上げて鎌倉市に移住。以来亡くなるまでの50年間を鎌倉で過ごしました。1913年、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。この時碧梧桐の新傾向俳句と対決の決意表明ともいえる有名な「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいます。そして同年国民新聞時代の部下であった島田青峰にホトトギスの編集を一切任せました。
 1937年芸術院会員。1940年日本俳句作家協会会長。1944年9月4日より1947年10月まで小諸市に疎開した。1954年文化勲章受賞。1959年4月8日85歳で永眠。戒名は虚子庵高吟椿居士。墓は鎌倉市の寿福寺。椿寿忌。生涯に20万句を超える俳句を詠んでいます。2000年3月28日小諸高浜虚子記念館。4月に芦屋市に虚子記念文学館が開館しています。
 その他の一月の秀句は昨年の1月の記事を参考にして下さい。  
 
何事もないふりをして毛糸編む

たま四不像

 一心に毛糸を編んでいる姿が詠まれています。何の苦労もないように見えますが、実は色々な悩みを抱えているという内面的なことが隠されています。 毛糸を編む奥さんなり娘さんの姿を詠んだ句でしょうか。

飛行機の軌跡くっきり冬の空

野路風露

  冬空にくっきりと軌跡を残して飛行機の飛んでいく情景が目に見えます。

民宿に掘り炬燵ある和みかな

奥隅茅廣

 冬は掘り炬燵が一番です。確かに「和み」と言いたくなります。

恙無く過ごして今日の柚子湯かな 

奥隅茅廣

 柚子湯に入って恙なく過ごしてきた一年の実感が伝わってきます。

幸せは地球に住みて日向ぼこ

吉木つつじ

 寒く厳しい冬は日向が恋しく、この地球での日向ぼこに幸せを感じます。